建国の父(上)第3章北西部インディアン戦争

北西インディアン戦争

※地図は割愛しています。

(1790930日~17941111)
§梗概§
●なぜネイティヴ・アメリカンの扱いがアメリカにとって重要であったのか。当初、ジョージ・ワシントンはネイティヴ・アメリカンに対してどのような決断を貫こうとしたのか。
●ネイティヴ・アメリカンに対する軍事作戦はどのような経緯で決断されたのか。
●アーサー・セント・クレア将軍はどのような経緯でネイティヴ・アメリカンに対する軍事作戦で失敗したのか。
●アーサー・セント・クレア将軍が喫した敗北を教訓にどのような対応策が練られたのか。そして、新たに指揮官に任命されたアンソニー・ウェイン将軍はどのようにネイティヴ・アメリカンを破ったのか。
●フォールン・ティンバーズの戦いはアメリカにとってどのような意義があったのか。そして、敗北したネイティヴ・アメリカンの運命はどのように変化したのか。
●ジョージ・ワシントンは敵対するネイティヴ・アメリカンが増えないようにどのような措置を講じたのか。そして、白人とネイティヴ・アメリカンの関係についてどのように考えていたのか。
  

セント・クレア

 合衆国憲法成立後のアメリカを襲った最初の深刻な国内の深刻な危機は何か。
それは北西部インディアン戦争である。
ヨーロッパ列強が世界中で植民地を獲得しようと競い合う中、アメリカは西部に広がるフロンティアを開拓することで、そうした競い合いから距離を置きながら自国を富ませることに成功した。それは誰もが知る歴史的趨勢である。後の時代から見れば、アメリカがそのような道を辿ることはマニフェスト・デスティニー、すなわち「明白な天命」であったかもしれないが、当時の人間の目で見れば決してそうではない。歴史というのは数多くの紆余曲折があって進むものだからだ。
 北西部インディアン戦争は、アメリカ史の概説書では歴史に付された脚注に過ぎない。せいぜい教科書で「フォールン・ティンバーズの戦いと呼ばれる戦いでネイティヴ・アメリカンは撃破された。フォールン・ティンバーズの戦いでネイティヴ・アメリカンは北西部領地で彼らの土地を維持するという望みを打ち砕かれた」と述べられるに過ぎない。
確かにそれは間違いではない。しかし、北西部インディアン戦争が当時のアメリカにとって非常に深刻な危機であったことを忘れてはならない。
ヨーロッパ列強はいまだに北アメリカに対する野心を捨てていなかった。そのような中でアメリカがネイティヴ・アメリカンに敗北すれば、ヨーロッパ列強はそれを植民地獲得の絶好の機会と見なすだろう。したがって北西部インディアン戦争は決して負けることができない戦争であった。

危機がどのような状況で起きたのか理解するために、その背景を述べておこう。
まずフロンティアとはどこを指す言葉であり、どの程度まで開発が進んでいたのか。
1791年の時点でアメリカには約400万人の国民がいた。その大半は大西洋から100マイル(160キロメートル)以内の海岸地帯に住んでいた。その一方でアパラチア山系を越えた内陸部、すなわちフロンティアにも約23万人が開拓者として入植地を広げていた。
フロンティアは州に昇格するにはまだ十分に人口が稠密ではなかったので、2つに分けられて連邦政府の管理下に置かれた。北西部領地と南西部領地である。前者は後にオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ミシガン州、ウィスコンシン州、そして、ミネソタ州の一部となり、後者はテネシー州となる。
 北西部領地の中でもオハイオ川から北はエリー湖、西はウォバシュ川に至るまでの地域を特にオハイオ地方と呼ぶ。かつてワシントンがフランスとネイティヴ・アメリカンの脅威から守ろうとした地である。その時は1人の青年将校としてオハイオ地方の防衛に従事したワシントンであったが、今度は新国家の最高指導者としてオハイオ地方の防衛に再び乗り出すことになった。
 海岸地帯とオハイオ地方を繋ぐ道は6本ある。
最大の道はフォーブズ道である。フレンチ・アンド・インディアン戦争の時にワシントンがフォーブズ将軍率いるイギリス軍に従軍してデュケーヌ砦を目指した道である。フォーブズ道の幅は広く馬車が通ることもできた。他の5本の道は馬車が通ることができるような幅はない。
入植者はこうした道を通ってオハイオ川沿いに入植地を切り開いて行った。その数はおよそ16万人であったが、小農園に分散して居住していたので大きな都市はない。現在、ペンシルヴェニア州第2の都市であるピッツバーグの当時の人口は400人、そして、ケンタッキー州最大の都市であるルイヴィルの人口は200人であった。

 もちろん入植民を守るための措置は講じられている。東のアレゲーニー川沿いにあるフランクリン砦から西のウォバシュ川沿いにあるヴィンセンズ哨所まで700マイル(1,100キロメートル)にわたって要塞が配置されている。ただ要塞の数は全部で僅かに7つである。つまり、各要塞の間隔は平均で100マイル(160キロメートル)になる。したがって防衛線と見なすにはあまりに貧弱であり、どちらかと言えば無許可で入植しようとする者を監視するために設けられたと言える。
 オハイオ地方にはデラウェア族、マイアミ族、ミンゴ族、オジブワ族、オタワ族、ショーニー族、ワイワンドット族などが住んでいる。この頃までにそうした諸部族は樹皮で覆われた伝統的な家屋を捨てて白人の入植者のように丸太小屋に住むようになっていた。捕虜になったアメリカ女性は次のように記している。

「ブルー・ジャケットという名前のインディアン[ショーニー族]の族長がいた。デトロイトのフランス人の血を半分引いた女性と結婚している。その暮らし向きは非常に豪勢である。天幕を巡らせたベッドと銀のスプーンを持っている。私はこの家を喜んで訪ねた。彼らはいつもとても親切であり、私によく紅茶を振る舞った。彼は黒人奴隷さえ所有している」
 
 オハイオ地方では、ほぼ半世紀にわたって騒乱が散発していた。そのためにアメリカの要塞とネイティヴ・アメリカンの村々の間には100マイル(160キロメートル)の緩衝地帯が設けられた。
騒乱の歴史はフレンチ・アンド・インディアン戦争の頃に遡る。フランス軍の同盟者となったネイティヴ・アメリカンの諸部族はアメリカ人の入植地を次々に襲った。ワシントンがヴァージニア連隊を率いてそうした襲撃に立ち向かったことを読者は覚えているだろう。
 フレンチ・アンド・インディアン戦争が終結した後、フランスはイギリスのオハイオ地方の領有権を認めた。危機感を抱いたネイティヴ・アメリカンの諸部族は、ポンティアックの下に団結して立ち上がった。いわゆるポンティアック戦争である。それに対してイギリスは遠征軍を派遣してオハイオ地方の支配権を確立する。
1774年に紛争が再燃するまで平和は続き、白人の入植が進む。1774年のダンモア卿戦争で白人とオハイオ地方の諸部族は再び対決する。最終的にポイント・プレザントの戦いでヴァージニアの民兵隊がネイティヴ・アメリカンを打ち破った。
これでオハイオ地方は白人の支配下に置かれたかのように思えたが、独立戦争の勃発によって状況が激変する。ネイティヴ・アメリカンに新たな選択肢が提示される。イギリス人と組んでアメリカ人をフロンティアから追放するという選択肢である。
オハイオ地方のデラウェア族を除くほとんどの部族がイギリスの支援を受けてアメリカ人の入植地を襲撃する道を選ぶ。幾多の戦闘が起こったが、ここではその詳細を述べることはしない。
ただ1つだけ言えることは、オハイオ地方はジョージ・クラーク大佐の目覚ましい活躍でアメリカの実質的な支配下に入ったということだ。クラークはヴィンセンズ哨所に配置されたイギリス軍の駐留部隊を打ち破っただけではなく、ネイティヴ・アメリカンを撃破して村々やイギリスが設けた交易所を破壊して回った。クラークの目覚ましい、ネイティヴ・アメリカンからすれば恐ろしい活躍で西部はアメリカのものとなる。
1782年、ヨークタウンでアメリカとフランスの連合軍で決定的な勝利を収めたという知らせがフロンティアにも伝わる。そして、間もなく戦争が終わりアメリカの独立が正式に認められるという噂も流れた。そうなればイギリスの支援は受けられなくなり、アメリカは全力で反撃してくるだろいう。意気阻喪したオハイオ地方の諸部族は大規模な軍事作戦を行わなくなった。オハイオ地方の戦火は鎮まったように見えた。
独立戦争が終結した結果、イギリスはアメリカが広大なフロンティアを領有することを認めた。しかし、この場合にアメリカというのは誰のことを指すのだろうか。アメリカ合衆国のことに決まっているという答えが返ってくるかもしれない。
アメリカ合衆国という呼称は存在していたが、内実は現在のアメリカ合衆国とはまったく別物である。なぜなら現在の連邦政府は存在しておらず、未だに連合会議がその役割を担っていたからである。
連合会議と現在まで繋がる連邦政府がどのように違うのか、そして、独立戦争末期から合衆国憲法制定に至るまでのどのような過程を経たのかは既に説明しているので、冗言は避けて簡単にまとめておく。
当時のアメリカは現代のヨーロッパ連合と似たような政体である。ヨーロッパ連合の構成国はそれぞれが独立した主権国家である。それと同様に合衆国憲法成立前のアメリカを構成する邦はそれぞれが独立した主権国家と言ってよいだろう。そうした状況で何が起きたのか。
フロンティアの領有権をめぐって各邦が争いだしたのである。そうした争いは過去の植民地時代にもあったが、イギリスの統治下で抑制されてきた。それが独立によって一気に箍が外れたのである。
結局、フロンティアの領有権は各邦が自発的に連合会議に譲渡するという形でだいたい決着が付く。連合会議は、独立戦争に関連する負債を弁済するのに各邦からの拠出金に頼る必要があった。それに独立戦争の退役兵にも年金を与えなければならない。そこで各邦は連合会議が財源の捻出に利用できるようにフロンティアの領有権を差し出した。そうすれば拠出金を支払う必要もなくなるし紛争もなくなる。一石二鳥である。これは名案のように思えたが、新しい問題を引き起こす。

突然だがフランクリン自由共和国、またはフランクランドという国名を聞いたことがあるだろうか。もし知っている読者がいればかなりのアメリカ史通と言えるだろう。フランクリン自由共和国はかつて現テネシー州の北東端に位置していた非合法国家である。
ノース・カロライナ邦は先に説明したように連合会議にフロンティアの領有権を移譲した。フロンティアの住民は弱体な連合会議が支配を断念して自分達が住む地域を外国に売り飛ばしてしまうのではないかと恐れた。
ノース・カロライナ邦は、連合会議が当初の目的、すなわち負債の弁済や退役兵の年金に土地を利用しようとしないのを知って領有権の移譲の申し出を撤回する。
フロンティアの入植者からすれば、自分達の運命が邦、つまり、海岸地帯のお偉方の意向で左右されるのは我慢ならない。もちろん理由はそれだけではなかったが、とにかく独立することにした。
ノース・カロライナ邦から離脱を宣言した諸郡は、まず14番目となるフランクランド邦として連邦に加盟する道を目指す。しかし、連合会議で加盟に必要な票数が得られず、フランクランド邦は幻に終わった。
連邦に加盟できなければ残された道は1つしかない。フランクリン自由共和国として独立する。結局、内戦を経た後、フランクリン自由共和国はノース・カロライナ邦に吸収される。ノース・カロライナ邦は新しく成立した連邦政府にフロンティアの領有権を再び移譲した。その結果、後にケンタッキー州となる南西部領地が連邦政府の下に構成された。
フランクリン自由共和国を紹介したのは当時のフロンティアがいかに不安定であったかを示すためである。
ではオハイオ地方はどのような運命を辿ったのか。
オハイオ地方の領有権を主張していたのはヴァージニア邦である。ヴァージニア邦もノース・カロライナ邦のように連合会議に領有権を移譲した。
1784424日、連合会議はヴァージニア邦の申し出を受諾する。しかし、その広大な地域を管轄するのにその時点で動員できる兵力は僅かに3人の士官と75人の兵士だけであった。北海道よりも広い地方を防衛するには過小である。軍事力どころか警察力としても役に立たないだろう。
もちろん連合会議もそれに気付いていた。そこで700人規模の軍隊を新設してジョサイア・ハーマー将軍を指揮官に任命することにした。たとえ700人規模に軍隊が拡大されてもオハイオ地方からネイティヴ・アメリカンを排除することはできないし、連合会議もそこまでは考えていない。新設された軍隊の役目は無許可で入植する者を取り締まる一方で、ネイティヴ・アメリカンが合法的な入植者を妨害しないようにすることであった。
まず連合会議が行わなければならなかったことは、ネイティヴ・アメリカンにパリ講和条約を納得させることである。ネイティヴ・アメリカンはパリ講和条約の交渉の場に呼ばれていない。したがって連合会議は、オハイオ地方の主権がアメリカに移ったことを諸部族に周知するとともにアメリカ人の入植を認めさせる交渉を行う必要があった。
交渉の結果、イロクォイ6部族連合はスタンウィックス砦条約で入植地の境界を設定することに同意した。続いてデラウェア族とワイワンドット族もマッキントッシュ砦条約で同様の協定を結んだ。
1785年、連合会議はジェファソンが提出した「西部領地のための政府案に関する報告」に基づいて1785年公有地法を制定する。それはフロンティアを統治する方針を明らかにした法であると同時に入植の道を開く法でもあった。無許可の入植を防止するために2つの砦が築かれたが、あまりに少数の守備兵だけではその目的を達成することはできない。殺到する入植者はネイティヴ・アメリカンの神経を逆撫でする。
ネイティヴ・アメリカンの指導者達の中でも最もアメリカに警戒心を抱いていたのがモホーク族の指導者ジョゼフ・ブラントである。独立戦争時にイギリス軍と協力してアメリカと戦った指導者であり大きな影響力を持っていた。その影響力を使ってブラントはオハイオ地方の諸部族に個別に交渉して連合会議と条約を締結しないように訴える。それよりも団結して交渉を行ってオハイオ地方の支配権を確立するべきである。もしそれが不可能であれば一体となって武器を取らなければならない。
オハイオ地方の状況はさらにイギリスの介入によって悪化する。パリ講和条約では、王党派の財産を補償するという条項が盛り込まれている。それをアメリカが履行しないことを口実にイギリスはフロンティアにある拠点を引き渡すつもりはないと通告する。それだけではなく連合会議が瓦解すると信じて、ネイティヴ・アメリカンに武器弾薬を供給してアメリカに敵対するように唆した。
その一方で連合会議は、1785年公有地法よりさらに進んで北西部領地条令を制定する。北西部領地条令によって北西部領地が設けられ、その住民は基本的権利が保障されるとともに将来、州を形成して連邦に加盟する道が示された。
初代北西部領地長官に任命されたのがアーサー・セント・クレアである。
セント・クレアはスコットランド生まれでフレンチ・アンド・インディアン戦争に参加することで軍歴を始めた人物である。独立戦争にも将軍として参加してトレントンの戦いやプリンストンの戦いでワシントンの指揮の下で戦ったこともある。あまり目立った戦績を収めたわけではなく、タイコンデロガ砦陥落の責任を問われて指揮官から外されたが、ワシントンからまずまずの評価を受けていた。その後、連合会議議長を務めた。
セント・クレアがまず取り組んだことは入植の推進である。1788427日、独立戦争の退役軍人によって結成されたオハイオ会社によって新しい村の建設が始まった。後に北西部領地の首府となるマリエッタである。マリエッタという名前はフランス王妃マリー=アントワネットに因む。そして、マリエッタを守るためにカンプス・マルティウス[1]と呼ばれる強固な要塞が築かれた。
入植を進める一方でセント・クレアは、敵対するネイティヴ・アメリカンと何とか友好関係を築こうと話し合いの場を設けることを提案する。オハイオ地方の諸部族は話し合いに応じる旨を回答する。しかし、ネイティヴ・アメリカンの戦士達が、中立地帯に会見の場を設営中の兵士達を襲撃して2人を殺害した。そこで会見の場はハーマー砦に移された。
話し合いの結果、イロクォイ6部族連合、デラウェア族、ワイワンドット族はスタンウィックス砦条約とマッキントシュ砦条約の取り決めを再確認した。しかし、ネイティヴ・アメリカンによるアメリカ人の入植地の襲撃は止まない。
ここまでが合衆国憲法下で新しい連邦政府が成立するまでの状況である。

 新たな連邦政府が発足しても状況は何も変わっていない。ただ誰がフロンティアの安全保障の責任を負うかは明確になった。大統領である。ワシントンは今後のネイティヴ・アメリカン政策をどのような方針の下で進めるか決定しなければならない。
もしネイティヴ・アメリカンに効果的に対処することができず、フロンティアで不安定な状態が続けば、フロンティアの住民が合衆国から分離独立し、スペインかイギリスの保護下に入ろうとする危険性がある。実際、フランクリン自由共和国はスペインと同盟してノース・カロライナ邦と戦うことも検討していたという。オハイオ川流域から五大湖にわたる広大な地域を確固とした支配下に置くことができなければ、西方へ拡大して太平洋に至るというアメリカの将来の国家像は崩壊してしまうだろう。
ワシントンは早くからそうした危険性を恐れていた。つまり、ネイティヴ・アメリカンをどのように扱うかは国家の行く末を決める重大な問題であった。ワシントンは次のようにネイティヴ・アメリカンに対する方針を語っている。

「インディアンに対してではなく、西部(それを以って直接的に繋がる)の居住地におけるアメリカ市民の政府に対して適切だと思われる一連の行動は以下の通りです。最初に準備段階として、インディアンの中にいるすべての捕虜は年齢や性別を問わず引き渡されるべきです。我が国の主権をめぐる8年間の戦いの後に、イギリスは予備条約で定められた境界内の土地を合衆国に割譲したことをインディアンに分からせます。戦争が始まった時や戦争中に与えられた忠告や警告にも拘らず、彼ら(インディアン)が戦闘行為を控えず、イギリス軍に加わって、アメリカ人よりも寛大ではない人々と運命をともにしようとするのであれば、その結果、彼らは同じ運命を分かち合うことになり、イギリス人と一緒に五大湖の背後へ退くことになります。しかし、我々は戦争状態よりも平和を好みますし、我々は彼らを騙された人々だと考えますが、彼らは経験から、我々に対して斧を振り上げた過ちを知り、彼らの真の利益と安全は今や我々との友情次第であると納得するはずだと我々は確信しています。[中略]。私の意見では、(もしその目的に即した権限があって、特に重大な妨げになるものがなければ)境界を越えて測量を行なったり居住したりする者を重罪する布告を出すべきだと思います。そして、布告の実行を見守るためにフロンティアの守備兵を指揮する士官達に予め命じておくべきです。このような措置は、インディアンから平和を得るだけではなく、私の意見では、平和を維持する最も確かな手段となるでしょう」

ネイティヴ・アメリカンに対するワシントンの基本方針は、フロンティアの支配権を確立するために、敵対的な部族を撃退する一方で、友好的な部族に対しては土地所有権を認め、公正な手段、つまり条約の締結によって土地を譲るように求めるというものであった。
なぜ法ではなく条約なのかと言えば、ネイティヴ・アメリカンの諸部族はそれぞれ独自の国家に相当すると考えられていたためである。したがって、国内で適用される法ではなく、国家と国家の間で結ばれる条約が適用される。
まずワシントンは、セント・クレアに諸部族と友好的な関係を築くように指令する。セント・クレアは、「戦争をフロンティアの住民の安全、軍の安全、そして国の威信を損なわなければ、あらゆる手段で避ける」ように命じられた[2]。しかし、敵対的なネイティヴ・アメリカンによる入植地の攻撃を平和的な手段で阻止する方策はもはや残されていない。
 当時、ヴァージニアの一部であったケンタッキー地方[3]では民兵とネイティヴ・アメリカンの間で戦いが続いていた。ケンタッキー地方の指導者達が陸軍長官のノックスに語ったところによれば、1783年以来、1,500人の入植者がネイティヴ・アメリカンの襲撃の犠牲になったという。ケンタッキー地方は何度も独立を否決してきたが、もし連邦政府が北西部領地の安定に努めなければ、いつかは独立を主張することになると指導者達は訴えた。
 1790420日、ジョサイア・ハーマー将軍は、120人の連邦軍を引き連れてケンタッキー地方の民兵隊の作戦に参加する。しかし、捗々しい戦果は上がらない。
ワシントンは、大規模な戦力の投入が必要だと判断する。ワシントンに対してセント・クレアは、入植地を襲撃するネイティヴ・アメリカンに懲罰を与えるように進言する。
懲罰を与える役目を担ったのはハーマーである。ハーマーは、8つのネイティヴ・アメリカンの集落から構成されるケキオンガを二方面から攻撃する作戦を立案する。
1790930日、ハーマー率いる320の連邦軍と1,133の民兵隊からなる遠征隊がワシントン砦(現シンシナティ)からケキオンガに向けて出動する。同日、ヴィンセンズ哨所から50人の連邦軍と280人の民兵隊からなる別働隊もケキオンガに向けて進軍を開始する。
 ハーマーの酒癖の悪さを知っていたノックスは、果たしてハーマーがきちんと任務を遂行できるか疑問に思って、ワシントンにも警告している。それでもハーマーの部隊は、17日間の進軍の後、ケキオンガの襲撃に成功し、2万ブッシェル(700キロリットル)のトウモロコシを焼き払う。2万ブッシェルという量はトウモロコシを主食にすれば約3,000人が1年間は食い繋げる量である。しかし、ハーマーが容易に成功を収めたのは罠であった。
 リトル・タートルは卓越した戦術家であった。この壮年の男は名前に似合わず6フィート(183センチメートル)を超える堂々とした偉丈夫である。かつて独立戦争ではバーゴイン将軍の南下作戦に従軍した経験を持つ。伝記作家は、「リトル・タートルはすべての時代において、戦士として政治家として外交家として、そして、雄弁家として最も偉大なインディアンの族長達の1人である」と述べている。
リトル・タートルの作戦は、予め集落を無人にしておき、まったく抵抗することなく遠征軍のなすがままにさせて油断を誘うというものだ。勝ち誇った遠征隊の先遣部隊は、ネイティヴ・アメリカンのものと思われる足跡を発見した。目先の軍功に逸ったジョン・ハーディン大佐は本隊から大きく離れて進軍する。
 リトル・タートルはこの時を待っていた。秘かに攻撃の機会を窺っていたネイティヴ・アメリカンの戦士達は700人がかりで周囲を完全に封鎖する。
森の中に少し開けた場所がある。そこに先遣部隊が差し掛かった時、耳を聾する銃声と鬨の声が湧き起こる。先遣部隊の兵士達は格好の的であった。恐れ慄いた民兵は1発も反撃することなく逃げ散ってしまい、後には少数の連邦軍だけが残された。連邦軍は2人の士官と5人の兵士を除いて殲滅される。
 本隊が駆けつけた時はもう既に遅く、味方の死骸が累々と折り重なっていた。思いがけない奇襲に驚いた遠征隊は完全に士気を失い、ワシントン砦に撤退を余儀なくされる。交戦によってハーマーの遠征軍は183人が戦死した。リトル・タートルの名声は雷鳴のようにフロンティアに瞬く間に広がる。

 フロンティアからの報せはすぐに首都に届かなかったが、報せがないことにワシントンは苛立ちを募らせていた。そして、遠征が失敗に終わるのではないかと度々ノックスに漏らす。
ハーマーの敗報が届いた時、ワシントンは「私は彼が大酒飲みと聞いて以来、ほとんど期待することはありませんでした」とノックスに言った。それにも拘わらず、惨敗を喫したハーマーは軍法会議で「非難の余地がない」として無罪になった。

北西部領地でのネイティヴ・アメリカンとの全面戦争を避けるためには、イロクォイ6部族連合の動静が鍵であった。
1790121日、イロクォイ6部族連合の一角を占めるセネカ族の3人の指導者達がフィラデルフィアを訪れ、1784年のスタンウィックス砦条約で保障された土地がニュー・ヨーク州によって侵害されていると抗議した。
1229日、その抗議に対してワシントンは「公正に売却された土地を除いてスタンウィックス砦条約によってすべての土地が保障される」と回答する。ワシントンの回答に満足した族長達はマイアミ族に対して和平を持ちかけようと申し出る。ワシントンにとってそれは渡りに船であったので族長達を激励した。

「こうした人道的な施策によって、あなた方はこうした間違った人々に大いに便宜を図ることができ、おそらく彼らが地上から掃討されることを防止することができます。合衆国は、こうした人々が平和的に対処するように要求するのみです。しかし、すべての略奪と殺人に対して厳しい処罰を確かに下すことができるのだと彼らに分からせなければなりません」

 和解の努力にも拘わらず、オハイオ地方でネイティヴ・アメリカンによる入植地の襲撃は激しくなる一方であった。次々に入植者が殺害されたという報告が入る。マリエッタの指導者からワシントンに次のような請願が届く。

「もし政府が迅速に我々を保護するために一団の兵士を送らなければ、我々は零落した人々になってしまいます。女性達や子供達が殺害されてしまえば、多くの惨めな出来事が最悪の災厄と化します。しかし、いずれにせよ敵がトウモロコシや秣や牛を劫掠してしまえば、その結果として私は女性達や子供達をどのようにして養えばよいのか分かりません。もしそうならなかったとしても、女性達や子供達が来年もパンを得られるかどうか推測することは容易ではありませんし、大半の者達はパンを買うために必要な物を何も持っていないでしょう。[中略]。新たな入植者がいれば新しい作戦を考えることもできますが、現状では無理です。戦力が増すどころか逆に日々、減っています。たとえ我々が野蛮人の餌食にならなくても、もし政府が我々に適切な保護を与えようとしないのであれば、我々は落胆して入植地を放棄せざるを得ないでしょう。[中略]。したがって私は、アメリカの荒野に住む私自身と友人達のために政府の保護を真摯に必要としています。きっと我々には保護が与えられるだろうと信じています。そして、あなたの権限をできる限り行使して保護が適切な時期に受けられると我々を安心させて下さい」

