青年将校 第3章青年将校 未完の生涯(バルバドス+ウィリアムズバーグ)

未完の生涯

※バルバドス島への旅→ウィリアムズバーグ→ローレンスの死
※ウィリアムズバーグについて詳しく書いておきながら、実はコロニアル・ウィリアムズバーグに行ったことはない。一度行っておきたいところ。

 1751928日、兄弟を載せたサクセス号はポトマック川を下る。出航日が正確にいつだったのかはワシントンの日記が数日分、失われているので分からない。
サクセス号は客船ではなく、バルバドス島へ交易品を運ぶ船である。乗組み員は僅か8人。
海岸沿いに南東に進んだサクセス号は、バルバドス島を目指して大西洋を一路、東に向かう。
バルバドス島は、かつて先祖のジョン・ワシントンが90年程前に踏んだ地である。果たしてそれをワシントン自身が知っていたかは分からない。
 ワシントンの日記には、バルバドス島に到着するまでの37日間が記されている[i]。風の様子、船の進路、通り過ぎる商船などをワシントンは克明に記録している。例えば107日の日記には次のように書かれている。

南西から南の方角へ僅かな風があるが、海面は滑らかで天候も穏やかである。我々の周りを多くの魚が泳いでいる。その中から我々はドルフィン[ii]を捕まえた。正午頃、結局、釣り上げることはできなかったが、2匹のカマスが数時間、船尾の下で跳ねまわっていた。ドルフィンは小さかったが、我々はそれをさばいて夕食にした」

 このように船旅は平穏で特筆すべきことはほとんど何もない。
敢えて事件をあげるとすれば、激しいハリケーンが襲って来たことやサント・ドミンゴを中心とする強い地震に見舞われたことなどである。
1019日の日記には「叩き付ける雨に加えて、吹き荒ぶ風によって引き起こされた波が海でぶつかり合っている」と記されている。すっかり憔悴した船乗りは、ワシントンにこれまで見たことのないような荒れ模様だと語った。そして、ワシントンは「船が激しく横揺れしたので船酔いした」と日記に記録している。

 バルバドス島は、珊瑚礁でできた島であり、カリブ海に浮かぶ西インド諸島に属する。17世紀からイギリスによる植民地化が進んだ。熱帯海洋性気候だが、北東貿易風の影響で比較的過ごしやすい風光明美な島である。
後にバルバドス島を訪問したニコラス・クレスウェル[iii]は「それは私がこれまで見た中でも最も美しい光景の1つであった。高台はまるで1つの庭園のようで紳士達の邸宅と風車が整然と並んでいる」と記している。もう少しクレスウェルに説明を続けてもらおう。

「この島は西インド諸島の中でも最も風上の東側にあり、北緯1258分、西経5850分に位置する。長さ20マイル[32キロメートル]、幅12マイル[19キロメートル]であり、2万人の白人と9万人の黒人を擁している。年間に2万ホッグスヘッド[5,700キロリットル]の砂糖と6,000ホッグスヘッド[1,400キロリットル]のラム酒を輸出している。大部分の食料品は植民地から供給されていて、すべての奴隷や木材も馬やあらゆる種類の家畜とともに植民地から運ばれる。それらと引き換えにラム酒と砂糖、そして、綿花が送られるが、最後の綿花だけは非常に少ない。非常に岩がちの島で西インド諸島の中で最も大きな島だと考えられている。島の面積の8分の1は岩がちで耕作に不向きだと私は思った。道路は非常に悪い。12頭の牛が砂糖の大樽1つを牽いているのを見るのも珍しいことではない。しかし、牛は非常に小さい。主要な産物は砂糖、インディゴ、ピメント[iv]、そして、綿花である」

 113日、ワシントン兄弟を乗せた船は無事に大西洋を渡り終えて、バルバドス島のカーライル湾に滑り込む。バルバドス島の一番大きな街は、カーライル湾に面するブリッジタウンという街である。ワシントンが十分な説明を残していないのでまたクレスウェルの筆を借りよう。

「ここには聖ミカエルに捧げられた教会があり、オルガンもある。教会の前庭には椰子の木が植えられ素晴らしい外観を見せている。家々は石造だが暖炉は台所以外にはない。酷暑の気候のために料理以外に暖炉は必要ないからである。もし日中の海からの風、夜の陸からの風がなければ暑さは耐え難いものになっているだろう」

兄弟は宿屋に逗留して、翌日に地元の医師の診断を受ける手筈を整える。ブリッジタウンには肺病の治療に豊富な経験を持つ医師がいる。
医師がローレンスを診断している間、ワシントンは外で待つ。いかなる結果が出るか気を揉んでいたワシントンの前にようやくローレンスが姿を現す。
ローレンスの顔は心なしか晴れ晴れとしているようだ。医師の結論は希望が持てるものであった。病根はそれ程、深くまで達していないので治療も可能であるという結論である。ワシントンは診断結果を聞いて旅を楽しむ余裕ができた。

