読者へβ版1.1

読者へα版(原稿用紙40枚)→β版1.1(原稿用紙21枚)に改良

 最初に言っておく。これはリーダーシップに関するシリーズではない。リーダーシップそのものである。そして、様々な人々が織りなす歴史群像であり時代の描写である。まことに小さな国がどのように開花して世界に冠たる超大国になったのか。

 あなたに問わなければならないことがある。
 あなたは何を期待して本書を手に取ったのか。
 なぜ数ある書籍の中から本書の頁を開いてみたのか。

 もしできることならばひとり一人の読者に聞いてみたいと私は思う。でもそれは不可能だから、この本から何を得ることができるのかをここで述べておきたいと思う。この本から得られること、もしくはこの本でしか得られないこと、すなわちオリジナリティがなければ、読者の気持ちをとらえることはできないだろうから。当然のことながら、貴重なお金と時間を使うわけだから、じっくりと検討する機会が読者には与えられるべきである。
 ただ1つだけお願いがある。とりあえずこの本を棚に返してしまう前に、もしくはカートから出してしまう前に、せめてこの「読者へ」くらいはお付き合いいただきたい。それで何か共感できることが少しでもあれば、あなたには『大統領のリーダーシップ・シリーズ』から得られることがきっと何かある。「読者へ」を読んだ後に、もしくは途中で飽きてしまっても、あなたがこの本をどうしようとそれはもちろんあなたの自由である。なぜ何をどのように書くのか簡潔に述べておきたい。

