言論封殺の中でいかに生きるか―『ニコラス・クレスウェルの日記』

 ニコラス・クレスウェルという人物は独立戦争が勃発する直前にアメリカで一旗揚げようと大西洋渡った若者である。そして、王党派であるという嫌疑を受けて脱出を試みるも1度は失敗する。2度目でようやく成功してイギリスに帰った。 
 1774年から1777年までのアメリカ滞在の記録は『ニコラス・クレスウェルの日記』として貴重な記録になっている。なぜなら王党派が残した貴重な記録だからである。この記録からは、独立戦争に反感を抱く者がどのように扱われたか重苦しい雰囲気が伝わってくる。ここでは幾つか興味深い抜粋を取り上げる。『ニコラス・クレスウェルの日記』は単に出来事を記録するだけではなく、心情や旅の中で見た当時の風俗などを記録している点で重要である。

1774年3月1日 イギリスを出発
「長い間にわたって私は世界でどのような進路を選択するのか考えてきたが、今日、アメリカに渡る決意を固めた。その決意は非常に重大なものとなるだろう」

1774年5月30日
「ボストン港の封鎖の他に話題はなかった。人々はイギリス議会のやり方に腹を立て過ぎているように見え、まるで剣によってのみ問題が解決されるかのように話している」

1774年7月8日
「ジョージ・ワシントンの地所まで心地良い風を受けて遡上して停泊した。ここでは夜に火花のような小さな昆虫が姿を現す」

1774年8月19日 バルバドス島へ
「シイラを捕えた。それは私がこれまで見たことがある魚の中で最も美しい魚であった。体長は約3フィート[約91センチメートル]であり虹の色彩を帯びている。水中から釣り上げられた後、その色は死んでしまうまでにすぐに明るい青色から紫色に変わってしまった。身はとても白いが食べると固い」

1774年9月4日
「早朝、海に身を浸した。この暑い季節には非常に気晴らしになる。朝食後、街を見に出掛けた。それは小さくて汚い街であった。素晴らしい教会があるがほとんど人気はなく、人々は日曜日に狩猟を楽しんでいるようである。夜、パーキンス氏とともにキッド氏の農園を見に行った。砂糖の製造とラム酒の蒸留は大規模であった。サトウキビのジュースが風力で回転する鉄製のローラーで絞り出された後、煮沸されて砂糖やラム酒になる。サトウキビは高台に植えられていてクリスマスの頃に成熟する。現時点ではそれはまるで大きなスゲのように見える。黒人が鍬を使ってすべての世話をする。鋤は使われていない」

1774年9月13日
「海岸に行って奴隷が上陸するのを見た。私はこれまで見た中で最も衝撃的な光景を目にした。故国から自由を奪われて連行された約400人の男達、女達、そして、子供達が自由の恩恵を再び享受する可能性もなく、不満を言う権利もなく、見知らぬ者達の財産とされて大きな苦難を負っている。そうした考えは非常に恐ろしいもので、その実践は不公正である。奴隷達はほとんど裸で身を覆う物は足の周りに巻かれた青い小さな布きれしかなく、非常に意気消沈しているように見えた」

1774年9月16日
「この島は西インド諸島の中でも最も風上の東側にあり、北緯12度58分、西経58度50分に位置する。長さ20マイル[約32キロメートル]、幅12マイル[約19キロメートル]であり、2万人の白人と9万人の黒人を擁している。年間に2万ホッグスヘッド[約5,700キロリットル]の砂糖と6,000ホッグスヘッド[約1,400キロリットル]のラム酒を輸出している。大部分の食料品は植民地から供給されていて、すべての奴隷や木材も馬やあらゆる種類の家畜とともに植民地から運ばれる。それらと引き換えにラム酒と砂糖、そして、綿花が送られるが、最後の綿花だけは非常に少ない。非常に岩がちの島で西インド諸島の中で最も大きな島だと考えられている。島の面積の8分の1は岩がちで耕作に不向きだと私は思った。道路は非常に悪い。12頭の牛が砂糖の大樽1つを牽いているのを見るのも珍しいことではない。しかし、牛は非常に小さい。主要な産物は砂糖、インディゴ、ピメント[西インド諸島産のフトモモ科の常緑高木を乾燥して作られる香辛料]、そして、綿花である。[中略]。この島の首府は大きいが1766年の火事で大部分が焼けてしまってまだ完全に再建されていない。ここには聖ミカエルに捧げられた教会があり、オルガンもある。教会の前庭には椰子の木が植えられ素晴らしい外観を見せている。家々は石造だが暖炉は台所以外にはない。酷暑の気候のために料理以外に暖炉は必要ないからである。もし日中の海からの風、夜の陸からの風がなければ暑さは耐え難いものになっているだろう。島の南東部は砲台によって守られ、島の風上は自然によって守られている。ここには守備兵も兵士もおらず、民兵のみが後黒人達を大人しくさせている。総じて農園主は豊かであるが、浪費家で奔放で残酷な人々である。結婚している男達でさえ混血や黒人の女を家や特別な小屋に囲っている。[中略]。黒人に対する残虐行為は非常に衝撃的であり人間性を損なうものである。というのは些細な過ちだけで、時には主人の単なる気紛れで、こうした哀れな人々は縛られて容赦なく鞭で打たれる。縛られた奴隷が捩じった牛の皮で半死半生になるまで打たれ、さらに茨のような黒檀の若枝でさらに打たれるのを私は目撃した。肌と肉が裂け、血が吹き出し、死に至らしめることもある。こうした激しい野蛮な行為によって死ぬ者がいる一方で、あまりに気高くて屈辱に耐えられない者は自ら生命を絶つ。もし誰かが奴隷を殺した場合、その者は罰金として奴隷の代価を支払うだけでよい。絞首刑になることはない。こうした哀れな人々にとって墓場の向こう側のあの世のほうがましかもしれない。彼らにとってこの世は地獄だからである。もし葬儀において彼らが見せる行動を見れば、それが正しいと分かるだろう。泣いたり嘆いたりする代わりに彼らは踊ったり歌ったりする。その様子はこの世で最も幸福な葬儀に見える」