 バルバドスはヴァージニア人にとって異花奇草の地である。
熱帯性の色鮮やかな花々や深緑の木々はワシントンの目を驚かせる。空の蒼穹に浮かぶ入道雲にどこまでも続く白い砂浜、そして、空の色を溶かし込んだ群青の海。頭を殴りつけるような激しい日差しにも拘わらず、椰子の木陰に入れば一陣の風が涼をもたらす。街の喧騒を離れれば、寄せては返す波の音と吹き抜ける風の音しか耳に響かない。
兄弟は、馬車を借りてサトウキビやトウモロコシの畑や熱帯性の樹木が生い茂る林を巡り、常夏の島で夕涼みを楽しんむ。これまで兄の病状を心配して塞ぎがちであった心は、この美しい島の風景に出会って解放されたかのようだ。

暫く土地の名士の家に滞在した後、2人は逗留を続けるのに良い場所はないかと探す。医師は街の中を離れて静養するように勧めている。しかし、街の外には宿屋は1軒もない。そこで個人の家を借りる。
2人が選んだのは、海を見下ろす絶好の場所にある家だ[v]。強い日差しが窓から屋内に入り込んで松材の床をまだらに染めている。熱気を帯びたそよ風が天蓋付きベッドを覆う蚊帳を巻き上げる。そうした風情はヴァージニアの建物とまったく異なるものであった。
ただ賃借料が思ったよりも高い。洗濯代や酒代を別にして月額15ポンド(18万円相当)である。立地は本当に申し分ない。街の喧騒から少し離れていて、しかも景色が素晴らしい。ワシントンは、「見晴らしは、陸は広々としていて、海は気持ち良い。我々はカーライル湾を一望することができ、我々の目にはあらゆる船が出入りするのが見える」と記している。

ワシントンは、バルバドス島で初めて演劇を鑑賞した。バルバドス島は辺陬の土地ではなく、砂糖の一大生産地として繁栄し、ヴァージニアよりもはるかに文化的な土地であった。演劇の演目は『ロンドンの商人、あるいはジョージ・バーンウェルの経歴』である。
『ロンドンの商人、あるいはジョージ・バーンウェルの経歴』は、商人の日常生活を扱った最初の市民悲劇である。ワシントンは日記に「ジョージ・バーンウェルの悲劇という演劇を見る券をもらった。バーンウェルやその他の数人の役柄の演技が優れているという評判である。音楽も正式な演奏で劇によく合っている」と記している。
残念なことにローレンスは医師の命令で外に出ることが許されず、ワシントンと一緒に演劇を楽しむことはできない。その後、演劇はワシントンの楽しみとなり、ある日の出納帳には「劇場代1シリング3ペンス[750円相当]」と書かれている。当時の劇場代は様々であったが、物価と対比すると安いものではなかったから、ワシントンが支払った金額からすると、どうやらあまり良い席ではなかったらしい。
 唯一兄弟が楽しむことができたのは「ビフテキと牛の胃クラブ」である。大仰な名前が付いているが要は地元の人々による晩餐会である。
晩餐会のテーブルにはその題目通り、ビフテキや牛の胃が並んだが、ワシントンの目を引いたのは色とりどりの南国の果物であった。赤紫のパッション・フルーツ、真紅のザクロ、黄土のサポジラ[vi]、明黄のザボン[vii]、黄緑のグヴァ[viii]、明緑のスイカ、深緑のアボガドなど、これまで見たことさえない果物が並ぶ。
地元の名士達は、ヴァージニアから来た客人を競って饗応する。ただ「ほとんど蛆に喰われてしまったパン」が出されることもあったようだ。食品衛生が現代のように進んでいない当時では特に珍しいことではなかったが。

穏やかな南の海を眺めながら兄弟は何を話し合ったのだろうか。おそらく何も話さなかったと思う。時に沈黙のほうが雄弁なことがある。
衰弱していたローレンスは早朝に騎乗を楽しんだり、晩餐会に参加したりする他はほとんど何もできない。窓からはカーライル湾を航行する船だけではなく、街の要塞で訓練する兵士達の姿が見える。まるで玩具の鉛製の兵隊人形のようだ。そうした景色をぼんやりと眺めている兄の姿をワシントンは見守っていたのだろう。
ローレンスの病状は、一時は良好に思われたが、また悪化し始めた。そのため、さらに大西洋の孤島であるバミューダに移ることも話題に上る。