 このままでは北西部領地が荒廃して完全に失われてしまうだろう。何らかの果断な措置を講じるしかない。連邦議会もフロンティアの防衛のために適当な措置を考案するように大統領に求める。
そこでワシントンは、ハーマーの敗北を踏まえて連邦軍をほぼ2倍に増員し、各州から徴募した志願兵を連邦軍の規律の下に置くように改めた。
179134日、フィラデルフィアで大統領と会談したセント・クレアは、自ら遠征隊を指揮して進軍するように命じられた。副将はこれまでネイティヴ・アメリカンとの交渉に従事してきたリチャード・バトラー将軍である。セント・クレアが受け取った命令書には「敵を追求し、できる限りの手段で最も厳酷に敵を撃滅するように」と記されていた。
ワシントンは、セント・クレアに「あなたは指示を陸軍長官から受けたと思います。私はそうした指示に厳しい目を注いだうえで一言付け加えたいと思います。奇襲に注意せよ。あなたはインディアンの戦いがどのようなものであるか知っているでしょう。私は繰り返します。奇襲に注意せよと」と忠告を与えている。
大統領との面談が終わった後、セント・クレアは陸軍長官のノックスと作戦の詳細について詰める。財務長官としてハミルトンは遠征に必要な物資の手配を行う。陸軍長官から独立戦争に参加した元士官達に再び軍務に就くように求める手紙が発行される。それと同時に必要な兵士を集める準備が整えられた。
328日、セント・クレアは、ワシントン砦に向けて出発する。とにかく指揮官のセント・クレアが遠征隊の出発地であるワシントン砦に入らないことには何も始まらない。他の士官達は各地に散って兵士達を集めて回る。
この時、軍に参加した者達の中には、ウィリアム・ハリソンがいる。後の第9代大統領である。連隊旗手としてワシントン砦に赴任する。父ベンジャミン・ハリソンは独立宣言の署名者であり、ヴァージニア邦知事を務めた有力者であった。父が亡くなったことで困窮していたハリソンを見かねたヴァージニア州知事ヘンリー・リーが軍に入るように勧めたのである。この時、ハリソンは18歳であった。

ようやくセント・クレアが任地であるワシントン砦に入ったのは515日のことである。砦の南西にはシンシナティがある。現在ではオハイオ州でも有数の都市であるシンシナティだが、この当時は40軒の丸太小屋と4軒の居酒屋を持つ人口250人程の小さな村に過ぎなかった。入植民は「恐れ知らずのインディアンは夜になるとワシントン砦の周りにある道や菜園を忍び歩いた」と記録している。
セント・クレアの最初の戦略目標は、ケキオンガに砦を建設することだ。ケキオンガはリトル・タートルによれば、「栄光の門を通じて我が族長達の善言が北から南へ、そして、東から西へ伝わる」地である。北西部領地を支配下に置く拠点としてケキオンガは最適である。
ケキオンガに築いた砦に少なくとも1,200人の守備兵を駐屯させる。砦を築いてもそれで終わりではない。それを維持するために補給線を整備しなければならない。これまで建設された砦は水路を補給線として使うことができたが、ケキオンガは内陸に入り込んだ敵地であり直接、通じる水路はない。したがって陸路を整備するしかない。
ワシントン砦からケキオンガまでハーマーが遠征した時に使った道は、170マイル(270キロメートル)に及ぶ。新しい道を整備すれば、115マイル(190キロメートル)に距離を短縮することができるとセント・クレアは考えた。日数にすれば23日の旅程の短縮となり、それだけ補給が容易になる。フロンティアの作戦では何よりも補給線の確保が最優先事項である。ただセント・クレアの見積りは間違いで本当の距離は141マイル(230キロメートル)あった。当時の地図が不完全であったためである。

ワシントン砦の周りに築かれた工房では忙しく男達が働いている。壊れたマスケット銃が修理され、荷馬車が組み立てられ、馬具が仕立てられる。しかし、薬莢を作る者達は紙が届くのを待たなければならなかったし、馬鈴を鋳る者は錫が届くのを待たなければならなかった。その一方、ピット砦で集められた物資の整理にあたっていた副将のバトラーは、湿った弾薬や擦り切れて着ることができない服や靴など粗悪品の山を前にして頭を抱えていた。
遠征開始は71日に設定されていたが、とても間に合いそうにない。粗悪品の物資を何とか使えるようにしなければならない。それに到着する筈の部隊や物資がオハイオ川の渇水で遅れる。渇水で水位が下がれば通行が難しくなるからだ。
ピット砦で整理された物資と残りの部隊がワシントン砦に到着したのは9月に入ってからである。セント・クレアは順次、部隊を送り出して進路を切り開き、18マイル(29キロメートル)先に中継地点としてハミルトン砦を築くように命じる。しかし、これまで見たことがないような豪雨が一帯を襲ったために、砦の建設は難渋を極める。テントは避難所にはならなかった。一晩中、降り続いた雨の重みに負けてテントの生地が裂けてしまったからである。
このようにワシントン砦からケキオンガに向けた進軍は幸先が良いものではなかった。ハミルトン砦が何とか完成した後、セント・クレアはバトラーに進軍を任せると自分はケンタッキーの民兵隊を加えるために後方に戻る。
102日、ウィリアム・オールダム中佐率いるケンタッキーの民兵隊がワシントン砦に到着する。残念なことに、セント・クレアが期待していたよりも兵士の数は少なく350人であった。

ネイティヴ・アメリカンは、活発になるアメリカ軍の動きを黙ってみていたわけではない。テカムセという名前の23歳の青年はショーニー族の6人の仲間達とともに牛を追うアメリカ人を襲撃して5人を殺害した。このテカムセは後にネイティヴ・アメリカンの抵抗の中心人物となり、将軍となったウィリアム・ハリソンと対峙することになる。104日、テカムセは小さな襲撃を終えると集結しつつある戦士達のもとへ馳せ参じるために北に向けて去った。

セント・クレアの頭を占めていたのは、ネイティヴ・アメリカンの動きよりもまず糧食の確保だ。連邦軍に民兵隊、そして、非戦闘員も合わせると1日約4,000人分の糧食が必要となる。
それがどれくらいの量かと言えば、11日あたりの糧食は概ね半ポンド(230グラム)の牛肉と半ポンド(230グラム)のパンである。カロリー・ベースで考えれば、辛うじて成人男子の摂取量に足りる程度である。これが4,000人分となると、牛肉とパンはそれぞれ2,000ポンド(910キログラム)も必要となる。
そこでセント・クレアは300頭の牛と約22日分のパンを準備するように命じた。もちろん進軍に合わせて後送させることもできるが、悪路のためにそれは容易ではない。悪路では荷馬車を牽引するのに多くの牛馬、そして、人員を必要とするうえに、車輪が壊れることもよくある。したがって荷馬車による輸送はあまり期待できない。
代替手段は駄馬である。駄馬の使用はかつてワシントンもオハイオ地方の軍事作戦で有効性を認めている。1頭あたり200ポンド(91キログラム)と積載量は少ないが1日に25マイル(40キロメートル)進むことができた。準備された駄馬は800頭である。そうなると4,000人の40日分の糧食を運ぶことができる。しかし、そうした見積もりは甘かった。

太鼓の合図で進軍は行われる。朝、「雑役」を知らせる太鼓が鳴る。この場合、テントを畳んで進軍の準備をせよということである。そして、4列縦隊になって歩く。前方に何かあれば「集合」の太鼓が鳴り、異常がなければ「進軍」の太鼓が鳴る。
兵士達の前には数百人の男達がいて斧を使って道を先に切り開いている。道が切り開かれるとワシントン砦からの距離を示す道標が打ち込まれる。
男達は兵士ではない。この仕事のために雇われた市民である。他にも駄馬を引く人夫や牛の群れを追う者、洗濯や炊事を担う女達など非戦闘員が多数同行した。子供も多く含まれていた。

107日、セント・クレアは自ら前線で指揮を執るためにワシントン砦を発つ。その様子を前回の遠征で手痛い敗北を喫したハーマーは横目で見ていた。今度もまたアメリカ軍は敗退するのではないだろうかという不安がハーマーの脳裏を掠めたが何も言うことはなかった。
その夜、セント・クレアはハミルトン砦まで馬を進めた。そこからさらにセント・クレアが前線に向かうと驚いたことに途中で道幅が3分の1にまで狭まっている。もちろんそのような命令をした覚えはない。
前線で指揮を執るバトラーに追い着いたセント・クレアは、道幅が狭ければ、もし襲撃を受けた時に素早く展開できないと注意を促す。
それに対してバトラーは、斧が不足している中で命令通りに道を切り開けば進軍が遅れてしまうと抗弁する。進軍を速めるためには最低限の道幅で我慢するしかない。
バトラーの説得に納得した様子のセント・クレアであったが、今度は軍営の形に注文を付ける。
本来であれば軍営は長方形にするべきである。そうすればすぐに戦闘陣形に移りやすいからだ。
しかし、バトラーが築いた軍営は正方形である。もちろんそれには訳がある。軍営を正方形にすれば中央に草地が確保できる。そこに牛馬を放しておけば餌を食べさせることができるうえに、翌朝、出発する時に集めるのも楽である。
セント・クレアの苛立ちはこれだけで収まらなかった。兵站将校によれば、小麦粉の補給がまだ届いていないという。セント・クレアはあと何日で小麦粉がなくなるか計算する。2週間もすれば手元の小麦粉は尽きてしまうだろう。そこで急遽、ワシントン砦に小麦粉を届けるように伝える命令が送られる。糧食に不安を抱えながらアメリカ軍は1日に6マイル(10キロメートル)の速度で征旅を続ける。
1013日、初霜が降りる。寒さは進軍をさらに遅らせる。大砲や物資を運ぶ牛馬の餌を探すのが困難になるからだ。その分、後方から秣を運ばなければならない。
先方に泉が湧くのを発見したセント・クレアはハミルトン砦に続いて第2の砦を築くことを決定する。名前はジェファソン砦に決まった。バトラーはいつものように正方形の軍営を築くように命令したが、セント・クレアはそれを撤回して長方形に軍営を築くように指示する。
翌朝、兵士達は未明に叩き起こされて整列するように命じられる。冷たい泥の上に継ぎ接ぎだらけのテントで覆いをしただけで眠りに就いた兵士達の身体は強張っている。そして、今度は日が昇る前から篠つく雨の中、破れた靴に薄い衣服で指示を立ったまま受けなければならない。
200人が整地を行って砦の建設に従事する。700人は牛馬の餌を調達するために探索を行う。とにかく牛馬が動くことができなければ前に進めない。ジェファソン砦の建設が続く中、待てど暮らせど小麦粉が届く気配は一向にない。仕方なくセント・クレアは糧食の配給を半分に減らす。苛酷な労働を強いられている兵士達にとってそれは耐えられるものではない。脱走兵が出始める。
1018日、雨は雹に変わって乏しい食事で疲弊した兵士達の身体を容赦なく打ち据える。駄馬の隊列がようやく到着したが、届いた小麦粉の量は僅かに2日間分にしかならない。糧食の配給を半減させる措置が続行される。
翌日はコーンウォリスがヨークタウンで降伏して10年になる記念日であった。このアメリカ軍にとって栄光の記念日を祝う元気を持つ者は誰もいない。兵士達は飢えている。セント・クレアは痛風に苦しみ、副将のバトラーも体調を崩している。それでも前進を続けるというセント・クレアの意思は変わらない。
とにかく前進するには糧食を確保しなければならない。セント・クレアはオールダムにケンタッキーの民兵隊を率いて後方に戻り、駄馬の隊列が早く到着できるように手助けしに行くように命じる。
オールダムは、もし後方に戻れば飢えと寒さで苦しんでいる兵士達はそのまま家に帰ってしまうだろうと反対する。
そこでセント・クレアはペンシルヴェニアの民兵隊に代わって任務を遂行するように命じる。ケンタッキーよりもペンシルヴェニアのほうが遠いので、兵士達は家に帰りたいと思っても容易に帰ることができないからである。
 雹が降り続く中、ジェファソン砦の建設はまだ続いている。朝、水が入った容器を見ると薄い氷が張っていた。季節は確実に晩秋から初冬へ移り変わろうとしている。既に敵の勢力圏内に入っている筈なのに、ネイティヴ・アメリカンの戦士達の姿を見かけることはない。却ってそれは不気味であった。セント・クレアは、「奴らの国の内部にこれだけ長くいるのにも拘らず、奴らが我々を見つけようともしないことは少し異常に思えます」とノックスに報告している。
 ようやく到着した駄馬の隊列は、期待したよりもはるかに頭数が少なかった。寒さで十分な秣を確保できないせいで多くの駄馬が死んでしまったという。生き残った駄馬もほとんどが弱ってしまって動けない。寒さがこれ程、早く訪れるとはセント・クレアも予想していなかった。駄馬の数が減ってしまえば補給はますます困難になる。
 1023日、ジェファソン砦が完成する。新しく完成した砦でまず行われたことは、何とも陰気な儀式であった。
兵士達の見守る中、脱走を試みた2人の兵士が絞首刑に架けられる。脱走をすればこのような厳罰が待っているという戒めの意味が込められている。
このままでは遠征が失敗するのではないかと考えたバトラーは、壮健な兵士を1,000人選抜してケキオンガに先行する案をセント・クレアに勧める。セント・クレアは、バトラーの提案を斥けたが、代案があるわけではない。
ここから南に引き返すか、それとも物資が後方から届くことを期待して前進を続けるか。選択肢がセント・クレアの前に示された。セント・クレアは前進を選ぶ。
 久し振りに訪れた暖かく晴れた日に進軍の命令が下る。病気で従軍できない120人の兵士と2門の大砲がジェファソン砦に残された。セント・クレア自身も痛風が悪化して馬に満足に乗ることもできなかったが、司令官が後方で休んでいるわけにはいかない。そこで2頭の間に吊るした担架が用意された。担架に揺られながら指揮を執るセント・クレアの後に続いた兵士の数は総勢2,000人である。他に非戦闘員が200人ばかり加わっている。
少し先に進んだ所でセント・クレアは軍に停止を命じる。あまり先に進んでしまうと後方からの補給が届くのに時間がかかるからだ。駄馬の隊列を待つ間、作戦会議が開かれる。
その席上、セント・クレアは士官達に「野蛮人がもし襲って来てもすぐに撃退できるだろうし、一旦、撃退に成功スレうば奴らには軍規などないから再集結して抵抗することはあり得ない」と訓示する。したがって、士官達は兵士達に「勇敢な兵士らしく踏み止まって戦えば、確実な勝利がもたらされる」と納得させるべきである。
このように訓示したとはいえ、セント・クレアは襲撃を受けるとは思っていない。なぜならネイティヴ・アメリカンが攻撃を仕掛けるのはせいぜい小規模な部隊であるというのがセント・クレアの認識であったからだ。確かに前回の遠征でハーマーの部隊は敗退しているが、襲撃を受けたのは先遣部隊であって本隊ではない。したがって大砲を伴った大規模な部隊は奇襲を受ける恐れがない。
 アメリカ軍は飢えに耐えながら駄馬の隊列が到着するのを待ったが、はるか先を見通しても渺々たる海原のような荒野が広がっているだけで何の姿も見えない。再び降り出した雨はいつしか雪に変わっていた。
1027日、遂に最後の小麦粉の袋が開けられる。この日、族長の1人であるピアミンゴに率いられて20人のチカソー族が到着する。チカソー族の戦士達は「記憶さえ定かではない時代からオハイオ地方全域の部族と戦争を続けてきた」者達であり、アメリカ軍の遠征を好機と考えてはるか西から駆け付けたのである。
20人という数は少ないように思えるかもしれない。しかし、戦力ではなく斥候として協力するためであれば十分な数だ。フロンティアの地形に慣れた戦士達以上に優れた斥候はいない。
 さらに朗報が届く。小麦を積んだ駄馬の隊列がすぐそこまで来ているという。報せが届いてすぐに雪が降りしきる中、74頭の駄馬が到着する。小麦粉の量は45日分の糧食に相当した。さらに嬉しいことに防寒用の外套も積み込まれている。
それでもワシントン砦にどれくらいの物資がまだ残されているかも分からないうえに、寒さが厳しさを増して補給がより困難になる恐れがある。兵士達の心の中では不安が募る一方であったが、セント・クレアは前進を断念しようとは思わない。
大半の士官達は、完全に冬になってしまう前に作戦を中断してはどうかと進言する。ここから引き返してジェファソン砦とハミルトン砦の間に新たしい砦を作って翌春の遠征再開に備えるという案である。
士官達の嘆願を聞いてもセント・クレアの決意は揺るがない。
ケキオンガまで残りあと40マイル(64キロメートル)である。ネイティヴ・アメリカンが抵抗する様子がないのでケキオンガまで進軍して砦を築くだけで作戦は終了する。
士官達の不安を払拭するためにセント・クレアは、ピアミンゴに戦士達を引き連れて前方に敵がいないか偵察するように求める。
次第に厳しさを増す寒さで馬が弱り切っていた。このまま物資を背負わせていれば途中で倒れてしまう。そこでセント・クレアは、どうしても必要な物資の他はすべて廃棄するように命じる。兵士達は装備に加えてそれぞれ3日分の小麦袋を背負って歩く。
 その夜、兵士達は疲れているにも拘らず眠れない夜を過ごした。これまで体験したことがないような暴風雨が吹き荒れ、木々を薙ぎ倒し、細流を氾濫させた。猛り狂う嵐の中で兵士達は、十分な数のテントもなく身を寄せ合って震えているしかなかった。
夜が明けてセント・クレアは、60人の民兵が脱走したという報告をオールダムから受ける。脱走兵が途中で駄馬の隊列を襲って物資を奪うのではないかとセント・クレアは恐れた。そこで駄馬の隊列を守るために最も精強な300人の一隊をジョン・ハムトラミック少佐に預けて後方に戻るように命じる。
 その一方でセント・クレアを喜ばせる報せが届く。212頭の駄馬が12日分の小麦粉をようやく前線まで運んで来た。さらに100頭の牛の群れも到着する。これで最後の行程を何とか消化することができる。しかし、痛風による病苦はセント・クレアにとって耐え難いものになっている。そこで1日の休みを取る。
1人の士官は余暇を利用して妻に次のような手紙を書いている。

「我々はインディアンの国を這うように進んできました。我々はインディアンの街に向けて進軍を速めることになると私は思っています。そこで我々はきっと1人のインディアンも見かけることはないでしょう」

 112日、雪雲に覆われて暗い空の下、進軍が再開される。先を行く斥候が戻って来て、西に向けて流れる小川を発見したと報告する。それはミシシネワ川であった。セント・クレアはミシシネワ川がきっとエリー湖に流れ込む水系に違いないと考えた。ケキオンガは近い。軍はミシシネワ川の畔まで進んで軍営を築く。
 翌日、ミシシネワ川を越えて3マイル(4.8キロメートル)先まで軍列が分け入った時、ネイティヴ・アメリカンが使う道が発見される。どうやらケキオンガに通じているようである。斥候の報告によれば、さらに4マイル(6.4キロメートル)進めば西に向けて流れるさらに大きな川とぶつかるという。
それを聞いたセント・クレアはその大きな川がセント・マリー川ではないかと判断する。ケキオンガは、セント・マリー川を15マイル(24キロメートル)下流にある。その一方で斥候は気掛かりな情報ももたらしていた。15人程のネイティヴ・アメリカンの姿を見かけたという。
篝火を囲みながらセント・クレアは士官達と今後の方針を協議する。
進路は間違っていない。このまま進めばケキオンガに到達できそうだが、散見されるネイティヴ・アメリカの姿をどのように解釈すべきか。
1人の士官は、きっとそれはネイティヴ・アメリカンの斥候であり、近くに大規模な部隊がいるかもしれないと警告する。
しかし、セント・クレアは「インディアンが我軍を攻撃しようと見張っているようには思えない」と述べた。他の士官達もセント・クレアの意見に同意する。
 その日の軍営は、川を見下ろす400ヤード(360メートル)程の幅を持つ高台に築かれた。周囲は鬱蒼とした森林で見通すことができない。今、目の前を流れている川をセント・クレアはセント・マリー川だと信じて疑っていなかったが、実は西にあるウォバシュ川であった。
目的地のケキオンガまでまだ44マイル(71キロメートル)もの行程が残っている。兵士達が到着した時には日が暮れていた。各所で小さな火が灯り始める。パンを焼いて牛肉を炙って夕食である。牛馬も解き放たれて草を食んでいる。細長い高台に沿って兵士達が設営したテントが並び、中央に大砲が据えられている。
 アレグザンダー・トルーマン大尉の竜騎兵部隊に所属するウィリアム・ワイズマン曹長はその日の午後、近くの草原に偵察に出た。そして、ネイティヴ・アメリカンが通過した足跡を発見する。
軍営に帰ると上官のトルーマンが竜騎兵達に馬を解き放って草を食ませるように命じていた。慌ててワイズマンはそれを止める。もし翌朝、ネイティヴ・アメリカンに襲撃されれば、すぐに馬が必要になるからだとワイズマンは理由を説明する。トルーマンは命令を変更して竜騎兵達に草を集めて来るように命じた。そして、馬達は主人達のテントの周りにある木々に繋がれてその夜を過ごした。

 ワイズマンが警告したように、ネイティヴ・アメリカンの戦士達はすぐ傍まで迫っていた。少なくとも9部族から1,400人の戦士達が集っていた。
ネイティヴ・アメリカンには、アメリカ軍のような厳格な指揮系統はない。何人かの指導者が協議して作戦を決める[4]。協議を主導したのは、先に巧妙な作戦でハーマーを敗退させたリトル・タートルであった。
リトル・タートルが発案した戦術はU字型に展開してアメリカ軍を包囲殲滅するというものである。中央に布陣した戦士達が最初にケンタッキーの民兵隊の野営地を襲撃する。野営地は本隊が籠る軍営からウォバッシュ川を挟んで反対側の森の中にある。まずケンタッキーの民兵隊を始末しないことには軍営に近付けない。
右翼と左翼はそのまま軍営を迂回してアメリカ軍の周囲を取り囲む。包囲網を完成させてから四方八方から銃撃を浴びせる。
こうした戦術はアメリカ軍とネイティヴ・アメリカンの戦闘に関する考え方が根本的に異なっていることから生じている。独立戦争時にアメリカ軍はシュトイベンの軍事教練の導入で西欧式の発想を取り入れていた。
火力をいかに最大限発揮するか。それが西欧式の発想である。隊列も陣形も、そして、戦闘自体もそうした発想を基盤として展開される。火力が大きいほうが戦闘に勝利するという考え方である。もちろんこれも1つの真理である。ただそうした真理がどのような戦場でも通用するわけではない。
 それではネイティヴ・アメリカンはどうか。犠牲者をいかに少なくするか。それがネイティヴ・アメリカンの発想である。戦闘がうまくいったかどうかの基準は、できる限り味方の損害を抑えながらできる限り敵に大きな損害を与えることである。当然ながらこれも間違いではない。
こうした発想だと自軍の火力の最大化よりも敵軍にいかに火力を発揮させないかが重要となる。ネイティヴ・アメリカンの指導者は、少ない犠牲で容易に勝利が得られると判断した時のみ攻撃を仕掛ける。まず敵軍に秘かに忍び寄って包囲する。そして、一斉に襲い掛かる。決して密集せずに散開して戦うのが原則である。密集陣形は火力を集中することができるという利点を持つが、逆に格好の的になりやすいという弱点を持つ。散開陣形は火力を集中することが難しいが、的にはなり難い。もし判断が間違いだと分かって犠牲が増え始めれば、すぐに撤退して次の好機を待つ。
セント・クレアの部隊を襲撃することはネイティヴ・アメリカンの指導者にとって大きな挑戦であった。これまでセント・クレアの部隊よりも大規模な部隊、しかも大砲で守られた軍営を攻撃したことがなかったからである。しかも兵力はほぼ互角である。
 兵力は互角でもネイティヴ・アメリカンには強みがある。戦士達の質である。
ウィリアム・ハリソンが後に「世界で最も優秀な軽歩兵」と称したように、ネイティヴ・アメリカンの戦士達はフロンティアでの戦いに熟達していた。戦士達は苛酷な気候、飢えや乾き、そして、どのような状況に置かれても自分自身の判断で行動できるように訓練を受けている。ネイティヴ・アメリカンの少年達は12歳になると戦闘技術を叩き込まれた。そして、14歳にもなると戦士として軍事作戦に参加するようになる。戦いが生活の中に組み込まれていたと言えるだろう。

 指導者達は、アメリカ軍の軍営を襲撃するという決意を固める。そして、その決意は小集団の長を通じてすべての戦士達に通達される。一人ひとりが作戦の全体像を把握するとともに自分がどこに行って何をすべきかを頭に叩き込む。
最後の仕上げは指導者による演説である。ネイティヴ・アメリカンの戦士達は命令ではなく説得によって動くので演説は戦いに欠かせない。指導者の1人であるブルー・ジャケットは、ショーニー族の戦士達に呼び掛ける。

「天上にいる偉大なる父の助けがなければ我々は何もできない。今、私は願う。偉大なる父が今夜、我々とともにあることを。そして、明日、偉大なる父は我々を照らすために太陽を輝かせるだろう。我々はそれを吉兆として受け止める。そうすればきっと勝利できる」

 着々とネイティヴ・アメリカンが明日に備えて動き出していた一方で、アメリカ軍の軍営では「帰営」の太鼓が鳴っている。テントに入って身を休める時間である。兵士達が何とか体を温めようとテントの中で身を寄せ合っている一方で、セント・クレアは士官達と話し合いをしていた。
オールダムは、前哨として本隊から離れた場所に野営しているケンタッキーの民兵隊が襲撃を受けるのではないかという懸念を口にする。そして、全軍はすぐに武器を使えるようにして眠りに就くべきだと忠告する。
セント・クレアは、それよりもケキオンガに進軍することで気が逸っている。そこで砲兵隊の士官と工兵隊の士官と牛馬や物資、そして、非戦闘員を守るための防御施設を作るように命じる。防御施設さえできれば守備隊を残して、他の兵士達は身軽になってケキオンガに先行できるからだ。
 テントの中で兵士達はなかなか安眠できなかった。冷たい地面の上に薄い毛布1枚で横たわなければならなかったうえに、歩哨が放つ銃声は絶えることがない。そうした銃声は言い知れぬ不安を兵士達に与える。警戒に当たっていた竜騎兵部隊のワイズマンは、「その音は我々の近くまで間違いなくインディアンが迫っている」ことを示していると確信していた。

 午後10時、ジェイコブ・スラウ大尉が付近の偵察を志願する。23人の兵士達が随行した。上弦の月が空に昇っていたが森の中まで光はほとんど届かず、偵察部隊は暗闇の中を手探りで進む。歩哨が配置されている場所を通り過ぎて1マイル(1.6キロメートル)進んだところで偵察部隊は2つに分かれる。
兵士達は地面に横になって待機するように命じられる。すると暫くして67人の人影が見えた。スラウが発砲を命じると、人影は森の中に姿を消した。
 今度は数えきれない程の人影が姿を現す。おそらく先程、逃げた者達が仲間を引き連れて帰って来たのだろう。敵の数が分からないのに攻撃を仕掛けるのは危険だとスラウは考えて発砲を禁じて静かに息を潜めるように兵士達に命じる。そして、秘かに1列になって元来た道を戻り始める。道の両側や背後の森の中には人の気配がしたが、姿はまったく見えない。
 真夜中、スラウは兵士達を1人も失うこともなく無事に帰還してオールダムに「翌朝、軍営はきっと攻撃を受けるかもしれないというあなたの意見に同意します」と報告した。報告はバトラーにも送られたが、セント・クレアを起こしてそれを知らせる者は誰もいなかった。スラウは自分のテントに戻って眠りに落ちた。