 まず本書の執筆に至った動機である。アメリカ歴代大統領を主役にした物語を書いてみたい。書店で歴史小説の棚はまさに百花繚乱の様相を呈しているが、日本は当然だが中国、そして、最近ではヨーロッパを舞台する作品さえ多く並んでいるにも拘わらず、日本人によって書かれたアメリカを舞台にした歴史小説の類は非常に少ない。アメリカの歴史も面白い。「憲法の父」として知られる第4代大統領ジェームズ・マディソンは「アメリカ史はあらゆる国や時代の歴史よりも多くの真実や教訓を含むようになるだろう」と言っている。大統領の深い人間性やリーダーシップとは何かを問うシリーズを世に送り出すことで、多くの人々にアメリカ史に親しむ機会を作ることはできないだろうか。私は長らくそう思ってきた。
 また塩野七生の『ローマ人の物語』を学生時代に読んだことも私に大きな影響を与えている。塩野七生がこれまであまり馴染みのなかったローマ人の世界に多くの人々を誘った功績は大きい。「なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことができたのか」と塩野七生は問うている。ならば私は「なぜアメリカ人だけが、これほどの大を成すことができたのか」と問いたい。
 現在のアメリカは超大国であることは誰もが知っている。今では世界で知らぬ者はいない国家である。しかし、アメリカは初めから超大国であったわけではない。独立戦争が始まった1770年代のアメリカの人口は216万5,000人である。桁を間違えているのではない。しかも黒人を除いた白人の人口に限定すると169万6,000人にまで減少する。ネイティヴ・アメリカンは詳しい実数が不明で最初から数に入っていない。
 それに「アメリカ」と一口に言っても、独立以前のアメリカは統一国家とはお世辞にも言えなかった。その当時のアメリカ人は、自分自身がアメリカ人であるという意識は薄かった。それよりもカントリーと言った場合、それはヴァージニアやペンシルヴェニアなど、後に連邦制の下で州となる地域を示していた。そうした地域は別個に発達した植民地として存在し、さながら1つの独立国家のようであった。文化も習慣も地域毎の差が大きく、とても1つのまとまりとしてとらえることはできなかったと言ってよい。
 その当時、世界の最先端を走っていた超大国であるイギリスにまとまりに欠ける13植民地が戦いを挑み、勝利したのである。世界史上の快挙と言ってよい。様々な悪条件にも拘らず、アメリカは最終的に勝利して独立を果たした。そして、1世紀も経たない間に西欧列強として日本に黒船を遣すまでに発展する。南北戦争という国家分裂の危機を乗り越え、さらにアメリカは発展した。第1次世界大戦でも第2次世界大戦でも戦争の行方を定める鍵となった。その後の冷戦も不戦勝でソ連に勝った。そして、今でも超大国として存在する。
 ただ超大国であることがすなわち善であるとは私は思っていない。反対に悪だとも思っていない。私自身は親米でも反米でもない。歴史というのはしばしばその対象を正当化したり、逆に意図的に貶めたりするために使われる。私はそのようなことをするつもりはまったくない。また読み物として歴史を考えた場合、過激で断定的なもののほうが売れる。例えばアメリカは殺戮を繰り返してきた悪の帝国なのだといった論調である。もちろんそれとは正反対に、アメリカは世界に民主主義と自由を広めてきた善の勢力なのだという論調もある。しかし、歴史とはそのように割り切れる程、単純なものだろうか。1人の人間の行動や言動を見ても矛盾している点がいくらでもある。まして1つの国家ともなれば様々な顔を持っている筈である。もし私が紹介していない顔があったとしても、それは故意にそうしているのではなく、単に寡聞にして知らないだけである。つまり、悪意ある隠蔽ではなく、善意ある無知である。
 超大国の地位に登り詰めたという点でアメリカという国家は成功したと言えるが、同時に極端な貧富の差があることも現実である。一部の富裕層に富が集中して中間層が疲弊すれば、資本主義を支える消費と生産の構造が根底から覆され、資本主義が崩壊しかねない。しかし、資本主義が利益を追求するという人間の最も本質的な欲求を刺激して新しい発見や発想を誘発していることも事実である。それは社会を豊かにしている。そうした利点を活かしながら資本主義という奔馬をいかに飼い慣らすか。手綱を握るのは政治である。政治家が強靱なリーダーシップで経済、そして、国家の進路や将来像を決定しなければならない。政治こそ経国の要であり大業である。
 もしアメリカが革新主義の時代に代表されるように資本主義の弊害を少しでも緩和しようと努めていなかったら、現在、アメリカは資本主義国家として存続し得なかっただろう。なぜ存続することができたのか知ろうとするのであれば、歴史的発展を追うのが正解に至る1つの道だと思う。当然、日本人も含まれるが、資本主義国家に生きる多くの現代人は、多くの弊害によって資本主義が行き詰まるのではないかと不安を感じている。それは危機である。そうした危機を解消するためには、世界有数の資本主義国家であるアメリカの歴史を見つめ直して何らかの解決策を模索するのが1つの良案ではなかろうか。
 アメリカの歴史的発展の中で、指導者である大統領は国内外の危機を解決するためにどのような役割を果たしてきたのか。さらに彼らは1人のアメリカ人としてどのように彼らの時代を生きてきたのか。それを知ることが「なぜアメリカ人だけが、これほどの大を成すことができたのか」という問いへの1つの答えになるかもしれない。私が本当に追い求めたいのはその答えである。
 『大統領のリーダーシップ・シリーズ』では日本でもよく知られている大統領が登場するのは当然ながら、ほとんど知られていない大統領も登場する。しかし、ほとんど無名の大統領もアメリカという国の1つの時代を担ったことは確かである。それ故、本シリーズでは一人ひとりの大統領を取り上げていく。そのうえで一つ肝に銘じておきたい言葉がある。『レ・ミゼラブル』の中でヴィクトル・ユゴーが語った言葉だ。

「歴史という光は無情である。それは、不思議で崇高なところがあって、光でありながら、そして、まさしく光であるが故に、しばしば、人が光輝を見るところに陰を投影する。それは同じ人間から、2つの違った幻影を作り出す」 

