建国の父(下)第8章ジェイ条約

第8章 ジェイ条約

※ジェイのロンドンでの条約交渉についてさらに加筆を検討している。
※ランドルフの辞任に関する話は果たして詳細に議論しても興味がある人がいるのか否かと思う節もあり。

(179368日~1796822)
§梗概§
●独立戦争後、アメリカとイギリスの関係はどのように推移したのか。どのような問題をめぐってアメリカとイギリスの関係は悪化したのか。
●最高裁長官ジョン・ジェイはイギリスとの交渉の結果、どのような内容の条約を結んだのか。
●なぜ民主共和派はジェイ条約の締結に激怒したのか。
●荒れ狂う非難の嵐を前にしてジョージ・ワシントンはジェイ条約に関してどのような決断を下したのか。
●ジェイ条約の成立を妨げようと下院はどのように画策したのか。そうした下院の画策を退けることによって確立された重要な先例とは何か。
●エドマンド・ランドルフ国務長官はなぜ辞任したのか。駐米イギリス公使ジョージ・ハモンドはどのようにランドルフの辞任に影響を及ぼしたのか。



対英関係


 独立戦争でイギリスを相手にして戦い抜いたのにも拘わらず、ワシントンはイギリスと友好関係を維持することが非常に重要だと考えていた。それは極めて現実的な国益に基づく冷徹な計算に裏付けられている。
ハミルトンの提案によって内国税が導入されたとはいえ、連邦政府の歳入の大部分は未だに関税に依存していた。例えば1793年度の歳入は、関税が4255,000ドル(1,200億円相当)だったのに対して、内国税は338,000ドル(91,000万円相当)であった。
貿易が盛んになれば関税は増え、貿易が衰えれば関税は減る。つまり、貿易が連邦政府の歳入を左右する。そして、アメリカの最大の貿易相手はイギリスであった[1]。「すべての観点から、我々の貿易はイギリスにとって不可欠であるのと同様に我々にとっても不可欠である」とワシントンは述べている。
フランスも主な貿易相手国であったが、その輸入品はワイン、ブランディ、そして、女性用靴下といった奢侈品であった。その一方で、イギリスからの輸入品は食器や陶器など日用品が含まれる。実に歳入の4分の3がイギリスとの通商によってもたらされていた。
もしイギリスとの友好関係が途絶すれば、国家財政の屋台骨が揺らぐ。この点を理解しておかなければ、アメリカがなぜイギリスとの関係悪化をできる限り回避しようとしたのか理解することはできない。

 独立戦争終結後、アメリカは旧宗主国であるイギリスと何とか友好関係を回復しようと務めたが、そうした努力を阻害する要素が幾つかあった。
まずイギリスは、アメリカの商人や農園主を西インド諸島から締め出した。それはイギリスの海運業を守るという保護政策である。
またイギリスはパリ講和条約で約束した逃亡奴隷の損害補償を行っていない。
さらにアメリカに明け渡すべきフロンティアの拠点もイギリスの支配下に置かれたままである。フロンティアの拠点を放棄しなかったのはなぜか。イギリス領カナダの重要な産業である毛皮交易を保護するためである。
もちろんイギリスにはそうした経済的な動機の他にイギリスなりの正当化の論理がある。パリ講和条約で合意が成立したのにも拘らず、独立戦争前の負債が返済されておらず、王党派の奪われた権利と財産も完全に補償されていない。したがってアメリカが忠実に条約を履行していないのだから、イギリスも条約を履行する義務はない。

 ますワシントンは両国の問題を解決するためにグヴァヌア・モリスを非公式の使節として派遣する。ジョン・アダムズが離任して以来、駐英アメリカ公使は空席となっている。非公式ながらモリスを派遣することで探りを入れようという腹である。
ジェファソンは、アメリカがイギリスと親しくなることは君主制を模倣して受容するようなものだと警戒していた。ハミルトンとジェイがモリスの派遣を支持する一方で、ジェファソンはモリスが君主制に傾倒しているとして強硬に反対する。
ロンドンに赴いたモリスは懸案事項の解決をはかるべく交渉を開始するが失敗する。そして、国務長官に任命されて帰国することになったジェファソンの後任として駐仏アメリカ公使に任命される。
ジェファソンがヨーロッパから帰還するまで、連合会議で外務長官を務めていたジェイが代理を務めていた。その期間を利用してハミルトンはジェイとともにイギリスとの絆を強めようとした。
 ハミルトンは、カナダ総督のガイ・カールトンからイギリス本国がアメリカと友好関係だけでなく同盟関係を望んでいるという手紙を受け取ってその旨をワシントンに報告した。しかし、前述のようにヌートカ危機がイギリスとの関係を見直す契機となる。もしイギリスと同盟関係を結べば、アメリカも戦争に巻き込まれる可能性がある。
そこでワシントンはハミルトンにイギリスの外交官から友好関係を促進するために何らかの譲歩を引き出すように求めた。通商条約締結こそイギリスが望んでいることに違いないとハミルトンは考えた。そこでイギリスの外交官と交渉を重ねる。但しハミルトンは、国務長官がおそらく通商条約締結に反対するだろうと釘を刺した。
 それでもハミルトンの努力が実り、両国は新たなる一歩を踏み出す。ジョージ3世がジョージ・ハモンドを初代駐米イギリス公使に指名したのである。それは正式な国交を開く意思の現れである。



ジェイの使命


ハミルトンの尽力でアメリカとイギリスの関係は改善したかのように思えた。しかし、両国の関係に暗雲を投げかける事態が起きる。フランス革命戦争である。
フランスは農作物の不作のために飢饉に脅かされ、穀物を緊急に輸入しなければならなくなった。敵国がそれを見過ごすはずはない。
179368日、イギリス政府は対仏戦争の一環としてフランスの港に穀物を輸送する中立国の船舶を拿捕するように海軍に命じる。しかし、その命令は、軍需品以外の船荷を積んだ中立国の船舶は交戦国の港に自由に入る権利があるという国際法上の大原則を無視する行為であった。穀物は当然ながら軍需品ではない。
さらに116日、イギリスは、フランス領西インド諸島に食糧を輸送する中立国の船舶を拿捕してイギリス海事裁判所の審判を受けさせるためにイギリスの港に曳航するように海軍に命じる。これも中立国の権利に対する明らかな侵害である。
その結果、250隻以上のアメリカ船が拿捕され、積荷が差し押さえられた。アメリカ市民であることを証明できない乗組員はイギリス海軍に脱走した水兵だという口実で強制徴用され、その他の乗組員も収監された。強制徴用された船員の中には多くの無罪のアメリカ人が含まれていた。
こうしたイギリスの高飛車な姿勢は独立戦争時の敵意を人々の胸裏に甦らせる。連邦派さえイギリスの政策は、アメリカ人にフランスに同情を抱かせるような逆効果を与えるとして反発した。そして、連邦派の主導で戦争準備が開始されるとともに、アメリカの全港に外国船の入港を禁止する措置が発令される。
民主共和派はそうした戦争準備が国内の反対派を取り締まるための陰謀ではないかと疑いを強める。またハミルトンが新たに組織される軍を指揮するという噂が強まり、民主共和派の神経を逆撫でする。
さらに議会では、イギリスに支払うべき負債をすべて国家に没収してイギリスに拿捕されたアメリカ船舶の補償に充当する動議、そして、イギリスが補償を弁済してフロンティアの拠点を明け渡すまで通商関係を途絶させる動議が提出される。
イギリスの侵害行為に憤激した国民が開戦すべきか否か論じる姿が国中の至る所で見られた。
イギリスは中立宣言を臆病者の証としてアメリカを侮っている。このまま侮辱を黙って受けていてもよいのか。誇りを持つアメリカ人は一致団結してイギリスに一泡吹かせようではないか。
どうやら開戦すべきという声が国民の多数を占めているようだ。もちろん冷静な見方をしている者もいた。その中の1人であるフィッシャー・エームズ下院議員は次のように記している。「イギリス人は完全に狂人である」とも言っているが。

「新聞は嵐を知らせている。フランス領西インド諸島に農産物を運ぶ我が国の船を拿捕することは、古い勅令の下、まだ続くだろうと言われている。もしイギリスがそれを強行するのであれば、我々は壁際に追い詰められてしまう。[イギリスがフロンティアの]拠点を放棄する様子はない。この点について我々の側の主張を通そうとすることは、私の考えでは賢明ではなく時期も悪い。[中略]。ジョン・ブル[イギリス]はその強さを誇り、我々がフランスに友誼を示しているのに腹を立てていて、戦いに熱狂してすべての神経を研ぎ澄ませ、我々に対して然るべき敬意と忍耐を示そうとしない。イギリスは[フロンティアの]拠点、海運、そして、貿易に関して譲歩の精神を示そうともしない一方で、先述のような拿捕のやり方は敵対心が十分に駆り立てられていることを示している。しかしながら我々はそうしたやり方を[イギリスが]なぜ採用するのか信頼できる理由を得ていない。全体としてイギリスは我々を戦争に引きずり込もうとしているわけではないと私は思っている。しかし、イギリスは中立が我々の感情にとって不快なものになり、我々の海運にとって不利益にものになるように仕向けている。おそらくイギリスはそうすることで戦争か平和かどちらになるかなどほとんど気にしていないのだろう」                                                                                                                    

 ワシントンも国民やエームズと同様にイギリスが確かにアメリカに対して敵意を持っていると感じていた。そして、イギリスがフロンティアのネイティヴ・アメリカンを扇動することで、アメリカとカナダの国境をイギリスに有利な形で決定しようとしているのではないかと疑っていた。
事実、イギリスがネイティヴ・アメリカンをアメリカに敵対させようとしているという報せが頻々と届く。イギリスに通商上の報復を与えよという声が高まる。
もしそうした声に従って報復を実行すれば、ヨーロッパの争いに巻き込まれることを避けるためにワシントンが公布した中立宣言はどうなるのか。
ワシントンは中立宣言を固守するべきだと考えるだけではなく、イギリスの言い分もある程度、認めなければならないと考えていた。イギリスがパリ講和条約で約束した逃亡奴隷の損害補償を行おうとせず、フロンティアの拠点を手放そうとしないのはアメリカが義務を果たそうとしていないからだ。
事実、アメリカはパリ講和条約で約束したのにも拘わらず、幾つかの州裁判所はイギリスに対する負債の支払いを拒む決定を下していた。相手国に何かを要求する前に自国が義務を果たさなければならないとワシントンは考えていたが、州裁判所の決定を覆すことはできない。
連邦政府が外国と締結した条約に州が違反した場合、施行を強制できるのか。その問いに答えられる者はいなかった。事実、はるか後になっても連邦と州がその是非をめぐって法廷で争っている。

1793123日、ワシントンは議会に対して第4次一般教書を発表した。ワシントンが最初に取上げた話題は、国民が再び自分に信任を与えてくれたことに対する感謝であった。そして、中立宣言について述べるとともにアメリカは完全な防衛体制を築かなければならないと説く。

「人類の歴史の流れに反して、すべての国の歴史でよく見られるように武器に訴えるという苦痛に満ちた選択から永遠に距離を置くことができるという確信に合衆国は甘えるべきではありません。諸国の間で合衆国は当然、占めるべき地位がありますが、絶対的に失われないにしろ、もし合衆国は何か弱みを持っているという評判が広まれば失われてしまいます。もし我々がそのような侮辱を避けたいのであれば、我々はそれをはね返すことができなければなりません。もし我々が我々の繁栄の最も強力な手段の1つである平和を維持したいのであれば、我々はいかなる時も戦争に対して準備を整えていると知らしめなければなりません」

 そして、ワシントンは兵器庫に武器弾薬を十分に貯蔵するように提案し、民兵の制度改革を示す。国家が戦備を整えない限り、諸外国から尊重されることはないというのがワシントンの信念である。
国家の権利を守るためには、ただ言葉で主張するだけでは駄目で、実力に裏打ちされていなければならない。つまり、もしイギリスに中立国の権利を尊重させたいのであれば、アメリカもそれなりの実力を備えていなければならない。続いてワシントンは公債償還を誠実に続けるように議会に推奨する。

「定期的に公債を償還すること以上に特別な配慮を必要とすることはありません。その遅延よりも有害なことはありませんし、その時期を早めることよりも有用なことはありません」

 公債償還を軌道に乗せて国家の信用を盤石なものとし、国家財政を安定させることは、戦備を整えるためにも是非とも実現しなければならない。そして、一般教書の最後でワシントンは議員にそれぞれ誠心誠意を以って国家のために奉仕するように求める。

「偏見のない冷静さがなければ、政府の福利は危機にさらされます。言論の自由と並んで調和の精神がなければ、政府はその尊厳を失います。合衆国議会が冷静と誠実を欠いていると決して批判されることはないと私は信じるのと同時に、私が熱心な協調の精神を欠くことで人民の幸福を損なうことはないでしょう」

 軍備を整えたうえで中立を堅持するというワシントンの姿勢は正しいことが証明された。
179418日、イギリスは116日の命令を撤回し、非軍事物資に限ってアメリカ船に仏領西インド諸島との通商を認めたという通信が駐英アメリカ公使のトマス・ピンクニーからもたらされた。ピンクニーの話によれば、イギリス政府は、アメリカの通商を妨害するために116日の命令を出したわけではないと弁明したという。それはイギリスとの関係を好転させる一縷の希望のように思われた。
 ワシントンが早速、ピンクニーを議会に公表したところ、イギリスに対して報復措置をとるべきだという声は勢いを失う。しかし、それまでアメリカが受けた損害への補償はなされなかった。
 議会は冷静さを取り戻したが、一度、加熱した世論は簡単には冷めない。民主共和協会のような親仏的な組織や一部の新聞は未だに国民の戦争熱を煽っている。熱に浮かされた多くの国民は、断固としてイギリスを膺懲することを求めている。
このような際に指導者が国民の声に抵抗することは難しい。なぜならもし穏健な措置を取ろうものなら、国民から臆病者の誹りを受けかねないからだ。
しかし、敢えてそれを恐れず国民の声に従わないことも勇気である。指導者の慰めとなるのは、後世の歴史が自分の判断の正しさを証明してくれるだろうという確信と自分は国家の安寧のために奉仕したという誇りのみである。
未熟な者は大義のために高貴な死を求める。
しかし、成熟した者は、大義のためであれば、たとえ蔑まれようとも生きることを求める。
 国民から臆病者の誹りを受けることよりもワシントンが恐れたことは、イギリスの関係悪化が戦争に繋がることだ。もしイギリスと戦争になればアメリカが深刻な危機に陥ったことは間違いない。
たとえ十分な軍備を整えたつもりでも、それは完全ではない。イギリスは北西部領地に接するカナダで陸戦戦力を保持しているだけではなく、世界最強の海軍を擁している。アメリカはそれに対抗して海岸部を守ることができるだけの十分な海軍力を持っていない。
さらにイギリスの同盟国であるスペインがミシシッピ川を使って侵攻を試みる恐れもある。とにかく国家の安寧のために戦争を避けなければならないとワシントンは固く決意していた。
ジェファソンが去った後、国務長官に着任したランドルフは、大統領の決意を実現するために両国の問題を解決できるように重要人物をイギリスに派遣することを提案した。
特使を派遣すれば重要な懸案事項をじっくりと協議することができる。また近年の衝突に対してアメリカが遺憾に思っていることを間接的かつ平和的に印象付けることができる。対英貿易に従事している者達は政府が本腰を入れて問題の解決に当たろうとしていると評価する筈だ。それにとりあえず特使を派遣すれば、国民が冷静さを取り戻す時間的余裕を持つことができるだけではなく、交渉が決裂した場合に備えて十分な防衛体制を築く時間的余裕を持つことができる。
こうしたランドルフの提案を受けてワシントンは、民主共和派を怒らせる恐れがあると不安を感じながらも特使の派遣を決定した。方針は決まったが問題は人選である。
可能性がある選択肢は、アダムズ、ジェイ、ジェファソン、そしてハミルトンとなる。重要人物を派遣しなければイギリスは本気で交渉に応じようとしないだろう。特にハミルトンは連邦派の強い支持を受けていたので適任のように思われた。ワシントンもハミルトンの派遣に乗り気であった。
しかし、ランドルフは、ハミルトンがこれまでフランスを強く批判してきたことからイギリス贔屓と見られているので派遣を見合わすべきだと主張する。
民主共和派もハミルトンの派遣に異口同音に反対する。彼らは、ハミルトンがアメリカに君主政を導入するという陰謀を相談するためにイギリスに赴こうとしていると本気で疑っている。
中でも上院議員であったモンローは、ハミルトンの派遣に強く反対してワシントンに面談を要求する。モンローに対してワシントンは反対する理由があるなら書いてまとめるように伝えた。

ハミルトンやその他の人物の名前が話題にのぼっているようですが、私はまたはっきりと誰と決めたわけではありません。しかし、今度のことは何よりも使節の能力と我が国の情勢に関する認識に依存するところが大きいうえに、私のみが正しい任命を行う責任を負っているので、私が最もふさわしいと認める人間を指名するつもりです