1774年10月11日 バルバドスからヴァージニアに戻る。
「フリーツ大佐のもとに上陸した。フリーツ大佐は植民地で起きたことを我々に語った。戦争以外について何も語られなかった」

1774年10月16日
「イギリスとの戦争以外に何も話題はなかった」

1774年10月24日
「ここではすべてが極度の混乱状態にあった。勝手に茶を売ったりイギリス製品を買ったりしないようにすべての商人を取り調べる委員会が組織された。商人の中には熱したタールを一面に塗られ鳥の羽を押し付けられる者や暴徒によって資産を焼かれたり破壊されたりする者がいた。大陸のあらゆる郡で独立民兵隊が結成され、まるで戦争前夜のように将校が任命され、兵士達が訓練された。先月5日、異なる植民地から構成される[大陸]会議がフィラデルフィアで開催されて継続中であるが、その議事は秘匿されている。大陸のあらゆる郡でボストンの人々を救済するために寄付が募られた。国王は公然と罵倒され、その権威は無視された。つまり、あらゆる反逆の機が熟そうとしている。ニュー・イングランド人は偽善的で憐れみを誘う媚びるような策略を使って、[イギリス]政府が植民地全体を完全に隷属させようとしていると他の植民地を納得させようとしている。そうしたことは決してないと私は思っているが、長老派の悪党どもが他の植民地を陰謀に誘い込もうと企んでいる。異なった筋から私が得られたすべての情報から、マサチューセッツの人々が目指しているのは独立であることは確かだが、[イギリス]政府が奴らの忌まわしい意図を完全に挫くような健全で迅速な施策を打ち出すに違いないと私は信じている」

1774年11月1日
「今夜、私は旅籠に行って大陸会議の決議を聞いた。国王への請願とイギリスの人民への布告を読んだ。それらは欺瞞と虚偽に満ち溢れている。私はそれらがイギリス国王と人民の理解力と尊厳に対する侮辱だと思った。彼らの請願が認められないことを私は望んだ。請願が人々によって受け入れられ、その見解が概ね認められているのを知って私は残念に思った。それは反逆の種が既に撒かれてしまって非常に深く根を下ろしていることを示していたが、来年の夏までにはそれが抜かれてしまうこと私は望んでいる。私は偽善者のように行動して、[大陸会議の]決定を地上で最も賢明な会議の産物であるかのように称賛しなければならないが、心の中で私は軽蔑の目で見ている」

1775年2月18日
「私は、治安委員会が私を密偵として告発しようとしていることを理解した。私はすぐにここを離れることで厄介事におさらばすることにした。治安委員会はまるで判事のように行動している。もしある者がアメリカの自由に対して敵意を抱いてることが分かれば、彼らはその者に適切だと思う処罰を与えるだろう。熱いタールを塗られ鳥の羽を押し付けられずに済むことは滅多にない。大陸会議を悪く言うことは生命を賭けることになる。あらゆる場所で人々が武装して訓練に励んでいる。彼らはすべて自由に熱狂している」

1775年2月28日
「今日は大陸会議の法で定められた大陸で茶を飲むことができる最後の日である。淑女達はそれを非常に悲しんでいるように見えた」

1775年4月10日 測量の仕事のためにフロンティアへ
「森の中の開けた湿地のグレート・メドウズで食事を摂った。ネセシティ砦の痕跡を見た。それは1754年にワシントン大佐によって築かれた小さな防柵の砦である。[中略]。ダンバー大佐が1755年にブラドック将軍が敗北したという報せを受けた時に軍営を築いていた場所を見た。大量の破棄された砲弾、大砲、銃弾、そして、その他の軍需物資が森の中に散らばっていた」

1775年4月16日
「食事の後、ブラドック将軍がフランス人とインディアンによって1755年7月9日に打ち破られた場所に案内してもらった。それはモノンガヒーラ川の畔にあった。大量の人間と馬の骨が見つかった。木々が大砲の邪魔をしたのではないかと私は思った。ワゴンの前面は300ヤード[約270メートル]以上進むことはできず、川から400ヤード[約360メートル]以内で大虐殺が起きたのではないか。そこは平坦で下草が生い茂っている。川からさらに進むと勾配が急になって岩が幾つかあるので敵は有利な地勢を占めることができただろう。我々は1つも完全な骨格を見つけることができず、すべての上半身はばらばらになっていて、中には直径約1インチ[約2.5センチメートル]の穴が開いているものもあった。おそらくトマホークでやられたのだろう。負傷者はすべてインディアンによって虐殺されたと教えられた」

1775年7月15日 オハイオ地方のレッドストーン砦付近
「ナンシー・ギスト嬢という美しく若い女性のもてなしを受けた。彼女はボストンで激しい戦いが2回行われ、双方に多くの犠牲者が出たと私に伝えた」