 彼らの生き様を描くに当たってこの言葉に込められた精神を忘れないようにしたい。光も陰も描かなければその人物を本当に知ったことにはならない。歴史は人物のドラマがあるからこそ面白い。想いが人物を変える。人物が歴史を変える。そして、新しい物語が生まれる。だから歴史は面白い。しかし、燦然たる脚光を浴びる人物は、あまりにその光が眩し過ぎて光そのものがよく見えないこともあるし、また陰が隠れてしまって見えないこともある。それに偉人と言われている人にも長所だけではなく人間的な弱点があり、それでもなお偉業を成し遂げたことは、今を生きる我々に勇気を、そして、前に進む決意を与えてくれる。
 対象となる人物を本当に知ろうとする欲求はどこから生じるのか。指導者のリーダーシップは全人的に解明されなければならないという信念からである。つまり、リーダーシップを発揮するにあたって、これまでどのような経験をしてきたのか、どのように成長してきたのかを問わなければならない。恋愛や家族関係ですら解明の手掛かりとなる。なぜならリーダーシップとは多くの人間を統御する技術だからである。したがって、指導者自身がどのような人間であるのかが問題となる。指導者は指導者である前に1人の人間である。

 歴史に「もし」は禁物だが、私はある偉人が登場しなかったら歴史はどう変わっていただろうかと考えてしまう。そう考えたのは私だけではない。セオドア・ローズヴェルトは『アメリカの理想主義』で次のように書いている。

「もしワシントンがいなければ、我々はおそらく決してイギリス国王から独立を勝ち取ることはできなかっただろう。そして、我々は偉大な国家になることはできず、それどころか騒々しい小さな社会の集まりになってしまい、遂にはラテン・アメリカで蔓延しているような政府に堕落していた筈だ。もしリンカンがいなければ、我々はおそらく我々が勝ち取った政治的統一を維持することはできなかっただろう。そして、たとえ我々がそれを維持できたとしても、それを維持するための戦いとその戦いの結果の両方は非常に異なっていた筈なので我々の国家の歴史に対する影響はきっと深甚なものになったに違いない」

 この後を引き取ると、セオドア・ローズヴェルト、ウィルソン、そして、フランクリン・ローズヴェルトが登場していなければ、アメリカは今、どのような国家になっていただろう。セオドア・ローズヴェルトがいなければアメリカは覇権国家として世界の檜舞台に足を踏み出さなかったかもしれない。ウィルソンがいなければアメリカは第1次世界大戦でまったく異なる行動を取っていたかもしれない。フランリン・ローズヴェルトがいなければ、アメリカは大恐慌という未曾有の危機によって完全に資本主義が崩壊して、第2次世界大戦に参加せずに戦後世界の主導権を握るようなことはなかったかもしれない。アメリカには何度も何度も危機が訪れた。国家というもの恒久的なものに見えるが、古代世界に覇権を確立したローマでさえ最後には滅びた。アメリカも危機を乗り越えることができなければ滅んでしまって今頃、世界地図の上から名前が消えていてもおかしくない。小さな歯車が違う動きをしただけで歴史はまったく違った方向に動き出していただろう。そう考えるといかに大統領の影響力が大きいかが分かる。