それでもワシントンは島の生活を楽しんだようだ。日記にはロバーツ嬢なる「素晴らしい若い淑女」に関する記載がある。ワシントンはロバーツ嬢と一緒にガイ・フォークス夜祭の花火を見に行ったらしい。
ガイ・フォークス夜祭とは聞き慣れない祝祭かもしれないが、115日の晩に行われる祭りである。教皇の日とも言う[ix]。その日、社交界では舞踏会や晩餐会が行われる。
結局、ロバーツ嬢との仲はどうなったのか。
どうやら2人の間にロマンスは生まれなかったらしい。「[バルバドスの]淑女達は概ね非常に素晴らしいのだが、悪い習慣や黒人の風に染まっている」と日記には記されている。当時は黒人と言えば概ね奴隷のことを指していたので「黒人の風」は決して褒め言葉ではない。

 島に到着してから2週間程経った1117日朝、ワシントンは奇妙な悪寒に襲われ高熱を発する。夜になるまでに激しい頭痛に襲われ、背骨と腰にも疼痛が走る。翌日も症状は変わらない。
天然痘である。
いつ感染したのか。その手掛かりは114日の日記にある。

「今朝、クラーク少佐からバルバドス島への到着を歓迎し、朝食をともにしたいという招待状が届いた。私自身は彼の家族が天然痘に罹っているのを知ってあまり乗り気はしなかったが、我々は招待に応じた」

天然痘の潜伏期間は一般的に7日から16日であることから辻褄は合う。
 赤い斑点が額から頭皮まで侵食し始める。数時間後、斑点は膿胞に変わる。病臥はそれからほぼ3週間続き、膿胞は乾燥して剥がれ落ちた。
天然痘による痕跡、特に鼻に少しの痘痕は一生残ったものの、免疫を得たことによって後々の長い軍隊生活の中でワシントンは天然痘に罹患せずに済んだ。天然痘で容貌が崩れることも珍しいことはではなかったので、幸運だったと言える。
例えば当時、天然痘の患者を見た者は次のように記している。

「私はこれまで[天然痘の患者よりも]恐ろしく惨めな人間を見たことがなかった。ある患者の頭は元の大きさの2倍近くまで膨れ上がり、目は完全に塞がっていて、顔は石炭のように真っ黒であった。患者の大半は死んだ」

ワシントンの痘痕を確認できる肖像画はほとんどない。おそらく画家が気を利かせて描かなかったのだろう。
同じく伊達政宗は天然痘を患って片眼を失っているが、政宗の肖像画には両眼が書かれている。それは画家が気を利かせたのではなく、政宗自身が、親から貰った身体を損なった状態で描かれるのは親不孝だという考えから両眼を描くように言い遺したからだという。
 日本でももちろん天然痘はアメリカでも非常に恐れられ、軍隊の中で主な死因の1つであった。戦闘で倒れるよりも天然痘で倒れる兵士のほうが多いことも稀ではなかった。そのためワシントンは、独立戦争中に総司令官として兵士達に種痘を施す命令を出した。独立戦争中に出された最も重要な命令の1つである。
天然痘の流行防止に大きく貢献したエドワード・ジェンナーが牛痘法を開発する前のことなので、人痘法が使われていた。人痘法は牛痘法よりも危険性が高い。そのため種痘によって却って死亡する危険が高かった。例えば「種痘を受けた500人の中で死亡したのは4人のみであり、その他の事例では死亡率はさらに高い」と記録されている。
現代であれば予防接種でそれだけ死亡率が高ければ決して認可されないだろうが、当時においてはそれでも天然痘による死亡率に比べればましであった。自伝の中でフランクリンは、自分の息子を天然痘で失ったことに言及して「どちらにせよ諦めきれないのであれば、少しでも安全なほう[種痘]を選ぶべきだ」と提言している。
 天然痘がどうして発生するかさえ当時の人々は知らなかった。
古い沼の底から湧き出てくるのだとまことしやかに指摘する者がいるかと思えば、肉眼には見えない虫が這い回って病気を広げると主張する者がいる。その一方で聖職者は、神が陋習に染まった人々を裁くために天然痘を遣わしたと声高に説いた。万事このような調子なので実効的な予防策も無きに等しかった。
当局ができることは焚火、煉瓦粉と消石灰の散布、罹患者の隔離、祈祷と懺悔しかなかった。焚火を燃やしたのは、そうすれば天然痘を焼き払えると信じていたからである。さらに種痘が危険であるとしてそれを禁止する法律が制定されていた。種痘は忌まわしい妖術に他ならないという迷信からである。