ワシントンはモンローが親仏的であり、民主共和派であることを知っていた。それ故、党派的な動機に基づいてモンローがイギリスとの和解を進めようとするハミルトンの派遣に反対したのだとワシントンは思った。ワシントン自身は党派とは関係なく最善の利益になると考えてハミルトンを派遣しようと考えていた。だからこそ党派的な動機に基づく反対に腹を立てたのだろう。
ワシントンの意を汲んでハミルトンは、どのように対英関係を推進するべきか早速、進言している。現閣僚は頼りにならずワシントンにとって最も信頼できる相談相手はハミルトンしかいない。ハミルトンの進言は、実に5,000語近くに及ぶ政策提言である。
まずハミルトンは、「我が国の問題において現状は非常に大きく困難で破滅的な危機にあります。そのような危機の際、状況に応じて悪を防止して善を成すために全力を尽くすのがあらゆる者の義務です」と対英関係がアメリカにとって非常に重大であることに注意を促す。そして、自分の立場は、「国家の栄誉と権利を守り、すべての国々と友好的な理解を育むことができる方法であらゆる努力を行って平和を維持することを決意する者」と同じであると明言する。今、大統領が行うべきことは万が一の場合に備えて軍備を整えることである。それは「戦争勃発の危機的状況の下で単なる自衛のための準備」であるからイギリスを挑発することにはならない。
さらに興味深い点は、ハミルトンが「将来に備えて海運と通商に関する重要な権限を大統領に与える」ようにするべきだと主張している点だ。この機会を利用してハミルトンは大統領にさらに新しい権限を与えようと考えていた。つまり、大統領の外交権限の確立である。
ハミルトンが警戒していたのはイギリスだけではなく民主共和派の蠢動である。
民主共和派は「執念深い憎悪をイギリスに抱いている一方でフランスに対して強い愛着を抱いている」ので人民を対英戦争に駆り立てようとしている。そして、アメリカとイギリスの仲を決裂させることで、イギリスに対する負債を帳消しにしようとしている。しかし、負債の帳消しは悪い結果しかもたらさない。短期的には債務者は救われるかもしれないが、イギリスは報復として貿易を停止するだろう。そうなれば関税収入は激減して歳入が減少する。それはすなわち国家の信用の凋落を意味する。
イギリスの悪行を是正するためにあらゆる手段を取るべきであり、戦争も視野に入れるべきだが、それはあくまで最終手段である。なぜなら「戦争というものは、利益を冷静に計算して行われるよりも怒りや激情から行われることが多い」からである。ハミルトンは、深刻な結果をもたらす戦争に軽々しく突入しないように懇願して、「我が国は絶対に必要な場合を除いて荒れ狂う危険で不安定な海の上に漕ぎ出すべきではありません」と述べる。もし戦争に突入するようなことがあれば、人民の「凶暴な情熱」が解き放たれて急進主義が勝利を収めることになり、その結果、アメリカは「無秩序と無政府状態の入り口」に追いやられるだろう。
最後にハミルトンは、「もし幸いにもあなたが戦争の危険と災厄から我が国を救うことができれば、その非常に重要な貢献よりも真の栄光や満足をあなたに与えるものはあなたの人生の中で他にはないでしょう」と訴えかけてペンを置いている。
ワシントンがハミルトンの進言をどのように受け止めたのかは返信が残っていないので分からない。しかし、ワシントンの決断と行動を見ると概ねハミルトンの進言を受け入れたことが窺える。
現状では誰を使節に選ぶことになっても、拿捕された船舶の補償を求め、さらに戦後の問題を処理するためにイギリスと話し合うほうが賢明であることは確かであった。それを考えれば、使節の人選は副次的な問題でしかない。絶対にハミルトンを選ばなければならないという強い理由もない。
そこでワシントンは、416日、ハミルトンの代わりに最高裁長官のジェイを特命全権大使に指名し、講和成立後の諸問題の解決を委ねることを議会に通達する。通達はランドルフが起草したものである。

「今会期中に私はあなた方に、ロンドンに駐在している公使からのイギリスと我々の外交関係の熟慮を要する側面を含む急信を通達します。最後の手段に至る前に平和は不断の熱意を以って追求されるべきです。最後の手段は度々諸国の悩みの種になりますが、合衆国のさらなる反映を抑制するものになるのではないかと考えられ、私はここにジョン・ジェイを合衆国のイギリス特使に指名することが適切だと思います。ロンドン駐在の我が国の全権公使への私の信頼は減じることなく続いています。しかし、このような任務は、必要となる条件の厳粛さに相俟って、我々が不満を友好的に調整することを求め、敵対行為は不本意であることを世界に伝えることになるでしょう。合衆国から直接、我が国の現在の風潮や見解に関する完全な知識を持った使節が赴くことは、我々の権利を断固として主張し、誠実に平和を促進することを示すことになります」

連邦派は、ハミルトンが特使に選ばれることを望んでいた。しかし、ワシントンは、その人選があまりに党派心を煽りすぎるものだと考え直し、ジェイを指名した。
ハミルトン自身も指名を拒み、「彼の手にかかれば最善の機会がうまく利用されるでしょう。彼の責務は我が国に最大の貢献を与えるに違いありません」とワシントンにジェイを推薦していた。それにハミルトンが最も恐れていたのは自分がアメリカを留守にしている間にワシントンが民主共和派の影響力に支配されてしまうことであった。
その一方でランドルフは「最高裁長官が司法府に籍を置いたままで行政府の栄誉を追及するようになるという悪い先例となる」としてジェイの指名に反対する。もし指名するのであれば、ジェイに最高裁長官を辞職させ、特使ではなく正式に駐英アメリカ公使に任命すべきだ。但しジェイはニュー・ヨーク政界、ひいては大統領の座に目を向けているので駐英アメリカ公使の任命に興味を示さないだろうとランドルフは述べている。
 民主共和派は、指名の審議に入る前に特使に与えられる訓令について公開するように大統領に求める動議を提出する。きっと連邦派が何かを企んでいると勘繰ったからだ。
しかし、多数派を占める連邦派は動議を否決することに成功する。したがって、ワシントンは条約が締結された後に上院に承認を求めるだけでよい。締結前に上院に相談する必要もない。
ジェイの指名も20票対8票で承認される。しかし、ワシントンはランドルフの助言を受け入れず、上述のようにジェイを最高裁長官に在任させたまま特使に任命した[2]
ジェイはニュー・ヨークの連邦派を代表する人物であり、鋭い見識を持っていた。最高裁長官は、イギリスで内閣に参与する大法官に相当する地位だと考えられていた。痩身痩躯に深く落ち込んだ灰色の瞳、そして、青白い憂鬱そうな顔に厳しい表情を浮かべたジェイの様子はまるで禿鷹である。法律そのもののような冷厳な雰囲気を常に纏っている。連邦最高裁長官になるまでニュー・ヨーク邦憲法の起草に携わり、連合会議では外務長官を務め、憲法批准をめぐる論争ではハミルトンとマディソンとともに『ザ・フェデラリスト』を執筆した。ジェイは高潔な人物であったが、民主共和派からすれば、ハミルトンと同じ穴の狢であった。それでもハミルトンやアダムズに比べればまだましであった。
ジェイがイギリスに派遣されることが決定された一方で、ワシントンはフランスの疑念と民主共和派を宥めるために、以前から交代が求められていた駐仏アメリカ公使のグヴァヌア・モリスを召還して民主共和派を新たに任命することにした。
これは明らかに政治取引である。もしこうした政治取引がなければジェイを派遣することはできなかっただろう。
そうなれば民主共和派の中で誰を任命すればよいのか。ワシントンが選んだのはマディソンであった。
やはりフランス情勢を的確に判断できる有能な人物が必要であったし、民主共和派が納得できる人物でなければならない。そうなるとマディソンが最善の選択肢になる。
しかし、マディソンはワシントンの要請を断る。まずそのような政治取引で派遣されることは気が進まなかったうえに癲癇の発作のせいで長期の船旅は無理であった。
そこでワシントンはマディソンに代わりの者を指名するように求める。マディソンは、ロバート・リヴィングストンとモンローの名前を挙げる。リヴィングストンが指名を断ったために、モンローに決定する。ワシントンはモンローを駐仏アメリカ公使に任命したことを後悔することになるが、この時はそれが最善の選択のように思われた。
問題は他にもある。司法府に属するジェイが、本来、行政府の範疇に属する外交交渉を行うことは憲法に抵触しないのだろうか。司法府が行政府に協力することは、行政府の権限の肥大化に繋がると警戒する意見もある。
しかし、もともと三権分立の原理では、立法府が最も強い権限を持つと考えられていたので、その暴走を行政府と司法府が協力して抑えるという構図が描かれている。したがって、最高裁長官のジェイがワシントン政権に協力することは三権分立の原理を侵害することにはならない。
さらに親英派であり豊富な外交経験を持ち、しかも閣僚に相当する重要な人物となるとジェイ以外の人物は考えられない。ワシントンの選択は正しかったと言える。最高裁長官がこのような役割を果たした例は他にはない。
 ジェイが使命を負ってイギリスに旅立つ前、ワシントンはトバイアス・リアに向かってこれまでの対英方針の推移を次のように説明している。

「昨年[1793]68日の中立国の船舶に関するイギリスの枢密院令は合衆国に大いに不満を与えていること、そして、116日の枢密院令はさらに火に油を注ぐ結果をもたらしたことは、この手紙を受け取るまで、あたたにはほとんど報せが届いていなかったでしょう。続く18日の枢密院令はある程度は激しい熱を冷ましましたが、我々の貿易における損失と平和条約を履行しないことで我々が受けた被害に対する補償がなければ決して満足できないでしょう。もしできればこれらを、穏やかな方法で、公正で確固とした交渉によって遂行するために、特使が任命され、おそらく23日もすれば出発するでしょう。ジェイ氏がこの任務に選ばれました」

1794512日、ニュー・ヨーク港から1,000人の群衆に送られてジェイはイギリスに旅立つ。その懐にはハミルトンが起草した訓令が忍ばせてある。ジェイを派遣することはハミルトン自身を派遣するのとほぼ同じであった。
ジェイとハミルトンは何度も会合して方針を確認していた。ハミルトンがジェイに期待したのは、アメリカ国民の怒りを背景にして強硬姿勢を示しつつ、イギリスをうまく説得することであった。そして、相互の最恵国待遇に基づく通商条約を結べるように、うまくイギリスと話し合いを進めることであった。
当面の間、対英通商を拡大することがアメリカに繁栄をもたらすとハミルトンは信じている。その一方でランドルフは、僅かな恩恵だけでは国民を納得させることはできないと考えて通商条約の締結に慎重であった。
ではワシントンはどのような方針を抱いていたのか。ワシントンからジェイに与えられた訓令を見ると、フロンティアの安全保障を通商条約よりも優先した点でハミルトンの方針と異なっている。

「国務長官からあなたが受け取った通信で現在進展中の公的な出来事が説明されていると思うので、私がそれらについて再び触れる必要はありませんが、それらの中で今朝受け取ったばかりの最近の問題に関していくつかの見解を示さざるを得ません。[中略](信念は閉ざされているわけではありませんが)我が国の教養ある者の心には、我々がインディアンとの間で被っているすべての困難、インディアンの敵対行為、我々のフロンティアにおける無辜の女子供の殺害は我が国にいるイギリスの代理人の行動の結果生じていることは疑いの余地のないことです。[中略]。合衆国でこうしたことが知られるか、少なくとも確かに信じられ、イギリスが何ら罰を下さずに放置している限り、両国の間に何らかの誠心誠意を求めることが期待できるでしょうか。私の答えは否です。そして、私には予言の才能はありませんが、もし[アメリカの領内にあるイギリスの]拠点が放棄されなければ、我が国がイギリスと長く友好状態を保つことは不可能だと予言します。[中略]。もし彼らが我が国と平和を保って貿易の利益を享受したいと考えるのであれば、拠点を放棄することがそれに至る唯一の道です。拠点を保持したまま現在の状況が続けば、戦争は避けられないと我々は感じています」

 こうした言葉を見れば、ワシントンが単純に親英的ではないことが分かるだろう。ワシントンにとってイギリスと友好関係を保つことは重要だが、それは無条件ではない。安全保障という国家にとって重要な問題が解決されない限り、国家同士が真の友好的関係を結ぶことはできないからだ。ワシントンはそのことを十分に認識していた。
 その一方で民主共和派は、ジェイがイギリスに譲歩することでフランスとアメリカの関係が悪化しないかと心配し始める。民主共和派系の新聞は、ジェイの使命は実はアメリカをイギリス王室に売り渡すことにあると妄想を並べ立てた。ジョージ3世の王子をアメリカ王として迎え入れる陰謀が進められているのではないかという噂も飛び交う。こうした噂はよくあることであり、憲法制定会議の際にも囁かれた。
 またランドルフは、ジェイの交渉がうまくいかなかったこと時に備えて、同じくイギリス海軍に反感を持っているデンマークとスウェーデンに中立国の権利を守る同盟を呼び掛けようと試みる。しかし、閣内で賛成者が誰もいなかったのでランドルフは、もし大統領自身が提案を望ましいと考えなければ断念すると言った。結局、ワシントンの裁可を得ることができず、デンマークとスウェーデンと同盟するという提案は廃案になる。

 68日、ジェイはイギリスに到着する。歓迎を受けたものの、実質的な交渉はなかなか始まらなかった。
交渉の糸口を作ったのは国王である。
謁見の際にジョージ3世はジェイに親しく声を掛ける。
「あなたはどうやら使命がうまくいくと思っているようですね」
「そのようなお考えを国王陛下が持っておられるのを聞いて私は非常に嬉しく思います」
「ではあなたはきっとうまくいくと考えているのですか」
「現状を鑑みれば、きっとそうなると私は考えています」
 ジェイの言葉を聞いて国王は微笑みを浮かべる。フランスと激しく敵対している今、アメリカの好意を得ておくのも悪くないと考えたからだ。かつてジョージ3世は、アメリカ人が反旗を翻したことに甚だしく憤慨したが、それも過去の話である。狂気と正気が入り混じったような複雑な性格を持つ国王であったが、この時は正気が優ったようだ。
 それから交渉が始まる。ジェイは主にハミルトンの訓令に従って交渉を行う。実質的にハミルトンが交渉しているのと同じであった。
通商条約の締結、北西部領地にあるイギリスの拠点の撤廃、拿捕されたアメリカ船舶に対する補償、そして、独立戦争中にイギリスによって解放された奴隷に対する補償を得る。それがジェイの目指した成果である。
17941119日、ジェイの交渉が実って条約が締結される。世に言うジェイ条約である。

青嵐


17952月、フィラデルフィアにジェイが条約を締結したとい報せが届く。航海の安全を期すためにジェイ自身は春までイギリスに滞在する予定だ。
報せを聞いたエームズ下院議員は「ジェイ氏の成功は国外で平和をもたらし、国内で戦争を引き起こすだろう。民主共和派が条約に対して警鐘を打ち鳴らすだろう」と予見する。
 33日、連邦議会が休会に入ったので、ワシントンは68日に特別会期を招集して条約を審議することを通告する。まだ条約の詳細が届いていなかったからだ。
4日後、待ちに待った条約の詳細が到着する。
当時の大西洋を跨いだ通信の困難を思えば仕方がないことだ。イギリスから2通の条約の写しが発送されたのだが、それらを運んでいた船がフランスの私掠船に襲われたために写しはいずれも海中に投棄された。さらに新たにもう1通の写しを乗せた定期船が出航したが、強い偏西風のために船足が鈍り、大西洋を渡るのに3ヶ月を要した。
こうしてようやく到着した条約を一見してワシントンはあまりにイギリスに有利な内容ではないかと眉を顰める。ジェイもそう思われることを危惧したのか、これ以上、アメリカにとって有利に交渉を運ぶことは不可能だったのでと但し書きを付けていた。
当時のアメリカの国際的地位の低さを考えればジェイの主張は間違っていない。強国が弱小国に対して不利な条件を押し付けることはよく見られたことである。アメリカが未だに弱小国だという現実をワシントンは突き付けられた。
まずアメリカ人船員の強制徴用に対する補償がない点が問題だ。それはアメリカの主権を無視する行為である。したがって、強制徴用を放置することはアメリカの国家の威信を傷付けることになる。自国民を外国の不当行為から守れない国家など誰が信用するだろうか。
またイギリスは、フランス、もしくは他の敵国に向かう戦時禁制品を差し押さえる権利を保持していた。禁制品の一覧表は、明らかにイギリスにとって有利な内容だ。それに加えて、たとえアメリカの輸入品に対してイギリスに最恵国待遇が与えられなくとも、イギリスの輸入品に対してアメリカは最恵国待遇を与えなければならない旨が明記されていた。これは明らかな不平等条約である。
 それに独立戦争が終結した時点で連れ去られた奴隷の賠償金も得ることができない。ワシントンは南部の農園主から裏切り者と呼ばれるだろう。
これはおそらくジェイ自身が熱烈な奴隷廃止論者であったから故意に無視したのかもしれない。イギリスは賠償金を支払う代わりに連れ去った奴隷を元の所有者に返還するかもしれない。そうなればイギリスの法の下で自由になった奴隷が再び隷属下に置かれることになる。ジェイからすれば、それは是非とも避けたかった。
 とはいえジェイはイギリスの要求に唯々諾々と従ってばかりいたわけではない。ネイティヴ・アメリカンの自治による衛星国の建設や緩衝地帯の設置などイギリス側の要求を断固として拒み、ミシシッピ川の航行権については些かの譲歩もしようとしなかった。
 さらに他にもアメリカにとって歓迎すべき点はあった。1796年までに北西部領地からイギリス軍を撤退させること、アメリカが被った損害を調査する仲裁委員会の設置、英領西インド諸島との限定的な通商、アメリカ国内で敵国による私掠船の艤装を禁止することなどである。
特に北西部領地からイギリス軍が撤退するという約束はアメリカにとって非常にありがたいものだ。それによって自国の領土内に許可を与えていない外国の軍隊の駐留を許しているという不面目を解消することができるうえに、ネイティヴ・アメリカンもイギリスを頼りにすることができなくなったと悟ってアメリカに敵対しなくなるだろう。
 その一方、アメリカは、独立戦争以前の負債をイギリスの債権者に返済するように取り計らうこととイギリス人に引き続き毛皮交易を認めることを約した。