ウォバシュ川の戦い


 114日早朝、ネイティヴ・アメリカンの戦士達は木々の間をすり抜けて各々の配置に向かう。遠くから隠れてアメリカ軍の軍営を窺う戦士達の目には、兵士達が火を熾しているのが見える。
非戦闘員も兵士達の周りに集まって一緒に朝食の準備をしている。眠れない夜を過ごしたワイズマンは、朝食を準備する音に混じって遠くから熊や狼の吠える声や七面鳥の啼く声が響いて来るのに気付く。どうやらそれはネイティヴ・アメリカンがそれぞれの配置を知らせる合図のようだ。そこでワイズマンは竜騎兵達を起こしてすぐに騎乗して警戒に当たるように指示する。そして、上官のトルーマンのテントに足を運んでさらなる命令を求める。
 午前615分、「朝礼」の太鼓が打ち鳴らされる。朝日を反射して輝く雪面に兵士達は整列して士官の点検を受ける。点検が終わった後、兵士達はそのまま武器を持っているように命じられ、赤々と燃える火を囲んで朝食を摂る。
 
 戦いはそれから30分程経って何の前触れもなく始まる。
ケンタッキーの民兵隊に所属する兵卒のウィリアム・ケナンは、他の20人程の仲間達とともに野営地から少し離れた所で警戒に当たっている。100ヤード(90メートル)程先の森の中から30人程のネイティヴ・アメリカンが向かって来るのが見える。
きっといつものように少数の偵察部隊が接近して来ただけだ。そう思ってケナンは前進して藪に身を潜めると早速、手近な敵に狙いを定めて発砲する。仲間が続けて発砲してくれると信じて次弾を装填していたケナンであったが、一向にその気配はない。振り返ると仲間達は背を向けて逃げ出していた。
置き去りにされたケナンを見た上官は「走れ、ケナン。そうでないとおまえは死んでしまうぞ」と怒鳴る。ケナンは慌てて藪から飛び出すと走り始める。
自分の足に生命がかかっている。そのまま真っ直ぐ仲間達のもとへ行こうとしたケナンであったが、既に敵が先回りしている。そこで400ヤード(360メートル)以上も迂回しなければならなかった。幸いにも辺境で育ったケナンの俊足に追い着くことができる者はそう多くはない。
戦士達は先を行くケナンを目掛けてトマホークを投げ付ける。咄嗟にケナンは頭を低くして難を逃れる。トマホークはケナンの頭を掠めただけで明後日の方向に飛んで行く。
まるで足に翼を生やしたような素晴らしい速度で木々の間を駆け抜けるケナンの行く手を巨大な倒木が塞ぐ。迂回できる道はない。
追手が勝利を確信して雄叫びを上げながら背後に迫る。
迷っている時間はない。障害物を超えることができるか、それとも生命を落とすかだ。
跳躍したケナンの身体が虚空に浮き、次の瞬間、倒木を超えて安全な向こう側に着地する。
驚いた追手は敢えて同じことを試みようとする者はいない。
こうして何とか虎口を脱したケナンは軍営に辿り着くことができた。

 ケナンは無事に逃げおおせたが、ケンタッキーの民兵隊の他の兵士達はどうなったのだろうか。銃弾をほとんど撃ち尽くした後、彼らも野営地から軍営を目指して後退している。銃弾を再装填しようと立ち止まった者は銃撃を受けて次々に倒れた。戦士達があげる恐ろしい鬨の声に戦意を奪われて呆然としている者も生命を失った。そうした様子は次のように記録されている。

[ケンタッキーの民兵隊は]恐慌に陥ってしまったので、彼らは野営地の端から端へまるで牛の群れのように走り回り、まったく戦おうとも身を守ろうともしなかった。彼らは檻の中の子牛のように虐殺された」
 
 ウォバシュ川の畔まで逃げて来た民兵隊であったが、既に敵の手が回っている。本隊の助けを求めるためには対岸にある軍営に行かなければならない。兵士達は散り散りになってネイティヴ・アメリカンの戦士達のトマホークに追われながら軍営を目指す。
指揮官であるオールダムはセント・クレアに敵情を報告するために軍営に赴いていて民兵隊から離れていた。戦いが起きたことを知ったオールダムはすぐに引き返して民兵隊を何とか立て直そうと試みる。
 軍営では「戦闘準備」の太鼓が激しく打ち鳴らされている。そこへ生き残った民兵達が軍営に逃げ込んで来る。テントの間を抜けてそのまま向こうの森の中に姿を消す者もいたが、再び抵抗の意思を新たにした者も少数ながらいる。
士官達は副官に馬を引かせ兵士達を集合させる。集合に応じようと慌ただしく兵士達が走り回る中に抵抗する手段を持たない女や子供の姿がある。悲鳴を上げながら右往左往している女がいたかと思えば、石像のように無言で立ち尽くしている子供がいる。地面に跪いて天上の神に救いを求める者達もいれば、抱き合って泣いている者達もいる。中には気絶してまるで死体のように横たわっている女もいた。
 混乱の中、士官達は何とかして戦闘陣形を整えようとあらん限りの声をあげて兵士達を叱咤する。遂にネイティヴ・アメリカンはケンタッキーの民兵隊を追って、大砲が並べられた一角まで雪崩れ込んで来る。兵士達はライフル銃を手に取って散開する。そして、物陰を盾にして抵抗を試みる。
女や子供は荷馬車が停められている場所に逃げ込む。そこに兵士達が割り込む。しかし、女達は自分達の安全地帯が奪われることを恐れて兵士達を金切り声で追い払う。
 大砲の周りで中央のネイティヴ・アメリカンが頭皮剥ぎに夢中になっている間に、右翼と左翼は打ち合わせ通りに軍営の後背に回って包囲の環を完成させつつあった。午前7時過ぎまでにネイティヴ・アメリカンの指導者達は、1,400人の戦士達を予め決めておいた場所に配置してアメリカ軍の軍営を包囲するという作戦を成功させた。アメリカ軍は4分の1の戦力を失い、竜騎兵の半分は馬を持っていなかった。
 迫り来る包囲の環の中でセント・クレアは痛風で軍服を着ることさえままならない。そこで何とか寝間着に古びた黒い外套を羽織ると呻きながらテントを出る。痛みに耐えながら馬に乗ろうとした時、銃弾に貫かれて馬が倒れた。この時、戦場の興奮がセント・クレアの心の中に沸き起こった。そして、セント・クレアは痛みも忘れて歩き出す。自分の軍隊の指揮を執るために。
 副将のバトラーは既に陣頭指揮を執っている。何とか戦闘陣形を整えたアメリカ軍に四方八方から銃弾が驟雨のように降り掛かる。しかし、兵士達は森の中をほとんど見通すことができない。時々、閃光を放つ銃火と立ち上る硝煙でどうやら敵がいることが窺い知れるだけだ。銃声の他に響く音はなく、まるで森の中には誰もいないかのようだ。
アメリカ軍は銃剣突撃で大砲の周りにいたネイティヴ・アメリカンを何とか追い払う。その一方で砲兵は、轟音とともに散弾を森の中に撃ち込む。しかし、ほとんど敵の姿は見えず、はたしてどの程度の打撃を与えることができているのか分からない。
砲声は30マイル(48キロメートル)先でも聞こえた。それを聞いていたのは誰か。4日前に脱走兵から駄馬の隊列を守るために後方に戻ったジョン・ハムトラミック少佐の一隊である。すぐに戦闘が起きたことを悟ってハムトラミックは本隊に合流すべく道を急ぐ。
大砲がいかに恐ろしいかネイティヴ・アメリカンはイギリス軍から派遣された顧問から詳しく教えられていた。そこで砲兵を狙い撃ちする。しかし、立ち込める硝煙がまるで霧のようにアメリカ軍を覆う。それでも戦士達は銃撃を執拗に続ける。砲兵は次々に銃弾に貫かれ崩れ落ちる。力強く響いていた砲声が完全に止んだのを悟って兵士達は青ざめた。それはネイティヴ・アメリカンを圧倒する火力を失ったことを意味するからだ。
硝煙が薄れ始め、ネイティヴ・アメリカンの戦士達はトマホークを翳して白兵戦を仕掛ける。兵士達は手がかじかんで動かないので口で銃弾を装填して果敢に抵抗する。強い抵抗に遭って戦士達はすぐに後退して森の中に姿を隠す。
敵の動きを観察していたセント・クレアはウィリアム・ダーク中佐を呼んで銃剣で反撃を行うように命じる。森の中にいる敵にいくら銃撃を浴びせてもほとんど効果がないからだ。
 ダークは兵士達を掻き集めて「銃剣を装着せよ」と命じる。訓練通り兵士達は規則正し速さで整然と銃剣を構えてネイティヴ・アメリカンの右腹背に迫る。そして、「銃剣突撃せよ」という号令の下、吶喊する。
それを迎えた戦士達は後退して一定の距離を取ったまま様子を窺っている。さらにトルーマン率いる竜騎兵部隊が剣を抜いて突撃すると戦士達はさらに後退して森の中に姿を隠して周りから雨霰と銃弾を浴びせる。
ワイズマンが戦闘の混乱から立ち直って周りを確認した時、傍にいたのは隊長のトルーマンだけであった。トルーマンが敵情を視察しようと馬を進めた時、銃弾が腕と臀部を貫く。ワイズマンはトルーマンを手助けして何とかその場から逃れようとするが、さらに銃弾が飛んで来て左手の2本の指を吹き飛ばす。何とか2人で軍営に戻ると主を失った馬達が戻っていた。生き残った竜騎兵は僅かに13騎であった。
ダークの部隊は、銃剣を構えたままさらに400ヤード(360メートル)程進んだが、既に敵の気配はない。ダークの部隊が突出したことでアメリカ軍の防衛線に綻びが生じる。
ショーニー族を率いるブラック・フィッシュはその隙を見逃さなかった。ブラック・フィッシュは、犠牲者が増え始めて戦場を離れようとしている戦士達を雷鳴のような怒号で叱咤して誰が撤退を指示したのかと詰問する。そして、「私と同じ心を持つ者だけが続くとよい」と言い捨ててアメリカ軍に向き直る。ショーニー族の戦士達は奮い立ってブラック・フィッシュの後に続く。それにダークの部隊を避けて後退した戦士達が加わる。
 勢いを増した戦士達は手薄になった防衛線を突破して軍営の中央に侵入する。そこには荷馬車や物資がそのまま置かれている。そして、荷馬車の陰には女や子供がいて負傷者の看病をしていた。戦士達はトマホークを持って容赦なく襲い掛かり抵抗する術を持たない人々を虐殺して頭皮を剥ぎ取る。中には赤ん坊を小脇に抱えてフライパンで応戦する女もいたが、そうした勇敢な者はごく少数であった。負傷者は叩き起こされて火の中に投げ込まれた。苦悶の呻き声と人の肉が焼ける嫌な匂いが充満する。
 ダークは後方が襲われているのに気付いてすぐに取って返す。背後からネイティヴ・アメリカンが追い縋って攻撃を仕掛ける。剣を振るって戦士達のトマホークと渡り合っていたダークが我に返ると、周りに残っている兵士は僅かに30人だけであった。他の兵士達は死傷して地面に横たわっている。
 セント・クレアも防衛線の綻びを修復するためにすぐに一隊を差し向けた。兵士達は敵愾心に燃えている。ネイティヴ・アメリカンが今しがた虐殺した非戦闘員の中には彼らの妻や子供も含まれていたからだ。我が身を省みない猛攻を受けてネイティヴ・アメリカンは撤退する。しかし、アメリカ軍にも多くの犠牲が出る。
 それから何とかセント・クレアは全軍の態勢を立て直す。陣頭指揮を執っていたバトラーは負傷して後退していたが、腕を吊って再び前線に復帰する。ダークは足に銃弾を受けていたが猶も戦いを止めようとはしない。士官達は自ら大砲を操作して砲撃を再開する。
しかし、あまりに兵士達の犠牲は大きい。負傷してもはや戦えない兵士達の数は数百人にのぼる。軍営の南端を守っていた部隊は実に半数以上の戦力を失っている。そのうえ竜騎兵部隊もほぼ壊滅している。
 ネイティヴ・アメリカンの戦士達は布陣を整えると攻撃を再開する。標的は再び火を噴き出した大砲である。戦士達は木に隠れながら発砲し、場所を変えて銃弾を装填してまた発砲する。これまでほとんど戦いに参加していなかった部族が新たに攻撃に加わる。アメリカ軍がじりじりと後退する中、指揮を執っていたバトラーは銃弾を受けて致命傷を負った。
 セント・クレアは、戦線を支えるために予備として取っておいた最後の一隊を派遣する。マイアミ族とデラウェア族の戦士達はウォバッシュ川まで押し戻される。すかさず追撃を加えたアメリカ軍であったがさらに多くの犠牲者を出す。戦闘は2時間近くも続いている。
セント・クレアは部下に「戦闘はもうどれくらい続いているか。野蛮人を撃退してこの場所を死守するという考えはどうだろうか」と尋ねる。
その一方でネイティヴ・アメリカンの指導者達は撤退を検討し始める。戦場に倒れた戦士達はあまりに多く、弾薬も残り少ない。しかし、味方が苦しい時は敵も苦しい時だ。小休止の後、ネイティヴ・アメリカンの指導者達は考えを改めて攻撃続行を決定する。

再び迫って来る敵軍を見てセント・クレアはもはや頽勢を挽回できないことを悟る。兵力の不足を補うために防衛線を縮小するしかない。そこで軍営の南半分の放棄が決定された。
中にはそれに反対する士官もいた。ダークが足を引きずりながらセント・クレアの前に出て、「まるでヤマウズラの群れのように我々全員が撃ち殺されてしまう」と激昂しているのをワイズマンは聞いた。
 放棄されてしまう南半分には、致命傷を負って木に寄り掛かっているバトラーがいた。まだ傍に残っていた副官にバトラーは自分のためにここに残る必要はない伝え、指輪と時計、そして、剣を渡して代わりにピストルを求める。副官は銃弾を込めて撃鉄を起こしたピストルをバトラーの手に渡すと立ち去った。
それからすぐ後にバトラーは生命を奪われ、その心臓は細かく刻まれて戦利品として分配されたという。そして、剥ぎ取られた頭皮は友好の証としてジョゼフ・ブラントに贈られた。
 兵士達は大砲の火門を塞いで使用できなくし、助かりそうな負傷者を担いで軍営の北半分に集まる。セント・クレアは部隊の配置換えを行って防衛線を再構築する。しかし、多くの士官達が既に戦場に倒れ、生き残った士官達も無傷の者はほとんどいない。
3エーカー(1.2ヘクタール)程の地面に犇めき合う兵士達の状態は深刻だった。毛布に包まって流れ出る血を見ながら最期の瞬間を待つ者達がいるかと思えば、ただ呆然として身を寄せ合っている者達もいる。ネイティヴ・アメリカンは執拗に攻撃を仕掛けてくる。弾薬が切れたので弓矢で攻撃して来る戦士も数多くいる。
 これ以上、戦闘を続行するのは無理だとセント・クレアは判断して総退却を命じる。士官達は退却に反対した。動かすことができない負傷者を置き去りにすることになるからである。もちろんセント・クレアも彼らを待ち受ける残酷な運命を知らなかったわけではない。しかし、他に選択肢はない。少しでも決断を遅らせれば状況はますます悪化する。一刻も早く脱出しなければならない。
 セント・クレアは脱出計画を練る。まだ余力がある兵士達が銃剣突撃して血路を切り開き、陽動を行って敵の注意を逸らす。その隙に残りの兵士達が脱出する。セント・クレアが大任を与えたのはダークであった。
全軍の運命を担ったダークは軍営を回って突撃に参加する兵士を募った。応答する者は誰もいない。
するとヘンリー・カーベリーという名の1人の大尉が決然とした表情を浮かべて進み出る。カーベリーはロング島の戦いを皮切りに独立戦争の幾多の戦いを経験した古強者であった。生き延びるために一致団結して退路を確保しようというカーベリーの力強い説得の声に兵士達は銃剣を構えて立ち上がる。
そして、ダークの指揮の下、奔流のようにネイティヴ・アメリカンの布陣を突っ切る。最後の突撃の中でダークは連隊旗手が銃弾に撃ち抜かれて倒れるのを見た。連隊旗手の華麗な軍装に引き付けられたネイティヴ・アメリカンが頭皮を剥ごうと殺到する。ダークは馬を走らせて剣で斬り付け、ネイティヴ・アメリカンを追い払った。
 軍営に残っていた1人の士官は突撃が成功するのを見て、「さあ後に続いて脱出しよう」と触れ回る。午後10時少し前、銃弾で8つも穴が空いた外套を翻しながらセント・クレアは最後の部隊とともに戦場を去った。
駄馬に跨ったセント・クレアは、撤退する軍列を先導する。踏み荒らされて泥濘と交じり合った雪の中に放棄された武器が散乱している。そして、負傷者の流した血の跡が続く。時々、主を失って嘶いている馬の姿が見える。兵士達はそうした馬の引き綱を取って負傷者を運ぶのに使った。
追撃を阻むために誰かが最後まで残らなければならない。殿軍を指揮することになったジョン・クラーク少佐は、「隊列を維持せよ。隊列を維持せよ。最後の1人がいなくなるまで」と叫んで兵士達を鼓舞する。最初の攻撃で辛うじて生き延びたケナンも殿軍に加わっている。
暫くの間、殿軍はネイティヴ・アメリカンの追撃を阻んでいたが、クラークが負傷したことで完全に統制を失う。
友軍を追って後退を開始した殿軍の中でケナンは仲間の兵士が足から血を流して地面に横たわっているのを見つけた。その兵士はケナンが近付いて来るのを見て、腕を広げて救いを求める。ケナンは仲間を見捨てて自分だけ逃げるわけにはいかないと思った。そこで友人を背負って歩き始めたケナンであったが、その横を通り過ぎる騎手は助力を頼んでも誰も手を貸してくれない。
怪我をした兵士の重みがケナンの肩に食い込み始める。敵の追撃はすぐそこまで迫っている。仕方なくケナンは負傷兵に穏やかに諭す。

「私はできる限りの力を尽くして君の命を救おうとした。しかし、それは無駄だった。だから私の首に回している君の腕を緩めて欲しい。そうしなければ我々は2人とも死んでしまうだろう」

しかし、負傷兵は説得を受け入れるどころか、死に物狂いでケナンの首にしがみつく。2人が争っている間にも敵は距離を縮めて来る。咄嗟にケナンはナイフを抜くと兵士の指を切り離して我が身を束縛から解放した。その哀れな男は地面に崩れ落ち、ケナンが肩越しに最後に見た時にはネイティヴ・アメリカンのトマホークによって最後のとどめを刺されているところであった。
戦場という極限状態でのことだ。誰もケナンを責めることはできないだろう。
死傷者はそのまま残された。彼らはネイティヴ・アメリカンの手によって頭皮を剥がれた。死者の口には土が詰め込まれていた。それはこの土地から去れというネイティヴ・アメリカン特有の警告である。

この時、頭皮を剥がれた兵士の1人にマイケル・ハレという伝説的な人物がいる。
ハレはアイルランドで1727年に生まれた。アメリカに移住したハレはフレンチ・アンド・インディアン戦争でワシントンの下で戦い、モノンガヒーラの戦いにも参加した。独立戦争の際に数ヶ月の兵役期間で徴募されたが、ボストン包囲、ロング島の戦いやストーニー岬の襲撃などほぼ8年間を戦塵の中で過ごした。そして、64歳にしてネイティヴ・アメリカンの言語に詳しい点を買われてセント・クレアの遠征に従軍した。
逃げ遅れて頭皮を剥がれたハレであったが、そのまま放置された。しかし、1人のネイティヴ・アメリカンの女性がハレを見つけて生命を救う。ネイティヴ・アメリカンの女性は、ハレの上に木の枝や葉を被せて隠し、傍にある木に身を寄せて見張っていたという。
こうして奇跡的に生き残ったハレは故郷に帰って毛皮の交易に勤しむ。そして、1812年戦争が起きた時、85歳の高齢にも拘らず、民兵として志願するために16マイル(26キロメートル)先まで歩いて行った。しかし、係官が志願を却下したためにハレはまた静かな生活に戻る。100歳になった時、ハレは自分の家を教室にして子供達に教え始めた。頭皮を剥がれた跡を見せないためにいつも帽子を被っていたという。
ハレはある夜、誤って溝に転落して凍死した。それは第10代大統領タイラーの時代であり、享年は115歳という異例の高齢であった。もし事故がなければもっと長生きしたかもしれない。
ワシントンとストロング・ヴィンセント将軍[5]をその目で見た唯一の人物であった。これ程、長生きした人物がどのような体型をしていたかが気になるところだが、ハレの身長は普通で体重は170ポンド(77キログラム)であったという。当時の平均身長はかなり低いので小太りだったようである。

 ネイティヴ・アメリカンの戦士達は、退却するアメリカ軍を4マイル(6.4キロメートル)程追った後、戦場に引き返した。遺棄された物資が目当てである。集められた物資をネイティヴ・アメリカンの指導者が戦士達に分配した。これは勝者の特権である。
何とか脱出に成功したアメリカ軍は、午後7時、ジェファソン砦まで落ち延びた。ジェファソン砦は急造の砦で心許なく備蓄された食糧も多くはない。駄馬の隊列が45マイル(72キロメートル)後方にあるハミルトン砦を出発したという報せが届いていたが、いつ到着するかは定かではない。
生き残った士官達を集めてセント・クレアは作戦会議を開く。そして、動かすことができない負傷者をジェファソン砦に残してさらに後方に撤退することが決定される。
午後10時、戦場から29マイル(47キロメートル)を落ち延びてきた兵士達はさらに南に向かって出発する。ダークは致命傷を負った息子の最期を看取った後、馬を飛ばして退却を続ける部隊に追い着く。ダーク自身の傷も深く、大腿部が丸太のように膨れ上がって触れなくても熱を感じられる程だ。
ジェファソン砦を離れた兵士達はあまりに疲れ切っていたので、9時間で7マイル(11キロメートル)しか進むことができなかった。未明、もうこれ以上、一歩も歩けなくなった兵士達は、地面に崩れ落ちると思い思いの場所で泥のように眠る。兵士達の眠りを覚ませたのは駄馬の隊列であった。駄馬に満載された物資を兵士達は先を争って貪り食う。あっという間に2日分の糧食が兵士達の胃袋に消える。
もちろんセント・クレアはジェファソン砦に残してきた者達のこと忘れていたわけではない。駄馬の隊列の護衛に50人の兵士を随行させてジェファソン砦まで戻るように命じる。
116日午前9時、セント・クレアの他、騎乗した者達はハミルトン砦まで先に辿り着く。残りの兵士達も暗くなる前に到着する。戦場から辛うじて逃れて後から落ち延びて来る兵士の姿は絶えることがなかった。ある兵士などは頭蓋骨にトマホークが刺さったままであった。

ようやく全軍が出発点であるワシントン砦まで帰着することができたのは118日の正午頃であった。実に戦場から97マイル(160キロメートル)の距離を踏破したことになる。
 セント・クレアの部隊の惨状を見てワシントン砦の士官達は驚く。その中にはウィリアム・ハリソンも含まれている。もしハリソンが遠征に従軍していれば生命を落とすか負傷するかして後に大統領になることができなかったかもしれない。負傷者は砦の中に収容され、残りの兵士達は野営して待機するように命じられた。
 翌日、砦の傍にあるシンシナティの集落は酔っ払った兵士達の姿で溢れ返る。敗戦で意気消沈した兵士達の憂さを手っ取り早く晴らすものは酒しかない。兵士達はあっという間にすべての酒を呑み尽くしてしまった。ハリソンはその他の士官達とお金を出し合って兵士達のためにコートと毛布を準備する。シンシナティでは浮かれ騒ぎが続いていたが、セント・クレアは軍規を回復させようとはしなかった。
 いったいセント・クレアは何をしていたのか。ワシントン砦の中にある司令部でワシントンとノックスに何が起きたかを報告する文書をまとめていた。その間に士官達は今回の作戦で出た死傷者が確認する作業を行った。
正確な数は不明である。少なくとも700人近くがその場で戦死するか、負傷がもとで亡くなった。生き残った負傷者は300人近くである。つまり、戦闘に参加した1,900人の半数以上を失ったことになる。その他にも100人以上の非戦闘員が殺害され、50人近くが負傷した。
それに対してネイティヴ・アメリカンの死傷者の数は明らかではない。しかし、せいぜいアメリカ軍の死傷者の10分の1程度であったと考えられる。一説によるとネイティヴ・アメリカンの死傷者は150人程であったという。これは、ネイティヴ・アメリカンがアメリカ軍に対して収めた最大級の勝利である。
こうした状況を述べた後、セント・クレアは、「今、陰鬱な話を終えることになりました」という言葉で報告書を書き終えた。
 セント・クレアから報告を預かったエベニーザー・デニー中尉ははるか彼方のフィラデルフィアに向かう。デニーがフィラデルフィアに到着したのは1219日のことである。その夜、日記にデニーは次のように記している。

「さっきまで陸軍長官と会っていた。ワシントン砦を出発して以来、部隊の虐殺と敗北に関するあらゆる考えをできる限り私の心から消し去ろうと努めてきた。それをすべて話すことは私にとって楽しい仕事ではない。しかし、私が完全に状況を伝えるべき人々がいることは確かである」

 翌朝、ノックスがやって来てデニーを大統領官邸に伴った。そして、朝食の席に招かれた後、デニーはセント・クレアの敗北について詳細を話す。残念ながらその時の様子をデニーはほとんど書き残していない。しかし、ワシントンは既にセント・クレアの敗北について知っていた。
デニーがフィラデルフィアに到着する11日前の午後のことである。敗報を携えた1人の士官が大統領官邸の前で下馬した。そして、馬勒を召使いに預けて扉を叩く。顔を出した門番に、すぐに公務で大統領に急ぎ伝えなければならないことがあると士官は訴える。その日は金曜日だったので、門番は、大統領は公式招待会に出席している最中だと言ってそのまま待つように士官に伝えた。
士官がやって来たのを知らされた個人秘書のトバイアス・リアが玄関に顔を出す。リアに向かって士官は訴えを繰り返す。
リアは個人秘書として責任を持って知らせを預かり、機を見計らって大統領に渡すようにすると士官に約束する。
それでも士官は満足せず、自分はフロンティアから大至急、知らせを大統領本人に渡すように命令を受けたのだと主張する。
そこでリアは応接間に入ってワシントンに士官の使命について耳打ちする。席を外したワシントンは士官と暫く話し合い、報告を読む。それからワシントンは公式招待会に戻り、来客に中座したこと謝罪したが、受け取った知らせについては何も言わなかった。
訪問客の目からすれば、大統領の様子はいつもとまったく変わらない様子で、会話を楽しんでいるように見えた。ただ隣の席に座っていた者の話しによれば、ワシントンは少し身を震わせながら「どうせそんなことになるだろうと思っていた」と小さな声で呟いたという。
時計が10時を打ち、招待客が去る。ワシントンの傍に残ったのはマーサとリアだけであった。そして、マーサも応接間を出て行く。ワシントンはゆっくりと部屋を一巡すると暖炉の傍のソファに座って、リアにも席を勧める。リアの目の前で激情に耐え切れなくなったのか、突然、ワシントンは腕を振り上げて怒りを爆発させる。