1775年7月31日
「ここ[オハイオ地方]の人々は自由に熱狂していて戦争の他に考えることがない」

1775年8月3日
「ボストンから悪い報せが届いた。イギリス軍が船に追い込まれ多大な犠牲が出たという。私はそれが嘘であることを望む」

1775年10月1日
「私はインディアンに対して非常に敬意を抱くようになり、彼らと別れるのを心から残念に思ったが、他の人々はこうした正直で貧しい人々に対して異なった見解を抱いていることをしている。もし我々がインディアンの行動全体について彼らが苦闘しなければならないすべての不利な状況を知って公正に判断すると同時に我々自身の偏見を取り除けば、あらゆる正直な人々の見解は彼らに対して好意的なものになると私は信じている。インディアンは生まれるとすぐにベッドと揺り籠の代わりになる板に背中を縛り付けられるだけではなく、母親が運ぶのに便利なように頭を糸で板に結わえられる。彼は半年間、その場所に置かれるが、しばしば夏には水の中に浸かり、冬には雪の中で転がされる。それから彼はできる限り早く歩く自由を得る。インディアンの若者は彼らに躾を教えるうるさい教師に鞭で叩かれることはない。というのは彼らは完全に文字を知らないからである。過去に関して彼らが持っている僅かな知識は絵文字や伝承で受け渡されるので多くの間違いや誤解が生まれる。狩猟が彼らの気晴らしであり生計の手段であって、年少の頃から彼らはそれを始める。各部族はある種の政府を作っているが、私はそれらにどのような名前を与えればよいのか分からない。専制でもなく貴族制でもなく民主制でもないが、後者の2つを混合させたものかもしれない。彼らの王はその他の者よりも栄誉や尊敬を受けているだけであり、他のものと同じく生活するために狩猟をしなければならない。会議だけが例外で彼は最初に話す権利を持っていて、もし彼が信頼できる能力を持つ老人であれば、その助言は概ね守られる。戦争になると彼は将軍として行動する。何か重要なことが決定される場合、部族全体が会議用の建物に集まる。すべての者が発言権を持つが、問題の討議は概ね老人達に委ねられている。経験によって宿る叡智の声にインディアンは敬意を払うからである。すべてが規則正しく儀式に従って沈黙と熟慮とともに行われ、1度に話すのは1人だけであり、他の者達は沈黙を守って注目している。[中略]。王の権力は強制ではなく説得である。彼は王として恐れられるよりも父として尊敬されている。彼は税務官を持たず、誰かを収監したり死刑にしたりすることもなく、人民に体罰を与えることもない。何か1つでも不公正な行いがあれば彼は永久に首長の座から降ろされる。インディアンの間には相続される栄誉称号はなく、個人的な心身の優れた資質の他に重要人物になる手段はない。彼らは我々が思っているような愚か者ではまったくない。彼らは学習の利益を享受していないが、正誤を非常に確実に見極める本質的な理性の光を宿している。[中略]。彼らは残虐で野蛮であると言われていて、私も彼らが時に人間の本質を戦慄させるような残虐な行為に及ぶことを知っているが、それは部族の慣習によるものである。白人の一般的な意見は、彼らとの違いは肌の色であり、神と自然が予定しなかった形で教育の利点がこうした貧しい人々よりも優れた点をもたらしているという意見である。彼らは理性と常識を備えた人間であり、我々と同じく創造主の目に適っていることを私はまったく疑っていない。そして、一般的に多くの徳目において彼らは我々の水準を上回っているのにも拘わらず、我々は彼らを見下したり不公正に扱ったりしている。[中略]。非常に好んでいる酒を呑んだ場合を除いて彼らはたいてい静かである。[酒を呑むと]彼らは非常に騒がしくなって互いに暴力を振るい合う。男達が酔い始めるとすぐにいつも女性達は武器を隠してしまう。誰か1人が素面でいて他の者達の面倒を見なければ、決して酒を呑まないという決まりがある。30以上の異なる部族で似たような慣習があるが、どれもがあまり多くない。蒸留酒が彼らの間で広まって以来、急速に人口が減少し始めた。天然痘は深刻な被害を与えた」

1775年10月20日 フロンティアの測量旅行を終えて帰還
「戦争の他に語られることはなく、男達は徴募されあらゆる軍備が行われている。ボストンには大規模な軍隊が集まっていて、カナダにもヴァージニアのノーフォーク付近にも軍隊が駐在している。これは不満を是正するためではなく公然とした反逆であり、もしイギリスがここにさらなる兵士を送り込んで鎮圧しなければ彼らは独立を宣言してしまうだろうと私は確信している」

1775年10月21日
「今、私は不安定な状況に置かれている。もし私が何らかの事業を行えば悪党の役に立つことになり、もし求められれば私の友人と祖国に対して戦わなければならなくなる。その一方で、私はこの大陸を去ることを許されず、もし幸いにも監獄から逃れることができたとしても何も持たずに脱出することになる」

1775年10月30日
「ここの人々は反乱を起こそうとしていてイギリス、その艦隊、軍隊、友人に対して呪いの他に何も持っていない。国王は公然と罵られ、反逆はその恐ろしい頭をもたげようとしている。この植民地とメリーランド植民地の人々は総じてイギリスの商人達に借金を負っていて、反乱ですべて帳消しになると考えている」

1775年10月31日
「私は奴らによって王党派(すなわち我が国の友人)と呼ぶ存在であるという嫌疑をかけられ、熱いタールを塗られ鳥の羽を押し付けられ収監されるのではないかと思っている」