 122日に医師から完治を認められたワシントンは島内をつぶさに見て回る。ワシントンの興味は、地質、産物、要塞、風習など様々な対象に向けられている。特にワシントンを驚かせたのは、農園が稼ぎ出す収益である。
西インド諸島でイギリスとオランダの入植者は、これまで世界が見たこともないような換金作物で島のあらゆる場所を覆った。その作物の需要は底無しであった。作れば作る程、飛ぶように売れた。
それはサトウキビである。農園主は最も利潤をもたらすサトウキビ栽培に特化して、その他の食物は主に北アメリカ植民地からの輸入に依存した。
 18世紀半ばまでにバルバドス島はジャマイカ島とともにイギリス本国に莫大な砂糖を輸出する植民地の中でも最も重要な拠点となる。それはイギリスが経験した商業革命、すなわち、アジアから生糸や茶、新大陸からタバコや砂糖を大量に輸入するという貿易の質的、及び量的変化の一環であった。
 バルバドス島にもたらされた砂糖革命はすべてを変えた。砂糖は「白い黄金」と呼ばれる。すなわち奴隷という新しい労働力の導入によって砂糖の大量生産が可能になり、それを中国からの茶の輸入による砂糖需要の激増が後押しした。
砂糖とともに製造されるラム酒もバルバドス島の重要な産物である。北アメリカ植民地ではラム酒が非常に好まれていたので莫大な需要があったからだ。ワシントンはラム酒をあまり好まなかったようだが、庶民の酒と言ってよいだろう。
当時の記録によれば、「男達はラム酒を妻や子供よりも大事にしているようで、ラム酒を買って自分の口に入れるために、しばしば家族の口からパンを取り上げて売ってしまう」とある。ある旅人は、ニュー・ヨークではラム酒がオランダ人によって「悪魔殺し」と呼ばれ、「すべての人々がラム酒を愛好していて、非常に多くの者達が味が悪く高いだけなのにも拘わらず、過度に愛好している」と記している。
砂糖とラム酒の原料であるサトウキビ栽培は奴隷労働なくしては成り立たない。ニュー・ヨークで奴隷暴動が起きた時に拘束された奴隷の多くが売り飛ばされた先がバルバドス島のサトウキビ農園であった。
極東からもたらされた茶にカリブ海で生産される砂糖を入れて飲む。海洋帝国であるイギリスだからこそ実現できた贅沢である。実にイギリス人は18世紀の半ばには、フランス人と比べて一人当たり8倍から9倍の砂糖を消費する国民となっていた。
砂糖の交易によって巨利を博した商人は砂糖帝王と呼ばれた。バルバドス島は、海洋帝国イギリスの一端を垣間見ることができる場であったと言える。ニコラス・クレスウェルは、そうしたバルバドス島のサイトウキビ産業と奴隷制度について次のような記録を残している。

「砂糖の製造とラム酒の蒸留は大規模であった。サトウキビのジュースが風力で回転する鉄製のローラーで絞り出された後、煮沸されて砂糖やラム酒になる。サトウキビは高台に植えられていてクリスマスの頃に成熟する。現時点ではそれはまるで大きなスゲのように見える。黒人が鍬を使ってすべての世話をする。鋤は使われていない。[中略]。海岸に行って奴隷が上陸するのを見た。私はこれまで見た中で最も衝撃的な光景を目にした。故国から自由を奪われて連行された約400人の男達、女達、そして、子供達が自由の恩恵を再び享受する可能性もなく、不満を言う権利もなく、見知らぬ者達の財産とされて大きな苦難を負っている。そうした考えは非常に恐ろしいもので、その実践は不公正である。奴隷達はほとんど裸で身を覆う物は足の周りに巻かれた青い小さな布きれしかなく、非常に意気消沈しているように見えた。[中略]。黒人に対する残虐行為は非常に衝撃的であり人間性を損なうものである。というのは些細な過ちだけで、時には主人の単なる気紛れで、こうした哀れな人々は縛られて容赦なく鞭で打たれる。縛られた奴隷が捩じった牛の皮で半死半生になるまで打たれ、さらに茨のような黒檀の若枝でさらに打たれるのを私は目撃した。肌と肉が裂け、血が吹き出し、死に至らしめることもある。こうした激しい野蛮な行為によって死ぬ者がいる一方で、あまりに気高くて屈辱に耐えられない者は自ら生命を絶つ。もし誰かが奴隷を殺した場合、その者は罰金として奴隷の代価を支払うだけでよい。絞首刑になることはない。こうした哀れな人々にとって墓場の向こう側のあの世のほうがましかもしれない。彼らにとってこの世は地獄だからである。もし葬儀において彼らが見せる行動を見れば、それが正しいと分かるだろう。泣いたり嘆いたりする代わりに彼らは踊ったり歌ったりする。その様子はこの世で最も幸福な葬儀に見える」

 イギリスで生まれ育ったクレスウェルにとって奴隷制度は見慣れないものであったのだろう。見慣れないものであるからこそ奴隷の様子を克明に記していると言える。
その一方でワシントンの目も同様の光景が映っていた筈だが、クレスウェルのような奴隷制度に関する記述はほとんど見られない。ワシントンにとって奴隷制度は生まれた時から身近にある当たり前の存在であって特筆すべきことではないからだ。
その代わりにワシントンが興味を抱いたのは農園の管理についてである。ワシントンの見るところ、サトウキビ農園は確かに収益を上げているが、適切に管理されておらず、農園主も浪費に耽っていた。日記には次のように記されている。