「すべてが台無しだ。セント・クレアは敗北した。総崩れだ。ほぼすべての士官が殺され、兵士達も鏖殺された。完全な敗北だ。考えただけでもぞっとする。そのうえ奇襲ときたものだ」

 ワシントンの心の中で激しい感情が渦巻いているようであった。ワシントンは一旦、言葉を切るとソファから立ち上がり、数回、部屋を歩き回る。その間、時折、唇が震えていたがワシントンの口からは何も言葉は漏れない。扉の近くで立ち止まった時、堰を切ったように言葉が口を突いて出る。

「そうだ。私が彼と別れたまさにこの場所で、彼の成功と栄誉を願ったのだ。陸軍長官から指示を受けるように言って、その指示に綿密に目を通したうえで、私は一言付け加えた。奇襲に気をつけるようにと。繰り返して言う。奇襲に気をつけるようにと。あなたはインディアンが我々とどのように戦うか知っているはずだ。そういうふうにくれぐれも注意するようにという私の警告を耳に彼は旅立った筈だ。それにも拘わらず、私が警戒するように彼に言った奇襲によって軍はばらばらになり、めった切りにされ、撃ち殺され、斧で叩き殺されたのだ。ああ神よ、ああ神よ、彼は殺人者よりも始末に悪い。彼は祖国にどのようにして弁明できるのだろうか。殺された者の血、寡婦と孤児の恨み、そして神の呪いが彼に降りかかるだろう」

ワシントンの言葉はリアが語った回想による。ワシントン本人は記録に残していない。
リアはあまりのワシントンの豹変に圧倒されて言葉もなかったという。一頻り罵言を吐き終わった後、ワシントンはソファに腰を落ち着けた。どうやら怒りを露わにしたのが恥ずかしく思えてきたらしい。

「今のはこの部屋だけのことにするように」
ワシントンはリアに念を押した。そして、改まった口調で言葉を続ける。
「セント・クレア将軍は公正に扱われるべきだ。私は慌てて急信を読んだだけだから、全体の災厄については見たが詳細について理解したわけではない。私は不快感なく彼を受け入れよう。偏見なく彼の言うことを聞き入れよう。彼は完全に公正に扱われるべきだ」

 リアの目にはワシントンが完全にいつもの冷静さを取り戻したように見えた。ワシントンが癇癪玉を破裂させるのを見て驚いたリアであったが、ワシントンのそうした面は他の人にも知られていた。
例えばジェファソンは「彼の気性はもともとお高くとまっているもの(つまり、神経質)だが、自制と克己が習慣的にそれをしっかりと抑えていた」と記している。またジョン・アダムズも次のように記している。

「もし束縛を破ってしまえば、彼は最も凄まじい憤怒を抱いている。彼は強い自制心を持っていたが、心の平静を保つにはそれだけ強い[自制の]才能が必要であった。彼が癇癪玉を破裂させる時はいつでも、時々、彼はそうしたのだが、彼の周りにいる者は愛情や恐れから彼の欠点を世界から隠そうとしたのだ」

 残念ながらリアは、ワシントンの欠点を世界から隠し通すことはできなかったようだ。もし隠し通すことができていれば、リアの目撃談をここで紹介することはできなかった筈である。
自身もしばしば癇癪を起こすとよく指摘されたジョン・アダムズがワシントンを癇癪持ちだと言っているのは面白い。しかも歴史家の評価ではアダムズのほうがワシントンよりも癇癪持ちということになっている。しかし、それはアダムズが日記に素直に自分の感情を書き殴っているからである。ワシントンはそういうことを滅多にしなかった。
 歴史的な偉人は、本当はどうしようもない人物であったと暴露する本は非常に多い。暴露本が好評であるのは、おそらく悪人が実は善人であったと知るよりも、善人が実は悪人であったと知るほうが面白いと感じる人が多いからだろう。
実際は完全な悪人も完全な善人もいないのだが、都合の良い面だけを切り取れば、悪人を善人に、善人を悪人に仕立てることも可能である。ワシントンの欠点を暴露してしまったリアであったが、次のようにも書いていることは注意すべきだろう。

「ワシントン将軍は、身近に接することで敬意を失うことがない唯一の偉人であったと私は思います。私の彼に対する尊敬を減ずるようなことは1つもありませんでした。すべての個人的なやり取りの中で彼の実直さ、廉直さ、そして、率直さを完全に知ることで私は時に彼が単なる人間以上の存在ではないかと思いました」

 遠征に参加した1人の士官は「この日の命運はアメリカの将来の年代紀のすべての頁を黒く塗り潰すことになるだろう」と記している。また後にセオドア・ローズヴェルトは「合衆国政府はセント・クレア自身の軍隊とほとんど同じくらいセント・クレアの敗北に意気阻喪した」と記している。

セント・クレアにとって不面目なことに「シンクレアの敗北」という歌がアメリカ全土で流行した。それは19世紀前半で最も人気のある歌となった。「ボナパルトの撤退」や「ナポレオン、ライン川を渡る」で知られる曲に載せて以下のような歌詞が多くの人々によって口ずさまされた。

「それは1791114日のこと、ジェファソン砦の近くで我々は手痛い交戦を行った。我々の司令官はシンクレア。北西部領地に900人の男達を取り残してきたことで記憶に残るに違いない。バンカー丘陵やケベックで多くの英雄が倒れた。同じくロング島でも。真実を告げることができるのは私。セント・マリー川[実際はウォバシュ川]の近くの河原で起きたような大虐殺を私はこれまで見たことがない。我が軍は未明に攻撃され、すぐに圧倒され、戦場から追われた。奴らはオールダム、レヴィン、そして、ブリッグズ少佐を殺した。野蛮人の恐ろしい叫び声が空にこだまする。我々は退却しなければならなくなるまで3時間以上も彼らと戦った。そして、900人の勇士達が血に染まって地面に倒れた」

 セント・クレアの敗北を知った連邦議会はその原因を調査する下院特別委員会を設置する。下院特別委員会の考えでは、ネイティヴ・アメリカンに敗れた114日までにはセント・クレアはケキオンガに到達して砦を築いて軍とともに冬に備えているべきであった。その代わりにセント・クレアはケキオンガに到達できず、自軍がどこにいるのか正確な場所も分からず、ネイティヴ・アメリカンの動きを察知することもできなかった。さらに多くの兵士達をほとんど訓練を施さないまま従軍させたばかりか飢えや寒さで苦しめた。
 しかし、調査が進むにつれて下院特別委員会はすべてがセント・クレアの責任ではないと考えを改める。遠征が失敗に終わったのは、兵士の徴募と補給態勢に不備があったからだ。編成が開始されるまでの準備期間は僅かに4ヶ月であり、物資の調達を十分に行う余裕はなかった。
セント・クレアは下院特別委員会の査問に応じてフィラデルフィアに出頭する。そして、ワシントンのもとを訪れた。セント・クレアはワシントンの手を押し頂いて涙を流す。痛風による病苦、フロンティアでの生活、そして、浴びせられる酷評でやつれ果てたセント・クレアの様子を見てワシントンは何も責めることができなかった。
 議会に立ったセント・クレアは、もし薬莢を作るための紙が早く届いていれば兵士達に適切な訓練が施せた筈だと主張した。道を切り開くための斧の数が足りず進軍が遅れたことやテントがほとんど役に立たない粗悪品だったことなど他の士官達もセント・クレアを弁護する。プロイセン軍、ロシア軍、そして、アメリカ軍と渡り歩いた1人の士官は、「これまで私が仕えてきた将軍達の中でセント・クレア将軍のように多くの困難を背負わされた将軍を見たことがありません」と証言した。
 下院特別委員会は、セント・クレアが地理に不案内でケキオンガまでの距離を見誤っていたことを見逃さなかった。もしそうした見誤りがなければ遠征の結果は違ったものになったかもしれない。
そうした指摘に対してセント・クレアは「我々には案内人がいませんでした。通り過ぎた地方には誰も人はいませんでした。したがって地理も地勢もまったく知ることができませんでした」と答えた。
 戦闘の推移について下院特別委員会はあまり詳細を尋ねていない。しかし、なぜ兵士達を守るために適切な防御施設を作らなかったのかと指摘する者がいた。
それに対してセント・クレアは、糧食が乏しかったので防御施設を作ってもそれに立て篭もることはできなかったと反論した。セント・クレアの考えでは、敗北は兵士達の質が悪かったこととネイティヴ・アメリカンの数が余りに多かったことである。多くの兵士達は森の中で戦った経験がないどころか、これまでほとんど銃を扱った経験もなかったという。したがって、そのような経験不足の兵士達で数に優るネイティヴ・アメリカンを打ち破ることは困難であった。
 しかし、こうしたセント・クレアの主張は根拠が無い。
まず銃剣突撃に成功していることから兵士達の経験が不足していたという主張は疑わしい。それに兵士達の中には独立戦争に従軍した経験を持つ者も多く含まれていた。それにネイティヴ・アメリカンのほうがアメリカ軍よりもおそらく数は少なかったと考えられている。

ウォバシュ川の戦いを戦術的な観点で改めて振り返ってみると、幾つかの問題点が浮かび上がる。
まず軍営の設置に関する問題である。非常に狭い面積の場所に軍営を設置したために、ネイティヴ・アメリカンが簡単に包囲することができた。しかも周囲の視界が遮られていたので、一方的に銃撃を浴びせられる結果を招いた。それは軍営を築くと同時に視界を遮る木々を切り払っておけば改善された筈だ。
また砲兵隊を2ヶ所に集中させたことも失敗である。通常の場合であればそれは正しい。大砲をまとめることで火力を集中させることができるからだ。しかし、それは密集陣形を好まないネイティヴ・アメリカンを相手にする場合には通用しない。それよりも砲兵が狙撃される危険が高まる。もし大砲を分散させておけば砲兵の被害は最小限で止められただろう。
さらにケンタッキーの民兵隊をウォバシュ川の対岸に配置したことも間違いだ。ウォバシュ川が障害になって連絡を取り合うことができず、孤立する恐れがあるからである。事実、戦闘が起きた時、ケンタッキーの民兵隊は真っ先に餌食になってほとんど何の役にも立たなかった。

セント・クレアの失態はワシントンにも飛び火する。ある士官が優柔不断な将軍を派遣したとしてワシントンを非難する匿名の冊子を刊行したからだ。ウィリアム・グローヴ下院議員は、セント・クレアの敗北を「インディアンが我が国に対して収めた最も完全な勝利」とさえ言った。
ワシントンのネイティヴ・アメリカン対策についての批判が次第に高まる。議会は調査の範囲をアメリカ軍とネイティヴ・アメリカン問題の責任者である陸軍長官のノックスと投機家のウィリアム・デュアに拡大しようとした。
デュアはハミルトンの友人でありセント・クレアの遠征を支援する見返りに物資を供給する契約を結んでいた。このデュアは様々な不正の疑惑を掛けられている札付きの人物であり、投機に失敗して破滅した。議会はさらに調査を行えば深刻なスキャンダルが露見して連邦政府に対する国民の信頼が揺らぐのではないかと恐れて調査に及び腰になる。

ホブソンの選択

 ネイティヴ・アメリカンに対する相次ぐ敗北でフロンティアを安定させるというワシントンの政策は頓挫した。しかし、諦めることはできない。フロンティアの入植民のために「野蛮人の闘志を挫き、彼らの頑強な抵抗を弱める」必要がある。そこでワシントンはノックスを通じて議会に再度、軍隊を編成する資金を拠出するように求める。
下院議員の中にはそれをワシントン政権を攻撃する好機だと見なす者もいた。彼らは、ワシントン政権が数百万ドルを浪費したのにも拘わらず、どういう理由で戦闘を行ってきたのか知る者は誰もいないと批判する。
こうした批判に応えるためにワシントンはノックスに命じて報告書を公刊させる。その報告書では、いかに多くの白人の入植者が殺害されているか、そしてネイティヴ・アメリカンに対していかに平和的な申し出がなされてきたかが示されている。
ワシントン自身もネイティヴ・アメリカン政策について次のように語っている。

「インディアンに関して合衆国がまず望むことは、彼らすべてとの平和であり、相互の利益についてより理解を深めることである。我々は、血を流さずにそれを達成することできなかったので、次善に望むことは、最も迅速な方法で戦闘行為を終わらせる方針を追求することである」

迅速な方法で戦闘行為終わらせる方針を追求するために必要なものは何か。それは強力な軍隊である。
これまで送られた軍の構成を見ると、連邦軍は少なく、大部分が本来であれば補助戦力である筈の民兵や志願兵で構成されている。そこで今回は連邦軍を中心に編成されることになった。
179535日、議会は新しい軍の創設を承認する。5,400人の人員で軍を編成することが認められ、古代ローマ軍に因んで「レギオン」と命名された。兵役期間は3年間と定められた。また常備軍に対する議会の警戒を解くために北西部領地でのネイティヴ・アメリカンの脅威がなくなれば直ちにレギオンは解散されることになっていた。
次に考えなければならないことは司令官の人選である。
前回の敗北から考えると、セント・クレアは候補から外れる。ワシントンはもはやセント・クレアの軍事的能力を信じていなかった。そうなると誰を選べばよいのか。
ワシントンが考えた条件は2つである。十分な軍事的経験を持つことと作戦が行われる地域の地理に詳しいことである。そうした条件に当てはまる人物であれば既にいた。ジェームズ・ウィルキンソン中佐である。
セント・クレアが軍を離れた後、代わりにワシントン砦を預かることになったウィルキンソンは、黙々とフロンティアの防衛線を固める任務をこなしていた。まずジェファソン砦に増援部隊を送った。最前線に位置するジェファソン砦はいつネイティヴ・アメリカンの襲撃を受けるか分からないからである。さらにハミルトン砦とジェファソン砦の間に新しい砦を築いてセント・クレア砦と命名した。
レギオンが創設されたと聞いてウィルキンソンは自分が総司令官に任命されると期待する。しかし、届いたのは准将に昇進させるという辞令だけであった。
もちろん閣議でウィルキンソンを総司令官に任命する案も検討されたが、「非常に意欲に富んでいるが、性格に多くの受け入れ難い点がある」という理由で却下された。ではワシントンは誰を新しい司令官に選んだのか。それはアンソニー・ウェイン将軍であった。
ウェインは独立戦争において各地で奮戦したばかりではなく、クリーク族を打ち破った経験も持つ。ウェインはかつての同僚であるノックスに向かって、十分に訓練を積めばレギオンでセント・クレアの復讐を遂げることができると豪語した。
後年、自らも軍隊経験を持ち『狂気のアンソニー・ウェインの勝利』と題する論稿を書いたセオドア・ローズヴェルトは次のように述べている。

「すべての人物の中でウェインこそその任務に最適であった。独立戦争でアメリカ、イギリス、もしくはフランスの将軍達の中で激烈な戦闘、大胆不敵な活力、そして、不撓不屈の勇気でウェイン以上の名声を得た将軍は他にいない。最も有名な好戦的な将軍達だけが持つ戦闘の衝動に彼は心から喜びを感じていた。狂騒と危険の中でこそ彼は光を増し、苦難に置かれた時に最も輝いた。そして、彼の壮烈な勇気のために、兵士達は愛情を込めて彼を『狂気のアンソニー』と呼んだ

ネイティヴ・アメリカン政策をめぐる大統領と議会の争いはレギオンの結成で終わったわけではない。下院特別委員会は、セント・クレアに対して査問を行うために大統領に関係書類の提出を求める。
それは権力分立の原理に関わる問題であった。立法府が行政府の判断に関わる問題に容喙してもよいのか。三権分立の原理に反するのではないか。
ワシントンはどのように下院に返答するべきか閣僚に諮る。それは重要な先例となるので熟慮すべき問題だ。ワシントンは下院の行動を認めもしなかったし、否定もしなかった。なぜなら下院の行動はワシントンにとってあまりに意外なことであったからである。しかし、機密を守るために書類を渡すべきではないとワシントンは思っていた。閣僚は突然のことであったので十分な意見を出すことができない。
42日、再び閣議が行われる。
ジェファソンは次のように問題点を指摘する。第1に、下院は審議機関であるから査問を行う権限を持つ。第2に、下院は一般的な書類を求めているだけである。第3に、大統領は公共の善に沿うのであれば関係書類を提出すべきだし、逆に公共の善に沿わないのであれば提出すべきではない。第4に、下院や委員会は閣僚を召喚する権限を持っている。
ジェファソンの意見に対してハミルトンは第4の点を除いてすべての点に同意する。
結局、閣僚は、大統領は公共の善に沿うのであれば、関係書類を提出すべきだし、逆に公共の善に沿わないのであれば提出すべきではないという見解で一致する。この曖昧な決定は大統領が持つ行政特権の問題を未解決のままに残した。結局、関連書類は議会に提出された。
最終報告書で下院特別員会は、セント・クレアに無罪を言い渡し、敗北の原因はワシントン政権の不手際にあるとした。事実、セント・クレアは1802年まで北西部領地長官に在任している。もし有罪であれば解任されていた筈だ。その一方でワシントンのネイティヴ・アメリカン政策は議会から落第点をつけられたことになる。凋落した軍の威信の回復はウェインに委ねられた。

ウェインに大任を委ねて肩の荷を降ろしたワシントンであったが、他にも心配しなければならないことがある。
イギリス軍とスペイン軍がネイティヴ・アメリカンを支援しようと動き出すかもしれない。特にイギリスの動きには要注意である。独立戦争が終結した後、イギリスは北アメリカの残る植民地を再編してローワー・カナダ(セント・ローレンス川流域)とアッパー・カナダ(五大湖北部)に分けた。総督は現地で独立戦争の戦後処理にあたったガイ・カールトンである。そして、同じく独立戦争で活躍したジョン・シムコ-中佐がアッパー・カナダを総督代理として統治した。
イギリス軍はナイアガラ砦やエリー砦などに配備されている。ナイアガラ砦とエリー砦はパリ講和条約で定められたアメリカの領土内にあった。つまり、イギリスはアメリカがパリ講和条約を誠実に履行しようとしていないという口実を構えて砦の明け渡しを拒否して居座っている。
独立して暫く経つのに許可を与えてない外国の軍隊が自国の領土内に堂々と駐留し続けているという事態は、国家として面目丸潰れである。弱小国家の謗りを免れないだろう。しかし、アメリカにはそれを排除できる実力はない。こうした問題の解決は、ジェイ条約の締結を待たなければならなかった。
そもそもカールトンはアメリカが現体制で長続きすることはないと思っていた。もしアメリカが自壊するようなことがあればフロンティアを再びイギリスの支配下に置くことができると多くのイギリス人が虎視眈々と機会を窺っている。こうした外患に加えて、ペンシルヴェニア州西部では税制に不満を持った住民が不穏な動きを見せている。

1792年春、フロンティアに着任したウェインは、レギオンを集結させる手配を行うとともに入植民の安全の確保に乗り出す。頻発していたネイティヴ・アメリカンによる襲撃を何とか止めなければならない。早速、兵士達が各地に配備される。
さらにウェインは2人の著名なフロンティアの住民に助言を仰いだ。サミュエル・ブレイディとウィリアム・マクマホンである。
ブレイディは独立戦争でウェインの下で戦ったことがあり、「ブレイディの跳躍」という伝説を残していることで有名な人物である。敵情を探るためにオハイオ地方に潜入したブレイディは敵対するネイティヴ・アメリカンに発見されて追撃を受けた。そして、100マイル(160キロメートル)以上を逃げ続け、さらに25フィート(7.6メートル)の峡谷を跳び越えて難を逃れたという。疲れ切っているうえに足場の悪いことを考えると人並み外れた跳躍力である。
マクマホンはレギオンの少佐として従軍することに同意した人物でブレイディと同じくフロンティアで広く名が知られていた。
2人が最も強く勧めたことは森林の中での活動に長けた経験豊かな斥候を雇うことだ。ウェインはその他にもフロンティアでの戦いに参考になることを詳しく2人から聞き取った。司令官を務める者はたとえ無駄に思える知識であろうとも何かの役に立つかもしれないので幅広い知識を蓄えておく必要がある。
有能な多くの士官達がウォバシュ川の戦いで失われたが、それを補って余りある若い士官達が志願した。28歳のウィリアム・イートン大尉は独立戦争で活躍したグリーン・マウンテン・ボーイズを再結成し、後にジェファソン政権で行われたルイスのクラークの探検隊で名を馳せる22歳のウィリアム・クラークは中尉に任じられ、そして、サミュエル・ブレイディの弟の24歳のヒュー・ブレイディも旗手として従軍した。
ネイティヴ・アメリカンによる襲撃は依然として続いている。ある場所では、大人の男性がすべて負傷したために8歳の少年が猟銃で家族を救った。もちろんに一方的にアメリカ人が殺害されていたわけではない。民兵隊が組織されネイティヴ・アメリカンの集落を焼き払った。血で血を洗う復讐の応酬が交わされた。
恐怖は伝染するもので、ウェインが配置した兵士達はネイティヴ・アメリカンが襲来したという噂だけで遁走してしまう。しかし、斥候がもたらした情報によれば、ネイティヴ・アメリカンの数は僅かに6人だという。
報告を受けたウェインは兵士達を鍛え直す必要があると考えた。優秀な兵士達がいなければウェインはセント・クレアと同じくネイティヴ・アメリカンに敗北することなる。
そこでネイティヴ・アメリカンの装束を着用したフロンティア出身の兵士達にネイティヴ・アメリカンと同じ戦術を使ってフロンティアの戦闘に慣れていない兵士達を攻撃させた。模擬戦である。こうした戦闘訓練は作戦が始まるまで継続され未熟な新兵を高い技能を持った熟練兵に変えた。
こうして着々と戦備が整えられている間にも和解の試みが行われていた。しかし、それは絶望的であった。数千人のネイティヴ・アメリカンが一堂に会して、オハイオ地方からアメリカ人を追放することを決定していたからだ。彼らの考えでは、もしアメリカ人が平和を求めるのであれば、オハイオ地方から自ら出て行かなければならない。そうした条件を話し合うために指導者達はアメリカ人の出席を求めることにした。
その一方でリトル・タートルは300人の戦士達を率いて入植地の襲撃に出発する。ハミルトン砦の近くで捕えた兵士から、大規模な駄馬の隊列が移動中であることを聞き出した。早速、襲撃に向かった戦士達はセント・クレア砦の外で野営する隊列を発見する。隊列の護衛には120人の騎乗ライフル銃兵が随行していた。
1792116日早朝、セント・クレア砦の少数の守備兵が見守る中、戦闘が始まる。騎乗ライフル銃兵は何とかネイティヴ・アメリカンを撃退したが、リトル・タートルは所期の目的を果たす。160頭の駄馬が連れ去られた。駄馬がいなくなってしまえば、補給ができなくなる。アメリカ軍の動きを妨害するという点では成功である。
この時、ウェインははるか後方のファイエット砦にいて遠征の準備に忙しかった。そこでマクマホンに辺境に慣れた男達を預けて偵察を行うように命じて情報を怠りなく収集させた。
1118日、ファイエット砦の北西22マイル(35キロメートル)に冬営地が築かれた。その冬営地は、レギオン・ヴィル、すなわちレギオンの村と名付けられる。

ここで改めてレギオンとはどのような軍隊であったのかを見てみよう。
ノックスの主導でアメリカ軍は4,500人のレギオンとして生まれ変わった。4,500人という数は名目上の数であって実数はもっと少ない。
ウェインはノックスによって定められた軍制を独自に作り変えて実戦に対応できるようにした。ウェインが特に細心の注意を払ったのが砲兵隊である。
セント・クレアの遠征で分かったことは、大型の大砲をフロンティアで運用することは難しいということである。悪路が大砲の迅速な運搬を妨げるからだ。
そこでウェインは特別に小型の大砲を製造して駄馬でも容易に運搬可能にした。ネイティヴ・アメリカンを相手にする戦いでは、攻城戦のような大型の大砲を必要とする場面がほとんどないので、迅速な運用が可能な小型の大砲のほうが適している。
さらにウェインは軽歩兵隊を「改良マスケット銃兵」に変える。それはネイティヴ・アメリカンとの戦いに特化して改良されたマスケット銃を武器とする部隊である。軽歩兵隊がまず迅速な装填と射撃でネイティヴ・アメリカンの足を止めて、主戦力である歩兵隊が攻撃態勢を整える時間を稼ぐ。また歩兵隊が銃剣突撃を行う場合には、軽歩兵隊も銃剣を装備して支援する。軽歩兵隊はネイティヴ・アメリカンの機動性に対抗する手段であった。
他にもウェインはライフル銃兵の最大の欠点である銃剣を装備できないという欠点を銃剣を先端に取り付けて槍のように使える棒を配備することで補う。
ウォバシュ川の戦いでアメリカ軍が敗退した原因は戦術的な失敗だけではなく、士官達が真っ先に狙撃されて戦闘不能になったことにもあった。士官達を失えば命令系統が乱れて部隊の戦闘力は格段に低下する。そこでウェインが考えたことは、士官達の軍装をできるだけ兵士達と同じものにすることである。そうすれば標的にされる可能性が低くなる。

 連邦政府によって編成されたレギオンに民兵隊が加わる。1792年民兵法によって、諸州は連邦軍を支援するために歩兵隊、砲兵隊、そして、竜騎兵隊から構成される民兵隊を編成することになっていた。
ケンタッキー州はそうした規定に基づいて民兵隊を編成する。ウェインはそうした編成についてケンタッキー州に注文を付けた。欲しいのは補助戦力として使える騎兵であって歩兵ではない。
ウェインの要望を受けてノックスは、連邦が軍費を負担することを条件に騎兵から構成されるケンタッキーの民兵隊を編成することを認めた。通常の竜騎兵は遠距離では騎銃、近距離では剣で戦うが、ケンタッキーの騎兵は遠距離ではライフル銃、近距離ではトマホークや大型のナイフで戦う。つまり、騎乗ライフル銃兵である。

レギオン・ヴィルで兵士達の訓練に行っていたウェインのもとにネイティヴ・アメリカンから和解交渉を行う使者を派遣するように求める手紙が届く。それを読んだウェインはノックスに宛てて1793123日付の手紙で次のように書き送った。