1775年11月10日
「この戦争はアメリカ人によって最も奇妙な方法で行われている。自由という名前は最も卑しく悪用されている。こうした許容の下で大陸会議は、その絶対確実な象徴と祝福を受ければ紙幣が本物の金銀に交換されるに違いないと人々に信じさせようとしている。こうした正統な教義に異議を唱える異端者はほとんどいないが、もし間違った考え方を信じさせているのが牢獄と迫害の力であれば、要領が悪いと私は思う」

1775年12月31日
「新年は険悪な様相を帯びている。ここでは私はまるで囚人である。もし私が[本国に向けて]出発しようと試みてうまくいかなければ牢獄が私の運命となるに違いない。もし私が生計を立てようと何かすれば、おそらく国王と祖国に対して戦わなければならず、それは私の良心が許さない」

1776年1月19日
「『コモンセンス』と呼ばれるパンフレットが喧噪を引き起こした。これまで世界に公表された出版物の中で最も下劣な物の1つである。虚偽、欺瞞、誹謗、そして、反逆に溢れていて、その原理はすべての君主政体を倒壊させて独立した共和政体を樹立しようとするものである。著者はきっとヤンキーの長老派で大陸会議の一員に違いないと私は思っている。イギリスに対して借金を負っている非常に多くの人々にその見解が受け入れられている」

1776年1月22日
「独立の他に語られることはない」

1776年1月26日
「独立を阻むものは何もないだろう。人々の中に悪魔が宿っている」

1776年2月26日
「独立がもうすぐ宣言されるだろうと私は思っている」

1776年3月31日
「イギリス軍がボストンを脱出して海に去ったという報せが届いた。それが誤報であることを望む」

1776年7月1日
「ワシントンが彼自身の生命と幕僚に対してニュー・ヨークで企てられた陰謀を見破ったという報せが届いた。陰謀の参加者の1人は絞首刑に処され、その他の者達も収監された」

1776年7月9日 ジョン・アダムズの手紙について
「サンヘドリン[古代エルサレムの祭司や長老から構成される最高法院だがここでは大陸会議のこと]が連帯した13植民地が自由であり独立した国家であると宣言したという報せが届いた。それは最初から北部の植民地によって企まれたことであり、以下の2つの手紙がその見解を裏付けていると確信している」

1776年9月3日 フィラデルフィア
「大きく豊かで人口の多い整然とした街である。街の北側をデラウェア川が流れ、スクールキル川が南西を流れている。通りはデラウェア川と平行に走っていて、その他の通りと直角に交わって碁盤目を形成している。通りの幅は60フィート[約18メートル]である。マーケット通りだけ例外で幅は100フィート[約30メートル]ある。しかし、この通りの真ん中にある市場の建物が美観を損ねている。通りは煉瓦で舗装され、歩行者のために両側に歩道が設けられ清潔に保たれている。揚水機が整然と並んでいる通りは非常に真っ直ぐなので街の端から端まで視界を遮るものは何もない」

1776年9月5日 プリンストン
「小綺麗な街で若者を教育するための壮麗な大学がある。学生のために60室が準備され、各部屋には2つのクローゼットと2つのベッドがあり、礼拝堂、図書館、そして、教室がある。倉庫と物置も完備している」

1776年9月7日 ニュー・ヨーク
「この街は交易に最適な場所にある。島の端にあって街の周りの3分の2を波止場が囲み、海に非常に近い。街はフィラデルフィアのように規則正しくなければ広くもなく、優美な建物もあまり多くないが、公私を問わず壮麗な建物がある。

1776年10月26日 出国を企てたが失敗してヴァージニアへ
「自分が置かれた現状を考えると私は惨めな気分になった。今、私は敵地にいて[イギリス本国へ]出発することを[密偵の嫌疑をかけられているので]禁じられている。生計を立てる手段はほとんど何もない。というのはもし私自身が住民の中に伍することになれば、母国に対して武器を取らなければならなくなるからだ。私に関して不幸な二者択一は反逆者になるか飢えるかである。もしくはインディアンの仲間になろうと思う。私は彼らを二者[インディアンとアメリカ人]の中であればより人間的な人々だと思っている」

11月23日
「ハウ将軍がフィラデルフィアに向かって進軍して愚か者どもを蹴散らしたという報せが届いた。もし奴らの表情と行動から判断することができればそれが本当だと分かるだろう」

1776年11月24日
「すべての新聞が差し止められ、何も公表されていない。それは悪党どもが敗北したことを示している」

11月26日
「ハウ将軍が[ニュー・]ジャージーの[ニュー]ブランズウィックまで進み、愚か者どもの軍隊はフィラデルフィアに逃走中であり、大陸会議はフィラデルフィアからボルティモアに移ったという報せが届いた。非常に素晴らしい報せだ」

1776年11月29日
「現在の私の不快な束縛、人生で最も貴重な3年間を失ったこと、母国を去って以来、経験した落胆と不運、そして、中でも最悪なのは帰国しようとすれば執拗に非難されることが確実なことである」

1776年12月1日
「イギリス軍がワシントン砦を攻略して2,500人の捕虜を得たという報せが届いた。それは奴らが擁する砦の中でも最も強固な砦であり、ニュー・ヨークの[マンハッタン]島の北端にある。イギリス軍の全軍でも攻略することはできないと奴らは長らく誇ってきた。イギリス人は一旦、そうしようと思えばできないことはないと奴らは記思わなかったのか。奴らはリー砦も放棄したと言われている。もしそれが本当であれば、悪党どもがすぐに大人しくなると私は思っている」