「このような人々が借金を背負い、贅沢品はおろか生活必需品さえ整えることができずにいるとは何という驚くべきことだろう。しかし、これが現在の事実である。土地はしばしば借金のかたに取られている。200エーカー(800ヘクタール)から300エーカー(1,200ヘクタール)、場合によっては400エーカー(1,600ヘクタール)もの土地を持つ者が、どうしたら暮らしに事欠くようになるのだろうか私にはまったく理解できない」

 ワシントンはこのように書いているものの、自身も後に農園経営で苦労することになる。

 兄弟は毎夜のように晩餐会の招きに応じたが、1213日から20日の間は2人きりで過ごしている。今後について話し合わなければならなかったからだ。
バルバドス島へ来てもう1ヶ月以上になる。ローレンスの病状は急激に悪くなっていないものの、良くもなっていない。それよりもローレンスの心の中で、ヴァージニアに置いてきた妻と娘に会いたいという気持ちが日増しに募る。バルバドス島の温順な気候さえも、それが単調だということでローレンスの気を滅入らせる。
何よりもまず病状を良くしなければならない。前から決めておいたバミューダ島に移ることになった。その一方でワシントンは、ヴァージニアに戻ってローレンスの妻を連れて来ることを約束する。

 1222日、ワシントンは兄やバルバドス島の友人達に別れを告げて、ヴァージニアに帰る船に乗り込んだ。その日の日記には「22日。私の兄とクラーク少佐とその他に別れを告げて、ヴァージニアに向かうインダストリー号に乗り込んだ。2時頃、錨を上げてカーライル湾を出港した」と書かれている。

 このバルバドス島への旅はワシントンの最初で最後の海外訪問であり、後にアレグザンダー・ハミルトンがワシントンの隠し子であるという噂の源になった。
ハミルトンは独立戦争でワシントンの副官として働き、後に初代財務長官となってアメリカの国家財政とウォール街の基礎を築いた男である。ハミルトンは敵を多く作ったために大統領になることはなかったが、大統領になる資格は十分にあっただろう。

 ワシントンを乗せたインダストリー号は激しい嵐に翻弄された後、ヨーク川の河口に到着する。船の中で船酔いに苦しめられ朦朧としていたワシントンは財布からお金を抜かれてしまった。
1752128日、這々の体で船から降りたワシントンは馬を借りてウィリアムズバーグに立ち寄る。

ウィリアムズバーグはヴァージニア植民地の首府である。これまでウィリアムズバーグという都市の名前は何度か登場しているが、その度に読者はあまり馴染みがない名前だと思ったかもしれない。おそらくアメリカの歴史に少しでも関心がある読者であれば、ウィリアムズバーグよりリッチモンドという地名のほうが親しみ深いだろう。
リッチモンドは、南北戦争の際に南部連合の首都になった都市として有名だ。実はウィリアムズバーグはリッチモンドが州都になる前の首府であった。リッチモンドが街になったのはウィリアムズバーグに遅れること20年で、しかも、この当時の人口は200人から300人程度に過ぎなかった。
ウィリアムズバーグは、ヨーロッパの大都市を見慣れた旅行者の目からすれば単なる地方都市に過ぎなかったが、ヴァージニア人の誇りであった。
ヨーク川とジェームズ川に挟まれた平坦な土地に開けたこの街は、総督が座を占める場であり、総督参事院や植民地議会が招集される場でもある。中でも人目を引くのがウィリアム・アンド・メアリ大学と総督官邸である。

ウィリアム・アンド・メアリ大学は、1693年に認可を受けて開学した。アメリカでハーヴァード・カレッジに次いで古い大学である。
図書館には3,000冊の蔵書があったという。オックスフォード大学にあるボドレー図書館やヴァチカン図書館には遠く及ばないが、植民地、特に南部では十分な蔵書と言えた。その当時、アメリカ随一の蔵書は、著名な牧師で著述家のコットン・マザーによって集められたものだが、それでも8,000冊である。
面白いことにウィリアム・アンド・メアリ大学を挟む2本の斜めに走る道はW字型になっている。天地をひっくり返すとM 字型である。それは大学に認可を与えたウィリアム3世とメアリ2[x]に敬意を示すために両者の頭文字を埋め込んだからだと言われている。