 アメリカにとってジェイ条約の内容は明らかに不利だ。しかし、ジェイ条約の最大の利益は、平和が維持されることである。ジェイ条約は言ってみれば、イギリスからの最後通牒である。ジェイ条約を締結して平和を維持するか、それともジェイ条約を否決して戦争に突入するか。
条約の否決はイギリスに宣戦布告の大義名分を与えかねない。戦争は未だに弱小国であるアメリカにとって大きな脅威だ。その一方で平和が維持されれば、アメリカの領土の保全が保障され、西部への発展の基礎が確立されることになるだろう。関税を基板とした国家財政も深刻な打撃を受けずに済む。
さらに強大な海軍国であるイギリスと友好関係を結ぶことは、十分な海軍を持たないアメリカにとって有利である。なぜならイギリスの艦隊をアメリカの通商を守る盾として利用できるからである。
しかし、こうした利益を理解しない者は、ジェイはイギリスに屈服してアメリカを植民地時代に戻そうとしているのではないかという荒唐無稽な疑いを抱くかもしれない。
そうした疑いによって生じる恐れがある余計な論争を避けるために、ワシントンはジェイ条約を秘匿した。的外れの猜疑心を持つ者と議論しても無益なうえに建設的な議論など望めないからである。

予定通りに特別会議が招集され、ジェイ条約は上院に上程される。
ワシントンは、上院が外部からの圧力に屈せず、その良識で以ってジェイ条約の意義を判断してくれるように願う。良識で以って判断すればジェイ条約の利点は理解されるに違いない。
ランドルフも幾つか条項を除いて上院は条約の批准に応じるだろうと確信していた。ただ下院が条約の実行に予算を付けることを拒むのではないかと心配する。こうしたランドルフの心配は後に現実のものとなる。
68日、上院は特別会期に入って条約の内容を秘匿することを条件に審議を開始する。民主共和派の上院議員は条約の内容に驚いて息を呑む。上院で多数を占めていたのは連邦派議員だが、民主共和派議員の協力を得るために妥協せざるを得なかった。
特に論争の的になった条約の第12条である。
12条は、イギリス領西インド諸島と交易を行う船舶のトン数を70トン以下に限り、同時にアメリカ船舶で糖蜜、砂糖、コーヒー、ココア、綿花などを輸出することを禁じている。これは民主共和派議員にとってとうてい飲めない条件だ。
もしその条項が通ってしまえば、民主共和派の支持母体となっている南部の農園主が西インド諸島という重要な市場で自由に産物を売り捌くことができなくなる。
問題はそれだけではない。奴隷制度について触れた際に、イーライ・ホイットニーの綿繰り機の発明によって綿繰りの問題が解決され、世界市場に向けて奴隷労働を利用した綿花の大量栽培が可能になったと述べた。それは1793年のことである。したがって端緒についたばかりの綿花輸出を阻害するような決定を南部の農園主が容認する筈はない。
アーロン・バー上院議員は条約の審議を先延ばしにして、さらなる交渉を行うことを求める動議を提出する。さらにバーの動議には、イギリスに対する譲歩と見なされる条項を全面的に見直すか削除を検討する旨が記されている。結局、バーの動議は20票対10票で否決された。
票数差を見た民主共和派は、このままでは条約が無条件に承認されてしまうと危機感を強める。しかし、まだ付け込む余地はある。条約の批准には3分の2の賛成が必要である。もし1票でも民主共和派側に取り込むことができれば条約は承認されない。
そこで民主共和派は南部の連邦派議員の切り崩しを図ろうと独立戦争が終結した時点で連れ去られた奴隷の賠償金をイギリスに求める動議を提出する。南部にとってそれは重要課題だからだ。この動議も否決されたが、票差は僅差であった。

議会で審議が進む一方、ジェイ条約の内容を知らされた駐米フランス公使のフォーシェは、後任のピエール=オーギュスト・アデが赴任してフランス本国から新しい指示を持って来るまで、ジェイ条約の審議を差し止めるようにランドルフに求める。
ランドルフを通じて要望を聞いたワシントンであったが特に何も行動は取らなかった。もしそのようなことすれば上院に対する不当な容喙になるからである。
613日、新任のアデがフィラデルフィアに到着する。アデは、フランス本国がアメリカとの通商に関して決定を下したと主張したが、そのような文書は提出されなかった。おそらくジェイ条約が批准されないように引き延ばしを考えていただけだろう。
結局、アデの願いも虚しく、ジェイ条約は624日、20票対10票で辛うじて承認される。連邦派は、第12条を部分的に凍結するという妥協を提示して、民主共和派による南部の連邦派議員の切り崩しを阻止した。
 条約は上院の批准を受けた後に大統領が署名することで発効する。すなわち、ジェイ条約を成立させるか否かの判断は上院からワシントンに手に委ねられた。
ワシントンは他の閣僚を交えずランドルフと2人で内密に相談する。
そもそも上院は、第12条の除外という付帯条件を加えて批准を認めることができるのか。もし大統領がそれを認めない場合、上院に再審議させるべきか。またイギリスが付帯条件を受け入れるか否か確認しなければならないのではないか。
当然ながら参考となるべき前例はない。ジェイ条約に関してワシントンが最終的な決断に至るまでにどのような心の動きがあったのか。
 ランドルフがどのように大統領に助言すべきか考えていた時、179368日に発令されたフランスの港に穀物を輸送する中立国の船舶を拿捕する枢密院令をイギリス政府が更新したという不確定な情報が入る。もしそれが本当であれば、アメリカの通商は大きな打撃を受ける。なぜなら、当然のことながらイギリスはフランスの港に向かうアメリカの船舶を遠慮なく拿捕することになるし、イギリスに対する報復としてフランスもイギリスに向かうアメリカの船舶を拿捕することになるだろう。
薄氷のような妥協で上院でようやく批准に漕ぎ着けたというのに、イギリスの無頓着な振る舞いはいったいどういうつもりだとワシントンは思う。イギリスに対する不信感はワシントンにとってジェイ条約に署名するべきか否か判断を迷わせる大きな要因となる。
なぜイギリス本国がジェイ条約の成立を危うくするような行動を取ったのだろうか。イギリスにとって最優先事項はフランスを苦しめることであって、アメリカを含む中立国の権利など二の次だからである。
ただ実は枢密院令はイギリス自身のためだという考えもある。イギリスは深刻な食糧不足に悩んでいて、その対策としてフランスに向かう小麦の流れを止めて代わりにイギリスに入るようにしたとも考えられる。

 ここまで条約交渉の当事者を除けばジェイ条約について詳細を知る者はごく一部に限られていた。しかし、629日、民主共和派のスティーヴンズ・メイソン上院議員は禁令を破って条約の抜粋をフィラデルフィアの新聞に送る。ちなみにスティーヴンズ・メイソンはジョージ・メイソンの甥である。
実はワシントンも秘密にしておくことで余計な疑念を招きかねないと考えを改めて条約を公開するつもりであったが時既に遅しであった。
71日、ジェイ条約は新聞の一面を飾り、上院の外にいるすべての民主共和派の怒りを誘う。新聞は、「ワシントンがカエサルやクロムウェルのように政治的偽善の仮面を被っているという結論に世間は至らないのだろうか」と書き立てる。カエサルもクロムウェルも当時のアメリカ人からすれば、2人とも軍事独裁を行った極悪人である。民主共和派を支援する新聞である『オーロラ紙』を発行するベンジャミン・バーチは条約に反対する世論を喚起するために、条約の写しをばら撒きに早速、ニュー・イングランドに向かって発つ。
フィラデルフィアの北郊にあるケンジントンからジェイの人形が群衆とともに到着する。もちろんジェイを称賛するためではない。人形の右手には天秤が握られ、一方には「アメリカの自由と独立」と刻まれ、もう一方には「イギリスの黄金」と刻まれている。どちらに天秤が傾いていたかと言えば「イギリスの黄金」と刻まれた側だ。そして、左手には条約の草案が置かれている。さらに人形の口からは「値段さえ合えば私はあなたに我が国を売りましょう」という台詞が飛び出している。フィラデルフィアを一周した人形は群衆に連れられてケンジントンに戻ってから焼き捨てられた。
その内容が秘密にされていたことも怒りを誘った原因であるが、親仏姿勢をとる民主共和派からすれば、ジェイ条約の締結はイギリスを攻撃してフランスを支援する望みが断たれたのに等しい。民主共和派は熾烈な批判を始める。
ジェイ条約は国益を損ない、イギリスに味方してフランスに対する戦争にアメリカを引きずり込むものだ。それに国家の威信を犠牲にして僅かばかりの通商条件を確保することに何の意味があるのか。もしジェイ条約が成立すれば、アメリカが通商に関して有利な条件をイギリスに認めさせるために報復措置を取ることができなくなる。それはイギリスに無条件に屈伏することに等しい。
 南部の農園主達は、連れ去られた奴隷の補償がなされなかったことやイギリスに対する負債に何の救済も行われなかったことに大きな不満を抱く。また北部の商人達も条約で取り決められた通商条件に満足せず、通商停止を取引材料にすれば、イギリスからもっと譲歩を引き出せた筈だと非難する。
 批准反対を訴える集会がボストン、ニュー・ヨーク、フィラデルフィア、ボルティモア、そしてチャールストンなど各地で開催される。フィラデルフィアでは扇動者に率いられた数百人の群集が広場で集会を行った後、棒の先に条約の写しを吊るしてイギリス公使の屋敷の前でそれを焼き捨てて快哉を叫んだ。
駐米イギリス公使のジョージ・ハモンドは次のように本国に報告している。

「人民の騒々しい集会がポーツマス(ニュー・ハンプシャー)、ボストン、ニュー・ヨーク、フィラデルフィア、ノーフォーク、そして、チャールストンで開かれています。すべての集会は、ひどい悪罵でジェイ条約を非難するだけではなく大統領に署名しないように求める抗議文を提出しようと決定しています。この街で行われた集会(の中の2)は、その暴力性で際立っています。[中略]。彼ら[群衆]は私の家にやって来て、家の前の通りに並んで様々な騒音で怒りを示したかと思うと条約の写しを焼き捨てました」

ニュー・ヨークでも知事官邸の前で条約の写しが燃やされる。その他の小さな街や村でも至る所で小規模だが同じような集会が開かれる。多くのジェイの人形が街頭で焼かれる。その灯りを頼りにアメリカの端から端まで歩ける程であった。
「ジョン・ジェイのくそったれ。ジェイを呪わない奴も皆くそったれ。窓辺に明かりをつけて夜もすがらジョン・ジェイを呪わない奴は皆くそったれ」という大きな落書きがジェイの自宅のすぐ近くに書きなぐられているのが発見される。ジェイがそれを見たかどうかは分からないが、あまり良い気分はしなかっただろう。
民主共和派だけではなく全国民がジェイ条約を目の敵にしているようだ。ワシントンはそうした様子を暗澹たる思いで見ている。ピカリングから次のような手紙が届く。
「昨日、私はボストンの事情に詳しい商人で連合会議の元代表であったスティーヴン・ヒギンソン氏から手紙を受け取りました。その手紙にはイギリスとの条約に関してボストンの街で行われた集会について書かれていました。手紙に含まれる情報を是非とも合衆国大統領に伝えるべきだと考えました。したがって私はヒギンソン氏の手紙の写しを同封します」

 同封のヒギンソンの手紙には次のように書かれている。

「イギリスとの条約に反対するこの街[ボストン]の過激な行動についてあなたは見たり聞いたりしているかもしれません。街の集会でジェイ条約に反対する数多くの決議が可決され、急信が送られました。大統領がジェイ条約に署名しないように思い止まらせることが目的です。[中略][ベンジャミン・]フランクリン・バーチ氏がここで暴動を起こして一般市民を過激な行動に駆り立てようと、[スティーヴンズ・]メイソン[上院議員]のジェイ条約の写し、[アーロン・]バー[上院議員][ヘンリー・]テイズウェル[上院議員]の動議、そして、フィラデルフィアとニュー・ヨークで暴動が起きたという嘘を携えてやって来ました」

 ワシントンはヒギンソンの手紙を読んで次のようにピカリングに謝礼を述べている。

「あなたが私に送ってくれたヒギンソン氏の手紙の抜粋は、ボストンの市議会議員の手紙とともに急信で私に送られた決議から得られる情報とは異なる観点でボストンの街の状況を知らせてくれました。しかし、(まことに残念ですが)党争は今、長きにわたって行われ、簡単には道筋が見つけられないような厚い煙霧と虚偽の中に真実は封じ込められています。こうした困難は党派に偏らない者やこの国に品位、富、そして、幸福をもたらす道を揺るぎなく追求したいと願っている者にとって非常に嘆かわしいことです」

ワシントンはピカリングに対してジェイ条約についてどのような判断を下すか明らかにしていない。ピカリングは世論の過剰な反応を伝えたことでワシントンが遅疑逡巡してジェイ条約に結局、署名しないのではないかと訝るようになる。連邦派のピカリングはジェイ条約に賛成していたからだ。
ランドルフもワシントンに助言を行っていたが、それは疑問点を提示するのみで判断の助けとなるような明確な論拠は示されていない。72日付の手紙でランドルフは、「大統領は採択すべき最終的な方策について未だに決定していないようです」という感想をモンローに書き送っている。
確かにランドルフの言う通りであった。
先述のようにワシントンの心の中では、イギリス政府がアメリカの船舶を拿捕することを認める枢密院令を更新したという不確定な情報によって迷いが生まれていた。仮にそれが確報だとすれば、そのような侵害行為があっても、ジェイ条約に署名するべきか否か。
決断するには何か根拠が必要である。それも強い根拠が。
結局、ワシントンが最も頼りにしたのは現閣僚ではなくハミルトンである。73日、ワシントンはハミルトンに内密でジェイ条約について諮問した。興味深い点は、ワシントンが自分の考えを明らかにせず、ハミルトンに意見を求めている点である。

「あなたもご存知のように、最近、上院が審議した友好通商航海条約[ジェイ条約]がこの街[フィラデルフィア]の新聞を賑わしました。もちろんその利点や不利益な点は(特に未決の状態において)自由に議論すべきでしょう。私は求めている意見は、(それ[ジェイ条約]が広まる前に)支持するか反対するか予め決めている者達の意見ではありません。というのは彼らの意見が一方の側に傾いていると確かめることしかできないと私はよく分かっているからです。[中略]。私の望みは、この問題について知識を持ち、十分な判断力を持ち、条約の各条項とその全体的な結果について正当な意見を抱いている公平無私な人物から意見を聞くことです。つまり、複雑な状況の中で現状を鑑みると、私がどのような性質のことを行うべきかがこれまでよりも重要な義務となり、そして、この国の本当の利益がこれまでよりも重要な問題として私の手に置かれています。[中略]。あなたが以前、連邦政府で働いていたことから、あなた以上にこの問題を包括的な規模で合理的に分析できる者はいないでしょう。私は、あなたが現在、どれくらい忙しいか知りませんし、私がお願いしていることがあなたの手掛けていることと両立し難いか否か知りません。ただ私が言えることは、私が列挙した点やその他の条約に関する点、そして、上院の決議(もしあなたの手元になければ送ります)についてあなたに意見を示してもらえれば非常に嬉しく思うということです。この問題についてあなたを煩わせることは私の意図ではありません。もしあなたが私の求めに応じて調べてみたいと思わなければ、強要はしません」