1776年12月4日
「今日、約40人の馬に乗ったオランダ人の暴徒が塩を求めてこの街[リーズバーグ]を通ってアレクサンドリアまで駆け抜けて行った。奴らは少しでも何か見つけると力ずくで奪った。奴らは剣や棍棒で武装している。塩は非常に不足していて、もしまったく手に入れることができなければ人々は暴動を起こすだろう。塩なして生活することはできない。一般的に人々は夏に塩漬けの肉を食べている。酷暑のせいで生肉を僅か1日でも保存することは非常に難しく、住民がまばらで市場が少ないので小さな豚や家禽以外を殺した場合に[塩で]処理しなければならない。彼らは夏の間、ほぼ毎日、馬、牛、豚、そして、羊に塩を与える。特に牛は塩を好み、どこでも塩を舐めるので必要不可欠であり、塩なしで飼育することはできない」

1776年12月8日
「神がハウ将軍をできる限り早く無事にフィラデルフィアに到着させますように。愚か者どもは逃げ去ったと言われている」

1776年12月4日
「横暴な愚か者どもは意気消沈している。政治家達(もしくは臆病な独立支持派)はすべてを投げ出そうとしている。そして、王党派は大喜びしている。[中略]。もしハウ将軍がフィラデルフィアに進軍すれば勝利は彼のものであると私は確信している」

1776年12月31日
「今日は旧年の最後の日であり、エジプト人の拘束よりも悪い日々を私は過ごした。私の状況がすぐに改善される見込みはない」

1777年1月6日
「ワシントンが762人のヘッセン傭兵を[ニュー・]ジャージーのトレントンで捕虜にしたという報せが入った。それが誤報であると望む」

1777年1月7日
「報せは本当であると確認された。人心は大きく変化した。数日前、彼らはほとんど諦めようとしていた。奴らの最近の成功は天秤を傾け、今や人々はまた自由に熱狂するようになっている」

1777年1月17日
「奴らの最近の成功によってカーク[イギリスからアメリカに移住した小麦商人でクレスウェルの後援者]は、世界のあらゆる場所への自由な貿易がすぐに行われるようになるだろうと信じるようになった。人事はどう転ぶか分からない。6週間前、この紳士はアメリカ人の不運な状況を嘆いて、奴らが愛する将軍[ワシントン]がその軍事的経験と才能の欠如によってすべてを破滅の危機にさらしているという惨めな状態を悲しんでいた。つまり、すべてが失敗に終わり、すべてが失われようとしていた。しかし、今や天秤は傾き、ワシントンの名前は雲間に聳えている。偉大なるワシントンと比較すれば、もはやアレクサンダー、ポンペイウス、そして、ハンニバルでさえ卑小な将軍に過ぎない。哀れなハウ将軍は誰からも馬鹿にされ、我が国の人々からも罵られている。私はそのようなことを毎日、聞かなければならなかったが、奴らに味方するような言葉は一言も言わなかった。これは愚かなヘッセン傭兵のせいである。ここにヘッセン傭兵を送り込むことを最初に考えた者に呪いあれ」

1777年3月4日
「不運にも私は治安委員会の1人を怒らせてしまった。彼の娘を紹介された時にキスしなかったからである。これは老人の気分を非常に害したので、私の行動を監視するための密偵が放たれたと私は友人から聞いた。もし何か反逆行為(彼は喜んでそう言うだろう)があれば、私は法で許される限りの迫害を受けることになるだろう。残念ながら私が醜いあばずれにキスしなかったことで、頑固な石頭の訴追を免れることは難しくなりそうである。もし十分な注意を払わなければこの夏を乗り切ることはできないだろう」

1777年3月27日
「人民が横柄になるのは独立の幸せな成果である。奴らが適当だと考えるあらゆる侮辱をもしあなたが堪え忍ぶことがもしできなければ、奴らはあなたを王党派とすぐに呼ぶ。もしあなたがその汚名を帯びれば奴らはあなたをぶちのめすという賞賛に値する権利を得ることになる」

1777年4月29日 ウィリアムズバーグ
「私がヴァージニアで見た中で最も優美な街である。ボートでしか航行できない2つの川の間に位置している。一方はジェームズ川に注ぎ、もう一方はヨーク川に注ぐ。1マイル[約1.6キロメートル]の大通りがあり、非常に広くて平坦で数多くの家々が建ち並んでいる。議事堂が通りの一方の端に、もう一方の端に大学がある」

注記:クレスウェルは仲間のコリン・キアーとともにヴァージニアを脱出する計画を練った。計画は、ハンプトンからグロースターに渡るふりをしてそのまま沖合に漕ぎ出してイギリスの艦船に拾って貰おうという計画である。監視役として2人の水夫が同行した。クレスウェルは盛んにグロッグを呑むように勧めた。監視役を何とかしなければ逃亡計画は失敗する。そこでクレスウェルは気分が悪くなったふりをした。キアーは介抱を装いながらクレスウェルの耳元で囁いて打ち合わせをした。2人は何食わぬ顔をして別れた。まずキアーが動いた。船倉に置いてある水の大樽に近付くと栓を抜き、懐に忍ばせて戻った。そして、今度はクレスウェルが水が漏れていると言って監視役の注意を引き付けた。監視役は船倉に降りて大樽から迸る水を止めようと栓を慌てて探したが見つからない。クレスウェルは木片を傍らにいた少年に渡して助けに行くように言った。少年は素直に従った。甲板にはまだ他の乗客が1人残っていた。男はクレスウェルとキアーがハッチを閉めたのを見て何かの冗談かと思った。クレスウェルは黙ってピストルで狙いを付けると男に船倉に入るように促した。男は突然の出来事に驚いたようで微動だにしなかった。キアーが「畜生め、脳みそをぶちまけたいのか」と罵ると男は跪いて命乞いを始めた。クレスウェルはウイスキーとハムを持たせてお琴を船倉に降ろした。こうした船倉には4人の囚人、甲板にはクレスウェルとキアーだけが残った。
 こうして小さな反乱がボートの上で行われている間に周りは濃い霧に包まれていた。はたして2人にとって幸運となるのか不運となるのか。夜になり霧は薄れ始めた。ボートは人気の無い岸辺に繋がれていた。逃亡者達は2時間交代で見張りに就いた。自分の順番になった時、月夜の下でクレスウェルは何かを書いていた。それは日記であった。次のような文章で5月4日の日記は終わっている。