総督官邸は煉瓦造りの瀟洒な「小宮殿」とでも呼ぶべき建物で、実に360エーカー(150ヘクタール)もの広さの敷地が付属している。敷地には柊が立ち並び、その隙間から小川が流れているのが見える。花壇には日々草が植えられ、訪問客の目を楽しませる。
総督官邸の至る所に「第4の地、ヴァージニア」というラテン語の文句が麗々しく刻まれている。それはヴァージニアの歴史を端的に示している。
オールド・ドミニオン、すなわち「古き領土」は、大統領の母と並んでヴァージニア植民地の最もよく知られた異名の1つである。その名前はヴァージニアが北アメリカで最初のイギリス領となったことを意味している。
もともとヴァージニア植民地の紋章には「第5の地、ヴァージニア」というラテン語の文句が刻まれていた。それはイングランド国王が、イングランドの他にスコットランド、アイルランド、フランスに対して請求権を持つことを意味すると同時に、ヴァージニアが5番目の領土であることを意味している。そして、イングランドとスコットランドが併合した際に、ヴァージニアは第4の地になり、ラテン語の銘文も「第4の地、ヴァージニア」に変更された。

ウィリアムズバーグが正式に街になったのは、ウィリアム・アンド・メアリ大学が開学した後で1722年のことである。それから30年経って、約200軒の家屋が建ち並び、人口は1,000人を数えていた。
家屋の多くは、地方の郷紳が植民地議会の開会中に滞在するために建てられた。そうした家屋は郷紳の富を誇るかのような邸宅であり、小綺麗な庭園を持ち、街をうろつく犬や豚が入り込まないように柵で囲まれている。
1,000人という数は非常に少ないように思えるが、もともと南部ではあまり大都市が発展しなかったのでそれだけの人口でも十分に大きな街であった。ただ当時のヴァージニアで最大の街は、さらに東にあるノーフォークでその人口は6,000人であった。
ウィリアムズバーグの小奇麗な官庁や手入れの行き届いた公園や緑地は、これまで小さな街しか見たことがないワシントンの目を十分に楽しませる。特にワシントンの目を引いたのはグロースター公爵大通りだろう。
グロースター公爵大通りは、煉瓦で舗装された側道を持ち、幅は100フィート(30メートル)、長さはほぼ1マイル(1.6キロメートル)に及び、薬種商、宝石商、銀細工師、鬘師、靴職人、雑貨屋、鞍職人、鍛冶屋、帽子屋、銃鍛冶、指物師などが軒を並べている。その当時、ヴァージニア植民地唯一の印刷所も鎮座している。つまり、ウィリアムズバーグは政治の中心であるだけではなく文化の中心でもあったということだ[xi]

ヴァージニアの前途ある若者が首府を訪れる理由は1つしかない。
政治的にも社会的にも強い影響力を持つ人々に縁故を求めることである。もし有力者の縁故を得ることができれば、社会の階梯を登って行く道が開ける。ワシントンの目的も他の野心的な若者と変わらない。ワシントンが縁故を得ようとした相手はヴァージニア総督代理ロバート・ディンウィディである。
ディンウィディは正式には総督代理であるが実質的に総督である。名目上の総督はアルブマール伯爵という人物だが、それは恩典のような名誉職であり本国から離れることはなかった。したがって植民地統治の実務はディンウィディに委ねられている。
ワシントンが訪れた時、ディンウィディは生憎と不在であった。
暫く経って帰還したディンウィディは、ワシントンを食事に招いてローレンスの病状を親しく聞く。先が長くないことを悟ったローレンスは、自分の地位愛する弟に引き継がせようと考えていたようだ。これがディンウィディとワシントンの初めての会話となった。以後、ディンウィディはフェアファックス家と同じくワシントンの重要な後援者の1人となる。
ワシントンは、マウント・ヴァーノンに赴いてローレンスの妻に会ってバルバドス島から帰還したことを知らせる。そして、兄がバルバドス島で待っていると伝える。
その後、ワシントンは測量の仕事に戻ってさらに土地を購入している。ワシントンの所有する土地は2,000エーカー(800ヘクタール)にまで増える。しかし、再びワシントンは測量の仕事を断念しなければならなかった。天然痘に続いて胸膜炎に罹ったからである。

弟と別れたローレンスは冬の間、バルバドス島に滞在していたが、ヴァージニアの冷涼な気候を懐かしく思う。ローレンスはフェアファックス卿にそうした気持ちを書き送っている。

「ここの気候は私が期待したような救済をもたらさないので、私は帰途にバミューダ島を試そうと思っています。もしそうできなければフレデリック郡の乾燥した気候を試そうと思います。ここは西インド諸島で一番美しい島です。しかし、本当のことを言えば、どこへ行っても、四季の変化がないこの土地では私は満足することができません。同じ景色にすぐに飽きてしまいます」

3月、ローレンスはかねてからの計画通りバミューダ島に移る。しかし、病状は悪化する一方であった。46日、友人にローレンスはバミューダ島から次のような手紙を送っている。