最後の部分はワシントンがハミルトンに遠慮しているようで面白い。
この手紙は、ワシントンの迷いを如実に示している。とにかくハミルトンから聞きたいことは、高まる批判の声に対抗するためにジェイ条約の締結が正当であるという何らかの明確な根拠である。閣僚から離れたハミルトンに意見を求めたことからワシントンがいかにハミルトンを深く信頼していたことが分かる。逆に言えば、現閣僚があまりに頼りにならないとも言えるが。
既に財務長官を辞していたハミルトンはこれまで現閣僚に口出しするようなことを控えてきたが、ワシントンの信頼に十二分に応える。外交や通商など多くの分野に関する幅広い知識を持ち、そのうえ信頼できる人物となればハミルトン以外に頼る人物はいない。ワシントンは遠慮がちに依頼しながらも、きっとハミルトンは期待に応えてくれるだろうと確信していた。
ハミルトンの返答は期待以上のものであった。合計53頁にもわたる注釈がびっしりと書き連ねられていた。それも3日連続で3通に分かれて届いたことから、ハミルトンが最大限の速度でできる傍から手紙を投函したことが分かる。
注釈には、パリ講和条約成立後に発生した問題を扱う条項への賛同が示されていた一方で、上院も懸念を示した第12条に関する問題点、そして、イギリスが指定した戦時禁制品の一覧に関する問題点が示されていた。
「平和であれば、我々は十分に迅速に通商分野で成功を収めることができるだろう。しかし、現時点で戦争が起きれば、我々の発展と繁栄に深刻な痛手となる」とハミルトンは断言している。つまり、ジェイ条約にはアメリカにとって不利な点もあるが、イギリスとの戦争を避けるためには不可欠だということである。
ワシントンの思いもハミルトンの思いと同じであった。ハミルトンへの返信には手放しの感謝の言葉が綴られている。

「あなたの手紙が私に大きな満足を与えたことで私はあなたに心からの感謝を述べます。各条項についてもう少しあなたの意見が詳しければと思いましたが、あなたが問題の全体にわたって完全な説明をしてくれた大変さを思うと申し訳なく思います」

ワシントンは幾つかの点についてハミルトンの見解に反対したものの、ほぼ全面的に認めている。
少なからぬ人々から強硬な反対を受けた際に、どのように大統領として振る舞うべきか参考になるべき先例はなかった。それでもワシントンは何とか自分が信じるべき道を模索しようと努めた。
閣僚の中でジェイ条約の署名に慎重であったのはランドルフのみである。大統領の求めに応じてランドルフも次のようにジェイ条約の署名に関する意見を712日付で提出している。

「国務長官と[駐米イギリス公使ジョージ・]ハモンド氏の個人面談を直ちに行ってこの問題を次のように彼に伝えるべきだと私は提案します。[中略]。我々は、フランスへの食糧を積載したアメリカの船舶が拿捕され禁制品を運んでいる船舶と同様の扱いを受けることになるかもしれないと新聞やその他の確かな文書から情報を得ています。もしこれが真実であれば、大統領は枢密院令が効力を持つ限り、条約に署名しないと決意しています。大統領の主張を詳細にまとめてあなた[ハモンド]を通じて本国に伝えて下さい。同時に枢密院令が撤回されれば、躊躇することなく大統領は条約に署名するでしょう」

 翌朝、ランドルフの提言を受けたワシントンは、ハモンドと話し合うように指示する。ランドルフとハモンドの会談の場はすぐに設けられた。

会談の席でまずハモンドが口火を切る。
「ジェイ条約を批准した後で枢密院令を撤回すれば十分ではありませんか」
するとランドルフは気色ばんでハモンドに迫る。
「それは単なるごまかしに過ぎません。本質が重要なことなのです」
 ハモンドは少し考えてからランドルフに質問する。
「もし枢密院令が撤回されなければ、大統領は断固として署名しないつもりですか」
 その質問に対してランドルフは回答を保留する。
「大統領はその点について私に指示を与えていません。しかし、会談の結果をすぐに大統領に報告します」
 ハモンドは次のように言って会談を終える。
「あなたの見解を明日に出航する船で本国に伝えます」

 ランドルフを見送ったハモンドは、忙しく打つべき手を考える。
このまま手を拱いていては、ジェイ条約の成立が危ぶまれる。もし条約が不成立になればアメリカをフランスの側に追いやることになる。それは何としてでも避けなければならない。ランドルフは批准に反対しているようだが、大統領の最終的な決断はまだ下されていないようだ。そこに付け込む隙があるかもしれない。
ハモンドの頭の中で徐々にある密謀が形を取りつつあった。

そのようなことはつゆ知らずランドルフは早速、大統領のもとに報告に向かう。報告を受けたワシントンは、枢密院令が撤回されない限り、ジェイ条約に署名するつもりはないとハモンドに伝える覚書を作成するようにランドルフに命じる。
この時点でワシントンはジェイ条約の署名を保留するつもりであったと考えてよい。つまり、ハミルトンの見解にも同意しているように条約自体には賛成であるが、侵害的な枢密院令が撤回されるまで署名を保留するということだ。

 条約に対する激しい反対は猶も続いている。
ニュー・ヨークで開かれた集会でハミルトンがジェイ条約を擁護する熱烈な演説を行っていた時、群衆がハミルトンに向かって石を投げた。石がハミルトンの額に命中して血が流れる。
騒動は他の都市でも起きている。ウルコット財務長官は次のようにフィラデルフィアの様子を記している。

[ジェイ]条約が市民達の前に投げ出され、彼らはそれを竿の先に吊るした。それから300人程の集団がフランス公使の家まで行進して、その前で何か儀式めいたことを行った。群衆はそれから[駐米イギリス公使]ジョージ・ハモンドの家の前に行って、万歳と歓声をあげながら条約を焼いた」

 またピカリングは次のようにワシントンに報告している。

「私は傍観者として[抗議集会に]出席して成り行きを見て、どれくらいの人数が出席しているか調べました。あなたに提出された請願は、全体的で多数の集会において示されたフィラデルフィアの市民、北部の自由、そして、サザーク地区の意思だということになっています。それは虚偽に他なりません。集会は全体的でもなければ多数でもありません。集会が始まる前にある者から聞いた話によれば、集会に集まった人数は約1,000人だということです。多く見積もってもせいぜい1,500人であり、おそらくその3分の1が傍観者とフランス人です。残りの3分の2もその外見から判断すると、少なくとも4分の1から3分の1は条約さえ読んだことがない者達のように見えます。[中略]。ほんの僅かな数の男達が結託して優れた資質もないのにも拘わらず、無思慮にも偉大なる都市であるフィラデルフィアの意思を示すことで、そして、長く複雑なジェイ条約の意味を解釈することで指導者に成り上がろうとしているのです。[中略]。それから条約はイギリス公使とイギリス領事に対する侮辱の言葉とともに官邸の前で焼かれました」

全国から届けられたジェイ条約に反対する決議が大統領の執務室の机に積み上がる。しかもその決議の一つひとつが大統領の回答を要求している。
ニュー・ジャージーから寄せられた決議にワシントンは、「答えを与えることはできない。あまりに無礼なので答えるに値しない」と走り書きで記し、ヴァージニアからの決議に対して「無作法な様式。返す答えはない」と書きなぐる。さらにケンタッキーからの決議には「こうした出来事について無知で無作法なので答えるまでもない」と記されている。
ただワシントンがすべての決議に対してそのような態度をとったわけではない。ボストン市の行政委員会から寄せられた請願書に対してワシントンは次のような丁寧な返事を送っている。

私の政権のすべての行動において、私は我が同胞市民の幸福を追求してきました。この目的を達成するために私がとった方法は、一貫してすべての個人的、地域的、そして不公平な配慮を放棄して、合衆国が1つの大きな全体となるように熟慮して、その突然の動静に信頼をおくとともに、それが誤っていれば率直な反省に従って、そして、我が国の実質的で恒久的な利益のみを図ることです。あなた方の手紙に含まれているような決議を生じるに至った出来事[ジェイ条約の締結]に関しても私はこうした行動基準から逸脱しているわけではありません。私の判断に偏見はなく、いつでも視界に入ってきたあらゆる議論を注意深く考慮してきました。しかし、憲法は私が決して放棄することができない導き手なのです。憲法は大統領に上院の助言と同意を伴って条約を締結する権限を与えています。政府のこれらの2つの府[大統領と上院]が激情を持たず、最善の情報を得て、我々の外交の成功がかかっている両者の行動と原理を統合していること、両者は他者の意見を以って自身の確信と代えるべきではないこと、もしくは見識が広く適度な調査の除いていかなる経路を通じても真実を追求するべきではないことは明らかです。このような確信に基いて、私は私の前にある義務を執行するだけだと決意しています。私が率直にその大きな責任を甘受するので、あなた方、紳士諸君は自由にこうした見解を私の措置の根拠として伝えて下さい。これまで我が国がしばしば私を認めてくれたことに私は心から感謝する一方で、私の良心の命じるところに従うこと以上に大事なことはないと私は考えています」

このような冷静な説得はほとんど効果をもたらさなかった。国中が熱病に罹っているかのようであった。大統領官邸は、フランスに万歳を唱え、イギリスと戦争するべきだと叫ぶ群衆に連日のように囲まれる。ジェイ条約に対する反感は、ワシントンが予想するよりもはるかに強かった。
新聞は、人民を扇動するような記事を次々と掲載する。そのような記事の大半は事実無根であった。
曰く、アメリカの国益がジェイの手によってイギリスに売り渡された。または条約にはアメリカにとって利益をもたらすような条項はなく、イギリスが一方的に得をするだけである。そもそもジェイ条約の目的はフランスを窮地に追いやることである。
 このまま条約を成立させれば、民主共和派はますます人民の反感を煽り立てるだろう。しかし、条約を成立させなければイギリスとの関係は確実に悪化する。どちらを選ぼうとも悪い結果が生じる。
 このような時、指導者は何をすればよいのだろうか。自らの信念を確かめることだ。
ワシントンも信念を再確認している。すなわち、ジェイ条約は不備な点はあるものの、現時点で最善の選択肢であるという信念だ。
条約を破棄すれば戦争に突入する恐れがある。しかし、準備などまったくできていなかったし、米英貿易を滞らせるのは国家財政の健全性を損なうので決して得策ではない。それに世界最大の海軍国の庇護を得ることができれば、アメリカは海外市場に参入する機会を得ることができるだろう。
ただやはり枢密院令の更新という問題が唯一、ワシントンの心の中で棘のように引っ掛かっている。

 7月中旬、ワシントンは蒸し暑いフィラデルフィアを離れてマウント・ヴァーノンに避暑に向かう。
もしワシントンがジェイ条約に関する騒動から逃れるつもりであったのであれば、それは間違いであった。ランドルフ国務長官は、騒動がますます広まり、新聞の中には連邦派だけではなく大統領自身を批判しているものもあると報告している。
ある新聞は、「[大統領が]合衆国とフランスの間のすべての繋がりを解き、そして共和制の同盟国を君主制の同盟国に替えようと秘かに目論んでいる」と報じた。もちろんそれは事実無根である。しかし、そうした風聞が広まるのを防ぐことが誰にできようか。
ジェイ条約に反対する人々の論鋒が鋭さを増す一方で、ジェイ条約を擁護しようとする者達は満足な答えすらできない有り様だ。
722日、相次ぐ騒動の報告を受けながらワシントンはランドルフに次のように指示している。

「条約の署名やそれに関連することについて私の決意を完全に閣僚に伝えることが適切か否か私は性急に表明すべきではないかもしれませんが、この問題について彼らに意見を考えてもらうために必要なことです。折りを見計らってあなたがそれを彼らに伝えてくれると私は思っています。第1に、(もし我々が聞いているような食糧を運ぶ船舶に関する先の枢密院令が実行に移されなければ)条件付きの批准が私の決断であるとあらゆる機会に表明すべきであるということです。[中略]。条約に関する私の意見は今でも同じであり、あまり望ましくないと思っていますが、未決の問題で苦しむよりは、先述の留保を考慮したうえで上院が助言したようなやり方で批准するほうがよいと思えます」

ここでワシントンは、先述のように、条約自体には賛成しつつも侵害的な枢密院令が撤回されるまで署名を保留するという意思表示を閣僚に対して行ったことになる。
こうしてワシントンが署名を保留するという考えに傾きつつある一方で、ハミルトンは「カミルス」の筆名でジェイ条約を擁護する一連の論説を発表し始める。
なぜハミルトンはカミルスを筆名として選んだのか。それはカミルスの事績を追うと分かる。

 マルクス・フリウス・カミルスは共和政ローマの人物であり、ローマ第2の創建者と呼ばれる。ギリシアとローマの偉人を描いたプルタルコスの『対比列伝』にも登場する。
カミルスは、ローマを捨てて新たに攻略したウェイイに首都を移そうとする市民の意見に反対を唱えた。ローマを捨てることはローマの神々を捨てることに等しく、ローマ市民はもはやローマ市民と言えなくなるというのが理由である。しかし、市民はカミルスの意見に耳を貸さず、あまつさえ無実の罪を着せて追放しようとした。そこでカミルスは自ら去った者は罪に問われないという慣習に従ってローマを去った。
カミルスが去った後、ローマはガリア人の襲撃を受けて滅亡寸前にまで追い詰められる。市民はローマの神々の怒りを買ってしまったと恐れ、かつカミルスを追放しようとしたことを悔やんだ。
その一方でカミルスはローマの危機を知って散り散りになった市民を糾合する。そして、ガリア人を打ち破ってローマを救う。こうしてローマを捨てるべきではないというカミルスの意見は正しいことが証明された。

 カミルスの事績にハミルトンが重ねようとしたのは何か。今、多くの市民がジェイ条約に反対しているが、最後にはその正しさが証明されるだろうという強い確信である。
論説でハミルトンは、ジェイ条約に反対する民主共和派の真の目的が、フランスを応援するためにアメリカをイギリスと離反させて戦争に引きずり込み、ジェファソンを大統領に据えることにあると非難する。そして、もしイギリスと戦争になればアメリカの繁栄の基盤が根底から覆される。アメリカは、ヨーロッパ列強によって蹂躙され、滅亡の縁に追いやられるだろう。
 かねてよりジェイ条約が「こじつけられた解釈」や「言語道断な虚説」によって歪曲されていると感じていたワシントンは、ハミルトンの論説を読んで感銘を受けただけではなく、敢えて論陣を張ろうとするハミルトンの勇気に感心する。そして、ジェイ条約に関する騒動を鎮めるためにフィラデルフィアに早急に戻るべきか否かワシントンはハミルトンに相談したうえで、その心中を729日付の手紙で語っている。

「フィラデルフィアを去る前にジェイ条約に対して採るべき政府の措置について考えなければなりませんでしたが、これまでよりも事態は急を要していて、何か変化を引き起こさなければなりません。熱の発作が少し和らいだ後に、ジェイ条約に関する人民の真の感情が何かをできれば確認することは依然として非常に望ましいことです。というのは現時点でジェイ条約に対する抗議はまるで狂犬に対するものと同じようなものだからです。そして、皆が幾分かジェイ条約を貶めようとしているようです。最も歪められた解釈がなされ、それに反対する文章は(熱心に流布されていますが)最も嫌悪すべき誤解を孕んでいますが、私の情報によれば、多くの良識ある人々は、古くからの紛争を解決の点で条約において相互の公正が適切に尊重されていないと考えているようです。その一方で政府に影響力がある人々は、我が国にとって規制がある通商条約を結ぶくらいなら何も通商条約を結ばないほうがましであるという意見で同意しているようです。彼らは、我が国の貿易の性質からすれば(例外的、もしくは暴力的な措置を講じなくても)、ジェイ条約で課されるような足枷なしで両国間の適切な関係に置くことができると言っています。つまり、我々の輸出はイギリスの製造業に対する原料の輸出と英領西インド諸島に対する食糧の輸出が大部分を占めているので、もしイギリスが自国の条件を我々に受け入れさせることができなくても、イギリスは我々の条件を受け入れざるを得ないと言っています。その一方で、我が国の輸入は、イギリスの繊維産業に最良の市場を提供していると言うのです。もちろんイギリスの製造業を支えていることになるとも言っています。しかし、最も人心に影響を与えている論法は、彼が言うにはフランスとの約束を破ることになるという論法で耳目をそばだたせています。もしくは、フランスを犠牲にしてイギリスにそのような便宜を与えることで贔屓しているという論法です。そのような論法はその他の理由から生じるいかなる反対よりも反対の根拠として懸念すべきことです。なぜならそれが事実であるか否かを問わず、そうした精神を利用して我々をイギリスと仲違いさせることが([フランスとイギリスの]両国に敵意や警戒心が存在している限り)フランスの利益だからです。そして、私の意見では彼らはそうした精神を利用しようとするでしょう。物事を実行に移すために彼らが方針を決めるためにどれ程の時間がかかるかもしれず、今、その始まりにおいて決めなければならないことが多過ぎて決められないかもしれません。しかし、私は、政府に多くの困難がもたらされると思っています。この問題に真実の光を当てるためにジェイ条約を擁護してペンを執る者が[あまりにジェイ条約に対する風当たりが強いので]苦痛に耐えられないのではないかと私は思っています。カミルスの名前でニュー・ヨークの新聞に掲載された論説がジェイ条約を擁護して何らかの解答を出してくれるのではないかと期待を持っています。私が読んだ1番目の論説から判断して、この問題が明確に目立つ形で満足の行くように取り扱われることを期待します」

 確かにワシントンは、為政者が国民の世論を聞く必要性を認めている。しかし、何か国民を熱狂させるような事件が起きた場合、「真正の世論」を聞くことができるのは、熱狂が衰えて冷静に判断が下せるようになってからだ。大統領の役割は、容易に影響されやすく気紛れな人民の中にあって、国民の本当の利益を考えて一貫した方針を選択することである。
 ワシントンの心中には確か信念が宿っていた。しかし、ハミルトンはどうやらワシントンがまだ方針を決めかねていると心配したらしく、ウルコットに事情を問い合わせている。