「私はずっと体験することができなかった喜びを感じている。また私の自由を取り戻すことができそうなのだ。哀れな恥知らずどもを流血なしで閉じ込めることができて嬉しく思う。もし我々が再び捕らえられたら絞首刑が我々の確実な運命になるだろうが、悪党どもに私よ絞首刑にする栄誉を決して与えないつもりである」

翌日、クレスウェルとキアーは幸いにもイギリスの艦船であるフェニックス号に遭遇した。フェニックス号はクレスウェルとキアーをニュー・ヨークまで運んだ。

1777年5月14日 ニュー・ヨーク
「今、私はイギリス軍に入るか、それとも帰国するか何をするべきか決定しなければならない。もし私が自由に自分の意思に従うことができるのであれば、私はイギリス軍に入っただろう。しかし、私は4月14日以降12ヶ月はイギリス軍に入ることを禁じるという厳粛な約束をメイソン氏と取り交わした。私はこの紳士に大きな義務を負っている」

注記:トムソン・メイソンはジョージ・メイソンの兄弟であり、治安委員会の許可無くアメリカを去らないという条件を提示してクレスウェルが収監されないように取り計らったり、大陸会議の代表達に紹介状を書いたりして支援した。

「私はメイソン氏が私から何らかの利益を得ようとしていたわけではないと確信しているし、見知らぬ者が困っているのを助けようという親切心を持っていただけであると思っている。もし私が自分の名誉を高めるような行いをしなければ、私は自分自身を永久に卑しく汚い悪党として蔑むだろう。どのようなことが起ころうとも、約束の期限が切れる前にイギリス軍に入ることは名誉によって禁じられているし、また神によって禁じられている。私は約束の期限が切れるまでイギリス軍に入らない。しかし、乞食となって帰国することは死よりもなお悪い。もうこれ以上、私はこの問題について書くことに耐えられそうにない」

1777年5月16日
「今朝、私はハウ将軍を待って、カズラー少佐によって紹介された。閣下は私にヴァージニアの情勢とそこに政府の友人が多くいるのかどうかを聞いた。二つの質問に私はできる限りの知識で答えた。私は、彼の情報は不完全であるだけではなく予測もあまり楽観的だと思った」

注記:ハウはクレスウェルにイギリス軍に入るように進めたが、クレスウェルはメイソンとの約束を尊重して断った。

1777年6月1日
「今、私は1775年10月20日以来、感じることができなかった自由の空気を吸っている。というのは現実的な理由によって私はそれを日記に書くことができなかったからだ。私はいつも日記を傍から離さずに持っていた。そして、何とか逃れる方法を考えておかなければならないといつも思っていた。もし私の他の手稿が証拠として突き付けられても(逃げようとした時に私のことを個人的に知らない人々によって捕らえられた場合)、自由を取り戻す機会が少しはあるかもしれない。しかし、もしこのような決定的な証拠をポケットに常に忍ばせて破棄する前に差し押さえられれば、無思慮の代価として私の生命はきっと失われていたに違いない」

1777年6月5日 ロング島
「我々の鼻は、前年の8月以来、埋葬されていない反逆者の死体の悪臭に時々襲われた」

1777年6月23日
「イギリス軍の最近の行動について様々な憶測が飛び交っている。ある者は彼らは海路でフィラデルフィアに向かうと言い、またある者はそれはワシントンを有利な場所から誘い出す牽制に過ぎないと言う。私はどれが正しいか分からない」

1777年6月24日
「かつて栄えていた豊かで幸福なこの街を見た時、今、街の3分の1が荒廃している。そして、3年前まで互いに何でも助け合い等しく恩恵を享受していた人々が、機会さえあれば今や互いに喉を切り裂き合うだけではなく、財産を破壊し合っていて、陰謀を企む悪党どもによってあらゆる災厄が撒き散らされていると考えると私は悲しくも憂鬱な気分になった。この街は彼らの狂気と愚行の不運な例である。前年9月にイギリス軍によって反逆者が駆逐された時、彼らは街を焼き払って我が後にその責任をなすりつけようとする悪辣な陰謀を企んだ。彼らが焼き払ったのは街の中でも最も美しく価値がある3分の1の部分であった。もし街の様子を見渡せば、反逆者が最後の最後まで我が軍と戦うつもりであったことが分かる。あらゆる通りには塹壕やバリケードが設けられ、街の周囲のあらゆる小高い場所は要塞化されたが、我が軍が上陸するとすぐに臆病にも逃げ去ってしまった。今やこうしたすべての残光や要塞化された場所には淀んだ水が溜まり、あらゆる種類の瓦礫が積み重なっている。水際の波止場の泥から不快な悪臭が立ち上り、不健康な臭いが樽の中に詰められた鰊のように狭い場所に身を寄せている人々から漂っている。そうした人々の大部分は不潔で少なからぬ者が疥癬、天然痘、熱病、赤痢などの病気に罹っている。それらが混じり合った悪臭は嗅覚が敏感で肺が健全な者を僅か24時間で肺疾にしてしまう程である。もし誰かが悪臭に関して論文を書こうとするのであれば、その者はニュー・ヨーク以上に適した題材を見つけることはできないだろう。もしくは人間の本質の残虐で冷酷な部分を暴露したいと思っている者やこの世で生きることをテーマとして取り上げたいと思っている者がいれば、私はニュー・ヨークが取材を行うのに最も適当な場所であると推薦する」