「マイアミ川の急流やエリー湖水系など野蛮人が適当だと考える場所で開かれる次の会合に是非とも出席したいと私は強く思っています。但し約2,500人の使節団とともに最も迅速な道程を辿って出席するつもりです。ウィルキンソンにこの血戦に従軍してもらうつもりです。使節団の中には1人の[非戦主義を貫くような]クエーカー教徒もいない筈です」

つまり、ウェインはネイティヴ・アメリカンに勝利者として臨む他にフロンティアの安定を保つことはできないと考えていた。
ウェインが1793年の作戦を考えている一方で、ノックスはネイティヴ・アメリカンの会合に使節団を送ることを政府が決定したと伝える。ノックスが言う使節団はウェインが示唆したような剣呑な使節団ではなく、本物の使節団である。
使節団として選ばれたのは、ベンジャミン・リンカン、ティモシー・ピカリング、そして、元ヴァージニア州知事ベヴァリー・ランドルフである。「彼らの生命は、敵対的、もしくは攻撃的作戦を絶対に控えることに掛かっています」という指令がノックスから届く。
ノックスの指令を読んだウェインは、政府が全面的対決を避けるためにネイティヴ・アメリカンの要求を受け入れてしまうのではないかと恐れる。そこでノックスに「もしオハイオ川が最終的にアメリカの境界線となってしまえば、合衆国はその辺境に手強い隣人[ヨーロッパ列強]をすぐに迎えることになるでしょう。そうなれば大西洋岸諸州の人口が大規模に流出してしまうかもしれません」と警告する。
420日、ノックスは、ファイエット砦からワシントン砦に移動して、使節団から直接、会合の結果を聞き取り、もし和解交渉が失敗に終わったことが分かれば作戦を開始するようにウェインに命じた。
ウェインの心配は杞憂ではなかった。それはヨーロッパ情勢の激変による。
フランス革命戦争の勃発が契機である。フランスと交戦することになったイギリスとスペインはアメリカが米仏同盟を遵守して参戦すると考えて北アメリカでも戦争の準備を始めていた。具体的にはネイティヴ・アメリカン諸族を同盟者として自陣営に引き込むことである。
こうしたヨーロッパ列強の蠢動を知って沸々と野心を滾らせるようになった男がいた。ワシントン砦でウェインの到着を待っていたウィルキンソンである。
ウィルキンソンは祖国を裏切ってスペインと提携しようと画策していた。つまり、スペインの手を借りてフロンティアに独立国を作ろうという陰謀である。そうした陰謀が実現できそうにないと分かった後、ウィルキンソンは、ウェインが率いるレギオンが脅威にならないようにしたいというスペインの意向に沿って動き始める。
ウェインはウィルキンソンがスペインの傀儡になっていることにまったく気付いていない。後にウィルキンソンの正体を知ったウェインはウィルキンソンを「すべての悪人達の中でも極悪人」と罵っている。

1793430日、ウェインは兵士達を引き連れてワシントン砦を目指してレギオン・ヴィルを発つ。当面の作戦目標はセント・クレアと同じくケキオンガに恒久的な砦を建設することであった。
ケキオンガは北西部領地を網の目のように結ぶ重要な交易路を扼する位置にあった。すなわち北西部領地を確実にアメリカの支配下に置いて安定化させるためには、どうしてもケキオンガに軍事拠点を設けなければならない。セント・クレアの遠征がなぜ失敗に終わったのかウェインは研究を怠らなかった。
最も検討すべき課題は補給である。
糧食は主に牛肉とパンからなる。牛は生きたまま連れて行けばよい。1頭を屠殺すれば100人分の1日の牛肉を賄うことができる。パンの材料となる小麦粉は後方から運ぶしかない。セント・クレアの遠征で使われた輸送手段は駄馬である。駄馬は十分な秣を与えられないと弱って輸送力が落ちる。寒さによって多くの駄馬が動けなくなり補給に支障をきたしたことでセント・クレアの部隊の兵士達は戦う前から飢えていた。
もちろんそうした問題にウェインも気付いていて「長期間にわたって駄馬や陸運といった手段のみで未開の原野をはるか遠くまで進軍する大規模な部隊に補給し続けることはほとんど不可能に近いことです」とノックスに伝えている。
ウェインは駄馬に代わる輸送手段を見つける必要があると考える。
そこで手始めにこれまでほとんど分かっていなかった周辺の地理を綿密に調査した。調査の結果、連水陸運路を使えばほとんど水路で補給ができることが分かった。補給が可能ということは軍隊の侵攻ルートとしても使えるということだ。
しかし、ウェインは踏破することが困難な陸路を敢えて選択する。なぜか。
もし陸路を進めばネイティヴ・アメリカンの襲撃を受けるかもしれない。ウェインはむしろそれを望んでいた。ネイティヴ・アメリカンと交戦して完膚なきまでに叩きのめさなければ、フロンティアの安定化を達成することはできないと信じていたからだ。
もちろんウェインはセント・クレアの轍を踏むつもりはない。
斥候を有効活用して奇襲に対して昼夜を分かたず警戒を怠らない。さらに軍営には徹底した防備が施された。600ヤード(550メートル)四方の軍営を高さ4フィート(1.2メートル)の丸太を積み上げて囲む。そうした奇襲に対する徹底した警戒ぶりから、ウェインは「狂気のアンソニー」という渾名に加えて「黒蛇」という新しい渾名でネイティヴ・アメリカンから恐れられることになった。黒蛇は眠らない生物だと信じられていたからである。おそらく本人は前者の渾名のほうが気に入っていたと思うが。
ネイティヴ・アメリカンから恐れられたウェインであったが、フロンティアの住民からは熱烈に歓迎される。北西部領地の初期の伝導者として有名なエズラ・フェリスは半世紀以上も後に少年の日の思い出を次のように綴っている。

1793年の春にこれまで記憶に残っていないような洪水に襲われました。これまでオハイオ川の水位がどの程度まで高くなるか知らなかったので、多くの入植者達は低い土地に小屋を建てていました。そこに彼らは普通の横棒柵で囲った菜園やトウモロコシ畑を作っていました。しかし、4月になって川の水位が非常に上がったので、多くの住民が住んでいる場所から追われることになりました。そして、悔しくも横棒柵が薙ぎ倒され、家屋が洪水で流されてしまうこともありました。幸いにも水位の上昇は非常にゆっくりであり、天候も穏やかだったので、所有している僅かな家畜をすべて救うことができました。[18]32年と[18]47年の洪水を除けば、この洪水はこれまでオハイオ川で起きたどの洪水よりも数フィート高かったと思います。洪水が収まると水は再び川岸のほうへ引いていきました。そして、長らく待望していた軍隊が到着して非常に勇ましい様子でオハイオ川を下って行きました。日曜日に彼らはコロンビアを過ぎて行きました。おそらくを4月の最後の日だったと思いますが、もしかすると5月の最初[該当する日曜日は54]かもしれません。ウェイン将軍と幕僚が最初にボートで到着してコロンビアに上陸しました。そこで彼は1時間程、船隊が追い着くのを待っていました。それから彼は船隊の前に通って進み、シンシナティを過ぎてミル川の上流にあるブナの森の中に本営を構えました。その場所を彼はホブソンズ・チョイスと名付けました。年老いた開拓者達が記憶している限り、長い間、その場所はその名前で呼ばれていました。この出来事[レギオンの到着]は喜びで迎えられ、人々は自分達がもう安全だと感じることができるようになりました」
 
 フェリスが書いているように、ウェインはワシントン砦に本営を設けずにわざわざホブソンズ・チョイスという森の中に本営を築いている。これは軍の規律を保つという明確な考えがあってのことである。
ワシントン砦の傍らには小さいが居酒屋を備えたシンシナティの集落がある。居酒屋が近くにあれば兵士達は呑んだくれて使い物にならなくなる。つまり、そうした「猛毒」から兵士達を遠ざけるために森の中を選んだ。
おそらくそうした選択はウェインにとってやむを得ない選択だったのだろう。それはその場所をホブソンズ・チョイス、すなわち「ホブソンの選択」と名付けていることからも分かる。
「ホブソンの選択」とは、17世紀のイギリスにいた貸馬車屋の主人トマス・ホブソンに由来する表現である。ホブソンがいつも一番近くにいる馬から貸すことにして客に馬の選択を許さなかったことから、勧められたものを拒むか受け入れるしかない状態を指す。ウェインは兵士達に規律を守らせるために仕方なく不便なホブソンズ・チョイスに本営を築いた。
ホブソンズ・チョイスでアメリカ軍は荒野を進軍する準備を整える。まず考えなければならないことはやはり補給である。とりあえず最前線であるジェファソン砦に物資を集める手配がなされる。そして、ネイティヴ・アメリカンの襲撃に備えてマクマホン率いる100人のライフル銃兵が先にジェファソン砦に出発する。
ジェファソン砦まではセント・クレアが前回の遠征で切り開いた道が続いている。道幅は15フィート(4.6メートル)である。この道幅では大量輸送が可能な荷馬車の運用に適していない。そこでウェインは道幅を44フィート(13メートル)に拡張する工事を取り掛かるように500人の作業部隊に命じる。
暫くしてチカソー族から作戦に参加したいという申し出が届く。そこでウェインはクラークを協議に向かわせる。クラークはスペイン官憲の目を避けながらはるか西に向かい、チカソー族の戦士達がいる集落へ向かう。きっと戦士達は有能な斥候として役に立ってくれるだろう。
こうして作戦の準備は着々と整えられつつあったが、まだ開始の号令は下されない。ネイティヴ・アメリカンと和平の交渉に向かった使節団はまだ帰還していなかったからだ。使節団の一員であったピカリングは次のような手紙を妻に送っている。

「インディアンは彼ら自身の間で分裂しています。平和を求める者もいれば、戦争求める者もいます。しかし、そうした議論に対してを大きな影響力を持つ者はほとんど平和を好んでいません。平和を好まない者達は会談を妨害しようとしています。インディアンは我々を迎えるべきか否か決定できないでいるようです。数日もすれば決定されるでしょう」

ノックスの命令によって、使節団から交渉の結果の報告を受けるまでウェインは作戦を開始することはできない。
できる限り兵士達を集落に近づけないように配慮したウェインであったが、兵士達と入植者の間で揉め事が起きるのを完全に防止することはできなかった。いくら歓迎されようとも軍隊はいつの時代も何らかの紛争を地元の住民と起こすものと決まっている。そこでウェインは、「民法は軍隊に優越する。その原理は絶対に絶対に守られなければならない」と兵士達に布告して軽挙を戒めた。
さらにウェインを悩ませたことは、ワシントン砦を預かるウィルキンソンとの不和である。ウィルキンソンはスペインの手先となって密かにウェインを妨害しようと暗躍している。それにウェインとウィルキンソンはもともと個人的に仲が悪い。
かつて独立戦争の頃、ウェインはフィラデルフィアに駐在することがあり、社交界で浮き名を流した。その時の相手の1人が後にウィルキンソンの妻となる女性であった。結婚後も妻がウェインと親しく交際していたのでウィルキンソンは不快に感じていた。奸計を知らなかったウェインであったが、ウィルキンソンをワシントン砦からジェファソン砦に移すことで当面の問題を解決した。
なかなか使節団から結果の報告がないことで苛立ちを深めるウェインを宥めるためにウィリアム・ハリソンは、古い時代のネイティヴ・アメリカンの遺構を案内して回る。さらにウィリアム・ウェルズ大尉が会談が行われている場所に行ってネイティヴ・アメリカンの動静を探り出してくる任務を買って出る。申し出に喜んだウェインは、ネイティヴ・アメリカンの指導者達が何を考えているのか正確に分かる情報を集めてくるようにウェルズに指示した。
このウェルズという人物は特殊な経歴を持っている。12歳の頃に誘拐された白人でマイアミ族として育てられた。ネイティヴ・アメリカンの間ではブラック・スネークという名前で呼ばれていた。リトル・タートルの娘婿であり、ウォバシュ川の戦いでは、ネイティヴ・アメリカンの中でマイアミ族の戦士達を率いてアメリカ軍と戦った。
ウェルズは、きっといつか自分の親族を知らずに殺めてのではないかと悩むようになる。捕えられた妻を取り戻すためにアメリカ軍と交渉に訪れたウェルズはそこで実の兄に会う。兄はアメリカ軍の大尉としてウォバシュ川の戦いに参加していた。ウェルズが恐れていた通りに、そうとは知らずに2人は敵味方に分かれて戦っていた。
兄の説得を受けてウェルズはまたは誘拐される前の少年時代の記憶を思い出してケンタッキーに戻ることを決意する。ウェルズは舅のリトル・タートルに別れを告げる。

「長い間、我々は友達でした。太陽が天高く昇るまで我々はまだ友達です。それから我々は敵になっておそらくお互いに殺し合うことになるでしょう」

こうしてウェインの遠征に加わったウェルズはネイティヴ・アメリカンの慣習や戦術、フロンティアにおける行軍に詳しい得難い人物であり、ハリソンによれば「我々の作戦に必要不可欠な人間」であった。

暫くしてノックスから新しい命令が届く。その内容はウェインを激怒させる。オハイオ地方に配置している過剰な兵力を削減して物資の集積を止めよと書かれている。
これは、ウェインが敵対的な行動をしているとネイティヴ・アメリカンから抗議を受けたという報告が使節団からノックスに届いたからだ。
憤懣やるかたないウェインは、最近のネイティヴ・アメリカンの襲撃についてまとめた報告を添えるとともに、もしこのまま事態を放置すれば「森林と街道は野蛮人が跋扈するところとなるでしょう。神も私の手を自由にしたいときっとお望みです」とノックスを強く諌めた。
ワシントンはノックスに全面的に遠征の方針決定を委ねていて口をほとんど挟むことはなかったが次のように釘を刺している。

「もし敵対的なインディアンによってすべての和平交渉が拒否され交渉が失敗した場合、軍隊が進軍できる準備ができていなければ、遠征は春まで延期されることになるでしょう。そして、水位や秣の状態が許す限り迅速に遠征を開始するために拠点の構築や弾薬の準備などを全力で行わなければなりません。あなたとウェイン将軍が交わしている手紙から彼がそれを実行することに疑いを抱いて何もする力がないと私が判断すれば、彼を罷免するべきです。彼が熟考している目的を達成するために尽力することが非常に重要であるというのが私の考えです」

 この手紙を見るとワシントンがウェインを信頼するとともに、ネイティヴ・アメリカンの戦いに備えて準備を進めることが重要であると考えていたことが分かる。もちろん交渉による和平の実現を望んでいなかったわけではないが、十分な武力を持たない者が和平を口にしても無駄であるというのがワシントンの信条であった。

 816日、使節団がネイティヴ・アメリカンから受け取った1通の手紙によって和平交渉は終わりを告げる。手紙には、アメリカ人はオハイオ地方の入植地を放棄すること、そして、アメリカ政府はネイティヴ・アメリカンに代わって入植民が彼らに支払った土地の代金を補償することが記されていた。
それを読んだ通訳は、「インディアンに関する知識やその表現形式を知る者は誰もそれがインディアンの言葉だと信じないでしょう」と使節団に注意を促す。通訳が見抜いた通り、その手紙はネイティヴ・アメリカンによって書かれたものではなく、イギリス軍の士官によって書かれたものであった。つまり、アメリカとネイティヴ・アメリカンを反目させようとする離間策である。
使節団は離間策に乗せられてしまい、これ以上の交渉は無理だと判断してウェインに「我々は平和を達成することができませんでしたが、今後は軍事作戦によって良い結果がもたらされるに違いないと思っています」という報告を送る。
この報告によってウェインは遠征を実施できることになった。さらにウェインにとって嬉しいことにクラークがチカソー族の戦士達を伴って帰還した。
 夏は足早に過ぎ去ろうとしていて、軍事作戦を実行するのであれば急がなければならない。ウェインには急がなければならない理由がある。
ネイティヴ・アメリカンが連合して大規模な攻撃をアメリカに対して企てているという報告がウェルズから届いていた。ウェルズの報告によればネイティヴ・アメリカンは外国勢力と手を組んで3方面から侵攻を計画しているという。
イロクォイ6部族連合はイギリス軍と協力してニュー・ヨークに侵攻する。オハイオ地方の諸部族も同じくイギリス軍と手を組んでオハイオ川周辺に配置されたアメリカ軍の砦を襲撃する。南部の諸部族はスペイン軍の支援を受けてチカソー族やチョクトー族などアメリカに友好的な部族を撃滅した後、ジョージアと南西部領地を攻撃する。
もしこのような大規模な攻撃が本当に実現すれば、アメリカは破滅するかもしれない。そうした悪夢が実現しないようにするためにはどうすればよいか。先手を打つことである。
まずオハイオ地方の敵対する諸部族を撃破してしまえば、他の地域のネイティヴ・アメリカンは意気阻喪してアメリカを襲撃しようとは思わなくなるだろう。
したがってウェインの遠征が成功するか否かにアメリカ全体の命運が掛かっていた。ウェインの遠征は他に選択肢が許されないという点からしてまさに「ホブソンの選択」であった。

ホブソンズ・チョイスには2,600人のレギオンが勢揃いしている。さらにウェインは1,500人のケンタッキーの騎兵隊にジェファソン砦で合流せよと命じる。一刻も早く作戦を開始したいウェインであったが、様々な障害が噴出する。
ホブソンズ・チョイスでインフルエンザが流行し、さらに天然痘が蔓延した。補給に狂いが生じて予定の4分の1しか小麦粉の備蓄がないという報告が届く。物資を調達する請負人の代表はロバート・エリオットという人物であるが、なぜ契約を果たそうとしないのかまったく説明しようともしない。自らもインフルエンザに苦しみながらウェインは入手できる限りの小麦粉を購入するように命じる。そして、数百頭の軍馬を派遣して物資の輸送に当たらせる。
こうしたウェインの努力が実って10月の初旬には進軍に必要な物資を何とか集めることができた。そして、進軍が始まる。

アメリカ軍が北進を開始するとともに、ネイティヴ・アメリカンも静かに動き出す。ウォバシュ川の戦いでアメリカ軍を包囲殲滅する作戦を立てたリトル・タートルであったが、ネイティヴ・アメリカンの戦術の欠点にも気付いていた。
いかに優れた指導者達と熟練した戦士達が作戦を行っても広大な戦場に散開すれば、もし敵が一箇所に戦力を集中して突出しようとすれば支えきれない。
そこでリトル・タートルは大規模な戦闘を避けるべきだと考えて指導者達に補給線に打撃を与えるように勧めた。そこでオタワ族の40人の戦士達が情況を視察するために南下した。

軍営の周辺を哨戒していた竜騎兵隊はオタワ族の2人の戦士を発見する。隊長が先頭になって突撃すると残りの戦士達が急に姿を現す。驚いた竜騎兵達は隊長を置き去りにして遁走してしまう。
報告を受けてウェインは今後、敵前逃亡を行った者は銃殺刑に処すと兵士達に厳重に布告した。オタワ族の戦士達を逃したことは失策であった。オタワ族の戦士達は、輜重隊の襲撃を繰り返し、その他の拠点にも攻撃を仕掛けて補給線を脅かした。
1021日、チャールズ・スコット将軍率いるケンタッキーの騎兵隊が到着する。ウェインは、水路で補給が可能か最終確認するために先行させた偵察部隊を追って北進を続ける。
1024日夜、初雪が降る。そして、数日にわたって凍てつくような氷雨が続く。残された時間は少ない。集めた兵士達の兵役期間は翌春になればほとんど切れてしまうので、来年も同じように作戦を実行できるかどうか分からない。攻勢を仕掛けるのでは今しかない。
それでもウェインは慎重を期すために偵察部隊の帰りを待つ。補給線が確保できなければ、これ以上の進軍は自殺行為だからである。もしこの作戦が失敗に終われば、ネイティヴ・アメリカンはさらに勢い付いてアメリカに大規模な攻撃を仕掛けようとするだろう。

1031日、次第に寒くなる中、ウェインは作戦会議を開く。議題はこのまま作戦を続けるべきか否かである。残された時間はあまりに少なく糧食も十分ではないので、今年の作戦はもう終了すべきであると士官達は全会一致で決定する。
 そうした決定を最も残念がっていたのはスティッフ・ニーという1人のネイティヴ・アメリカンの指導者である。スティッフ・ニーはウォバシュ川の戦いで倒れたリチャード・バトラー将軍の死を深く悼み、復讐を果たすためにウェインの遠征に参加していた。今年の作戦はもう終わりだと聞いて復讐の機会が失われることを恐れたスティッフ・ニーは、奇襲を仕掛けるために一隊を貸して欲しいとウェインに懇願する。
懇願を断ったウェインであったが、1人でも奇襲を仕掛けると言い張るスティッフ・ニーの亡友を思う思いに感心して、翌春には必ず復讐の機会が訪れると約束する。
ウェインから約束を取り付けてもスティッフ・ニーの心は鬱々として楽しまない。スティッフ・ニーの話によれば、復讐を果たしてくれるように願うバトラーが毎夜、夢枕に立つという。そして、ある日、遂にスティッフ・ニーは復讐を果たすことができない今、亡友のためにできることは我が身を捧げることだと決心して胸に剣を突き立てて生命を絶った。
ウェインはスティッフ・ニーをむざむざ死に追いやったわけではない。このまま撤退するだけでは今年の作戦の成果がまったくないことになるとウェインは考えた。翌春の作戦のために何らかの準備をしておくべきである。
116日、兵士達はグリーンヴィル砦の建設に着手する。グリーンヴィル砦が翌春の作戦の起点になる。
ウェインが優れていた点は目前の作戦だけに捕われなかったことである。いつイギリスやスペインがあるネイティヴ・アメリカンと協力して攻勢を開始するかもしれない。そうした動きを警戒するためにウェインはウェルズと偵騎を各地に派遣して情勢を探らせる。軍事作戦を取り巻く情勢を広い視野で見ることができる将軍は得難い人物である。
グリーンヴィル砦が完成した後、ウェインはさらに24マイル(39キロメートル)北上してウォバシュ川の戦いの跡地まで到達する。跡地の陰惨な情景を1人の兵士は次のように記録している。

「我々はその場所に聖誕祭の日に到着して戦場にテントを張ることにした。600個の頭蓋骨が集められて埋葬された。夜になってテントを張ろうとした時、人骨を堀り起こしてしまったので運び出して寝床を作らなければならなかった」

戦場の近くにウェインは新しい砦を築くことを命じる。完成した砦はリカヴァリー砦、すなわち「再生の砦」と名付けられる。それはアメリカ軍がウォバシュ川の戦いで受けた屈辱を雪ぐという明確な意思表示だ。
各地の情勢を探らせるために放った偵騎が帰還する。報告によれば、イギリスの工作員がアメリカに協力して対抗するようにネイティヴ・アメリカンに呼び掛けているという。さらに偵騎は、なぜ補給に狂いが生じていたのか原因を探り出してきた。
それはウィルキンソンがレギオンの進軍を妨害しようとする工作の一環である。しかもウィルキンソンは一部の連邦議員と結託して自分をウェインの代わりに総司令官に任命する人事をワシントンに提案するように密かに画策しているという。ウィルキンソンの協力者が具体的に誰であったかは必ずしも明確ではないがウィルキンソンが影響力を持つケンタッキーの有力者が陰謀に関与していたと考えられる。

こうしてウェインが翌春の軍事作戦に備えている間もフロンティアを巡る情勢は目まぐるしく変わっていた。イギリス領カナダを統括するカールトン総督はイロクォイ6部族連合に向けて、「現時点で我々がアメリカ人と戦争になっても、私はまったく驚かないでしょう。もう既に我々の忍耐は限界に達しています」と演説した。これは事実上の宣戦布告の予告に近い。
 カールトンの演説を知った者は、ほとんどが誤報だと思ったが、ワシントンはそれを真摯に受け止め、イギリスがアメリカに対して敵意を持っている明確な証だと判断した。そこで国務長官を通じてカールトンの演説にどのような意図があるのか確かめるために駐米イギリス公使ジョージ・ハモンドに文書を送った。

「イギリス公使が善意の確認を進めようとしているまさにその時に、ドーチェスター卿[カールトン]が合衆国に対するインディアンの敵対的意図を助長しようとしています。この演説が戦闘行為の予兆となっているだけではなく、今朝、届いた諜報がもし本当であれば戦闘行為自体があるということです。シムコー総督[代理]はマイアミの急湍に[マイアミズ]砦を建設するためにイギリス軍の連隊から3個中隊を率いて出発したそうです」

 ハモンドは、カールトンの演説が本物であることと砦の建設が計画されていることを認めたうえで、逆にアメリカもイギリスに対して様々な敵対行為を取っていると反論する。
このままアメリカとイギリスのすれ違いが続けば、開戦に至る恐れががあるとワシントンは考えた。このことは最高裁長官ジョン・ジェイをイギリスに派遣することをワシントンが決意する大きな契機となった。ジェイの派遣は後にジェイ条約として結実することになる。

217日、カールトンはデトロイト砦を守るために南を流れるモーミー川流域に新しい砦を築くようにアッパー・カナダを統治するシムコーに命じる。モーミー川の畔にはアメリカ軍が作戦目標とするケキオンガがある。つまり、アメリカ軍に対する牽制だ。それを知ったハモンドは、アメリカの領土内に砦を建設する行為は明らかな敵対行為であって戦争に直結すると本国に警告した。

その一方でフィラデルフィアではウェインを総司令官の地位から引きずり降ろす陰謀が進行中であった。ウィルキンソンと示し合わせた連邦議員がウェインに関する悪い噂を流し始める。それでもワシントンのウェインに対する信頼は揺らがない。焦燥感に駆られたウィルキンソンは、ウェインが将軍として無能で腐敗している糾弾する手紙をワシントンに直接送る。ワシントンはそのような讒言にまったく耳を貸さなかった。