「フィラデルフィアでは本当にどのような事態になっているのでしょうか。フィラデルフィアを絶つ前に大統領が上院の助言[と承認]に従って条約に署名したと信じるに足る理由がありました。しかし、最終的にどうなってしまったのでしょうか。我々はどこへ行くことになるのでしょうか」

ハミルトンがジェイ条約を擁護する一連の論説を発表したのは、「真正の世論」を喚起しようとしただけではなく、ワシントンの決断を後押しできると考えたからだろう。



至急報第10


 ワシントンがフィラデルフィアを離れてマウント・ヴァーノンに避暑に向かったことは既に述べた。出発する前にワシントンは、枢密院令の撤回をハモンドに求める覚書を準備しておくようにランドルフに命じていた。
当然のことながら命令を受けたランドルフは、大統領がジェイ条約についてさらなる交渉を行おうとしていると解釈する。そうした趣旨に基づいてランドルフは覚書を作成して他の閣僚の回覧に付す。同意が得られ次第、マウント・ヴァーノンに送って大統領の裁可を仰ぐためだ。覚書の末尾には次のように書かれていた。

[ジェイ条約の成立の]主要な障害は枢密院令であり、イギリス側の努力によって取り除くことができます。大統領は、詳細を把握することができないので何を最終的な決断とするのか宣告できません。しかし、彼の心を駆り立てる感情は、[枢密院令を撤回するという]最も揺るぎない約束なしで宥めることはできません」

覚書を一読したピカリングは、その内容を到底受け入れることはできないと感じる。するとランドルフがピカリングの事務所を自ら訪ねて来て覚書に関する意見を聞いた。ピカリングは席から立ち上がって覚え書きを握ると「ああ、これをすべて風の中に放り投げたい」と言ってランドルフの見解を強く否定した。
それでも大統領がまだ最終的な決断を下していないと信じていたランドルフは覚書をマウント・ヴァーノンに送った。ランドルフは、他の者の影響を排除してワシントンを説得したかったのだろう。
731日、覚書を受け取ったワシントンはすぐに返事を書く。

「賢明に自制しながら確固とした態度を保つことが現在の危機で最も必要とされることです。条約に関して上院が助言[と承認]を行って以来、受けてきた苦痛から一般に思われている以上に条約に対する偏見が広まっていると信じるに足る根拠があります。党派心がなく現政権をよく理解している人々から私はそれが本当であると最近、理解しました。あらゆる手段を尽くしているのにも拘わらず、人民の権利が無視されているだけではなく完全に売り渡されていて、条約には何の互酬的な利益もなく、すべての利益はイギリスの側にあると人民が最悪の形で誤認していなければと思います。その他のすべてのことの中でも彼らにとって最も重要に思えることは、条約がフランスを抑圧する目的で結ばれ、我が国とフランスの条約を公然と侵害して、すべての[独立戦争中の支援に対する]恩返しと健全な政策の原理に反しているということです。時が経てば激情は正常な理性に戻り、流れは変わるでしょうが、さしあたって、現政権はフランスとイギリスとの関係においてまるでスキュラの岩礁[3]とカリュブデス[4]の間の船舶のようです。もし条約を批准すれば、親仏派(または戦争と混乱を望む者達)[フランスに]敵対的、もしくは非友好的な措置に腹を立てるでしょう。しかし、もし条約を批准しなければ、イギリスとの関係にどのような結果が生まれるかまったく予見できません。状況がそうせざるを得ないと私が理解するまで差し迫ったものにならなければ、私はこれまで保ってきた立場を変えるつもりはありません。というのはただ真っ直ぐな道しかなく、真実を着実に追求していくことしかないからです。ここで言及してきたことから考えれば、綿密に問題を検討することがこれまで以上に必要でしょう。政府の決定を実行に移す際に慎重な行動が、我が人民との関係における熟慮とイギリスにより良い変化をもたらす努力とともに必要であることは明らかです。[ランドルフが作成したハモンドへの]覚書は提案すべき目標に十分に応じたよく考案されたもののようです。[中略]。不評を招かず深刻な悪評に巻き込まれないようにするために覚書の発表をいつまで延期するかについて、現場に立って精通しているあなたのほうが私よりも優れた判断を下すことができます。実際、この条約は深甚な結果をもたらすので、事を急ぐべきではありません。踏み出す前に一歩一歩を確かめるようにして、何かを書面で発表する前にすべての言葉を熟考すべきです」

 その頃、マウント・ヴァーノンでは嵐が吹き荒れていた。マウント・ヴァーノンを襲った嵐はまるでこれまでの政治的激変を示しているようであった。叩き付けるような雨が穀物を台無しにしたうえに橋を破壊した。そのためマウント・ヴァーノンと首都の間の通信は暫く途絶えた。
通信が復活した時に真っ先に届いたのは、ワシントンにフィラデルフィアに早急に戻るように要請するランドルフとピカリングの手紙であった。ランドルフの手紙にはこれと言って特筆すべきことは書かれていなかったが、ピカリングの手紙は何とも意味ありげなことが書かれていた。

条約の問題に関して、あなただけに個人的に伝えなければならない特別な理由から私は深い憂慮を感じていると告白します。したがって、あなたが首都にできる限りの速度で戻るように懇願します。さしあたって、上記の理由のために、どのような形式であなたに提出されようとも、いかなる重要な政治的決定を行わないように願います。ウルコット氏と私は、(ブラッドフォード氏も同意していますが)ランドルフ氏に依頼してあなたの帰還を求める手紙を書いてもらいました。我々の面前で彼は手紙を書きましたが、我々の中の1人からも手紙を送るほうが良かろうという結論に至りました。心から誠実を抱いて、私は私自身があなたと我が国の友人であることを証明したいと思います。この手紙はあなただけが目を通すようにして下さい」

 この謎めいた手紙が送られた理由は何か。
ウルコットもハミルトンに「戦争を避けてあらゆる迷宮を抜け出せるように我々を導いてくれる糸を私は見つけることができた」ので心配する必要はないと書き送っている。
ピカリングやウルコットはいったい何をしようというのか。その背景を見てみよう。

親英的な姿勢をとる連邦派はジェイ条約締結を推進していたので、ジェイ条約に反対するランドルフの助言を快く思っていなかった。事の発端は726日まで遡る。
それはワシントンの722日付の書簡、枢密院令が撤回されるまで署名を保留するという意思表示を告げる書簡がフィラデルフィアに届いた日であった。つまり、ランドルフ以外の閣僚からすれば、枢密院令の撤回なしでジェイ条約に批准する見込みを完全に絶たれることを意味した。イギリスは果たして枢密院令の撤回を認めるのか。もし認めなければジェイ条約は不成立に終わるのではないかという疑念がピカリングとウルコット、そして、ブラッドフォードの心を覆った。
 726日に何が起きたかウルコットの回想を見てみよう。ウルコットによればそれは「幸運な発見」であった。舞台はフィラデルフィア郊外にあるハモンドの別邸である。

「夕食の前にハモンド氏が私を別室に呼んで、押収されたフォーシェのフランス政府に宛てた書簡を[イギリス外相]グレンヴィル卿から受け取ったことを伝えた。これらの書簡の来歴は、ハモンド氏の説明によれば、[1795328日に]ジャン・バール号という名前のフランスの定期船がイギリスの軍艦の接近を見て甲板から海に投じたが、アイルランド人が海に飛び込んで回収したものだという。ハモンド氏は夕食の後、私室で手紙を英語で読み聞かせた。私は、その情報は新しく驚くべきものだが、ランドルフ氏によって非常に不適切な何かが提案されたという疑念を抱かせる状況を含んでいるので、非常に興味深い情報だと思うと言った。同時に私は、[情報が]重大なので私だけが保持することは許されず、私の考えを裏付けるのに必要な文書がなければ伝えることはできないと言った」

このままでは枢密院令の撤回をめぐって交渉が拗れて条約の締結が失敗に終わるのではないかという不安を抱いていたハモンドは、ジェイ条約締結を推進するために強固な連邦派であるウルコットに取り入っておこうと思ったのだろう。
ウルコットが言及している書簡とは、17941031日付の駐米フランス公使ジョゼフ・フォーシェの公文書、いわゆる至急報第10号である。発信地はフィラデルフィアで宛先はフランス外相である。それを押収したイギリス本国は「国家にとって最善の利益になるように使うように」ハモンドに命じた。
命令を受けたハモンドは、「フランスの公文書の原書は非常に興味深いものであり、もし適切に使えば、特定の個人の考えに、そして、その政治的行動の動機に関してこの国[アメリカ]の世論に大きな変化を与えることができる」と考えた。その「特定の個人」にウルコットが選ばれたというわけだ。
ハモンドはウルコットが公文書の内容を確認するのを見計らってさらに毒を注ぎ込んだ。

「偽りのアメリカの愛国者の良心は既に代価を得ているということになります。苦痛を伴って引き出される結論が確かなことは、公文書からすると真実として間違いないことなのです。もしアメリカ政府が早くから綻びようとしているのであれば、さらに時代を経ればいったいどうなってしまうでしょうか」

 728日朝、フォーシェの公文書をハモンドから受け取ったウルコットはまずピカリングに相談した。しかし、実は2人ともフランス語が読めなかったので、ある程度の内容については分かったが詳しい内容については分からない。
困り果てたウルコットはピカリングに言った。
「これは非常に重要な公文書なので普通の翻訳者の手に委ねることはできません」
そこでピカリングはウルコットに提案する。
「若い頃に私は少しだけフランスを習ったことがあります。何とか公文書の内容を理解できるかやってみましょう」

 辞書と文法書の助けを借りてピカリングは深更までかかって何とかフォーシェの公文書を翻訳した。
翌日、ピカリングはウルコットと連れ立って自宅で療養中のブラッドフォードを訪れて、前夜に苦労して翻訳した内容を読んで聞かせる。それから3人で協議した末、大統領に詳しい事情を伏せつつも早急の帰還を促す手紙を送ることにした。
次にピカリングとウルコットはランドルフを訪問して、フォーシェの公文書についてはまったく知らぬ顔を決め込んで、大統領に帰還を要請する手紙を書くように求めた。その結果、嵐の後にワシントンのもとにピカリングとランドルフからそれぞれ手紙が届くことになった。
ピカリングの手紙の文中にあった「特別な理由」とは、このフォーシェの公文書を指す。しかし、手紙にはフォーシェの公文書の内容についてはまったく何も書かれていなかった。

 811日、フィラデルフィアに戻ったワシントンは、早速、召使いを送ってピカリングに面談に来るように伝える。ワシントンがランドルフと午餐を楽しんでいる時にピカリングは大統領官邸に顔を出す。来訪を知らされたワシントンはワインを一口飲んで気を落ち着けてピカリングに目配せした。
ピカリングはきっと重大な報せを持って来たに違いない。とりあえずピカリングの報告を聞こう。
ワシントンは中座することをランドルフに侘びて席を立つ。
ランドルフは特に不審を感じることもなく退室するワシントンの後ろ姿を見送る。ピカリングによれば、ランドルフは「楽しそうで明らかに上機嫌であった」という。
ピカリングを控えの間に招き入れたワシントンは、後ろ手に扉を閉めてすぐに強い語調で問い質す。
「あなたが手紙で書いた特別な理由とは何か」
 ピカリングは隣室の様子を指し示しながら大統領の耳に囁く。
「隣室にいるあの男は裏切り者です」
 それからピカリングは23分にわたって簡単にフォーシェの公文書について説明する。
その間、ワシントンは雷に打たれたかのように沈黙を保っていた。ピカリングが立ち去ろうとすると初めてワシントンは口を開いた。
「我々が出て行った理由に疑いが向けられないように部屋に戻ろう」
 部屋に戻った2人はランドルフに気取られないようにいつもと変わりない様子を保つ。何も知らずにランドルフは、ハモンドに手渡す覚書について提案する。
「他の閣僚も意見を準備している筈なので、それを参考にして覚書に手を入れるとよいでしょう」
 ランドルフの発言に対してワシントンは口を挟む。
「その問題についてはすべて決定済みだと私は思っていた」
 驚いてランドルフは答える。
「そうではありません。今のところ、ピカリング大佐が即時の批准に賛成のようです」
 ピカリングは憤然として言い返す。
「署名の延期は破滅を招く措置です」 

ランドルフが帰った後、ワシントンはウルコットとピカリングからフォーシェの公文書に関する詳しい説明を受ける。そして、なぜそのような重要なことを今まで秘密にしていたのかと2人を叱責する。しかし、当面の問題はランドルフにどのような処遇を与えるかである。
その夜、ワシントンはピカリングから証拠として手渡されたフォーシェの公文書と翻訳を入念に吟味した。そして、その公文書を公開するべきか否か考えた。
ピカリングとウルコットはワシントンから「全体ではないにしろ一部に不公正で非難すべきところがある。人民は高官が突然、罷免されれば何かの理由があると勘繰る筈である」と相談を受ける。つまり、理由を明らかにせずに国務長官を罷免すれば、裏に隠れた事情があるのではないかと痛くもない腹を探られるのをワシントンは危惧した。どのような理由があろうとも、民主共和派はランドルフの罷免をジェイ条約に反対したからだとして殉教者に仕立て上げるだろう。

翌日、閣議はいつものように始まる。その日の主題はジェイ条約に署名するか否かであった。
これまでと同じくランドルフは閣僚の中でただ1人、ジェイ条約の署名に反対する。イギリスがフランスの港に穀物を輸送する中立国の船舶を拿捕する枢密院令を更新した今、その命令が撤回されるか、もしくは戦争が終わるまで事態を静観したほうがよいというのがランドルフの一貫した主張であった。
ランドルフの主張に不審な点は何もなかったが、ワシントンの脳裏に昨日の「あの男は裏切り者です」というピカリングの言葉がありあり甦る。その一言がワシントンの判断に影響を及ぼしたことは確かである。
裏切り者の主張など信じることができるだろうか。
しかし、閣議でフォーシェの公文書が取り上げられることは1度もなかった。閣議の出席者で知らない者はランドルフだけである。
閣議で何が話されたか概要は分かっているが、詳細は明らかではない。何とか概要を追うことができるのは、ピカリングがその内容を義兄弟で元連邦下院議員のペイン・ウィンゲートに手紙で伝えているからだ。 
その手紙には、「あなただけが目を通すようにするためにこの手紙を読み終わったらすぐに削除して下さい」という但し書きがあった。それに従ってウィンゲートはピカリングの手紙をペンで塗り潰している。何とか判読できる箇所は次のようになる。手紙そのものが破棄されずに済んだことは歴史家にとって幸いである。

「私はジェイ条約を支持して、ランドルフの空虚な引き延ばしや頑迷な反対に対抗して署名を熱心に勧めました。ウルコット氏と私は意見を同じくしていて、ブラッドフォード氏も議論の後に我々の意見に賛同しました。大統領は、(彼のすべての行動の動機である)我が国の本当の利益のために批准が必要であると確固たる信念で決断しました」

 こうして閣議は滞りなく終わった。ワシントンが立ち上がって「私は条約に署名する」と断言したとも言われている。
ランドルフは大統領の発言に驚いたが、まさかそうした決断に至った原因が自分にあるとは思わなかった。結局、ランドルフは大統領の指示に従って、枢密院令が撤回されない限り条約に署名しないという覚書ではなく、即時の署名を伝える覚書をハモンドに渡さなければならなくなった。

813日、ランドルフは大統領官邸に顔を出して大統領が不在中にモンローに送った通信についてワシントンに報告する。その通信には次のように書かれていた。

「大統領はまだ条約に署名していません。イギリスから条約が送り返されるまで大統領は署名しないと私は思っています。食糧を[輸送する船舶を]差し押さえる先のイギリスの枢密院令は署名の大きな障害となっています。フランスを飢えさせるような試みを黙認すべきではないと私は思います」

ワシントンは通信について特に何か言うこともなくいつもと変わることなくランドルフに接する。
ランドルフが辞去した後、ウルコット、ピカリング、そして、ブラッドフォードが入れ代わるようにやって来て、フォーシェの書簡について協議し始める。フォーシェの書簡とピカリングの手による翻訳はずっとワシントンの手元にあったからだ。
 翌日、ワシントンはランドルフの家を訪問する。それは非常に珍しいことであった。これまでワシントンは自ら政府関係者の家を訪ねることなどほとんどなかったからだ。その訪問の目的が何かは明らかではない。おそらくジェイ条約の署名を通知する新しい覚書をきちんとハモンドに渡すようにランドルフに確認するためであったのだろう。
その日、確かにランドルフはハモンドに新しい覚書を渡している。ハモンドは、「覚書を渡す時、ランドルフ氏は悔しさを隠しきれないようでしたが、閣内で自分の意見が覆されたと言いました」と本国に報告している。
悔しさを隠しきれないランドルフとは対照的に、ピカリングは条約の立役者であるジェイに次のような祝福の手紙を送っている。

「イギリスとの条約の運命をあなた以上に心配している者は誰もいないでしょう。国家の敵が投げ掛けた理不尽な罵倒からあなたはできる限り早く救済される権利を持っています。条約は批准されるでしょう。今日、大統領は最終的に条約の批准の記念すべき告知をイギリス公使ハモンド氏に行うことを認めました。批准は上院の助言と同意に従って行われますが、その他には何も障害はありません」