「私はいよいよ決定的な宣告を受けるべき最後の保養地にやって来ました。今のところフォーブズ先生は宣告を下しそうにもありませんが、有罪の宣告をされながら、未だに執行猶予の望みを捨てないでいる罪人のもとを去るような気持ちで、私の部屋を出て行ったに違いありません。しかし、私は一切の肉類と強い酒を断って、耐えられるだけ[結核に良いとされる]乗馬をして、見事に刑の猶予を得ようと思っています。これが私が生きることを望むことができるただ1つの条件なのだから」

 ローレンスは治療の方針について迷っていた。
1年間、バミューダに滞在するので弟とともに一緒に来て欲しいと妻に書き送ったかと思えば、バルバドス島に戻るか、それとも南フランスに行くのがよいかもしれないと書き送ったりしている。どうすればよいのか本当に分からなかったのだろう。
ローレンスの手紙の末尾には「これまで苦悩してきた健康の不運な状態によって帰郷に不安を覚えます。もし私の病状がさらに悪くなれば墓へと急ぎ帰ることになるでしょう。もし病状が良くなれば、私は治療を完全にするためにここに長く留まることになるでしょう」という言葉が記されていた。

結局、死期を悟ったローレンスは「墓へと急ぎ帰る」ことになる。1752726日、転地療養から戻ったローレンスはマウント・ヴァーノンで家族と友人に看取られて亡くなった。享年34歳。
ローレンスの死は、ワシントンにとって父の死にも等しいものであった[xii]。ローレンスがワシントンに与えた影響は大きい。その進取性に満ちた精神と優れた教養は常にワシントンの手本であり導き手であった。
ワシントンは遺言執行人の1人に任命され、フレデリックスバーグの地所の分与を受けた。マウント・ヴァーノンはローレンスの幼い娘に遺された。もしその娘とローレンスの妻が相続人を得ることなく亡くなれば、ワシントンに譲られることになった。
そうした財産よりもワシントンの心を捉えたのは兄の遺言に書かれた一言であろう。遺言には「愛する兄弟ジョージ・ワシントンのために」という一言が添えられていた。

ワシントンは兄の未完の生涯を引き継いだと言える。家名を隆盛させるという野心は父オーガスティンからローレンスに受け継がれ、今度はワシントンに受け継がれた。また皮肉にも愛する兄の死によって、さらなる人生の展望がワシントンに開けたとも言える。
8代将軍徳川吉宗や大老井伊直弼が兄の死によって世に出たのと似ている。またレーニンが16歳の時に、ロシア皇帝の暗殺に失敗した兄アレクサンドロフの処刑によって革命への道を歩む決意を初めて抱いたことにも比すことができよう。
それは森の中でこれまで日光を独占してきた老木が倒れ、若木が新たに成長する余地を見つけたかのようであった。
しかし、今の段階ではワシントンは未熟な青年でしかない。どのような人物であれ、最初から成熟している人物はいない。鉄が鍛冶屋の手によって鋭利な刃物に鍛えられるように、才能は試練という金床で鍛えられる。
これからワシントンは多くの経験を通じて成長する。時には未熟な故の失敗もある。読者はどうか焦らずにワシントンの成長を見守って欲しい。



[i] 1774年に同じくヴァージニアからバルバドス島へ渡ったニコラス・クレスウェルは「アレクサンドリアから41日間の船旅」と記しているので、ワシントン兄弟が要した日数は平均的なものだと考えられる。

[ii] 読者はなぜ「ドルフィン」というカタカナ語をわざわざ使っているのか疑問に思ったかもしれない。ドルフィンと言えば普通はイルカのことを指す。しかし、シイラのことを指す場合もある。したがってワシントンがイルカを食べたか否かは分からない。おそらくシイラであった可能性が高い。なぜなら23年後に同様の航路を辿ってヴァージニアからバルバドス島に渡ってニコラス・クレスウェルという人物が日記に次のように書いているからである。

「ドルフィンを捕えた。それは私がこれまで見たことがある魚の中で最も美しい魚であった。体長は約3フィート[91センチメートル]であり虹の色彩を帯びている。水中から釣り上げられた後、その色は死んでしまうまでにすぐに明るい青色から紫色に変わってしまった。身はとても白いが食べると固い」

 こうした記述からすれば、クレスウェルが言及している「ドルフィン」とはシイラのことだろう。おそらくワシントンもクレスウェルと同様にシイラを食べたと考えられる。

[iii] ニコラス・クレスウェルという人物は独立戦争が勃発する直前にアメリカで一旗揚げようと大西洋渡った若者である。そして、王党派であるという嫌疑を受けて脱出を試みるも1度は失敗する。2度目でようやく成功してイギリスに帰った。1774年から1777年までのアメリカ滞在の記録は『ニコラス・クレスウェルの日記』として貴重な記録になっている。