作戦の開始に備えて兵站を担当する士官は、物資を調達する請負人を監督していたが、請負人の代表を務めるロバート・エリオットに物資の搬入が予定よりも遅れているので改善して欲しいと何度も申し入れた。それでも改善が見られなかったので士官はウェインに状況を報告する。
即座にウェインはマクマホンを呼ぶと牛、馬、小麦粉を掻き集めてくるように命じる。そして、ウェインからエリオットに1通の手紙が送られる。手紙には、マクマホンが物資を購入するために使った費用はすべて請負人達に請求すると書かれていた。たとえどのような金額になろうとも。
こうした通告はどのような警告よりも効果があった。破産を恐れた請負人達は物資をできる限り迅速に整えるべく奔走し始める。
物資を調達できても補給線を確保することは容易なことではない。
60人のネイティヴ・アメリカンの戦士達が700頭の駄馬からなる輜重隊を襲撃した。クラーク率いる80人の歩兵と竜騎兵からなる部隊が駆け付けて撃退したが、若干の死傷者が出たことに加えて、40頭の馬が連れ去られた。そういう小さな襲撃が何度も繰り返された。
物資がなかなか確保できずに困窮していたウェインであったが、さらに困った事態が起きる。スペインの5隻の小型砲艦がミシシッピ川を遡上した後、オハイオ川に向かう動きを見せているという。いったい何を考えているかは分からないが、友好的な意図を持っているわけではないことは分かる。
そこでウェインは、ミシシッピ川とオハイオ川の合流地点に近くに新しく築かれたばかりのマサック砦に一隊を派遣して警戒に当たらせる。
さらに凶報は続く。諜報活動を行っていたウェルズの報告によれば、今度はモーミー川の畔にイギリスがマイアミズ砦を建設し始めたという。こうした状況をウェインはノックスに「私は非常に危うく不快な状況に置かれています。私が攻撃したいと思っていたまさにその場所、すなわち敵対的な諸部族の中心地をイギリスが今、占拠しようとしています」と報告した。
緊張が高まる中でウェインには他の心配事がある。ウィルキンソンの処遇である。
ウィルキンソンが何か陰謀を企んでいるのではないか疑い始めたウェインであったが、まだ確証はない。したがって、副将のウィルキンソンを作戦から表立って締め出すことはできない。そこでウェインはウィルキンソンに一翼を預けるとともに、信頼できる士官達をその下に配置して監視させることにした。そして、もし自分の身に何かあったら全軍の指揮をウィルキンソンではなくスコットに委ねるように布告する。
これは異例の措置である。なぜならスコットの階級は少将であるがケンタッキー州民兵隊の将軍であって、連邦軍とは本来、指揮系統が異なる。もしウェインが総司令官を続けられなくなった場合、その地位は当然ながら連邦軍の准将であるウィルキンソンに与えられるべきである。スコットをわざわざ指名していることはウェインがいかにウィルキンソンを信頼していなかったかを示している。

アメリカ軍が進軍の準備を整えていた一方で、ネイティヴ・アメリカンも攻勢に出ようとしていた。大胆にもネイティヴ・アメリカンの指導者達は、リカヴァリー砦の襲撃を計画する。
彼らの狙いは、前回の戦いでセント・クレアの部隊が遺棄した大砲である。リカヴァリー砦のすぐ傍に埋まっている筈である。それを掘り起こせば砦の攻撃に使うことができる。ネイティヴ・アメリカンは大砲の使い方をほとんど知らなかったが、イギリス軍の士官と砲兵が随行するのでまったく問題ない。
619日、2つの部隊に分かれた総勢1,600人のネイティヴ・アメリカンの戦士達がリカヴァリー砦を奪取する作戦を開始する。
リカヴァリー砦は15フィート(4.6メートル)の高さの防柵の中に防塞が4つある。視界を保つために200ヤード(180メートル)四方にわたって周囲が切り開かれている。そして、少し離れたウォバシュ川の畔にさらに防塞が1つ設けられていた、守将はアレグザンダー・ギブソン大尉である。
リカヴァリー砦を目指して進軍中であったネイティヴ・アメリカンの戦士達は、輜重隊が近くまで来ていることを察知する。そこで砦を陥落させる前に輜重隊を先に襲おうと指導者達は考える。
危険が迫っていることを知らずに360頭の駄馬とマクマホン率いる140人の竜騎兵とライフル銃兵からなる護衛隊はリカヴァリー砦の傍で野営していた。
翌朝未明、黄色のリボンを身に付けたネイティヴ・アメリカンがリカヴァリー砦に姿を見せる。それはウェインが偵察に送り出したチカソー族の戦士達であり、黄色のリボンは敵対する諸部族と混同しないようにするための徽章である。チカソー族の戦士達は敵が近くまで迫っていることを警告しに来たのだが、生憎と指導者は英語を話すことができない。守将のギブソンは何とかして事情を聞き取ろうとしたが、その指導者が多くの足跡を見て何度も銃声を聞いたらしいということしか分からなかった。
朝食を終えた輜重隊と護衛隊はテントを畳んで出発する。そして、森の中を少し進んだところでネイティヴ・アメリカンの奇襲を受けた。
マクマホンは、竜騎兵隊の先頭に立って何とか輜重隊を守ろうと飛び出す。ライフル銃兵が後に続く。僅かな時間の交戦でマクマホンは銃弾に倒れる。
奇襲に気付いたギブソンはリカヴァリー砦から救援部隊を派遣する。救援部隊による銃剣突撃のお蔭で竜騎兵隊とライフル銃兵は安全な砦の中に撤退することができた。
ネイティヴ・アメリカンの戦士達は木の陰や切り株に隠れながら砦を包囲して四方八方から銃撃を浴びせた。防塞の丸太に多くの銃弾がめり込んだが、兵士達にはほとんど犠牲は出なかった。
砦の防御が固いことを見て取ったネイティヴ・アメリカンの指導者達は作戦を変える。当初の予定通り、セント・クレアが遺棄した大砲を掘り起こして砦の攻略に使おうと考えた。戦士達は戦場に散って地面を掘り返し始める。しかし、実は大砲は守備兵によって既に掘り返された後で、砦に鎮座していた。
結局、大砲を発見できなかった戦士達であったが、ここまで来て砦の攻略を諦めるつもりはない。そこで戦士達は手に手に斧を持って防柵を破壊しようと一斉に攻撃を仕掛ける。
砦の中から120挺のライフル銃と7門の大砲が火を噴く。砦の周囲には遮蔽物は何もない。ネイティヴ・アメリカンは散弾と銃弾を受けて慌てて森の中に退却するしかなかった。ギブソンは砲撃を続けて森の中に叩きこむように命じる。砲弾の欠片が絶え間なく降り注ぐ中で戦士達は戦意を失う。
さらにネイティヴ・アメリカンの陣営で、一緒に戦っているオジブワ族が同盟者である筈のショーニー族の女や子供を襲撃したのではないかという噂が広まる。そうした噂が囁かれている中でアメリカ軍のために斥候を務めるチカソー族の戦士達が忍び寄ってオジブワ族を殺害して頭皮を剥いだ。
頭皮を剥がれた仲間達を見つけたオジブワ族はショーニー族が復讐し始めたのだと信じ込む。ショーニー族は同盟者を襲撃するようなことはしないと否定したがオジブワ族は耳を貸さず戦場を去る準備を始める。それでもオジブワ族は戦場を去る前に砦に対して最後の総攻撃を仕掛けることに同意した。
深夜、戦士達は松明を手にしてリカヴァリー砦を再び取り囲む。しかし、それが失敗であった。砦から見れば松明は格好の的である。ネイティヴ・アメリカンは多くの犠牲を出して撤退を余儀なくされる。
翌朝、オジブワ族は他の2つの部族とともに立ち去った。残った戦士達も完全に戦意を失ってその後を追う。

グリーンヴィル砦ではウェインが進軍の準備を進めていた。スペインの動きに対してはマサック砦が抑えとして十分に機能してくれる筈であり、現時点では心配はない。それよりも問題は作戦領域にあるイギリス軍のマイアミズ砦である。
ウェインはマイアミズ砦について既に命令を受けていた。すなわち、もしマイアミズ砦の攻略がオハイオ地方のネイティヴ・アメリカンの制圧に必要であれば、成功する見込みが高い場合に限って攻撃を許可する。
2,000人の連邦軍がグリーンヴィル砦に駐留していたが、多くの士官達はその程度の兵力ではセント・クレアの二の舞いになるのではないかと不安に思っていた。士官達の不安を払拭するためにウェインはスコットがケンタッキーの騎兵隊を率いて合流するのを待つ。
約束の期日より5日遅れて、スコットは自ら「全員がべらぼうな戦友達」と誇る1,700人の騎兵を伴ってグリーンヴィル砦に到着する。
727日、ウェインはノックスに宛ててグリーンヴィル砦から最後の報告を送った。

「翌朝6時、レギオンは進軍を開始します。[中略]。事情が許す限り我々の進軍は迅速で秘密に行われます。[中略]。我々は多頭の怪物と戦うことになるでしょうが、前方でも広報でもすべての我々の敵を撃破することができると私は確信しています」

 729日、アメリカ軍はリカヴァリー砦のすぐ近くまで進軍して軍営を築く。その夜。ウェインはリカヴァリー砦の防衛でネイティヴ・アメリカンを撃退した守備兵を集めた。そして、「世界で最も勇敢な戦友達」と呼び掛けながら親しく肩を叩き握手して回る。リカヴァリー砦に少数の兵士を残すとウェインはさらに北に向かう。
 2日後、兵士達は沼沢地帯に差し掛かる。安全に沼沢を渡ることができるようにするために100ヤード(90メートル)の長さの橋が建設される。10時間の作業時間が費やされた。
その一方でケンタッキーから来た測量技師のロバート・ニューマンが作成した図面に基づいてセント・マリー川に向かう道が整備される。セント・マリー川に到達したアメリカ軍は、軍営を築いて輜重隊が到着するのを待つ。ここからさらに進軍するためには補給線を守る必要がある。そこでウェインは小さな砦を新しく設けてアダムズ砦と名付ける。
アダムズ砦から進路は2つに別れる。セント・マリー川に沿って本来の目的地であるケキオンガに向かうか、それともオーグレーズ川とモーミー川の合流地点にあるグレーズに向かうかである。
グレーズは7つの集落と交易所が集まった中心地であり、ケキオンガがアメリカ軍の攻撃を受けた後、オハイオ地方のネイティヴ・アメリカンの策源地になっていた。
ウェインの前には2つの選択肢が示されている。そのままケキオンガに向かってネイティヴ・アメリカンの攻撃を待つか、それともグレーズを先に占拠して後顧の憂いを絶ってからケキオンガに向かうかである。
ウェインは後者を選択する。きっとネイティヴ・アメリカンはアメリカ軍がケキオンガに直行すると油断してグレーズの防備を怠っているだろう。
ニューマンはグレーズへの侵攻ルートを測量するように命令を受ける。しかし、翌朝、ニューマンの姿が見当たらないという不可解な報告が届く。前夜、ニューマンは軍営を出て立ち去ってしまったという。なぜニューマンが姿を消したのか理由を説明できる者は誰もいない。
83日午前3時、不幸な事故が起きる。ウェインが眠っていたテントの上に木が倒れた。幸いにも切り株が衝撃を和らげたお蔭でウェインは助かった。
原因が早速、調査される。すると木の根元に焼け焦げた跡が発見される。何者かが事故に見せかけて総司令官を暗殺しようと試みたようだ。
総司令官が事故で亡くなったという噂が広まり、アダムズ砦を建設していた兵士達は手を止めてしまった。
膝と腰に怪我を負って動くのもままならないウェインであったが、兵士達に元気な姿を見せて噂を打ち消す必要があると考えた。そこで副官の手を借りて馬に跨って、補給が届き次第、すぐに進軍を開始すると触れ回る。それから数時間後、輜重隊は無事に到着した。
84日午前5時、レギオンは進軍を再開する。オーグレーズ川に沿って進むレギオンの前にデラウェア族の集落が広がる。先行して襲撃に向かったケンタッキーの騎兵隊は集落に入ったが、放棄された集落のようで人気はない。
そのまま進軍を続けたレギオンは、豊かなトウモロコシ畑を過ぎて遂にグレーズに達する。ウェインの予測通り、ネイティヴ・アメリカンは油断していた。アメリカ軍が突然、姿を現したことに驚いたグレーズの住民達は、ほとんど身の周りの品も持たずに慌ててカヌーで逃れて行く。あっという間にグレーズは無人になる。グレーズを占拠したウェインは恒久的な砦の建設に取り掛かる。
その一方でネイティヴ・アメリカンの使者は四方に散って戦士達を集めていた。そうした動きに呼応してイギリスも動き始める。
マイアミズ砦を預かるウィリアム・キャンベル少佐は増援をアッパー・カナダから送るようにシムコーに要請する。シムコーは増援をすぐに送ることを約束するとともに「戦争が不可避である」という見解を添えた。
さらにリトル・タートルがイギリス軍の支援を確約して欲しいと申し入れて来た時に、シムコーは必ず支援を行うと約束した。その際にはシムコーが自らマイアミズ砦に赴き、イギリス軍とアッパー・カナダの民兵隊の指揮を執り、ネイティヴ・アメリカンと軍議を開くことになるだろう。

グレーズでウェインは今後の方針を考えていた。マイアミズ砦にイギリス軍が結集しつつある。もしこのまま進軍を続けてイギリス軍と衝突すれば全面戦争になる恐れがある。ワシントンがそうした事態を避けたかっていることをウェインは十分に理解していた。
リカヴァリー砦の奪取に失敗したことでネイティヴ・アメリカンの指導者達は和平交渉に応じようと考えを改めたかもしれない。そこでウェインはウェルズを送り出す。
ウェルズの任務は、ネイティヴ・アメリカンの指導者達がいまだに戦いを続けようとしているのかどうか確かめるために事情を知っていそうな者を捕えることだ。

ウェルズは3人の仲間達とともに任務に出発する。4人は首尾良く1組のネイティヴ・アメリカンの男女を捕まえることができた。しかし、それだけでは満足できない。そこで縛り上げた捕虜達を安全な場所に隠して夜陰に乗じてネイティヴ・アメリカンの陣営に忍び込むことにした。
4人は白人であったがネイティヴ・アメリカンの間で過ごした経験を持っているので言葉には不自由しない。ネイティヴ・アメリカンの装束を着て肌の色さえごまかせば遠目には分からないだろう。
ウェルズは3人を引き連れて堂々と焚き火を囲む戦士達に近付く。偽装が発覚したと分かるや否や4人は素早く発砲して戦士達を倒す。そして、馬に飛び乗ってその場を離れる。
背後から銃弾が飛んで来て身を掠める。馬が足を取られて転倒したせいで1人が捕縛される。残りの3人は馬に激しく鞭を入れて何とか追撃から逃れることに成功した。安全な場所まで逃れて一息付いた時、ウェルズは腕に銃創があることに気付いた。

ウェルズが連れて戻った捕虜に尋問した結果、ネイティヴ・アメリカンの指導者達は、もしイギリス軍の協力が得られなければ和解交渉に応じるつもりであることが分かる。そこでウェインは、イギリス馬が本格的に支援に乗り出す前に和解交渉をまとめようとネイティヴ・アメリカンに使者を送る。
その一方で兵士達は新しい砦を完成させた。その出来栄えに満足したウェインは、「私は砦を奪取しようとするイギリス人、インディアン、そして、すべての地獄の悪魔に挑戦することができるだろう」と述べて砦をデファイアンス砦、すなわち「挑戦の砦」と名付けた。
使者の呼び掛けに応じて集まった指導者達は、今後の方針をどうするか決定するために会議を開く。リトル・タートルは慎重論を展開する。イギリス軍が本当にネイティヴ・アメリカンに本腰を入れて協力するかどうかは分からない。それに今度もウォバシュ川の戦いのようにアメリカ軍を打ち破るかどうかは分からない。大規模な戦闘が起きる前に和平を申し出るべきである。さらにリトル・タートルは次のように述べた。

「我々は2度にわたって別々の指揮官が率いる敵軍を打ち破った。それとまったく同じような好運が常に我々にもたらされると期待することはできない。今、アメリカ軍は決して眠らない将軍によって統率されている。我々の若者達が監視する中、彼は我々の集落に向けて進んでいるが、その全期間、彼にとって昼も夜も同じであり、我々は決して彼を奇襲することはできない。よく考えて欲しい。私に何かが囁くのだ。彼に講和を申し出ることが最善の知恵だと」

このようにリトル・タートルは警告して軽挙を戒めた。しかし、ウォバシュ川の戦いでアメリカ軍を打ち破ったことで自信を深めた指導者達はリトル・タートルの主張を受け入れようとしない。あまつさえリトル・タートルを臆病者だと嘲る。リカヴァリー砦をめぐる戦いで犠牲が出たのは攻城戦に慣れていなかったせいで野戦であればセント・クレアを打ち破ったようにウェインを打ち破れると指導者達は信じていた。それにアメリカ軍はせいぜい砦を守ることができるくらいで、野戦を敢えて挑もうとはしないだろう。
戦士達を戦いに投じることが決定される。イギリス軍の支援を求めるために使者がイギリス軍に派遣された。
ネイティヴ・アメリカンの要請を受けてイギリス軍は、ウィリアム・コールドウェル大尉率いる亡命者志願兵中隊を支援部隊として派遣することを決定する。亡命者志願兵中隊は、独立戦争時にカナダに亡命した者達からなる部隊である。もちろんアメリカと表立ってことを構えることはできないので、亡命者志願兵はネイティヴ・アメリカンの扮装を身に纏う。またマイアミズ砦を守るキャンベルは、もしネイティヴ・アメリカンがアメリカ軍撃破することに失敗した場合、全力で撤退を支援すると約束した。
ウェインから派遣された使者は、ネイティヴ・アメリカンの指導者達と会見した後、返答を受け取った。返答の内容は、もし話し合いを行う代表を派遣するのでデファイアンス砦で10日間待っていて欲しいというものであった。しかし、使者が返答を携えて戻った時、既にウェインはデファイアンス砦を出発していた。
返答を読んだウェインは、それがさらなる戦力を集めるための引き伸ばし策に違いないと考えて進軍を続行する。さらに後方のファイエット砦から連邦政府の課税に反対する住民による騒擾が起きたという報告が入った。それは後にウィスキー暴動と呼ばれる擾乱である。それでもウェインは進軍の決意を変えない。
818日、アメリカ軍はロシュ・ド・ブまで到達する。ロシュ・ド・ブからマイアミズ砦は10マイル(16キロメートル)しか離れていない。
アメリカ軍がロシュ・ド・ブまで進軍したことを知ったネイティヴ・アメリカンの戦士達は色めき立つ。指導者達が決戦の場に選んだのは、セオドア・ローズヴェルトの表現を借りれば「突風で覆された深い森があり、倒木が列をなして折り重なっていた」場所、すなわちフォールン・ティンバーズであった。フォールン・ティンバーズは、マイアミズ砦から5マイル(8キロメートル)南西にある。
19日が決戦の日になるに違いないと信じていた指導者達であったが、アメリカ軍は動く気配を見せない。
慎重を期したウェインはウィリアム・プライス少佐率いる150騎からなるケンタッキーの騎兵隊を偵察に送り出す。プライスの騎兵隊はネイティヴ・アメリカンが布陣しているのを発見すると、引き返してその旨を報告する。
ウェインは、デポジット砦を急造して非戦闘員や荷馬車を200人の護衛とともに残す。そして、明朝5時に進軍が開始されると兵士達に布告する。それが決戦に向けての最後の進軍になることを疑う者は誰もいない。
総司令官に着任してから24ヶ月を経てようやくウェインはネイティヴ・アメリカンと真っ向から勝負を挑む機会を初めて得た。敵対するネイティヴ・アメリカンを野戦で一気に撃滅すること。それ以外に確実な勝利を得る道はない。
ウェインの副官を務めていたハリソンは後に次のように回想している。

「彼ら[ネイティヴ・アメリカン]は繰り返された成功から自分達の勇気と戦術に自信を深めたことに影響を受けて、彼ら自身とその領地の運命を会戦に訴えることで賭けてみようと決意した。これこそアメリカの指揮官が望んでいたことであった。こうした致命的な決意によって、彼らは既に勝利の栄冠を彼の額の上に与えていたのだ」



フォールン・ティンバーズの戦い


 820日の朝は激しい雨とともに訪れた。ウェインは雨が降り止むまで出発を遅らせる。
7時過ぎに雨が上がると、「集合」を知らせる太鼓が打ち鳴らされる。30分後、進軍が始まる。
後に探検家として名を残すゼブロン・パイクはこの時、15歳でデポジット砦を預かる父とともにウェインが出発するのを見送っている。レギオンとケンタッキーの騎兵隊を合わせて総勢3,300人である。ウェインは砲兵隊の先頭を進み、命令を各所に伝達する副官達が随行している。ハリソンもその中の1人だ。
 アメリカ軍の先陣を務めたのは、昨日、偵察に送り出されたプライスの騎兵隊である。騎兵隊は背丈を越える高さの草が生い茂る氾濫原を右手に見ながら前進する。氾濫原の先には幅300ヤード(270メートル)のモーミー川が流れている。デポジット砦から5マイル(8キロメートル)進むとフォールン・ティンバーズに至る。そこで総勢1,100人からなるネイティヴ・アメリカンと亡命者志願兵中隊の連合軍が待ち構える。

ウェインではこれまでの常識ではあり得ない行軍陣形を選択する。それはワシントンから受けた指示を参考にして編み出した陣形である。
従来の方法は、行軍陣形からいかに迅速に戦闘陣形に移行して火力を集中させるかに重点が置かれていた。それをウェインはできる限り広く散開する陣形に改めた。命令を聞いたウィルキンソンは、もしそのように散開してしまえば、ネイティヴ・アメリカンの攻撃を受けても効果的な反撃を行うことができないと反対した。果たして戦闘陣形にうまく移行することができるのかと疑念を抱く士官もいた。
しかし、ウェインには明確な目的がある。すなわち、ネイティヴ・アメリカンの襲撃を受けた場合、軽歩兵隊がそれを受け流して主力の歩兵隊が攻撃態勢を整える時間を稼ぐ。正面から銃剣突撃を仕掛けるとともに騎兵が腹背に回り込んで挟撃する。火力の集中よりも機動性と即応性を重視した陣形である。

 慎重に馬を進めていたプライスの騎兵隊は、昨日の偵察でネイティヴ・アメリカンの姿を発見した場所から半マイル(0.8メートル)前方で停止する。朝から気温は上がる一方で蒸し暑く、騎兵達は汗に濡れたシャツを脱いだり喉を潤したりして緊張を解す。休息を終えた騎兵隊は前進を再開する。
戦闘が始まったのは午前10時少し前である。
ポタワトミ族とオタワ族が姿を現して、先頭で警戒に当たっていた騎兵を撃ち殺す。騎兵隊は激しい銃撃を受けて一旦後退する。そして、ライフル銃を手に取って反撃を開始する。
ポタワトミ族とオタワ族は怯んだように見えたが、そこへショーニー族が加勢に駆け付けて騎兵隊の腹背を突く構えを見せる。
騎兵隊はジョン・クック大尉率いる前哨部隊が見える場所まで後退する。戦場で敵前逃亡する者は誰であれ銃殺に処すというウェインの厳命を覚えていたクックは、後退して来る騎兵隊に一斉射撃を浴びせる。驚いた騎兵隊は散り散りになって前哨部隊を避けて本隊に向かって走り去る。
 そのすぐ後にネイティヴ・アメリカンの戦士達がクックの前に姿を現した。少数ながらクックの指揮下で歩兵達は踏み止まって一斉射撃を浴びせる。しかし、敵の数は増える一方だ。包囲されることを恐れた兵士達は逃げ出す。クックは残りの僅かな兵士達を率いて友軍に合流して抵抗を続ける。

 後方にいたウェインは戦闘が起きたことを知ると、「二段構えの戦列を組んで敵に備えよ」と命じた。ウェインの命令を伝えて各部隊を適切な位置に配置するために副官達が軍中に散る。二段構えとはすなわち、軽歩兵隊が襲撃を受け流している間に主力の歩兵隊が攻撃態勢を整えるという布陣である。
その一方でロバート・トッド将軍とトマス・バービー将軍率いるケンタッキーの騎兵隊は左翼の外側に布陣してネイティヴ・アメリカンの腹背に回り込む隙を窺った。

 本隊が戦闘陣形を整えている間にも戦闘は続いている。
友軍と合流したクックはポタワトミ族とオタワ族を何とか押し戻そうと奮戦する。そして、3回の一斉射撃を浴びせた後、じりじりと後退し始める。時間稼ぎはそれで十分であった。
ホーウェル・ルイス[vi]大尉率いる軽歩兵隊が戦列を形成して一斉射撃を開始する。その他の部隊も側面を固めるべく次々に支援に駆け付ける。

 ポタワトミ族とオタワ族が戦闘を続行している隙にネイティヴ・アメリカンの左翼は氾濫原を進んでアメリカ軍の右腹背に回り込もうとしていた。
 アメリカ軍の右翼を指揮するウィルキンソンは接近して来るネイティヴ・アメリカンの左翼を迎え撃つように命じる。敵の姿は丈が高い草のせいでよく見えない。しかし、銃口から立ち昇る硝煙でだいたいの位置を掴むことはできた。大砲が据えられ氾濫原に向けて葡萄弾を撒き散らす。戦士達は犠牲を出すのを恐れて撤退する。

 中央ではポタワトミ族とオタワ族がルイスの軽歩兵隊とライフル銃兵部隊を後退させるのに成功していたが、少し前進しただけで新手に行く手を阻まれる。熾烈な砲撃と銃撃を浴びせられて劣勢に陥ったオタワ族を支援するためにショーニー族が戦いに加わる。デラウェア族とマイアミ族も後に続く。そこへアメリカ軍の増援部隊が到着したために戦闘が激化する。

 戦闘の趨勢を見ていたウェインは、ワイアンドット族と亡命者志願中隊がアメリカ軍の左腹背に回り込もうとしているのに注意を向ける。迂回されるのを防ぐために左翼の戦線が引き伸ばされる。トッド率いるケンタッキーの騎兵隊が下馬してライフル銃を構え、薄くなった左翼を補強する。その一方でバービー率いる残りの騎兵隊はネイティヴ・アメリカンの背後を取ろうと大きく左に迂回する。
 深い森の中を進んでいたワイアンドット族と亡命者志願中隊はアメリカ軍の左腹背に回り込むことができたと確信した。しかし、そこにはトッドの下馬騎兵隊がライフル銃を構えて行く手を阻んでいた。戦場に広く散開してネイティヴ・アメリカンの動きを封じるというウェインの戦術的判断が見事に的中した。

 ウェインの副官達は命令を伝えに行ったり報告を持ち帰ったり、忙しく戦場を駆け回っている。副官達が心配であったのは自分の身の安全よりもウェインが陣頭指揮を執ろうと前線に駆け去ってしまうことであった。それを見かねてハリソンは忠告する。
「ウェイン将軍、あなたが自ら戦いに行ってしまって戦場に必要な命令を私の与えることを忘れてしまうのではないかと私は恐れています」
ハリソンの言葉にウェインは破顔して答える。
「もし私が戦いに行ってしまっても『忌々しい悪党どもに銃剣突撃せよ』といういつもの命令を思い出せばよい」

 氾濫原に戦士達の姿は確認できないという報告が入る。それはネイティヴ・アメリカンの左側面ががら空きになっていることを示している。
黒馬竜騎兵隊を率いるロバート・ミスキャンベル大尉はその隙を見逃さなかった。黒馬竜騎兵隊は大きく右に旋回した後、左に方向転換してネイティヴ・アメリカンの左腹背に喰らい付く。葦毛馬竜騎兵隊も後に続く。さらにライフル銃兵隊と軽歩兵隊も攻撃に加わる。左腹背から攻撃を受けたオタワ族は崩れ去って戦場から離脱し始めた。