 なぜ私はアメリカ大統領を通してリーダーシップを論じようとしているのか。まず言っておきたいのは、本書は誰にでも書けるようなものではなく、歴代大統領を専門とする研究者である私だからこそ書けるものである。それくらいの自信がなければそもそも書くことはできない。他の誰でも書けるようなものを書いても意味がないと思っている。自分が書かなければ他の誰が書くというのか!そういう強い思いが私に書く活力をもたらす。
 何かを書く。その行為には必ず他にも何かの願望や強迫感が秘められている。古代ギリシアの歴史家トゥキディデスはペロポネソス戦争が始まった時に「これはギリシア民族がこれまでに経験してきた中でも最大の戦争になる」と予想して『戦史』の執筆を開始した。そして、帝政ローマ初期の歴史家タキトゥスとリヴィウスがそれぞれ『ゲルマニア』と『ローマ建国史』を書いたのは、その時代の世の中に危機感を持ったからである。私を突き動かす思いも危機感である。
 私は著しい人口減少を迎える日本の将来に危機感を抱いている。海外で日本は落ち目にあると思われている。いかに虚勢を張ろうともそれは本当である。よく言われることだが、国際的な日本の評価について経済は一流だと見なされる一方で政治は三流、いやもっと下に見られている。例えば『フォーブズ誌』が「世界で最も影響力を持つ人々」のリストを公開しているが、2013年の結果によると日本の首相は72人中57位である。しかも選ばれた4人の日本人の中で最下位である。他の3人は日銀総裁と企業家である。また2014年の結果でも日本の首相はさらに順位を落として63位となっている。もちろん『フォーブズ誌』が絶対に正しいわけではなく、影響力があることがすなわち優れているわけでもないが、この結果はいかに日本の政治家が軽んじられているか如実に示しているように思う。
 経済だって今後、二流に転落するかもしれない。人口減少によって経済規模が縮小するのは仕方がない運命かもしれない。村上龍の『半島を出よ』に「日本は治療する勇気を持てなかった死にゆく巨象です」という言葉が出てくる。これはフィクションで語られた言葉なのだが、十分に現実味を帯びている。どうすれば治療できるのか。それは政治である。医者は患者の病気を治す。政治家は国家の病気を治さなければならない。筆者は思う。せめて日本の首相が世界で最も影響力を持つ人々のリストで10位に入るくらいのリーダーシップを発揮できるようになって欲しい。そうでなければ国家の病気を治すことなど夢のまた夢だからである。
 歴史的人物に関心を抱く読者は、おそらく筆者と同じく何らかの危機感を抱いているのではないかと思う。歴史的人物に鏡を求め、歴史的人物のリーダーシップに教訓を求める。そして、未来への指標を求めるという思いがあるのではないか。また歴史には、実は自分自身がいつの間にか世間一般の常識に捕らわれていて独自の発想ができていないことを気付かせてくれる。なぜなら現代の常識はしばしば時代が違えば通じないからだ。つまり、実は常識だと思われているものは時代の移り変わりによって変わるものであり絶対的なものではないと歴史は気付かせてくれるのだ。そのように自分の中にある常識が相対化されれば、次の時代を切り開く新しい発想が生まれる土壌が育つ。土壌がないところにいくら種を蒔いても芽吹くことはない。したがって、歴史を学ぶことは、鏡を見てはじめて自分自身の姿を客観視できるように、狭くは自分自身を再発見すること、そして、広くは社会の成り立ちや政治の仕組みを今までとは異なる新しい視点で見ることなのである。
 私は日本の政治技術、つまり国家の病気を治療する医術を高める参考とするためにアメリカ大統領や大統領制度の研究を続けている。政治技術は進化する。いかに人口が減少しようとも政治は変えられる。経済力が低下する分を政治力で補えばよいと私は考えている。そのためには優れたリーダーシップを持った政治家や指導者の登場が不可欠である。
 政治家や指導者は何を考えるべきか。何をなすべきか。何をしてはならないか。理念を持つとはどういうことか。理念を実現するためにはどうすればよいのか。あらゆる事態に対応してリーダーシップを発揮するために、指導者自身の心の中に鎮めておくべき多くの金剛不壊の原理がある。
 政治家や指導者は自分が所属する組織、国家や企業の命運を背負って理念を貫き通し、いつでも敢然と危機に立ち向かうことができるように備えておかなければならない。彼らのそうした姿の背後には多くの真実が隠されている。そうした意識を持って読めば『大統領のリーダーシップ・シリーズ』は多くの回答を与えることができる筈だと私は確信している。つまり、大統領のリーダーシップを論じることで政治家や指導者としてのロール・モデルを提唱したいと考えている。
 もちろんその政治家や指導者を選ぶあなたにも読んで欲しい。たとえいかに偉大なリーダーシップを持った政治家が登場しても民主主義の制度の下では、そのリーダーシップを理解する有権者の揺るぎない支持が不可欠だからである。
 リーダーシップを持つ政治家は生まれるのではない。賢明な国民によって優れたリーダーシップを持った政治家が生み出されるのである。つまり、あなた自身が優れた政治家を生み出す責任を負っているのである。南アフリカ大統領ネルソン・マンデラが言ったように、「そこに生きるすべての人のために、より良い世界を作り出すのはあなた自身である」からだ。社会に不満があるなら、まずあなた自身を変えなければならない。そうしようと思うのであれば、耳と目を開き、口に出さなければならない。我々はどのようなリーダーシップを求めるかを。その時、『大統領のリーダーシップ・シリーズ』がリーダーシップを見極めるよすがとなれば幸いである。
 