1777年6月27日
「イギリス軍が反逆者を完全に打ち破り、2,000人を殺害し、4,700人を捕虜にした一方で800人の損害が出たという報せが届いた。この朗報が誤報ではないかと私は恐れている」

1777年6月28日
「昨日の報せは今日の報せと完全に矛盾していて、50人を殺害し、70人をこれにした一方で、我々の側の損害は8人であるという。ここ[ニュー・ヨーク]でもヴァージニアと同じく多くの嘘が蔓延している。最近の嘘はワシントンが捕虜となったという話である」

1777年7月2日 ニュー・ヨーク港に停泊する軍艦センチュリオン号
「この船に捕虜の[チャールズ・]リー将軍が乗っているのを見た。リー将軍は私がヴァージニアから来たのを知って茶に誘った。彼は私にヴァージニアのバークレー郡にある自分の農園について話した。彼は背が高く痩せていて器量が悪く50歳程度に見えた。この反乱で彼は非常に活動的であり見識があるが、言動は性急で荒々しい」

1777年7月13日
「ワシントンは他に類を見ない天賦の才能を持つ将軍の1人であり最も驚異的な人物である。奴隷の監督人が鍛えられていないごろつきや世界上のどこからも拒絶されるような屑どもを率いて長い間にわたってイギリス軍の将軍と対峙するどころか、アメリカ大陸でこれまでイギリスが投入した中でも最も優れた軍隊を相手にして退かせたことは驚異的である。[中略]。ハウ将軍は若い頃から戦場で育ってきた人物であったが、2年間、ヴァージニアのタバコ農園主に悩まされた。ああイギリスよ、汝の栄冠は不器用な奴の手の中で色褪せている。多くの有能な伝記作家がワシントン将軍の生涯を書こうとペンを競うことになるだろう。[中略]。彼は親密で特別な友人や公然の敵を生涯で持ったことがないと言われている(私はそれが本当だと考えている)。そうした行動様式によって彼は不偏不党を貫き将兵達の間で敵対心が生まれないようにしている。恩寵を得る方法がなく、私が思うに、将軍は賄賂を取ることもないので、昇進しようとすれば軍功を上げるしかない。彼の個人的な性質は親しみやすくすべての知人から非常に敬愛されている。彼について私が個人的に知っていることと私が知ることができるすべてのことからすれば、彼は非常に実直な人物であり、もし我々が寛大に判断して野心を悪徳の数に含めないのであれば、悪徳に染まっていない。そもそも野心は人間にとって強い誘惑である。自然は人間を野心に抵抗できるように作っていない。[中略]。無知で欺されやすい人々は彼を祖国の救済者であり擁護者であると見なし、彼が行うことであれば何でも信じてしまう。その一方で巧妙で策謀好きな人々、つまり、大陸会議や指導者達は彼を悪辣な目的を達成するために必要な存在だと見なしている」