さらにピカリングは、大統領がジェイ条約の署名に際して示した「行動の純粋性と愛国主義」を国民に伝えるべきではないかとジェイに相談を持ち掛ける。もし大統領が何らかの声明を出せばジェイ条約に支持が集まるだろう。
3日後、ジェイはピカリングに早速、お礼の手紙を書いた。

「友好的な動機からあなたが手紙に含まれていた情報を私に伝えくれたことを忘れません。今回の大統領の強固な決意は彼の品性に新たな栄誉を加えるだけではなく、祖国に新たな恩恵をもたらすでしょう」

大統領が何らかの公式声明を出すべきか否かというピカリングの相談についてジェイは次のように答えている。

「多くの点で演説自体は有用かもしれませんが、演説を行うことが適切であるとは私はまったく思いません。公式な場合を除いて大統領は滅多に前面に出るべきではないという妥当な一般原則があるように私に思えます。ある程度の慎みは大統領の尊厳等権威を保つのに必要です。どのような演説であっても理不尽な非難にさらされることになるでしょう」

 818日、ワシントンはジェイ条約に遂に署名する。
ジェイ条約に不満を持つ者は多くいた。ワシントンは、人民の声に耳を塞いでしまったのだろうか。
もう行く先に潜む暗礁を見分けることも、人民の感情を知ることも、世論の危険な沸騰を見定めることもできなくなっていたのか。かつては、連邦政府の確立へ至るあらゆる道を知り、雷光が雲を引き裂くように厳かな指でその道を指し示していた彼が、もはや反対派の声も届かず、慌てて間違った判断を下したのか。
絶対に否である。
枢密院令の更新という懸案事項に加えてジェイ条約自体も最善の策とは言えないが、少なくとも次善の策であった。もしジェイ条約が成立しなければ、イギリスとの戦争が勃発する恐れもあった。その結果、アメリカの貿易が壊滅的な打撃を被り、重要な歳入源を失ったアメリカ政府の信用が完全に崩壊する危険性があった。
ジェイ条約はそうした危機を救ったのである。
実際、アメリカ経済はジェイ条約の締結を経て着実に発展の途を辿り始める。それは主にイギリスとの貿易によるものであった。その一方で対仏貿易はフランス革命勃発後、低迷していた。
 それにイギリスがフロンティアから手を引くことで西部に進出する道が踏み固められた。西部への進出、それはネイティヴ・アメリカンを犠牲にすることになったが、アメリカにとって大国の地位へ登り詰めるために必要な成長過程であった。
ワシントンは、平和と繁栄を維持するという厳粛な誓いを守るべく全力を尽くした。またジェイ条約は上院の事前の助言なしで締結された最初の重要な条約であった。つまり、外交を大統領が先導するという慣例が確立された。
ワシントンがジェイ条約に署名したことを知った連邦派のフィッシャー・エームズは、次のように友人に書き送っている。

「大統領が条約に署名しないのではという疑念は、彼がそうすることなくヴァージニアに帰ってしまったという内密の情報に基づいていました。それから私は信頼できる筋から彼がジェイ条約に署名したと幸いにも知りました。異端者には憤慨させておきましょう。もし政府が敢えて正しいことを行おうとするのであれば、政府はそれを続けるべきだと私は信じています」

 政治家は世論を無視するべきではないが、その一方で時に気紛れな人民に迎合するべきではない。
古代ギリシアの政治家であるデモステネスは『第1フィリッポス王攻撃演説』で、賢明な指導者は物事に引きずられるのではなく、むしろ物事の先頭に立って行進すべきであり、「いかなる方策を採るべきかを知るためにその出来事を待つべきではなく、自身が採った方策がその出来事をもたらすようにすべきである」と述べている。
 また19世紀イギリスの哲学者ジョン・ステュアート・ミルが下院議員選挙に打って出た時の話は、しばしば世間の批判を浴びて自分の発言を間違いだと慌てて撤回する政治家には耳が痛い話かもしれない。
ある日、ミルは労働者の集会に参加していた。1人の参加者が、あるパンフレットでミルが「労働者は一般的に嘘つきである」と書いたのは本当かと質問した。ミルは躊躇する様子も見せずに「そうだ」と即座に肯定した。
それを聞いた労働者達は野次を飛ばしたのか。怒号を放ったのか。それとも暴れ出したのか。
驚いたことに労働者達の間から万雷の拍手が沸き起こる。
彼らは、聞き心地の良い言葉で迎合しようとしたり、何か不都合なことが起きるとごまかそうとしたりする政治家に飽き飽きしていた。たとえ自分達にとって不快な言葉であっても断言して憚らないミルの態度は信念を感じさせた。だからこそ労働者達は拍手を贈ったのである。
もちろんミルの発言に不快感を持った者もいるだろう。しかし、政治家や指導者は憎まれてもよいが、決して軽蔑されてはならない。



ランドルフの弁明


 ジェイ条約が署名された夜、ランドルフを含む数人が晩餐会に招待された。そして、ワシントンはその席でランドルフに翌朝に執務室に顔を出すように伝える。その一方でピカリングとウルコットはいつもより早く執務室に来るように指示を受ける。
ジェイ条約の署名が滞りなく終わった今、ワシントンはランドルフと対決することを決めた。もちろん大統領の署名だけでジェイ条約は成立するが、外交関係を司る国務長官の副署がないと体裁が悪い。署名を行う前に対決してしまえば、ランドルフが副署を拒む恐れがあった。そうした理由でワシントンはランドルフと対決する時を署名後まで延期した。

 翌朝9時、ランドルフが大統領官邸をいつものように訪れると、大統領は訪問を10時半まで延期するように求めていると執事が言う。出直したランドルフは、ウルコットとピカリングが先に大統領官邸にいたことを知る。そこでランドルフは、執事がおそらく間違って時刻を伝えたのだと思う。閣僚の中で自分だけを外して話し合いの場が設けられるとは奇妙だと感じたからだ。
ランドルフは、ワシントンがピカリングとウルコットの2人に何かを話しているのを見る。ワシントンはランドルフの姿を認めると威儀を正して立ち上がり、フォーシェの書簡を手渡しながら静かに決然とした声で言った。
「ランドルフ氏、あなたに読んでもらいたい手紙がある。そして、あなたが好むように説明をして下さい」

 フランス語ができるランドルフは大統領の手から公文書を受け取り黙って目を通す。
その場にいた他の3人はランドルフの表情を注意深く観察している。特にワシントンは一瞬たりとも見逃すまいと射るような視線を送っている。
ランドルフは、1度だけ顔色に朱が差したようになったが、気を取り直して再び目を通し始める。公文書を読み終えたランドルフは質問した。
「この公文書は押収されたものではありませんか」
 頷いたワシントンに向かってランドルフは言葉を続ける。
「分かりました。私が知っていることを説明しましょう」
 その顔には無理に浮かべたと思しき微笑みが貼り付いている。ランドルフは、段落毎に書簡を読み上げて説明し始めた。その大部分はランドルフにとって関係のない事柄であったが、説明はあらゆる点に及ぶ。
ただ口調は少し上の空のような感じだ。読み進む先にある自分に関して最も重要な内容を含む段落についてどのような説明をしようか考えていることは明らかであった。
そして、問題の段落に差し掛かった時、ランドルフは何も強い感情の動きを示さなかった。ランドルフの口から静かに弁明の言葉が述べられる。
「そうした言及がどのような意図で行われたのか確実なことは言えません。ただハモンド氏とあるニュー・ヨークの人物がクリントン知事やフランス公使、そして、自分を破滅させる陰謀をめぐらせていると伝えられたので、フォーシェ氏に[ニュー・ヨークの]小麦商人に働き掛けてそうした陰謀を暴くことができないか否か質問したことを確かに覚えています。しかし、私は、自分自身や他人が使うためにお金を受け取ったこともなければ、お金を要求したこともなく、政府の方策について不適切な情報を伝えたこともありません」

困惑しているランドルフの様子を見てワシントンは、別室に引き下がってさらに適切な釈明を考えるように促す。その言葉に従ってランドルフは別室に移る。
数分後、戻って来たランドルフはワシントンに懇願する。
「もしこの手紙を暫く預からせていただければ、私に関する言及についてすべてを満足のいく形で説明できるでしょう」
 ランドルフの言葉にワシントンは冷ややかな表情を保ったまま素っ気なく答える。
「よろしい、公文書を預けよう」

ワシントンがランドルフに示したフォーシェの公文書には何が記されていたのか。いったい何がワシントンを怒らせたのか。読者の心は疑問ではち切れんばかりだろう。ここでようやくその疑問に答えることができる。
至急報第10号と名付けられたフォーシェの公文書は、実に二つ折り版で20頁にわたる長大なものだ。それはアメリカの政局の動きに関する詳細な分析である。
フォーシェの見方では、アメリカは2つの党派に分かれて争っている。すわわち、ワシントン政権に反対する「愛国者」の民主共和派とワシントン政権を支持する「君主主義的な傾向を持つ」者達の連邦派である。
当然のことながら、フランス政府の人間であるフォーシェの分析は、フランスに友好的な民主共和派に甘いものとなっている。
ジェファソン、マディソン、そして、モンローに関する言及もある。この3人の民主共和派は「大統領の継承に目を向けているが、そうした秘密は遅かれ早かれ白日の下にさらされるであろう」とフォーシェは予言めいたことも言っている。奇しくもその予言は後にすべて実現することになる。おそらくジェファソン、マディソン、そして、モンローが3代続けて民主共和党政権を維持すると予測したのはフォーシェが初めてではなかろうか。
しかし、今、問題となっている肝心のジェイ条約に関する言及は、「ロンドンで馬鹿げた交渉が行われている」という記述しかない。なぜなら公文書が発信された日付には、まだジェイ条約は締結されていなかったからだ。ジェイ条約が関係していないとすると、いったい何がワシントンの心を動かしたのか。
 公文書には至急報第6号の概要として、フォーシェがランドルフとウィスキー暴動について語った会話の概要が記されていた。「ランドルフ氏の貴重な告白のみが起きているすべての出来事に満足な光を当てることができる」とフォーシェは断言する。フォーシェによれば、その会話はワシントンがウィスキー暴動に関する布告を公表する23日前にフォーシェの邸宅で行われたという。

 憂鬱な様子でフォーシェの邸宅にやって来たランドルフは次のように切り出した。
「もうすべてが終わりです。内戦が我が不幸な国を荒廃させるでしょう。4人の男が、彼らの才能、彼らの精勤、彼らの影響力、そして、彼らの活力によって国を救うことができるかもしれません。しかし、イギリス商人の債権者が、もし彼らが少しでも何か対策を取ろうとすれば彼らから自由を奪うでしょう。イギリスの迫害から彼らを守るために当座の資金を彼らに融通するようにお願いできないでしょうか」
 ランドルフの要請はフォーシェを驚かせた。確かに北西部領地のネイティヴ・アメリカンをアメリカに敵対するように使嗾したように、イギリスが西部の擾乱を鎮圧しようとする試みを妨害することはあり得る。しかし、このような重大な問題に答える職権は自分にはないとフォーシェは判断した。そこで当たり障りのない返事をしてごまかすことにした。
 少し補足説明をしておくと、ランドルフはもしフランスが数千ドルを準備して関係者の4人の男をイギリスの債権者から解放してくれれば、ペンシルヴェニア当局に働かけてウィスキー暴動をフランスにとって有利な条件で終結させ、イギリスがウィスキー暴動を組織したと証言させると仄めかしたということだ。
さらに公文書は次のように続く。

[政府に対抗する]何らかの組織が存在することは確実ですが、協力者が必要となるでしょう。協力者はその愛国主義的な名声で仲間に影響を及ぼし、わざと不熱心に活力を欠いて現状に対応することで[西部の擾乱を鎮圧するという]計画の成功を危うくするでしょう。すべて州知事は首長として[連邦からの]要請に応じる義務がありますが、ペンシルヴェニア州知事のみが民主共和派です。国務長官はフィラデルフィア民主共和協会だけではなく他の州の民主共和協会にも大きな影響力を持っています。もちろん彼は注目に値するでしょう。したがって、そうした党派の人々は、私は他の者達が誰かは知りませんが、ランドルフを頭と仰いで彼らの党派に都合の良い決定が下されるように画策しています。[中略]。そうした人々の連帯は西部諸郡で十分な抵抗を生み出すことになるでしょう」

 フォーシェは、もし「数千ドル」を要求通りに渡さなければ、ランドルフはペンシルヴェニア州知事に連邦政府の要請を無視するように働き掛けないだろうと警告している。そうなればペンシルヴェニア州知事は暴動の鎮圧に手を貸すことになり、ワシントンの遠征軍に参加することになる。
つまり、フランス本国が必要な資金さえ与えれば、ランドルフにワシントンの遠征軍を妨害させることができるということだ。これがもし本当であれば明らかな背任である。
ランドルフが親仏的なフィラデルフィア民主共和協会の秘密の会長であるという示唆だけでもワシントンを怒らせるのに十分であった。ワシントンは、民主共和協会を、陰謀を企む人々によって主導され、人民の間に政府に対する警戒や不信の種を蒔くことによってウィスキー暴動を引き起こした危険な団体だと見なしていて嫌悪していた。
フォーシェの公文書の内容からワシントンは、ランドルフがフランスにとって都合が悪いジェイ条約に反対するのと引き換えに賄賂を受け取ったのではないかという疑惑を抱いた。それはワシントンにとって裏切りであった。
 なぜピカリングとウルコットはフォーシェの公文書をワシントンに手渡したのか。黙殺するという選択肢もあった筈である。しかし、両者は黙殺することはできなかった。
公文書の内容が本当だとすれば、ランドルフは民主共和派であり、ワシントン政権に対して秘かに反抗を企てていることになる。強固な連邦派であるピカリングとウルコットにとって看過できる問題ではない。もちろんワシントンにとっても何らかの陰謀が企まれていたのであれば放置できる問題ではなかった。

 ワシントンが合図を送ると、これまで席を外していたピカリングとウルコットが執務室に入って来た。2人は同僚に対して尋問を始める。
尋問が終わった後、ワシントンは2人と話がしたいから執務室の外に出るようにランドルフに求めた。
執務室に残った3人はランドルフが示した態度に驚いていた。厳しく糾弾されたのにも拘わらず、ランドルフの態度は落ち着いている。果たして疑惑は真実なのだろうか。話し合いは45分にわたって続く。
それから執務室に呼び戻されたランドルフの表情は一変していた。ワシントンが弁明をもう書き上げてしまったのかと聞くと、ランドルフは憤激した様子で答えた。
「このような扱いを受けた後で、1秒たりともこの職に留まっていることはできません」
 そう言い捨てるとランドルフは踵を返して3人を残して執務室を立ち去った。自分の事務所に帰ったランドルフは早速、辞表を書く。

「私に対するあなたの信頼はこれまで無限のものであり、私はそれを濫用することはなかったと断言できます。そうした信頼が、前もって私に向けられるべき言葉も遠回しの手掛かりもなく突然、撤回されたことを知れば、私の感情を隠すことはできません。あなたの部屋で私が言ったように、これ以上、現在の職務を続けることができない状況に至ったので、私は辞任します。しかしながら、今後、私を尋問から解放してくれるようにお願いするわけではありません。否、それとまったく正反対です。私はいかなる尋問にも応じるつもりです。そして、フォーシェ氏が出航してしまう前に追い着く見込みがあれば、私は直ちに彼のもとに行って、尋問に対する準備をしましょう。文書の写しを与えてくれるようにあなたの好意を乞わなければなりません。そうすれば、私は文書に対して返答を準備することができるでしょう。鉛筆で手早く書いたごく僅かな覚書だけで私が望むようにできるとは思いません。この機会に適切な一片の公正をあなたが示してくれると私は確信しています。尋問がなされるまで、あなたの命令の下、この問題について秘密にして下さい。というのはすべての嫌疑に対してより詳細な調査を行うと誓った後で、私、または私のために他の誰かに対してお金を準備させたという嫌疑、そして、いかなる形であれ、直接であれ間接であれ、私が1シリング[600円相当]でも受け取ったという嫌疑を私は最も厳粛にここで否定し、フォーシェ氏から暴動に関連するお金を1シリング[600円相当]でも受け取ろうと考えたこともありません」 

 こうして辞表を書き終えるとランドルフは机の上に積み上げられた書類に手を触れず、引き出しに鍵を掛けて事務所の扉を閉ざす。そして、鍵束を建物の管理人に渡すと2度と事務所に入ることはなかった。自分にとって都合の悪い書類を破棄したという疑惑を避けるためだ。
翌日、ワシントンはランドルフの辞表を受理するとともに返信を書いた。

「この文書から生じた強い疑惑を解く方法をあなたが探している間、私がその内容を公開することはありません。そして、私が判断を下さなければならなくなるか、もしくは政府の側で何か説明が必要とならない限り、その趣旨を知っている公職者にも同様に公開を禁じます」