 アメリカ軍の左翼でも戦局は有利に傾きつつあった。トッドの下馬騎兵隊は左腹背に回り込もうとしていたネイティヴ・アメリカンを撃退して着実に前進を続けている。さらに栗毛馬竜騎兵隊と鹿毛馬竜騎兵隊、そして、ライフル銃兵隊がその後を追う。
栗毛竜騎兵隊の先頭に立って戦っていたソロモン・ヴァン・レンセラー大尉は剣でネイティヴ・アメリカンに止めを刺そうとしている時に銃弾を受けた。胸からも口からも鼻からも血を流しながらヴァン・レンセラーは軍馬から降りずに敵が完全に撃破するまで鞍から離れるつもりはないと言ったという。

 中央で戦っていたデラウェア族とマイアミ族、そして、ショーニー族は両翼が今にももがれようとしているのに気付く。まるで戦士達の死を悼むかのように角笛が吹き鳴らされる。このままでは包囲されて殲滅されてしまうと指導者達は絶望に駆られた。
ウェインはネイティヴ・アメリカンに情け容赦をかけるつもりはない。この戦いで完全な勝利を得ればネイティヴ・アメリカンは不利な条件でも和平交渉に応じざるを得なくだろう。最大の政治的成果を得るためにはまず最大の戦果を上げなくてはらない。
 700人の歩兵隊が銃剣を焼け付くような陽光に煌めかせてウェインの突撃命令を待っていた。半矛で目前のネイティヴ・アメリカンを指しながら士官達が「前進。武器を構えよ」と一斉に叫ぶ。その瞬間、堰を切って兵士達は突撃を開始する。それを見ていたウェインは馬に一鞭入れて最前線に向けて駆け出そうとする。手綱を引いて馬を止めた副官をウェインは怒鳴りつける。
「俺を行かせろ。ちくしょうめ。俺を行かせろ。奴らに目にもの見せてくれる」

 銃剣突撃を受けたネイティヴ・アメリカンは支えきれずに後退し始める。最初は整然とした戦略的撤退であった。死傷者を運ぶ戦士達の後ろで、殿軍が代わる代わる発砲して追撃を阻みつつアメリカ軍の隙を狙う。しかし、容赦の無い歩兵隊の追撃によって次第にネイティヴ・アメリカンは余裕を失う。ショーニー族の戦士として戦いに参加していたテカムセは、戦死した愛する兄弟の亡骸を捨てて逃げなければならなかった。
 生き延びるためには北に逃げるしかない。しかし、バービーの騎兵隊がネイティヴ・アメリカンの背後に回り込み退路を断とうとしていた。もし先回りされればネイティヴ・アメリカンは完全に袋の鼠である。
近くの高台から戦闘の様子を見守っていたイギリス軍の士官と工作員は逃げようとするネイティヴ・アメリカンを何とか止めようとした。しかし、戦士達は制止を振り切ってそのまま北に逃れて行った。退却してきたコールドウェルは「完全に策略に嵌められた」と悔しそうに言った。戦士達もウェインを戦うために生まれた「悪魔」だと罵った。
 バービーの騎兵隊が倒木や藪といった障害に手間取ったお蔭で戦士達とコールドウェルの部隊は辛うじて難を逃れた。
開始から終了まで約1時間の戦いであった。ウェインの調査によれば、レギオンとケンタッキーの騎兵隊を合わせて死者は47人、負傷者は103人である。
ネイティヴ・アメリカンがどの程度の損害を受けたかは明らかではないが、おそらくアメリカ軍の2倍から3倍に達しただろう。
フォールン・ティンバーズの戦いについて報告を聞いたワシントンは次のように議会に語っている。

「ウェイン将軍指揮下の軍隊からもたらされた情報は、オハイオ地方北部の敵対的なインディアに対する我々の軍事作戦にとって吉報となります。これまで進言してきた提案に沿って彼が軍を進めたことで野蛮人の熱情に冷水が被せられ、合衆国に対して戦争を遂行しようとする彼らの頑迷さが緩和されました」

 また後にセオドア・ローズヴェルトはフォールン・ティンバーズの戦いについて次のように評価している。

「ウェインはこれまで北西部のインディアンとの戦いに送り込まれた将軍達の中で最高の将軍であったことを自ら証明した。そして、彼の勝利を収めた作戦はネイティヴ・アメリカンに対して行われた作戦の中でも最も顕著なものである。というのはそれは、フロンティアに初めて恒久的な平和をもたらし、40年間にわたる戦いの血腥い騒擾を終わらせることになったからである。それは西部の獲得において最も目覚ましく重大な勲功の1つであった」

 午前11時、アメリカ軍はネイティヴ・アメリカンの陣営まで到達して足を止める。もちろんネイティヴ・アメリカンは既に逃げ散っていた。
戦場を歩いていたある士官は、丸太に呆然と座っている1人のネイティヴ・アメリカンの老戦士を見つけた。老戦士は近付いて来た士官に、これまで自分はずっと戦場で過ごしてきたと語った。今後は平和に過ごすつもりだと老戦士は最後に言って口を噤む。
身柄を拘束された老戦士の持ち物の中から「メアリ・ミーンズ」という名前が刺繍されたハンカチが発見される。かなり古いもののようである。
それを見た士官は驚く。なぜならその名前は妻の旧名であったからである。珍しい名前ではないかもしれない。しかし、士官には思い当たることがあった。
妻からポンティアック戦争の時にメイデン・フットという名前の戦士に生命を救ってもらったと聞いていた。そして、感謝の印にまだ小さな女の子だった妻は、自分の名前を縫い取ったハンカチを渡したという。
目の前にいる老戦士がまさにそのメイデン・フットであった。士官はメイデン・フットを連れ帰って妻に再会させた。31年もの年月が経っていたのにも拘わらず、2人は互いをそれと認めた。
メイデン・フットは31年前にメアリの生命を救った理由を語った。実はその時、メイデン・フットは妹を亡くしたばかりだった。そこでビーズの飾りを渡すことでメアリを亡くなった代わりとした。だから生命を救いに駆け付けたという。
その後、メアリはメイデン・フットを一家に迎え入れて一緒に暮らした。4年後にメイデン・フットが亡くなった時、墓石には「18世紀のインディアンの族長であり文明人、そして、キリスト教徒として亡くなったメイデン・フットを記念して」と刻まれた。果たしてメイデン・ヘッドが「文明人、そして、キリスト教徒として亡くなった」ことを嬉しく思ったのかどうかは分からない。

話をアメリカ軍に戻そう。さらに1マイル(1.6キロメートル)先まで進んだアメリカ軍はモーミー川の急湍を前にして軍営を築いた。15個の星が輝く星条旗が誇らしげに軍営に翻る。兵士達は配られたウィスキーを飲んで雪辱が果されたことを祝った。

 アメリカ軍の軍営の1マイル半(2.4キロメートル)先にはイギリス軍のマイアミズ砦が黒い影を落としていた。守備兵は400人を数えたがインフルエンザの蔓延によって軍務に就ける者は半分以上に減っている。
守将のキャンベルは困窮していた。アメリカ軍が砦に接近した場合にどのように対応すべきか命令を受けていなかったからである。砦を明け渡せば上官から命令違反で罰せられるかもしれない。しかし、頑として明け渡しを拒めば戦争の発端になるかもしれない。
キャンベルができることはとりあえず砦の門を固く閉じて沈黙を守ることであった。
 砦の門を最初に叩いたのは、フォールン・ティンバーズの戦いで敗れた逃げて来た戦士達であった。戦士達は身を守るために入城したいと要請する。驚いたことにイギリス兵は、ネイティヴ・アメリカンの入城を拒んだ。戦士達は呪いの言葉を吐きかけながら女や子供達が待つ北方へ去って行った。
キャンベルとしてはこれは当然の措置であった。もしネイティヴ・アメリカンを砦の中に匿えばウェインに砦を攻撃する格好の口実を与えてしまう。そうした危険を考えれば、ネイティヴ・アメリカンを裏切っても何の痛痒も感じなかった。

 イギリス軍の心配にも拘らず、ウェインはマイアミズ砦を攻撃するつもりはまったくなかった。確かにマイアミズ砦は軍事的脅威である。したがってマイアミズ砦を破棄することが最も望ましい。しかし、それはイギリスとの全面戦争を誘発する恐れがある。ワシントンはそのような危険なことを望んでいない。
そこでウェインはマイアミズ砦を政治的に利用することにした。目的は、イギリス軍が臆病者でアメリカ軍と戦うつもりがないということをネイティヴ・アメリカンに分からせることである。イギリス軍の支援が望めないと分かれば、今後、ネイティヴ・アメリカンは表立ってアメリカ軍に歯向かおうとしなくなるだろう。
 ウェインは具体的に何をしたのか。徹底的にマイアミズ砦のイギリス軍を侮辱したのである。
まずケンタッキーの騎兵隊が出動してマイアミズ砦の周囲にある集落、交易所、トウモロコシ畑を手当たり次第、焼き討ちして回る。各所で立ち昇る煙はマイアミズ砦からも見えた筈であり、それが意味することが分からない者は1人もいなかっただろう。
それからアメリカ軍は砦に近寄るとその前をゆっくりと行進してみせた。さらにウェインは副官達を伴って防壁から僅か80ヤード(72メートル)まで近寄って砦をじっくりと検分する。
腹を立てた1人の大尉が銃を構えるのを見て、キャンベルは剣を抜いて、もしすぐに銃を降ろさなければ切り捨てると迫った。大尉はしぶしぶ銃を降ろした。砦は沈黙を守り、1発の銃弾も放たれなかった。
切歯扼腕するイギリス兵を尻目にレギオンは悠々と立ち去る。後には余燼が燻る荒野に囲まれたマイアミズ砦だけが残された。
 集落を焼き払われたネイティヴ・アメリカンはどのように冬を過ごせばよいのだろうか。炎に舐め尽くされて後には何も残っていない。戦いには何の関係もない女と子供達も飢えと寒さに苦しむことになる。残念ながらいつの時代もそれが戦争というものである。
フォールン・ティンバーズの戦いでネイティヴ・アメリカンは多くの戦士達を失ったが、いまだに戦力を保持していた。そうした戦力を使えないようにするにはどうすればよいか。独立戦争の際にジョン・サリヴァン将軍が行ったように、敵対するネイティヴ・アメリカンの戦力を削ぐ最も良い方法は生活の基盤となる集落を焼き払う焦土戦術である。
懲罰という意味もあったし、何よりも戦士達は生活できなくなれば戦うことができない。残酷ではあるが効果的である。ナポレオンは「戦争は野蛮人達の技術だ」と言った。そして、南北戦争で活躍したウィリアム・シャーマン将軍も「戦争は残虐性であり、それを洗練することなどできない」と言っている。ウェインならば何と言っただろうか。

軍営に戻ったウェインを急報を携えた使者が待っていた。ウィスキー暴動が拡大する様相を見せていて、第2のアメリカ革命を起こそうと呼び掛ける者や西部の独立を唱える者もいるという。もし西部で擾乱が拡大すればレギオンはフロンティアで孤立してしまうだろう。しかし、ウェインが打てる手は何もなく大統領が事態を無事に解決することを祈るしかない。
遠征の目的を果たしたレギオンは南に軍を返す。勝利を収めた後もウェインはまったく油断していなかった。プライスに騎兵隊を率いて警戒に当たり、もし追って来るネイティヴ・アメリカンがいれば撃退するように命じた。
827日、本隊はデファイアンス砦に帰着した。糧食は不足しがちで小麦粉を積んだ駄馬の隊列が到着するまで兵士達は通常の半分の量で満足しなければならなかった。
翌日、ウェインは勝利の報告をノックスに送った。

「マイアミズの急湍の畔にあるイギリス軍の砦と守備兵の近くで、今月20日、敵対的なインディアンと多数のデトロイトの志願兵と民兵からなる連合軍と会戦を行い、我が指揮下の連合軍が輝かしい成功を収めたことを限りない喜びとともに私は今、あなたに伝えることになりました」

 ウェインはフォールン・ティンバーズの戦いの詳細を述べた後、次のように今後の方針を提言している。

「敵が死に物狂いの攻撃をアメリカ軍に仕掛けてくることはまったくあり得ないことはではありません。ナイアガラからマイアミズ砦に増援がすぐに到着すること、そして、五大湖周辺に住むインディアンの諸部族が支援に駆け付けてくることも予期されます。しかし、それはアメリカ軍が力を保っている限り、臆病者が心配するようなことです。野蛮人を怯ませることができるのは我が軍の数のみです。そうすれば勝利はより完全て決定的なものになるでしょう。そして、恒久的で幸福な平和が確定されます」

その一方でウィルキンソンも「フィラデルフィアの友人達」に手紙を送り、総司令官が無能にも拘らずフォールン・ティンバーズの戦いで勝利できたのは単なる幸運に過ぎないと述べた。第三者から見れば、フォールン・ティンバーズの戦いに勝利をもたらしたのはウェインの卓越した戦術眼であることは確かなのだが。
アメリカ軍がネイティヴ・アメリカンを撃破したという報せはすぐにフロンティアに広まる。昨春にウェインの出征を見送ったエズラ・フェリスは勝報を聞いた人々が「ほとんど気も狂わんばかりの喜び」を示すのを見た。そうした喜びは大西洋岸にも伝染して、新聞は挙ってウェインの赫々たる武勲を賞賛した。
その一方でフロンティアの荒野にいるアメリカ軍は迫り来る飢えに怯えていた。ネイティヴ・アメリカンによる小規模な襲撃が続き、兵士達は軍営の外に迂闊に出ることさえできない。910日にようやく必要な物資が届き、進軍が再開された。

927日、シムコーはマイアミズ砦の北にあるネイティヴ・アメリカンの陣営を訪れた。そこには2,000人のネイティヴ・アメリカンが集まっていた。
さらに3日後、ジョゼフ・ブラントがモホーク族の戦士達を引き連れて到着する。ブラントはアメリカ軍に対して再び武器を持って立ち上がろうと呼び掛ける。さらにシムコーとマイアミズ砦から駆け付けたキャンベルは、イギリス人に対して不信感を持つようになっていたネイティヴ・アメリカンを宥めようと試みる。
マイアミズ砦でネイティヴ・アメリカンの入城を拒んだのは手違いであって、もしアメリカ軍が再び戻って来た場合、イギリス軍はネイティヴ・アメリカンとともに戦う用意ができている。
さらにキャンベルは、アメリカ軍に対する新しい作戦を練る会議を開こうと提案する。
しかし、こうしたキャンベルの提案を覆す手紙が届く。カナダ総督のカールトンの命令である。
アメリカの領土内にマイアミズ砦を建設した判断を容認することはできないと本国から叱責された。したがって、敵対行為を控えるように。
シムコーとキャンベルはアメリカ軍に新たな攻勢を仕掛ける計画を断念せざるを得なかった。

その頃、アメリカ軍はケキオンガまで南下してウェイン砦を建設していた。建設を監督しながらウェインは、輜重隊が到着する日を指を折って数える。駄馬の隊列を護衛するためにスコットが騎兵隊を率いてリカヴァリー砦に戻る。しかし、補給の問題は一時的なものである。周辺地域の水系を支配下に置いているうえに、砦が守備兵のみになれば供給量も少なくて済むからだ。
1027日、ウェインは300人の守備兵を自らの名前を冠する砦に残すとグリーンヴィル砦に向けて出発する。
グリーンヴィル砦に到着したのは112日のことである。砦の守備兵は15発の祝砲と万歳三唱で凱旋将軍を迎えた。

1122日、1人の士官が、ボートでワシントン砦に向かって川を下っている途中のロバート・ニューマンを逮捕したという報告をグリーンヴィル砦にもたらした。ニューマンは8月にアダムズ砦から姿を忽然と消した測量技師である。
脱走兵として逮捕されたニューマンは、今までネイティヴ・アメリカンに拘束されていただけだと抗弁して、その期間の俸給の支払いを求める。そうした主張を信じなかった士官はニューマンを鎖に繋いでグリーンヴィル砦に護送した。
ウェインの前に引き出されたニューマンは不思議な話を披露する。ニューマンの話は以下のようになる。

作戦が始まる前にニューマンは、ジェームズ・ホーキンスという男と知り合いになった。ホーキンスはイギリス軍に手紙を届ける秘密の任務を引き受けないかと持ち掛けて来た。できれば何も質問せずに任務を引き受けて欲しいとホーキンスはニューマンに懇願する。任務に成功すれば手紙の内容を後で伝える。
何とも奇妙な申し出だと思ったニューマンであったが、すぐにその話を忘れてしまう。しかし、ある日の夜、知らない男が近付いて来て1通の手紙をニューマンに手渡して「あなたの安全はこの手紙が無事に届けられるか否かにかかっている」と言って姿を消した。宛名はあるイギリス軍の士官であった。
仕方なくニューマンは指示通りに手紙をその士官に届ける。手紙を受け取った士官は、手紙の内容を知っているかとニューマンに尋ねた。ニューマンが否定すると、さらになぜホーキンスが手紙の内容を伝えなかったのかと質問した。この質問にもニューマンは答えることができなかった。
士官の他にマシュー・エリオットという名前の工作員が姿を現す。この人物は昔、メリーランドに住んでいたが、独立戦争の際にデトロイトに逃げた人物である。
マシュー・エリオットがレギオンが必要とする物資を納めているロバート・エリオットの兄弟であるとニューマンはすぐに気付く。つまり、ロバート・エリオットはイギリス軍と共謀してわざと補給が滞るようにしてウェインの進軍を妨げていたのだ。さらにどうやらウィルキンソンがエリオット兄弟と頻繁に手紙を交わしてウェインの妨害工作に一枚噛んでいるらしい。しかし、残念なことに手紙の詳細を読んで確かめることはできなかった。
その代わりにニューマンはイギリス人達が密談をしているのを耳にする。
それは、ウィルキンソンを総司令官に据えてアメリカとネイティヴ・アメリカンの戦いをわざと長引かせ、その隙にケンタッキーを分離独立させてイギリス領カナダに併合してしまおうという密計であった。大西洋岸の諸州に隷属して自分達の利益を犠牲するべきではないとケンタッキーの人民を説得すれば、きっと分離独立に同意するに違いない。

このようなニューマンの話が本当にすべて正しいかどうかを判断することは非常に難しい。そもそもニューマンが演じた役割は何だったのだろうか。ただの脱走兵か、密告者か、それともウェインが派遣した密偵なのか。おそらくウェインの命令を受けた密偵であったという可能性が高い。
脱走は言うまでもなく重罪である。そこでニューマンは帰還する際にネイティヴ・アメリカンに捕まっていたという理由を述べていたのだが、その主張は二転三転している。つまり、根拠が薄弱なのだが、それでも帰還しようと思ったのは自分が絶対に処罰されないという確信があったからだろう。
それにあるネイティヴ・アメリカンの戦士の証言によれば、ニューマンは自分の足で歩いて集落にやって来たという。つまり、捕まったわけではない。そうなると脱走ということになる。
それにも拘わらず、処罰されないという確信は何に基づいているのか。ウェインが密偵としてニューマンを働かせるために脱走を黙認したとしか考えられない。独立戦争の際にもワシントンが同じようなことを行っている。
ではなぜウェインはニューマンが密偵だと明らかにしなかったのだろうか。
おそらくそれは証言の中立性を保つためである。ウェインとウィルキンソンの仲が悪いことは周知であるので、もしニューマンがウェインの命令で密偵となったことが分かれば、ウィルキンソンを陥れるために陰謀を暴露したと勘違いされる恐れがある。ニューマンが脱走兵という立場を崩さなければ、ウェインはたまたま陰謀を知らされたことになって証言の中立性は保たれる。
ニューマンがウェインの密偵であったことは確実だが、ウィルキンソンの陰謀が本当にあったとニューマンの話だけで判断することは難しい。
ウェインはニューマンを通じてイギリス軍に偽情報を流していたのだが、イギリス軍も同じことを考えてもおかしくはない。つまり、ニューマンがアメリカ軍の密偵であることを知ったうえで偽情報を流した可能性もある。事実、ニューマンがアメリカ軍の密偵ではないかと疑っているイギリス軍の士官は複数いた。
ただニューマンの話とは別の史料による裏付けによれば、ウィルキンソンは間違いなく黒幕である。かねてからウィルキンソンは様々な疑惑が取り沙汰されてきた人物である。ニューバーグの陰謀の首謀者がゲイツではなく、ゲイツの下で働いていたウィルキンソンではないかと疑う者もいる。そして、ニューバーグの陰謀が失敗すると保身のためにゲイツに罪をなすりつけたと言われている。
1796年にはおそらくスペインからウィルキンソンに送られたと考えられる多額のお金が発見されている。さらに「合衆国の政策は、その政府の下で私が望む幸福を得ることを不可能にした。私はそれをスペインに求めようと決意した」と自ら記した文書もある。
ニューマンの話でウィルキンソンに対する疑惑が確証に変わったと考えたウェインはノックスを通じてワシントンに手紙を送った。ウェインに全幅の信頼を置いていたワシントンであったが、すぐに陰謀の存在を信じようとしなかった。そこでウィルキンソンと協力して問題を究明せよとウェインに命じた。きっとワシントンは自分の味方をしてくれるに違いないと信じていたウェインは落胆しながらも次のように返答した。

「卑劣な刺客であるウィルキンソンと和解することが我が国の本当の利益となるのであれば、私は大統領の希望に沿うような行動を確実に取ります。しかし、それは不可能なことです。なぜなら、イギリスとケンタッキーの過激派と連携して連邦を脱退しようとする陰謀の首謀者に間違いないと信じるに足る強い根拠を私は持っているからです」

 こうした強い言葉を受けてワシントンは軍事法廷を開くようにウェインに命じた。しかし、ネイティヴ・アメリカンと締結する条約の準備に忙しかったウェインは軍事法廷を開く余裕がなかった。
その一方でウィルキンソンも自分に疑惑の目が向けられていることを知る。ノックスがウェインの訴えを聞くと同時に公平を期すために、そのことをウィルキンソンにも告げたからだ。早速、ウィルキンソンはウェインを攻撃し始める。ネイティヴ・アメリカンの対応に忙殺されていたウェインはウィルキンソンの攻撃をほとんど取り合わなかった。

 フォールン・ティンバーズの戦いで手痛い敗北を喫したうえに、イギリスの支援が望めそうにもないと悟ったオハイオ地方のネイティヴ・アメリカンは、アメリカとの関係を再考するようになった。ワイアンドット族の指導者はウェインに使者を送って、その他の部族はどのような方針を採ろうともワイアンドット族は平和を望んでいると伝えた。その他のネイティヴ・アメリカンも次々にアメリカ軍の砦を訪れて友好の証に捕虜を返還した。
 179527日、ブルー・ジャケットがショーニー族とデラウェア族の代表を連れてグリーンヴィル砦にやって来て7月に和平会談を開くことに同意した。しかし、ネイティヴ・アメリカンによる襲撃は続いている。多くのネイティヴ・アメリカンの指導者達が講和に傾く一方で、それに反対する指導者達もいたからである。
それを十分に理解していたウェインは粛々と会議の準備を整えた。ネイティヴ・アメリカンと締結する予定の条約に関する指示とともに陸軍長官から手紙が届いた。

「大統領は、あなたと軍隊を破滅させ、おそらく合衆国を解体しようと企まれた陰謀について明らかにするあなたの手紙をすべて読んでいます。インディアンに対してあなたを収めた成功、ジェイ氏の使命、そして、ペンシルヴェニアで起きた反乱が鎮圧されたことでそうした陰謀は打ち砕かれました」

フォールン・ティンバーズの戦いの前にウェインを悩ませていた諸問題はほとんど解決されたのである。
 和平会談の開催時期が迫る中、ウェインは会談にやって来るネイティヴ・アメリカンのために野営地を整備する。それは単なる親切心からではない。その証拠に野営地はグリーンヴィル砦に配備された大砲の射程範囲に含まれていた。もしネイティヴ・アメリカンが裏切ればすぐにでも攻撃を開始することができる。
 オハイオ川からはるか400マイル(640キロメートル)離れた部族もウェイン砦を訪れて和平会談に参加すると申し入れた。
ウェイン砦を預かっていたジョン・ハムトラミック中佐は、なぜそのような遠方からわざわざ参加するのかとネイティヴ・アメリカンに質問する。するとネイティヴ・アメリカンはさも当然だという顔で答える。「確かに旅路は長いが、『暴風』に是非とも会ってみたいと考えて参加することにした」
ハムトラミックが「暴風」とは何のことだと聞き返すと、それはウェインであると分かった。
ネイティヴ・アメリカンの説明によれば、ウェインがフォールン・ティンバーズの戦いでまるで暴風のように行く手を遮るものを薙ぎ払ったからそう呼ぶようにしたという。こうしてウェインは「狂気のアンソニー」と「黒蛇」に加えて3つの目の渾名を得ることになった。

 1795616日から810日にわたって予定通りに和平会談が開催される。和平会談の場がグリーンヴィル砦であったことは大きな意味を持つ。
これまでウェインはネイティヴ・アメリカンと協議を行う際に使者を派遣していた。それが今では指導者達をアメリカ軍の砦まで呼び付けているのである。それはアメリカ軍が優位にあることを言外に示している。それにグリーンヴィル砦を見せることはネイティヴ・アメリカンに対する示威行為であった。
616日、会談の開始を宣告したウェインは友好の証にパイプを指導者達と吸った後、次のように演説した。

「私は荒蕪の地を切り開いて東に西に北に、そして、南に道を作りました。それはすべての部族が安全に私に会いに来ることができるようにするためです。会議場が立っている土地は血によって汚されておらず、アメリカの偉大な族長であるワシントン将軍の心のように清らかです。同じく彼の偉大な議会と私の心も同じく清らかです。平和と兄弟愛の他には何も望んでいません。今日、私は会談のために合衆国の[平和を願う]火を熾しました。残りの部族が集まって完全な会談が始まるまでその火を燃やし続けるために守りましょう。我々の間で友好が始まったこの日を記念するために今、私は各部族に貝殻玉を贈ります。天はどこまでも高く、森は広々としています。我々は平和の中で安らぐでしょう。さしあたって旅塵を払い喉を潤すために軽食を楽しみましょう。この幸運な機会に節度を超えずに楽しもうではありませんか」

 
今やアメリカはオハイオ地方の諸部族を征服された敗者として扱おうとしている。ウェインの言葉は勝者の余裕である。
こうして会談は始まり、ウェインは貝殻玉を与えて指導者達を歓迎する。
1週間後、リトル・タートルが95人の随員を連れて到着する。会談の場にはリトル・タートルを筆頭に93人の指導者達が顔を揃えた。指導者達が連れて来た家族や随員は総勢で1,000人を超えた。
会議でウェインは延々と続けられる指導者達の演説を聞くことになった。その中で代表的な演説がリトル・タートルが722日に行った悲壮な演説である。