1777年7月19日
「もし我々が幸運を持っていれば、この不幸な国が、この国がひっくり返ってこの世の楽園から地上の地獄に変わってしまうのを生きて見ることはないだろう。私はこの幸せな国が僅か3年間で悲惨な状況になってしまったのを見てきた。僅かな者達の悪辣な陰謀とこちら側にいる多くの者達の頑迷さがイギリスの盲目的な指導者達の失策、怯懦、そして、不正を助長したことで完全にこの国[アメリカ]を荒廃させた。悪魔が奴らに宿っていたと私は思う。不幸な恥知らず達は自由を専制、抑圧、そして、隷属に置き換えようとしている。気まぐれで残虐で移り気で悪辣な大陸会議が法を制定していて清教徒の悪党どもが聖書を配り歩いて彼らの宗教を広めているが、それは奴らのためであってそのようなものはなくてよいのだ。こうした不幸な恥知らず達は互いに剣を向き合うまではいかないが(政治的意見において)分裂しているが、大陸会議によって制定され、委員会によって厳格に施行されている専制的な法のせいで最も見識ある人民は本当の意見を言うことができなくなっている。大陸会議は、弱々しい自由の木を育てるふりしていて、それがアメリカの土壌で繁茂すると言っているが、実際にはそれを根こそぎにしようとしている。つまり、驕慢、頑迷さ、そして、愚行によって、ファラオがエジプト人に対して下したような災厄を彼ら自身の頭の上に招き寄せようとしている。(聖霊に対する罪よりも重罪であるとされる)王党派であると疑われた者は、イギリスとスコットランドで老女とその飼い猫が魔女ではないかと疑われるよりも危険である。王党派を欺くことは合法であり、王党派から盗むことは正義と国家に奉仕することになるのだ。もし王党派が愚かにもその意見を明らかにしなければ、まず罰として熱いタールを塗られ鳥の羽を押し付けられ、悪魔のような非道な悪党どもの集まりである大陸会議によって公文書で財産没収を宣告される。全資産を差し押さえられ、投獄され絞首刑に処せられる。それだけではなく家を焼かれ、毒を盛られる。神の御前に行くこと[死ぬこと]が甘美な救済と思える程である。[中略]。多くの人々が裁判もなく、場合によっては何の罪で告発されているかも知らずに数ヶ月間にわたって収監されている。最終的に何の説明もなく解放されるが、もしイギリス軍に参加しようということが分かれば状況はもっと恐ろしいことになる。もし幸いにも生命だけは助かったとしても、すべての財産が没収され、奴らの軍隊に参加させられる。[中略]。ヴァージニアは私がこれまで見た中で最も素晴らしい土地である。ヴァージニアは大西洋からはるか西のミシシッピ川まで広がっていると言う者もいる。そのような驚くべき広大な領域にあらゆる種類の土地がある。[中略]。ヴァージニアの主要な産物はタバコであり、他のすべての植民地の生産量よりも多くの量を輸出している。同じく大量の小麦、木材、タールそして、少量の麻、インディゴを産するが、インディゴだけはここではあまり育たない。[中略]。大陸の他のどのような植民地よりもこの植民地は大きな航行可能な川を多く持つ。すべての河川は世界で最も美しい湾の1つであるチェサピーク湾に注ぐ。しかし、総じて人々はこうした素晴らしい河川の大きな利点について気付いていないようである。商業に従事するヴァージニア人は非常に少なく、そのほとんどが農園に生計を頼っている。ヴァージニア人は非常に多くの黒人を所有しているうえに、気候が非常に暑く、肥沃な土地で豊富な物資が容易に手に入ることから、怠惰な性質を帯びている。[中略]。この国の人口増加は驚異的である。ヨーロッパからの移民と自然増を合わせると25年毎に人口が倍増している。16年毎に倍増しているという者もいる。アメリカ人は非常に早婚なので人口増加はヨーロッパよりも非常に急速である。その理由はおそらくイギリスではアメリカのように簡単に家族を養うことができないのでイギリス人は早く結婚することはできない。イギリスでは貧窮を恐れて家族を十分に養うことができると確信するまで誰も結婚しようとしない。しかし、ここではそうした恐れがなく少し勤勉に働くだけで家族を養うことができる。成年に達すればすぐに自活することができる。非常に不思議なことにこの国では薹が立った女性を見ることはほとんどない。一般的に彼女達は22歳になる前に結婚する。しばしば16歳になる前に結婚することもある。つまり、ここは女性達にとって地上の楽園であり、快楽主義者の天国であり、自由と友愛の中核であった。しかし、僅か3年間でここは戦場となり、荒廃した土地になり、隷属、混乱、不法な抑圧の場となった。願わくは慈悲深い神がこの国を再び以前のような幸福で豊かな状態に戻して下さるように。もう私は書くのに疲れてしまったが、後でこの日記に手を入れることができればこうした示唆は役立つだろう。銃声が幾つか聞こえる。おそらく反逆者どもが放った合図だろう。

1777年7月7日ニュー・ヨーク
「私がセント・ジョンズ通りを歩いていた時、溝から何かがもがく音が聞こえた。私は立ち止まって月明かりでそれが何かを確かめた。どうやら人が泥に塗れている。私は溝に入って意識を失っている男を引き上げた。私は男の口から指で泥を掻き出してげっぷさせてみた。それから私は歩哨を見つけたが、たまたまヘッセン傭兵であった。私は彼に状況を話したが、残念ながら彼は英語を理解することができなかった。暫く我々が互いに言葉を交わした後、英語を話すことができる1人の軍曹がやって来た。彼は私とともに灯りを持って男のもとに行った。その時までに男は話せるようになっていて、街の女に侮辱されて思わずやり返してしまったと我々に語った。その女の取り巻きの1人が彼の頭に切りつけてぶちのめしたうえ、溝に放り込んだという。クイーン通りにある下宿まで連れて帰って欲しいと彼は我々に頼んだ。私とヘッセン傭兵の軍曹はその通りにした。打撲されたうえに汚い泥水を飲んでしまったことで彼は調子が悪いようであった。すぐに私は彼をベッドに寝かせてスミス医師を呼びにやり、瀉血をしてもらった。彼は非常に行いも良く立派な人物なようで、生命を救ってくれてありがとうと私に非常に礼儀正しく感謝を述べた」

1777年7月8日
「今朝、私は昨夜、溝で見つけた男を訪問に出掛けたが、まだ眠っていたようなので起こさないようにした。私は彼の名前が[ジョン・]レグダムだと知った。最近、イギリス政府を支持していたせいで数ヶ月間、閉じ込められていたフィラデルフィアの牢獄から逃れてきたばかりだという」

1777年8月23日 イギリス南部ポーツマス
「ニュー・ヨークで溝から助け出したジョン・レグナム氏に偶然にも出会った。この紳士はアメリカで牢獄に繋がれていたが、今も非常に困った状況に置かれていた。コヴェントリーの近くに地所を持っている友人達がいるが、そこにおめおめと帰ることはできないという。彼が非常に感謝しているので私はついつい多くのお金を彼のために使ってしまった」

1777年10月13日
「現在の私の生活はまったく同じなので日記を付ける価値はない」

注記:4年間の空白の後、1781年8月21日に結婚したと述べて「私の放浪は今、終わりを迎えた」と結ばれている。