 つまり、ワシントンは汚名を雪ごうと努力するランドルフに猶予を与えた。疑惑に対してまったく弁明の余地を与えないのは不公正だからだ。
この事件はランドルフにとって青天の霹靂であったが、同様に感じた人物がもう1人いる。フォーシェである。
フォーシェの立場からすれば、事件の真偽がどうであれ、フランスとアメリカの仲を裂きかねないジェイ条約に反対しているランドルフは貴重な人材であった。ランドルフがジェイ条約を握り潰してくれれば、アメリカとフランスは仲直りすることができる。したがって、ここはランドルフを弁護しておくのが得策である。
そこでフォーシェは、そもそもランドルフを故意に中傷するような意図はなく、またランドルフが賄賂と誤解されるようなお金を受け取ろうとした事実はないという声明を出す。
 ランドルフに関する疑惑の発端を作ったフォーシェは、もう1つ事件を引き起こしている。
626日、フォーシェはフランスに帰国するためにロード・アイランド州ニューポートに向けて発った。そこでフランスのフリゲート艦メデユーザ号が待っていることになっていた。風向きが悪かったために、フォーシェを乗せた艀はコネティカット州ストーニングトンまで吹き流される。
ストーニングトンで風向きが変わるのを待っていたフォーシェは、副領事からニューポート沖でイギリス軍艦アフリカ号がフォーシェを拘束しようと待ち構えているという情報を聞く。そこでフォーシェは艀を使うのは危険だと考えて陸路でニューポートに再び向かう。
ニューポートに到着したフォーシェを待っていたのは、艀がイギリス軍艦アフリカ号に停船を命じられたという報せであった。艦長のロダム・ホームは、フォーシェが同乗していないか調べるために艀を臨検するように命じたという。幸いにも重要な書類は無事であった。フォーシェが予め陸路で運ぶように手配したからだ。
問題はそれだけでは終わらない。艀はアメリカ船籍である。したがって、アメリカの領海内での臨検は、明らかにアメリカとその沿岸のロード・アイランド州の主権を侵害している。その他にも艦長のホームはフォーシェを捜索するという口実で通り掛かる船を次々に臨検して船員を強制徴用した。
ホームの行為はそれだけに止まらない。イギリス副領事を通じてロード・アイランド州知事に、先にフランス船に拘引されたイギリス軍士官の釈放を求めたばかりではなく、船員やその他の拘引した者をアフリカ号に輸送するのに便宜を図るように「うわべだけではなく偽りでもない支援」を要請した。
さらに物資の補充のために上陸した船員が少しでも侮辱を受けた場合、すぐに軍艦で駆け付けると脅迫めいた言葉も含まれていた。
その一方でフォーシェは、霧に紛れてメデューサ号に乗ることができた。アフリカ号はすぐその跡を追ったが、2時間半の追跡の後、差が縮まらないのを知って諦めて引き返した。

もちろんこうした問題をワシントン放置しておかなかった。主権の侵害を認めることできない。ピカリングからロード・アイランド州知事に大統領の決定が伝えられる。
つまり、ホームに拘束した者達を解放してアメリカの領海内からすぐに立ち去るように通告せよということだ。もちろんその通告を受け入れない場合は実力行使である。ロード・アイランド州知事は実力行使に備えて民兵を召集せよと命じられた。
こうした強硬措置に驚いたのかホームはアメリカ沿岸から離れて2度と姿を現さなかった。

この事件は一見すると些細な問題のように見えるかもしれないが、ワシントン政権にとって大きな意義を持っている。
従来、連邦政府に批判的な者は、連邦政府が州の主権を尊重せず蔑ろにしているのではないかという疑念を持っていた。またワシントン政権がイギリスの影響下に置かれているのではないかという疑念を持っている者もいた。
しかし、イギリス軍艦の不法行為に断固たる措置を取ることでワシントン政権はそうした疑念を完全ではないにしろ払拭することができた。それは決してワシントンがイギリスの言うがままに動いているのではないことを示しているだけではなく、連邦政府が侮辱を受けたロード・アイランド州を守った形になった。

フォーシェにはそのままフランスへの海路を辿ってもらい、話をランドルフに戻そう。
国務長官を辞したランドルフは、郷里のヴァージニアに帰ろうと支度を始める。そして、召使いの奴隷達を集めて自由を保障する文書を全員に渡す。
かつて司法長官であった時、ランドルフは、ペンシルヴェニア州法では継続して6ヶ月間、州内に居住した奴隷は自動的に解放されることになっているとワシントンに忠告したことがあった。先述のように、その時、ランドルフはワシントンに奴隷を解放せずに済むように法の抜け穴を教えたのだが、自身は州法を厳格に守ることにした。そこで奴隷達を解放したのである。それはワシントンに対する無言の抗議であったかもしれない。
自由になった奴隷達は喜んだが1人の料理女はそうではなかった。料理女は自由を保障する文章を惜しげもなく火にくべると炭にしてしまう。そして、涙に暮れながらランドルフに向かって言った。
「再びこのような真似は決してしません。私は主人と生死をともにするつもりです。懐かしいヴァージニアに戻りましょう」
料理女の叫びはランドルフの人柄を示している。

ヴァージニアに戻ったランドルフは弁護士業を再開する。もちろんそれだけではない。ランドルフは自分にかけられた嫌疑を晴らそうと、様々な文書を集め始める。
その中にはワシントンの722日付の手紙、すなわち枢密院令が撤回されるまで署名を保留するという意思表示を閣僚に対して行った手紙もあった。開示を要求するランドルフに対して文書を預かっていたピカリングは事務官を通じて、まずウルコットに照会せよと返答する。
再びランドルフが文書の開示を要求するとピカリングは、722日付の手紙は今回の嫌疑の解明には何の関係もないと拒む。
なぜピカリングは手紙の開示を拒んだのだろうか。
それはおそらく大統領は初めからジェイ条約を無条件で署名するつもりであったと示したかったからだろう。もし大統領が実はジェイ条約の署名に難色を示していたということが明らかになれば民主共和派はここぞとばかり攻撃の矛先をその点に向ける筈だ。
結局、ピカリングを説得できないと悟ったランドルフは、ワシントンに直接、文書の開示を要求する。
ランドルフの要求にワシントンは以下のように答えている。

「あなたは完全に自由に何の制限もなく、私があなたに宛てた個人的で内密のあらゆる手紙を公刊してもかまいません。否、それ以上に、あなたが弁明を行ううえで利益を得ることができるのであれば、私があなたに対して言ったか、もしくはあなたが聞いたあらゆる言葉を公開してもかまいません。そのような抜粋が明らかに、我々の間で何が起きたかに関して何らかの見解を人民に与える限り、私は許可を与えます。ただあなたは私への気遣いから公開をためらうかもしれませんが。[中略]。あなたがしばしば急いで、時には写しも取ることなく書かれた個人的で内密の通信を公開することがどの程度、適切であるのか、あなたの弁明を見て人民が判断を下すでしょう。そして、私が望むのは、ここに示されたような無制限の認可をあなたに与えたことがたとえ慎重さに欠けると人民が非難することになっても、私の動機を正しく評価してくれることです」

 ワシントンがランドルフに示した態度は公正だと言えるだろう。しかし、一方的な情報のみでランドルフを辞任に追いやったのは拙速な判断と言える。事実を確かめる方法は他にはなかったのか。
その一方で当事者の1人であるピカリングは30年以上も経って以下のように回想している。

「大統領はランドルフ氏にふさわしくない信頼を置いていた。彼がランドルフの誠実さに疑いを持っていたと完全に信じられるが、唯一の目的は公共の福祉であるというランドルフの巧妙な弁明から少なくとも身を守った。公平無私の愛国心と清廉が彼自身の行動をすべて支配しているが、ワシントンは他人から情報を求めるだけではなく、能力、健全な判断力、そして、品性に信頼を置く者がいれば、その者の見解に簡単に耳を傾けて採用してしまうようなところがあった」 

こうしたピカリングの見方は少し的外れなように思える。おそらくピカリングはワシントンがランドルフを重用していたことが気に食わなかったのだろう。ランドルフの罷免に関してワシントンは他人にもっと情報を求めるべきであったし、ピカリングやウルコットの言葉を簡単に受け入れるべきではなかった。

この事件に関連する文書を集めてランドルフはどのようにして汚名を晴らそうと考えていたのか。それは『ランドルフ氏の辞任の弁明』というパンフレットを出版して世間に訴えることであった。世間という名の法廷が自分の潔白を証明してくれるだろうと期待したのである。そうした思いをランドルフは友人であるマディソンに打ち明けている。

「辞任以来、私はあなたに手紙を書くことを控えていました。私が人民に訴えかけようとしている問題についてまったく関わりを持っていないとあなたは断言するかもしれません。しかし、大統領とその徒党が抱いている目的の1つは合衆国で結成された共和主義の勢力を破壊することであり、それは組織的に追求されていますが、まだ実現していません。そしてニュー・ヨークからボストンのすべての新聞を読みましたが私はその文面からそうした暗示を読み取りました。陰謀を徹底的に覆さなければならないと私は確信しています。しかし、その準備には時間がかかります。今、[パンフレットの]印刷が行われている最中です。紙幅の都合で詳細をあなたに伝えることはできません。もちろん完全に第三者であるあなたをこの件に関与させることは不適当であるとよく分かっています。つまり、ウィスキー暴動と閣内の再編について私は言っています。ティベリウスのような偽善と暗殺者のような不公正を私に対して行った人物[ワシントン]への愛情から解放されて私は幸せを感じています」

 最後の部分は少し説明が必要だろう。
ランドルフはウィスキー暴動の際の大統領の行動を弁護するために「ゲルマニクス」という筆名で論説を発表している。それに関連してティベリウスの名前を使ってワシントンを裏切り者と非難している。

ティベリウスは、第2代ローマ皇帝であり、ゲルマニクスはその甥である。初代ローマ皇帝のアウグストゥスは、姪孫であるゲルマニクスを後継者と見なして、ゲルマニクスが十分に成熟するまで妻の連れ子であるティベリウスを中継ぎの皇帝にしようと考えた。そこでティベリウスを養子に迎える際に、つまり、後継者として指名する際にゲルマニクスを養子にするようにティベリウスに求めた。もちろんティベリウスがゲルマニクスに皇統を継がせることを期待してのことであった。
アウグストゥスが亡くなった後、ゲルマニアでゲルマニクスを擁立する動きが高まった。しかし、ゲルマニクスはそうした動きを抑えてティベリウスの登極を支持した。さらに戦争で自ら収めた勝利を伝える記念碑にティベリウス以外の名前を彫らせなかったという。つまり、ティベリウスに恩を売った形になる。後にゲルマニクスは急病で亡くなり、ティベリウスが毒殺したのではないかという噂が飛び交った。

つまり、ランドルフは自分を忠実なゲルマニクスになぞらえ、ティベリウスのようにワシントンが裏切ったのだと言いたかったのである。
1218日、『ランドルフ氏の辞任の弁明』が出版された。103頁からなるパンフレットには、事件の経緯の説明だけではなく、ワシントンとランドルフの間の往復書簡、そして問題となったフォーシェの公文書が含まれていた。
このパンフレットの目的は、ランドルフがイギリスの陰謀で辞任に追い込まれたと世論に訴えることであった。それだけに止まらず、ワシントンが「早まった判断」を下して「党派の策動」を抑えようともせず、そして、「イギリス公使とアメリカの[ウルコット]財務長官が監督する隠蔽組織」を採用したとして激しく非難している。
さらにランドルフは、大統領がイギリスの利益に影響される者達によって左右されていると指摘している。もちろん自分が無実であることを訴えることも忘れていない。

「私は心の中で固めた2つの原理に頼るしかなかった。1つ目の原理は、フォーシェ氏と不適切なやり取りを決して行わなかったという真摯な信念である。2つ目の原理は、私は彼からお金を決して受け取っていないし、そのような目的で彼とやり取りをしたことも決してない。したがって私の意見は非常に簡潔である。フォーシェ氏が私にフランス共和国、クリントン知事、そして、私自身に対する陰謀について話したことは覚えている。至急報第6号で言われているようなやり取りがそうした出来事と結び付けられた可能性は否定できない」

 こうした弁明には少し補足説明が必要だろう。
フォーシェが語った陰謀とは何か。それはイギリスの陰謀である。まずワシントン政権に反感を抱く者達にウィスキー暴動への支援を約束する。そして、支援と引き換えに、北西部インディアン戦争に従事するウェインの部隊への小麦粉の補給を故意に遅らせるように求める。
イギリスからすれば、ウィスキー暴動で西部が不安定になり、さらにウェインの部隊の軍事作戦を妨害することができれば一石二鳥である。そうなればイギリスは再びフロンティを支配下に置けるだろう。こうした陰謀をフランス公使、ジョージ・クリントン、そして、ランドルフに嗅ぎ付けられたと思ったイギリスは彼らを破滅させるように画策したという。
ランドルフによれば、実際、フォーシェはフランス政府と契約を結んでいるニュー・ヨークの小麦商人の手を借りて陰謀を暴こうとした。北西部インディアン戦争に従事するウェインの部隊への小麦粉の補給を故意に遅らせる画策が本当に行われているのであれば、それを暴くためには小麦商人に告発させるのが最も有効な手段である。しかし、小麦商人はイギリスに対して莫大な負債を抱えていたので、彼らにイギリス政府の報復を恐れることなく陰謀を告発させるためには負債を弁済してやる必要があった。
すなわち、ランドルフが「彼らの才能、彼らの精勤、彼らの影響力、そして、彼らの活力によって国を救うことができるかもしれない」と言及したという「4人の男」とは小麦商人を指す。

結局、ランドルフは何が言いたいのか。自分に対する収賄疑惑はこうした経緯に端を発するということだ。
ただランドルフが説明した経緯が真実か否かは定かではない。
『ランドルフ氏の辞任の弁明』を読んだセオドア・セジウィック下院議員は友人に宛てた手紙の中で4人の小麦商人の名前を挙げている。しかし、次のように断言している。

「彼らはイギリスに輸出している商人だが、イギリスからほとんど輸入しておらず、絶えず決済を行ってあまり購入することもなかったので、おそらく一生で5ポンド[6万円]もイギリスから借りたこともないでしょう」

セジウィックの説明が本当であれば、ランドルフが語った経緯は根底から覆される。セジウィックとランドルフのどちらが正しいかは分かっていない。

ランドルフが許せなかったことは疑惑の目を向けられたことは当然のことながら、ワシントンがウルコットとピカリングが同席する前でフォーシェの公文書を突き付けたことだ。それは侮辱に他ならない。単に疑惑の真偽を確かめるためであれば、大統領が個人的にランドルフに公文書を渡すだけでよい。ウルコットとピカリングを同席させたのは最初から疑惑が真実だと決め付けて詰問するつもりであったとしか思えない。
またランドルフは、少なくとも1週間前には事実を知っていたのにも拘わらず、対決が行われるまで知らぬ顔を通したワシントンに対して不信感を抱いた。
そうしたワシントンの態度についてランドルフは次のように書いている。

「いつでも私はあなたの命令に従えるようにしていました。日曜日を除く毎日、おそらく1日に2度、私はあなたと個人的な面談を行っていました。官邸で12日に条約について行われた議論でウルコット氏とピカリング氏が期せずして示した興奮について2回も私はあなたに話しました。今から思えば、そうした興奮は[フォーシェの]公文書を知っていることによるものだったのでしょう。14日、あなたは私の家を訪れることによって[閣内の意見の不一致を]仲裁しようという努力を示しました。15日、あなたは最も親切な方法で選ばれた友人達だけと楽しむ晩餐に私を招いてテーブルの末席に加えてくれました。16日、同じような歓迎の雰囲気が漂っていました。ウルコット氏は少なくとも728日から公文書の内容を知っていた筈であり、合衆国大統領も811日から知っていた筈です。それにも拘わらず、最後の破局が訪れる819日まで彼はそれを胸の中にしまい込んでいました」

 『ランドルフ氏の辞任の弁明』を読んでワシントンは腹に据えかねたようだ。それもワシントンは『ランドルフ氏の辞任の弁明』をただ読んだだけではなく重要な部分を自ら書き写して様々な意見を書き込んでいる。
例えば「我々の間に論争があって、私は親英派に犠牲にされたのだ」という文章には、「我々の間にどのような論争があったというのか」という意見が書き込まれている。その他にも「こうした問題に関する彼の声明は私の見解と常に一致していた筈だ」という文章も確認できる。
面白いことに『ランドルフ氏の辞任の弁明』についてジェファソンも感想を書き残している。枢密院令の撤回を迫るべきか、それともそのままジェイ条約に署名すべきかワシントンが迷っていたという部分について次のようにジェファソンは記している。

「もし彼が条約に署名しなければ、一方の党派[連邦派]の支持を失っただろうが、もう一方の党派[民主共和派]の支持も得られなかっただろう。もう一方の党派は彼を攻撃し続け、二兎を追う者は一兎をも得ずという結果になっただろう」