「ウォバシュ川の畔の土地とこの領域が私と我が民に属することを望んでいます。今、私は合衆国の兄弟とその他の出席者達に、彼らの民と同じように我が民にも見識と理解力を持つ者達がいること、そして、これらの土地は我々の知識や同意なく処分されるべきではないと伝える機会を得ました。あなたはインディアンと合衆国の間に境界線を設けましたが、それは誰にも邪魔されず言い争うこともなく記憶も定かではない時代から我が先祖達が享受してきた大部分の領域からインディアンを切り離すものであると私はあなたに言いたいと思います。[中略]。我が先祖達の痕跡はこの地方のあらゆる場所に残っています。我が先祖達がデトロイトで最初の火を熾したことは、ここに出席しているすべての我が兄弟達もよく知っている筈です。先祖達はそこからサイオト川の源流へ、サイオト川の河口へ、オハイオ川を下ってウォバシュ川の河口へ、そして、ミシガン湖へ領域を広げました。[中略]。今、私がマイアミ族の領域についてあなた方に伝えられることは、はるか昔、偉大なる精霊が我が先祖達に決してその場所を売ったり手放したりせず子孫達のために残しておくように命じたことです。その命令を守る義務はこれまで私に託されていました。この問題について兄弟達が私と非常に違う意見を抱いていることを知って非常に驚いています。そうした行動によって私は、偉大なる精霊と先祖達があなた方に私が託されたのと同じ義務を与えてはいないだろうかと疑問に思ったからです。それどころか、帽子を被っていてあなた方にもそうするようにすぐに要求する者達[白人]に土地を得るように命じたというのでしょうか」

 リトル・タートルはもはや自分の部族の命運が絶頂期を過ぎて衰退期に向かっていることを悟っている。勃興しつつあるアメリカにもはや対抗することはできないと考えた。そのためリトル・タートルはアメリカと共存できる道を模索していくことになる。
一通り指導者達の演説が終わった後、ウェインはアメリカ側の条件を伝える。
独立戦争中にイギリスの同盟者としてネイティヴ・アメリカンが得た権利はすべて1783年のパリ講和条約で失われていることを確認する。25,000平方マイル(65,000平方キロメートル:九州地方と中国地方を合わせた面積に相当)を白人に開放する。その引き換えにアメリカ政府はネイティヴ・アメリカンに2万ドル(5,400万円相当)の贈り物を与え、年額9,500ドル(2,600万円相当)の年金を約束する。
完全に征服者が非征服者に要求する条件である。
 会談の結果、ネイティヴ・アメリカンは「13本の炎」、すなわちアメリカ合衆国との和平に合意してグリーンヴィル条約が取り交わされる。リトル・タートルの訴えかけも虚しく、この条約により、ネイティヴ・アメリカンは北西部領地からの後退を余儀なくされ、白人の入植者が急増した。ネイティヴ・アメリカンに対するイギリスの影響力も低下した。
地理学者ドナルド・メイニグは、グリーンヴィル条約によって西部開拓の道が開かれ、「アメリカ人をオハイオ川で留めておくというインディアンの希望は終わった」と評している。
さらにイギリスの7つの交易所も閉鎖された。その代わりにアメリカ政府によって交易所が開設された。
 もしフォールン・ティンバーズの戦いでアメリカ軍が勝利することができず、グリーンヴィル条約が締結されなければ、北西部領地は引き続きイギリスの支配下に置かれただろう。そして、アメリカは西部への発展の道を絶たれていたかもしれない。
そうした意味でフォールン・ティンバーズの戦いはアメリカの国家としての命運を決定する重要な戦いであった。
セオドア・ローズヴェルトは『狂気のアンソニー・ウェインの勝利』の中で警句を述べている。後に大統領になった後のローズヴェルトの考え方の一端を示しているようで興味深い。

「国民としてアメリカ人は積極的に戦うことよりも積極的に戦わなかったことでより間違いを犯しがちであったという事実をアメリカ人は心に留めなければならない。一度立ち上がれば我が国民はいつも危険で手強い相手となるが、アメリカ人はすぐに立ち上がろうとしない。特に教養ある人々は、無闇に争い起こしたり、暴れ回ったり騒いだりすることは悪いことだが、怒っても当然の挑発を受けても戦うことを躊躇うことはさらに悪いことだと肝に銘じるべきである」

 『狂気のアンソニー・ウェインの勝利』が発表されたのは1896年でキューバの独立をめぐってアメリカとスペインの間で緊張が高まっている時期であった。ローズヴェルトが言いたかったことは、最初からアメリカが果断な措置を取っていれば、ウェインがフォールン・ティンバーズの戦いで勝利を収めるまで何度も敗北を喫することはなかっただろうということである。
それと同じでローズヴェルトは、北西部インディアン戦争を分析することで、スペインに対して早急に果断な措置を取るべきだと訴えたかったのだろう。それについてはまた別の機会に語ることになるだろう。

 ウェインのその後について少し話しておこう。179626日、ウェインは凱旋将軍としてフィラデルフィアで歓待を受けた。街から4マイル(6.4キロメートル)先で軽騎兵隊の出迎えを受けて13発の号砲が鳴り響く中、街に入った。鐘が打ち鳴らされ数千人の市民が歓呼を送った。

赤い兄弟達


 北西部領地を安定化させることに成功したワシントンであったが、敵対的なネイティヴ・アメリカンの反抗を武力で鎮圧する一方で、外交的手段も用いている。
ワシントンはネイティヴ・アメリカン諸族を独立した国家として認めていた。ワシントンとノックスはネイティヴ・アメリカンがなぜ白人に攻撃を仕掛けるのか理解していた。それは白人の入植者が絶えずネイティヴ・アメリカンの土地に侵入することが原因である。それにネイティヴ・アメリカンを殺害した白人が、白人を殺害したネイティヴ・アメリカンと同じように裁かれないことは明らかに不公正であった[vii]
ジョージア州は、一貫してミシシッピ川とヤズー川の間の土地を白人入植者に開放しようと試みて、かねてよりクリーク連合と戦いを繰り広げていた。さらにジョージア州議会は1,500万エーカー(600万ヘクタール:九州と四国を合わせた面積に相当)の土地を投機家に売却した。その土地は連邦政府がチョクトー、チェロキー、そして、チカソー諸族に既に譲渡していた土地であった。スペインもその土地に対して領土主張をしていたので、無用な紛争を避けようとワシントンは考えた。こうした状況を解決するために、係争地域への入植を禁じる布告が出された。
ワシントンの命令でベンジャミン・リンカン、デイヴィッド・ハンフリーズ、そして、デイヴィッド・グリフィンの3人がクリーク連合との講和交渉に派遣される。しかし、3人が交渉に失敗したので、代わりにマリヌス・ウィレットが交渉に当たった。
ウィレットが説得に努めた相手は、高名なアレグザンダー・マッギリヴレイである。
マッギリヴレイはその名前を見ても分かるように、純粋なネイティヴ・アメリカンではない。父は白人で母はクリーク族とフランス人の血を引く混血の女性である。したがってマッギリヴレイの中にはネイティヴ・アメリカンの血は4分の1しか流れていない。交易商人であったマッギリヴレイの父はジョージアで財産を築いたがアメリカ独立に反対したために財産を没収され追放された。それはマッギリヴレイにアメリカへの敵愾心を植え付けることになった。クリーク連合に入ったマッギリヴレイは次第に頭角を現して、アメリカの拡大に神経を尖らせるフロリダのスペイン人から援助を受けてジョージア人に対する戦争を主導するまでになった。
紆余曲折を経てウィレットは、ニュー・ヨークで会談に応じるようにマックギリヴレイを説き伏せることに成功する。
1790721日、指導者達はニュー・ヨークに約束通りに現れた。ネイティヴ・アメリカンの独特な衣装を身に纏った彼らの姿は市民の関心を呼ぶ。晩餐会が催され、その席には指導者達はもちろんのこと、ノックス、ジェファソン、ジェイ、そして、クリントンなど政府の要人が顔を揃えた。ワシントンはノックスと並んで閲兵を行い、ネイティヴ・アメリカン達に観覧させた。
さらにワシントンはネイティヴ・アメリカン達を晩餐会に招いた時に、ちょっとした趣向で驚かそうと試みた。仕掛けを準備したのは画家のジョン・トランブルである。
指導者達はワシントンの案内で絵が飾ってある一室に招き入れられた。扉が開いた時、彼らは大統領の姿がもう1つあるのを見て驚く。それはトランブルが描いたワシントンの肖像画で、まるで生きているかのように見えるように光が当てられている。
指導者の1人が恐る恐る絵に近付いて腕を伸ばして触れてみる。そして、絵を触ってみてもそれが人間の温かい肌ではなく冷たいキャンバスであることにどうしても納得できないようであった。
その様子を見ていたトランブルは是非とも指導者達の姿を絵に描いて残しておきたいと思った。そこでその旨を伝えると指導者達は魔法をかけられるかもしれないと恐れて断ったという。

諸州とネイティヴ・アメリカンの間の緊張を緩和するために、インディアン通商法が制定された。同法律によって、公正な交易が保障され、連邦政府の認可なく行われたネイティヴ・アメリカンの土地の取得が無効にされた。それはジョージア州のようにネイティヴ・アメリカンの土地を奪おうとする諸州の動きを止めるための試みであった。
クリーク連合と連邦政府の間で行われた交渉の結果、87日、ニュー・ヨーク条約が成立した。フェデラル・ホールで条約の調印式が大勢の観衆の前で行われる。正午、大統領はクリーク連合の指導者達と顔を合わせた。条約が1条ごとに読み上げられ、すぐに翻訳と説明が行われる。ネイティヴ・アメリカン達は声を上げて同意の証とした。ワシントンは条約に署名するとともに友好の証として貝殻玉のベルトを指導者達に贈った。
同条約によって、スペイン領フロリダの範囲外にある領土を合衆国が保護するという約束の下、ジョージア州が主張した土地の大部分がクリーク連合に返還されることになった。
条約の成立を祝って指導者達は平和の歌を大統領の前で披露したという。

クリーク連合に加えてワシントンはティモシー・ピカリングを通じてイロクォイ6部族連合と外交交渉を行っている。
179094日、ワシントンはピカリングと面談して部族の一員がアメリカ人に殺されたことで憤慨しているセネカ族を宥める任務に就くように求めた。セネカ族はイロクォイ6部族連合の一角を構成している。もしセネカ族が立ち上がればイロクォイ6部族連合がすべてアメリカの敵に回る恐れがある。
1115日、ピカリングはニュー・ヨーク邦東部にあるタイオガでイロクオイ6部族連合の族長達と会談した。主要な目的は、白人によって部族を殺害されたセネカ族と何とか友好関係を維持することであった。その時はまだ北西部インディアン戦争の決着は付いていない。イギリスやジョゼフ・ブラントは、イロクオイ6部族連合をアメリカに敵対させようと画策していた。もしイロクオイ6部族連合が的に敵に回るようなことがあれば、北西部インディアン戦争でアメリカは不利になる恐れがある。ピカリングは何とかして族長達の不信感を解く必要があった。
タイオガに集まった族長達の中でもレッド・ジャケットは「眠っている者を叩き起こす」程の雄弁で知られていた。ピカリングの努力が実って最も険悪であったレッド・ジャケットも次第に言辞を和らげる。族長達から信頼を得たピカリングは、「丘陵の日の当たる側」というネイティヴ・アメリカンの名前を与えられ、族長の名誉称号を受けた。
族長達に伴われて殺害された部族の家族が会談に同席していた。家族の感情を宥めるためには弔意を示すための貝殻玉のベルトが必要だとピカリングは気付く。それは彼らにとって重要な慣習であった。そこでピカリングは貝殻玉のベルトを準備することを約束するとともに、会談の最後で犠牲者の家族を慰める演説を行った。
1123日、イロクオイ6部族連合との会談は無事に終わり、平和と友好は保たれた。ピカリングはフィラデルフィアに帰って会談についてノックスに復命する。ノックスを通じて報告を聞いたワシントンは、ピカリングの成功を祝う。
ネイティヴ・アメリカンとの交渉を成功させた功績が認められてピカリングは郵政長官に任命された。その当時、現代と違って郵便事業は財務省の一部と考えられていたので郵政長官は閣僚に次ぐ地位と考えればよいだろう。
1792313日、ピカリングの招待に応じて50人のイロクォイ6部族連合の指導者達がフィラデルフィアを訪れた。ワシントンはイロクォイ6部族連合と友好関係を築くとともにアメリカの威容を見せて反抗する意思を持たないようにさせなければならないと考えた。セント・クレアの敗北を知ったイロクォイ6部族連合がアメリカを侮るようなことがあってはならない。
まさに指導者達のフィラデルフィア訪問は、外交交渉を行う絶好の機会であった。指導者達はペンシルヴェニア州知事の歓迎を受けた後、大統領の言葉を受け取った。

5部族[viii]の長と戦士達よ。尊敬すべき長やいくつかの部族の代表達などあなた方の多くと会うことができて私は非常に満足です。そして私は合衆国の首都にあなたがたを心から歓迎します。あなた方は[ティモシー・]ピカリング大佐によって、すべての諍いの原因を解消し、あなたがたの福祉を促進する計画を考案し採用するために、そして、将来、我々がお互いを本当の兄弟と思えるように合衆国とあなたがたの間の平和の絆を強めるために私の特別な要請でこの場所に招かれました。合衆国と5部族の間だけではなく、合衆国とこの土地のすべての先住民達の間に安定した平和の存続を私が願い、この平和が動かざる岩の上に置かれるように公正と人間性の原理に基づくことを願っていると断言します。勤勉と美徳、そして知識を持つことによって豊かになった文明化された生活に由来するこの地上のすべての慰めをあなた方が賞味することを望みます。あなたがた等あなたがたの子供達に、あなた方が生きている間に享受できる十分な根拠があるこれらの計り知れない目的を確定するうえで今、一致団結して分別ある方策がなされていると私は信じています。これらは私の心からの強く真摯な願いなのです。私はあなたがたが時間と状況によってそれを確信してくれることを願っています。我々の平和と友情を永遠に曇らせないために、我々は過去の誤解を忘れなければなりません。今、前を向いて、我々の友情が永遠のものとなるような方策を工夫しましょう。西部のインディアン達の一部と現在も続く戦闘行為は、合衆国が彼らの土地を不正に占有しているせいにされているのに気付いています。しかしこれは真実ではないと断言します。我々は条約によって獲得された土地以外の土地を求めていません。それは公正に締結されたと考えられ、特に1789年のマスキンガム条約によって確定されました。もし西部のインディアンが、我々が彼らの土地をもぎ取ろうとしているという考えを抱くのであれば、それは取り越し苦労です。もしこの誤解が正されれば、それは彼らの幸福となるでしょう。そして、私にとってそれに勝る喜びはありません。なぜならそれは我々の双方に平和への扉を開くものだからです。今、私はさらなる詳細についてあなた方と論じるつもりはありませんが、陸軍長官ノックス将軍とピカリング大佐にあなた方のことを伝えてあります。彼らはあなた方と、あなた方の旅の目的になったことについて話し合い、私に伝えてくれるでしょう。あなた方との完全な平和と友好への合衆国の願いが真摯である証として、私はあなた方にこの白い貝殻玉のベルトを贈ります。大事にして下さい」

 それから6週間にわたる会談が行われた後、セネカ族の指導者であるレッド・ジャケットは、ワシントンより銀のメダルを贈られた。そのメダルには、左に手斧を地面に置き煙管を吸うレッド・ジャケット、右に手を差し伸べたワシントンの姿が彫られ、下部に「ジョージ・ワシントン大統領」と刻まれていた。レッド・ジャケットは生涯にわたってこのメダルを大切に身に付けていたという。
その他の族長達にも友好の証として貝殻玉のベルトが贈られた。こうしたネイティヴ・アメリカンとの交渉を一手に引き受けていたのがピカリングである。本来、ネイティヴ・アメリカン問題は陸軍省の管轄であって責任者はノックスである。しかし、ノックスは北西部インディアン戦争で忙しく、族長達への対応はピカリングに委ねられた。ピカリングはノックスやワシントンが族長達に与える返答の起草に助言した。
さらにワシントンは再びピカリングをイロクォイ6部族連合に派遣した。ピカリングの尽力の結果、17941111日、カナンデグーア条約が締結された。族長達は他の部族やイギリスに気兼ねしてなかなか条約に調印しようとしなかった。しかし、ピカリングはネイティヴ・アメリカンを説得する演説を何度も行って条約の締結に漕ぎ着けた。
同条約によって、合衆国とイロクォイ6部族連合は相互に主権を承認することに加えて、合衆国がイロクォイ6部族連合とその友好部族に対して干渉せず、合衆国に土地を売却することを決定するまでその領有権が保障されることが規定された。条約に署名した指導者の中にはレッド・ジャケットをはじめフィラデルフィアを訪問した者達が多く含まれていた。

こうしたネイティヴ・アメリカンとの交渉から窺えることは、ワシントンを信頼する族長もいた一方で、さらに不信感を強める族長もいたことである。
例えばブラントはカナンデグーア条約に関する交渉に参加することを拒み、ネイティヴ・アメリカン諸族にワシントンはオハイオ地方獲得を切望しているので信用すべきではないと一貫して警告している。ブラントの警告はまったく的外れというわけではなかった。ブラントのようなネイティヴ・アメリカンが考える共存とワシントンが考えるような共存は根本的に異なっていたからである。
当時の大部分のアメリカ人と同じく、ワシントンは彼らの文化を低いものとみなし、ネイティヴ・アメリカンが文明化の道を辿って最終的にはアメリカに統合されるべきだと考えていた。ワシントンにとって、ネイティヴ・アメリカンがアメリカに統合され幸福になれるかどうかはアメリカ政府の行為にかかっていた。例えばチェロキー族に向かってワシントンは次のように呼び掛けている。ピカリングが起草したものである。

「親愛なるチェロキー族へ。白人がアメリカに来て以来、多くの年月が流れました。長の年月において、多くの善意ある人々が、どうしたらこの国の先住民の境遇が改善されるか考えてきました。そしてそれを叶えるべく多くの試みがなされてきました。しかし、我々が見るところ、今日、そうした試みはほとんど実を結んでいません。この問題について私もよく考え、インディアン諸部族が隣人である白人と同じく、生活が気楽で幸せになるような多くの好運に恵まれことを切望しています。私は、どのようにすればそれが達成できるかを考えてきました。そして、望ましい状況へ至るたった1つの道を探し続けました。私は、すべてのインディアン諸部族がその道を歩くことを望みます。あなた方、親愛なるチェロキー族に関して私が受け取った情報から、あなた方がその道を選択する準備をし、その道を辿ろうという心構えをしていると私は望みます。[中略]。適切な管理によって、あなた方が家畜を育てれば、あなた方の需要を満たすだけではなく、白人に売ることもできます。鋤を使うことによって、あなた方はトウモロコシの収穫を増やすことができます。小麦を育てることもできるし、他の有用な穀物も育てることができます。それに麻や綿花を加えることもたやすくでき、白人に売り払うこともできれば、女性達に服を仕立てさせることもできます」

こうしたワシントンの言葉から窺えるのは、ネイティヴ・アメリカンは狩猟生活を捨てて、白人の入植者のように定着して農業を生業とすべきだという考え方である。つまり、ネイティヴ・アメリカンが文明化することで初めて共存できるという考え方である。もちろんその文明化がネイティヴ・アメリカンにとって本当に利益になることなのかどうかは別問題であるが。そもそもネイティヴ・アメリカンは押し付けられた文明化など望むのか。
自ら積極的に「文明化」の道を進む部族もあったが、押し付けられた文明化は、もしネイティヴ・アメリカンが提案に従わなければどうなるかを暗示しているようである。他の部族が討伐されていることを知っているネイティヴ・アメリカンからすれば、無言の脅迫に思えただろう。
いかにワシントンが善意を持っていたにしろ、連邦政府が投機家や諸州にネイティヴ・アメリカンに対して公正な姿勢を保つように強いることはできない。1797年に刊行された『人倫の形而上学・法論』の中でカントは、ネイティヴ・アメリカンを教化するという名目の下で、ネイティヴ・アメリカンから暴力や詐欺を用いて土地を奪って入植地を建設することは不正なことであり、非難すべきであると言っている。こうした警句が早くから述べられていたことに注意すべきだろう。
ワシントン自身は、できる限りネイティヴ・アメリカンに対して公正であろうと努めた。しかし、それがネイティヴ・アメリカンにとって公正に思えるかは別問題である。
公正とは同じ物差しで物事を見る者の間にしか通用しない。なぜなら公正であるか、公正でないかはある基準に従って判断されるからである。その基準、すなわち物差しが違っていれば公正の議論は成り立たない。
つまり、いくらネイティヴ・アメリカンに対して公正であろうと努めても、ネイティヴ・アメリカンの文化を同等のものとして理解しない限り、それは自己満足に過ぎない。
公正であるかどうかはさておき、アメリカ政府にとって、ネイティヴ・アメリカンに対して信仰と博愛の精神で接することは栄誉を得る道程であった。物質的な面からすれば確かに白人のほうがネイティヴ・アメリカンより優れていたかもしれない。しかし、ネイティヴ・アメリカンの宗教が白人の宗教に劣っているとどうして言えるだろうか。
ネイティヴ・アメリカンに対する誤った優越意識はワシントンに限らず当時の人々に共通する意識である。ワシントンといえども当時の一般的な意識から抜け出すことはできなかった。すべてのネイティヴ・アメリカンをキリスト教に改宗させ農業に従事させるというワシントンの願いが叶わなかったことは歴史が証明している。
ワシントンは、ネイティヴ・アメリカンの土地を白人入植者の侵入から守ろうとしたが、それはネイティヴ・アメリカンを保護しようとしたからではない。無用な争いが起きてフロンティアが不安定になるのを恐れていただけである[ix]
ネイティヴ・アメリカンは白人の西部進出を妨げるべきではないという信念をワシントンは持っていた。ネイティヴ・アメリカンが白人の入植者と協力して技術や生活水準を共有することは決して否定していない。しかし、白人入植者の狩猟地への侵入に対してネイティヴ・アメリカンが自然権を持つという考えはワシントンには浮かばなかった。それどころか白人が内陸部に進出して近代的な農業を行うことがワシントンにとって自然権であった。
事実、アメリカは1778年から1868年にかけてネイティヴ・アメリカン諸族と77の条約を締結し、「合法的な」手段を用いてネイティヴ・アメリカンの領有権を解消し、入植者の西部移住を促進する方針を一貫して採用している。どのような紆余曲折を経たとしてもアメリカが国家を発展させるためにネイティヴ・アメリカンを犠牲にしたことは間違いない真実である。




[1] ラテン語で「軍神マルスの野」の意で古代ローマにおいて軍事教練に使われた広場。

[2] 詳細な命令は次の通りである。

「議会は、929日の法律で、敵対的なインディアンの襲撃からフロンティアを守るために各州の民兵を召集する権限を私に与えました。ここに含めた指令とともにこれをあなたに伝えることが適切だと考えました。ウォバッシュ・インディアンとイリノイ・インディアンが戦争と平和のどちらを望んでいるのか、できる限り早く完全な情報を得ることが非常に必要とされます。もし前者であれば、彼らが平和を選ぶようにする最も可能性がある手段を私に伝えることが適切でしょう。もし平和が納得できる条件で上記のインディアンと成立するのであれば、合衆国の利益によってそれができる限り早く達成されることが求められます。したがって上述のインディアンにこの問題に関する連邦政府の意向を伝え、条約の前提条件として、敵対行為の停止が求められることを伝えるように。もしあなたの友好的な姿勢にも拘らず、彼らが敵対行為を続けるか、ヴァージニアとペンシルヴェニアのフロンティア、もしくは合衆国の部隊や軍事拠点に対して何らかの襲撃をもくろむのであれば、そして、あなたが情報を私に伝えるのが不可能となり、私のさらなる命令を受け取れない場合、命令の執行の時が近いと思われれば、私の名の下に、ヴァージニアとペンシルヴェニアの近隣諸郡の士官達に適当だと考えられヴァージニアからは1,000人を超えず、ペンシルヴェニアからは500人を超えない分遣隊の派遣を要請する権限が与えられます。

[3] 1792年にケンタッキー州として連邦に加盟。

[4] ネイティヴ・アメリカンについて詳細な記録を残してイギリスの地理学者のアイザック・ウェルドは『北アメリカ諸州及びカナダ旅行、1795年、1796年、そして、1797年』で次のように記している。

「族長は指揮下の者達に対して服従を強いる権利はなく、横柄な態度で命令しようとすることもない。彼らはただ助言するだけである。個々人は完全に自由な状態で生まれてきたと考えていて、すべての束縛を歯牙にもかけず、自分の理性のみに従う。しかし、部族全体の幸福に繋がるような利益を理解した場合や族長がその他の動機に動かされているわけではないと理解した場合、どのような方策を勧められてもすぐに従う。確かに彼らは野蛮人であり文明化した社会に生きているわけではなないが、厳格な法律によって強制されていないのにも拘わらず、インディアンと同じような公共の精神、同じような公平無私、そして、同じような秩序の尊重を持った人々はこの地球上にいないのではないかと私は思う」

[5] 南北戦争で北軍の一隊を率いてゲティスバーグの戦いで活躍したことで知られる。

[vi] ワシントンの甥と同姓同名だが別人物。

[vii] もちろんワシントンも不公正を放置しないように以下のような布告を出している。

「ジョージア州の西部フロンティアのある無法で邪悪な人々が最近、合衆国と友好状態にあるチェロキー族の領域に属する町を侵略し、焼き払い、そして破壊したうえに、チェロキー族に属する何人かのインディアンを死に至らしめたという確かな情報を受け取った故に。そして、そうした違法行為は人間の権利を侵害するだけではなく人民の平和を危険にさらすものであり、そうした残虐な違反者達を処罰するすべての法的な措置を追求することは合衆国の栄誉と善意に非常になる故に。私は、この声明を出すことが適当であると考え、それぞれの立場に応じて合衆国の全市民と全公職者に、そうした違反者達を逮捕し司法の裁きの下に置くために最善の努力を払うように勧告する。そして、私はさらに上述の者達の中で逮捕され司法の裁きの下に置かれ、その中で指導的な立場にある者のいずれに対しても500ドル[140万円相当]の懸賞金を拠出する」

 ただこうした布告によって逮捕された者はいない。

[viii] イロクォイ連合が6部族連合になったのは18世紀前半のことだが慣習的に5部族と呼ばれることもあった。

[ix] ピーター・ウィルソンという名前のイロクォイ6部族連合に属するネイティヴ・アメリカンは1847年にニュー・ヨーク歴史協会で次のような興味深い証言を行っている。

「青白い顔達[白人]がやって来て『我々とともに戦え。そうしなければこの土地の権利を失って去らなければならなくなる』と言いました。しかし、ワシントン将軍は『あなた達の土地に戻って我々と一緒に家を作ろう』と言いました。それから予言者は『白人は悪辣だ。偉大なる精霊の土地にはワシントン将軍を除いて住まわせてはならない』と言いました」