[iv] 西インド諸島産のフトモモ科の常緑高木を乾燥して作られる香辛料。

[v] ワシントン兄弟が逗留した家は「ジョージ・ワシントンの家」として現在でも保存されている。バルバドス島を訪れるアメリカ人はバルバドスとアメリカを繋ぐ意外な絆があることを知って驚くという。1997年にクリントン大統領とともにバルバドスを訪問したヒラリー・クリントンは次のような文句が刻まれた記念銘板の除幕式を行った。

「バルバドスを訪問の際、この記念銘板は、ウィリアム・ジェファソン・クリントン大統領からオーウェン・S・アーサー首相閣下とでバルバドスの人々に、我々の2カ国を結合する友好と親善の精神とアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが1751年にこの素晴らしい国を訪問中にこの家に住んでいたことを記念して贈呈された」

[vi] チュイーンガムノキの果実。

[vii] ミカン科の果物。

[viii] フトモモ科の小低木バンジロウの果実。

[ix] 1605年の火薬陰謀事件に端を発する。その年、ガイ・フォークスを主犯とするカトリック教徒達がカトリックに対して不寛容な国王ジェームズ1世と議員達を爆殺しようとした。しかし、陰謀は未然に防止され、その後、陰謀の実行予定日であった115日にフォークス、もしくは教皇に似せた人形を作って、街中を引き回した後、夜に焼き捨てる祭が行われるようになった。後にワシントンが大陸軍総司令官になった時、プロテスタントとカトリックの宗派間の敵愾心を煽るとして、軍中でフォークスの人形を焼き捨てるのを禁止している。

[x] 名誉革命以後、1689年から1694年はウィリアム3世とメアリ2世の共同統治時代であった。

[xi] イギリスの旅行家であるアンドリュー・バーナビーが著した『北アメリカの中部入植地の旅行、1759年と1760年』には次のように記されている。

「ウィリアムズバーグはヴァージニア植民地の首府であり、2つの小川の間に位置している。一方の小川はジェームズ川に注ぎ、もう一方の小川はヨーク川に注ぐ。そして、ほぼ真東から真西に築かれている。荷揚げ地から街の距離は1マイル[1.6キロメートル]以上あるうえに大きな船舶が入れないという欠点がある。そうした理由によって人口は期待される程、速く増えていない。約200軒の家屋があるが、人口は白人と黒人を含めても1,000人を超えておらず大きな都市ではない。規則的に平行に通りが設けられ直角に他の通りと交差している。中央には美しい広場があって、そこから大通りが走っている。大渡落ちは北アメリカで最も広い通りの1つで長さ4分の3マイル[1.2キロメートル]、幅100フィート[30メートル]以上に及ぶ。大通りの両端には2つの公共建築、すなわち大学と植民地議会議事堂がある。家屋は木造で板葺で無頓着に建てられているが全体として整然とした感じを与える。特筆に値するような公共建築はほとんどない。私が既に言及した建物[大学と植民地議会議事堂]が主要な建物であるが優れているとは言えない。総督官邸は優美であり大陸で最も優れた建築の1つだろう。しかし、教会、監獄、そして、その他の建物はすべて取るに足らない。通りは舗装されておらず非常に汚ない。土は主に砂から成っている。しかし、ウィリアムズバーグが占めている場所には低地にはほとんど見られないような利点がある。つまり、蚊がほとんどいないということである。全体としてまずまずの街だろう。10人から12人の紳士の家族が継続的に住んでいる。議会や法廷が開かれる時には郷紳で溢れ返る。そうした場合には舞踏会やその他の娯楽が行われる。しかし、用事を済ませると彼らは農園に帰ってしまって街は寂寥たる様子になる」

[xii] メイソン・ウィームズ『ジョージ・ワシントンの生涯と記念すべき行い』では次のようにローレンスの死が描かれている。

「ローレンスは回復しなかったが、ヴァージニアに戻った。そこで彼は、弟のジョージがフランス人とインディアに対して厳しい戦いをした直後に亡くなった。ローレンスはそれ以後のジョージを見ることはできなかったが、その名声を少しでも聞くことはできた。というのはフランス人とインディアンがその時、大きな恐怖をもたらしていたので人々は彼らの国のためにフランス人とインディアンを抑えるために僅かな部隊で対抗した若者に惜しみない称賛を送ったからである。愛する弟が祖国のために勇敢に戦ったこと、そして、全土が賞賛で満ちていることを聞いた時、ローレンスは喜びの涙を流した。愛が自然に勝ったのだろうか、末期状態の結核の熱と咳に苦しみながらも、彼はそのようなことを気にせず、最期の時を弟のジョージと過ごしながら『私はいつかおまえが偉大な人物になると信じている』と言った」

 感動的な兄弟愛の逸話だが、ローレンスが亡くなったのは1752726日であり、ネセシティ砦でワシントンが敗北したのは175474日である。したがってこの逸話は事実無根である。