 『大統領のリーダーシップ・シリーズ』はあくまで史話というスタイルで書いている。専門的な研究から離れて自由な発想で筆を走らせることを主眼としている。歴史は専門家だけのものではない。人々の心の中で物語としてどのように歴史が息付いているかが大切なのである。そういう観点からすれば、野史の類も根拠が薄弱だという理由で退ける必要はなく、むしろ積極的に採り入れるべきである。それに重要なことなのでもう1度言うが、歴史は人間のドラマがあるからこそ面白い。特に人間性を描こうと思えば、対象とする人物の心中を忖度しなければならない。
 それでも猶、私は史実を検証しようという立場から完全に離れることはできない。だからこそ私は独自の観点を交えながら大統領個人の経歴、そして、歴史群像を語る史話という形式を採用したいと考える。あくまで『大統領のリーダーシップ・シリーズ』は専門書ではなく一般書であり、アメリカ史に通暁していない人を対象にしている。したがって世界史の知識がない人やアメリカ史の知識がない人でも大丈夫である。きちんと分かるように丁寧に背景説明を加えている。

 単独の著者が、まとめて歴代大統領を紹介する形ではなく、丁寧にひとり一人をシリーズで紹介するという試みは、私の知る限りほとんどない。おそらく皆無ではなかろうか。冒頭で書籍で重要なことは他のものにはないオリジナリティを持つことだと述べた。では『大統領のリーダーシップ・シリーズ』のオリジナリティとは何か。それは、シリーズを通してリーダーシップという一貫したテーマに基づいて様々な要素で歴代大統領を俯瞰できる視野と歴代大統領を軸としてアメリカの歴史を見るという大河小説のような視野である。
 筆者が単独で歴代大統領を書くことで生じる面白さがある。違った視点で同じ歴史的事件を観察できるという面白さである。フランスの文豪バルザックは人物再登場法を使ってある作品で登場した人物を別の作品で登場させることで様々な視点で出来事を描いた。それと同じである。例えば独立戦争に関わったのはワシントンだけではない。ジョン・アダムズとマディソンは大陸会議の代表として、ジェファソンは同じく大陸会議の代表、後にヴァージニア邦知事として、モンローは大陸軍の将校として、ジョン・クインジー・アダムズは外交官の秘書として、そして、ジャクソンも騎乗伝令として、それぞれの立場で独立戦争という大きな歴史の舞台で何らかの役割を果たしている。それぞれの人生を描くことで同時に独立戦争を様々な視点から見ることになる。したがって彼らの視点が交差することで独立戦争が立体的に浮かび上がることになる。

 フランスの作家ロマン・ロランは代表作『ジャン・クリストフ』の序文で、「『ジャン・クリストフ』において私が果たそうとした義務は、フランスにおける道徳的・社会的崩壊の時期において、灰の下に眠っていた魂の火を目覚めさせることであった」と書いている。筆者も同様に約束をここで述べておきたいと思う。今、この「読者へ」を読んでいるあなたがこのシリーズの最後まで付き合ってくれるか分からないが、少しでもそうしてもらえるように私は努力するつもりである。初心に帰ることはいつでも大切だと言われるので、最後に敢えて言っておこう。読者であるあなたへの、そして私自身への約束である。
 
 私は忘れない。日本の統治技術を高めることを目的に大統領と大統領制度の研究を始めたことを。
 私は忘れない。このシリーズを政治家や指導者を目指す人々のために綴ることを。
 私は忘れない。政治家や指導者を選ぶ人々の拠り所となるように筆を執ったことを。
 そして、私は決して忘れない。多くの人々の幸福を真摯に願って書くことを。