さらにワシントンの怒りを物語る逸話が残っている。
ある日、ジェームズ・ロス上院議員はペンシルヴェニア州とヴァージニア州の境界問題に関して報告するために大統領官邸の朝食に招かれた。ロスはウィスキー暴動で交渉役の1人として既に登場している。
ロスが応接間に入って行くと、ワシントン夫人や数人の淑女達が何か緊張した面持ちで押し黙っている。彼女達はまるで空を舞う鷹を恐れる鶉のように部屋の真ん中に固まって小さくなっている。直後にワシントンも姿を現してロスの姿を認めると握手を交わす。暗く沈んでいる表情を隠すかのように、ワシントンはロスを朝食のテーブルに誘う。
 大統領官邸で催される朝食のテーブルに載るメニューはどのようなものかと言うと、牛の舌肉、パン、バターなどであり、特に豪華なものではなかったようだ。
朝食の席に侍っていたのは、マーサ、ネリー、ウォッシュの3人とその他の客人が数人である。給仕は1人しかおらず、マーサ自身が客人の紅茶やコーヒーを淹れる。お湯を入れた銀製のポットが唯一の贅沢品だ。一堂が朝食を楽しんでいるところにピカリングが血相を変えて駆け込んで来る。
「ランドルフ氏のパンフレットをご覧になりましたか」
「読みました。永久なる神に誓って、彼は地上で最も恥ずべき嘘付きである」
 憤激を抑えられなかったワシントンは渾身の力を込めて拳でテーブルを叩く。あまりにそれが激しかったのでテーブルの上のカップや皿がその場から跳ね上がる。まるでワシントンの怒りに驚いて飛び上がったかのように。
その様子を見ていたロスはなぜ淑女達が緊張した面持ちをしていたのか理解した。ワシントンの怒りを恐れていたのである。
それと同時にロスは内心ではほっとしていた。自分が何かワシントンの機嫌を損ねるようなことをしたのではないかと心配していたが、原因は他にあることが分かったからである。
ピカリングによれば、椅子に座ったワシントンはさらにピカリングに向かって抑えた声でゆっくりと一文一文正確に次のように語ったという。

「ピカリング大佐、私は誰かに心の中の重荷を打ち明ける必要があると感じています。この機会に私が自由にあなたに対してそうすることを許して下さい。ペイトン・ランドルフは私の最も親しい友人でした。彼は177510月に急死しました。厳粛な聖餐式が行われた時に、この世を去る前に彼の甥であり養子であるエドモンドと友人になって欲しいと彼は私に頼みました。彼の父親代わりなることを私は約束しました。これまでその約束は厳粛に守られてきました。もし私が個人的な感情で動揺したり、政治的影響力や官職の任命、そして、権限の行使で動揺することがあるとすれば、まさにこの事態がそうです」

 ここまでワシントンの表情はまったく変わることがなかったが、次第に語気が強くなっていることにピカリングは気付く。さらに長い息継ぎの間隔を置きながらワシントンは言葉を続ける。

17756月、大陸軍の指揮を執ることになった時、当時まだ22歳であった彼を副官の1人にしました。つまり、彼は私の幕僚の1人でした。彼の教育と才能にふさわしい政治的、もしくは職業的な道を彼が進めるように私はできる限り配慮しました。私の影響力のお蔭で若年にも拘わらず、ヴァージニアの公職で異例の昇進を遂げました。1776年にヴァージニア邦の最初の憲法制定会議の代表に選ばれ、同じ年にヴァージア邦の検事総長にも選ばれました。検事総長の職は彼の叔父であるペイトンも彼の父も祖父も就いた職でした。1779年に大陸会議の代表、1786年にヴァージニア邦知事、そして、合衆国憲法制定会議の一員にもなりました。連邦政府を構成するにあたって私は彼を合衆国の司法長官にしました。彼は最初から私の閣僚の1人でした。1794年に私は彼を国務長官にして、公的な諮問機関の頭に据えました。私の閣僚の中で最初から彼は私の信頼を最も得ていました。私は毎日、彼と親しく連絡を交わしました。彼は私のテーブルで主賓の座を占めていました」

 ここでワシントンは『ランドルフ氏の辞任の弁明』を持って立ち上がる。ワシントンの声音は険しさを増して嵐が近いことを暗示していた。

「私の閣僚の頭を務めている間に彼は密かに、しかし、活発に我が政権の敵対者と共謀して政府の政策を妨害しようと画策しました。国家の外交関係を委任されている国務長官が外国の公使とともに、ランドルフ自身がその一員である政権を打倒するという外国政府の陰謀を進めるために、その目的を遂行するのに役立てる資金を公使から受け取っていました。そして、同じ目的の資金をさらに大使に要求しました。ずっと私は完全に彼を信頼していたので、イギリスとの条約の署名をおくらせるべきだという彼の意見に敬意を払ってきました。そうすることで私は、党派的な喧噪に怯んで公的な義務を遂行することを怠ったという非難にさらされました。そうした非難はまったく真実ではありません。そうした考えは私の感情と性格にとってぞっとするものです。今、彼はこのようなことを書いて出版してしまったのです」

 最後の言葉を口から吐き出すとワシントンはパンフレットを床に投げ捨てた。そして、溜め息を付くと椅子に腰を下ろした。それで嵐は過ぎ去ったようだ。
ワシントンが憤懣を抑えることができなかったのも無理はない。19歳年下のランドルフは言ってみれば息子のようなものであり、ワシントンは自分を保護者だと考えていた。そのような相手に裏切られたのである。

ピカリングとロスの前で感情を露わにしたワシントンであったが、そのようなことは珍しかった。
大統領官邸に招かれたある者は、「ワシントン大統領は気取ったところがなく気さくで社交的な人物であり、あらゆる人々から愛される人物だと私は思わざるを得なかった」と記している。確かに激情が時にワシントンの心を熱く焦がしたが、強い克己心と自制によってそれは抑えられていた。
フィラデルフィアでは、ジェイ条約に関してロンドンで暴動が起きて、暴徒が政府の警告を無視して首相の邸宅を破壊したという噂がまことしやかに囁かれていた。もちろんこのような事件は実際には起きていない。しかし、現在のような通信手段がないうえに、はるか大西洋の彼方のことである。そのような噂が立っても不思議ではない。
 議会付きの牧師であるアッシュベル・グリーンは、大統領官邸の晩餐に招かれた時に、その場にいる人々がロンドンで起きたという暴動について熱心に意見を交わしているのを聞く。
グリーンの姿に気付いたワシントンは、自分は噂に関して何も知らないが、何か言っている新聞はあるかと質問する。
グリーンは、丁度今、家から出たところだが新聞の記事を挟んできたと答える。そして、ワシントンの前で関係する記事を読み上げた。グリーンが材料を投下したことで一座の議論はさらに過熱した。
ワシントンは会話に聞き入り、時には口を挟むこともあったが、誰もワシントン自身が噂の真偽についてどう思っているか窺い知ることはできなかった。
 ワシントンの心を占めていたのは、ランドルフの非難が及ぼす影響にどのように対処するべきかであった。対処を誤れば大統領の威信に傷が付くことになるだろう。こういう時に一番頼りになるのはやはりハミルトンである。そこでワシントンはハミルトンに善後策を相談する。ハミルトンはいつものようにすぐに明確な返答を寄越す。

「私はそれ[『ランドルフ氏の辞任の弁明』][ランドルフ自身の]罪の告白に等しいと考えています。そして、私はそれが一般的な意見だと確信しています。あなたを批判しようとする彼の試みは、私が会って話した人々からすると下劣なものだと見なされています。彼の試みは目的を達成することはきっとできないでしょうし、世論とあなた自身にとって毒にも薬にもならないでしょう。出版について特に何も気にする必要はないと私には思えます。そのような行為自体が解決策を含んでいます」

 つまり、ハミルトンの助言は、大統領の威厳を守るためには沈黙が一番だということだ。助言に従ってワシントンは沈黙を守ったが、それ以降、ランドルフを陰で「悪漢」や「悪者」と呼ぶようになった。
ランドルフは、ワシントンが何も反応示さないのに業を煮やしたのか、遂に禁断の領域に足を踏み入れる。機密事項である閣僚の関係文書を新聞に公開したのである。その動機はワシントンの反応を見るためである。それでも猶、ワシントンは沈黙を固く守った。
 その一方で民主共和派は、ランドルフが党派対立の犠牲になったと考えた。『ランドルフ氏の辞任の弁明』は嫌疑を完全に晴らすことはできなかったが、民主共和派にとって連邦派をさらに激しく攻撃する格好の材料を提供することになった。『オーロラ紙』は次のように書き立てている。

「ランドルフ氏のパンフレットが何であれ彼の行動を弁明する効果を持っていれば、少なくとも彼はその出版によって我が国の共和主義の友人達にとって有益なことをしたことは確かである。というのはそれは我々の政府に対する無尽蔵の反省と批評を含むからである」

民主共和派からすれば、ジェイ条約は「邪悪な手段」であり、交渉に従事したジェイは「憎むべき反逆の首謀者」であった。さらに攻撃の矛先はワシントンにも向けられる。
曰く大統領は、「我々の人民が恐怖の的であり、我々の抗議を辛辣な軽蔑で以て扱っている国」と交渉した「政治的偽善者」である。
あまつさえ急進的な民主共和派は、ワシントンを「傲慢な圧制者」、「政治的に耄碌している人物」、「法律と憲法を蹂躙する支配者」、そして、「アメリカのカエサル」と呼んだ。
「アメリカのカエサル」は褒め言葉ではない。なぜなら当時のアメリカ人にとってカエサルは共和制ローマを崩壊させた張本人に他ならないからだ。歴史上の人物の評価は時代によって変化する。カエサルは、アメリカが独立を果たして共和制を樹立する過程でカトーやキケロ、そして、キンキナートゥスに人気を奪われている。
ある民主共和派は次のように日記に書き留めている。

「ワシントン大統領はイギリスと条約を締結した。そして、イギリス公使のハモンドはすぐにイギリスに向けて出航した。今やワシントンは彼を今の姿にした完全なる主権者[である人民]に反抗した。主権者は再び彼を元通りにすることはできるだろうか。栄光の絶頂を過ぎて彼のすべての月桂冠が枯れて萎びてしまう前に彼の手を切ってしまったほうがよいだろう」

 ランドルフの辞任をめぐる事件に関する真相は未だにはっきりしていない。
まずフォーシェの公文書そのものについて疑問点がある。至急報第10号の中で紹介された至急報第6号の内容が最大の焦点になったのにも拘わらず、至急報第6号がランドルフの糾弾に使われたか否かが不明確なのである。ワシントンは「私はフォーシェ氏の通信の中で第3号や第6号をまったく見たことがありません」と明言している。さらにウルコットも次のように証言している。

「第3[政府の要人達がフランスに関連する問題についてワシントンを騙しているだけではなく君主制を樹立しようとしているという概要が至急報第10号で示されている]、第6号のフォーシェの書簡を私は見たことがありませんし保管したこともありません。またどちらかが解読されたか否かも分かりませんし、[イギリス外相]グレンヴィル卿かハモンド氏かどちらかを見たかも分かりません」

それにハモンドから本国から公文書を受け取った時、概要に第9号から第17号まで記載されているが、第6号の記載はない。また原書も第10号はピカリングの関連文書から発見されているが、第6号は所在が確認されていない。つまり、疑惑の核心である第6号を関係者の誰も見なかった可能性が高い。
フォーシェの公文書そのものの真偽はともかく、いったい真相はどこにあるのか。
フランスがジェイ条約締結を阻もうとして、ウィスキー暴動にイギリスが関与したことを示す何らかの証拠をランドルフから引き出そうとしたに過ぎないという説がある。
つまり、ウィスキー暴動がイギリスの手引きによるものだということを示す何らかの証拠があれば、ワシントンはイギリスに不信感を抱いてジェイ条約を破棄するかもしれない。その結果、アメリカとイギリスの仲は決裂する。そうすれば熟柿が落ちるようにアメリカはフランスの手の内に落ちるだろう。
ランドルフはそのようなフランスの奸計に知らずに加担させられていたという可能性もある。

おそらくランドルフは無実だったのだろうと筆者は思う。ランドルフに対する弾劾に正義はあったのか。
まずフォーシェの書簡が登場したタイミングがあまりにジェイ条約の推進派にとって都合が良過ぎる。
それにもし疑惑が事実なら、ランドルフは怒りのあまり詳細な釈明をすることなく去るような下手な真似をせず、何食わぬ顔をして釈明に務めただろう。潔白であるからこそワシントンの詰問は青天の霹靂であったのだろう。裏切られたのはワシントンではなくランドルフのほうであった。
ランドルフは、ワシントンをどのように見ていたのか。それはランドルフ自身がワシントンに語った次のような言葉から分かる。

「私は幼い頃からあなたを尊敬するように教えられてきました。そして、長じてからもあなたを尊敬することが私の習慣となっていました。あなたは私に特別に注意を払うことで私のあなたに対する好意を強めました」

これ以上に忠実な友はなかなかいないだろう。それにランドルフは連邦派と民主共和派の対立の中でも中立を保って党派に左右されず自らの信念に基づいて意見を述べる得難い人物であった。残念ながら強固な連邦派のピカリングやウルコットの目からすれば、そうした態度は理解できないものであった。
ランドルフの処遇についてワシントンは、連邦派を背後で操ろうとしたハモンドの策略に惑わされて判断を誤ったと言える。
ハモンドの策略とは、真偽はともかくフランスの奸計を暴露して親仏派を政府内から排除するという策略である。親仏派を排除すればジェイ条約に反対する者はいなくなる。それは枢密院令の更新をめぐって成立が危うくなりかけていたジェイ条約を救う試みであった。つまり、フランスへの不信感を掻き立てることでワシントンに決断を下すように促すという企みである。
ワシントンは「交際と会話における礼儀作法」に記されている「誰かの悪行に関する噂を慌てて信じてはならない」という条項を思い出すべきではなかったのか。

ただワシントンに対して好意的な解釈があることも付け加えておかなければならない。
代表的な例は、モンクレー・コンウェイという歴史家が1888年に出版した『エドモンド・ランドルフの生涯と文書において明らかにされた歴史の削除された話題』である。「歴史の削除された話題」とはフォーシェの公文書をめぐる問題に他ならない。
コンウェイは一貫してランドルフを擁護している。それと同時にワシントンの顔も立てている。どのような解釈をすればそれが可能なのか。

まずワシントンはランドルフの無実を確信していたうえに、ハモンドの策略を見抜いていた。それでもランドルフを救うことができなかった。
もしランドルフが無実であることを証明すれば、今度は無用の嫌疑を国務長官にかける発端を作ったハモンドが非難の矢面に立つことになる。そうなれば、ただでさえ枢密院令をめぐって紛糾しているのにさらに事態が悪化する。その結果、ジェイ条約が不成立に終われば戦争の危機が高まるだろう。
つまり、親友を救うか、国を救うか、ワシントンは二者択一を迫られた。
814日、ワシントンはランドルフの家に出向いて2人でその問題を協議して一芝居打つことにした。芝居には観客がいなければならない。観客はピカリングとウルコットだ。ワシントンがピカリングとウルコットの面前でランドルフを糾弾した理由はそれで説明できる。
手の込んだ芝居をした目的は、ハモンドの策略に便乗して枢密院令の撤回の是非をめぐる問題をうやむやにしてしまうことである。

確かにこうした解釈には筋の通っている点もあるが直接的な証拠は何もない。それにランドルフが『ランドルフ氏の辞任の弁明』を公表して物議を醸す必要がなぜあったかについても説明が付かない。
たとえワシントンがどのように思っていようとも、ランドルフが無実であると考えたのは筆者だけではない。
1856年、ランドルフの孫のピーター・ヴィヴィアン・ダニエル[5]は祖父の汚名を晴らすために久しく埋もれていた『ランドルフ氏の辞任の弁明』を再発行した。その時に多くの著名人から手紙が寄せられた。その手紙を読むと彼らがランドルフが無実であったと信じたことが分かる[6]。ワシントンという偉人の光輝に隠れてランドルフの弁明は隠されがちであるが、ランドルフが無実であると信じた人々は多く存在する。
フォーシェの公文書をめぐる紛争は、ハモンドが連邦派を使嗾してジェイ条約を成立させる障害となっていたランドルフを排除する陰謀であった可能性が非常に高いものの、1つだけ疑問点がある。それはハミルトンに関してである。

ハミルトンはジェイ条約の署名に肯定的な意見を持っていたが、全面的に賛成していたわけではない。第12条に関する問題点と戦時禁制品の一覧に関する問題点をワシントンに対して指摘したことは既に述べた。
さらにハミルトンは、枢密院令が撤回されるまで批准の交換を控えるべきではないかと810日にウルコットに向かって示唆している。おそらく同様の示唆がワシントンに行われたものだと推測される。
なぜ推測なのか。それは、ハミルトンがワシントンに手紙を送ったことは確かなのだが、その手紙が現存しないために内容が分からないからだ。
つまり、ハミルトンはランドルフと同じようにジェイ条約について慎重な姿勢を示していたことになる。そうなるとハモンドにとってハミルトンは邪魔な存在になる。そうなるとなぜハモンドがランドルフだけを排除して、ワシントンに大きな影響力を及ぼしているハミルトンを排除しようとしなかったのか。
その答えはランドルフがワシントンに送った手紙から推測できる。その手紙には以下のように書かれている。

「食糧を差し押さえる枢密院令が撤回されるまで批准の差し控えることに関してニュー・ヨークからあなたに送られた助言は、助言者自身の友人達の間には広まっていないようです」

ランドルフが言及している「助言者」とは明らかにハミルトンのことだ。つまり、枢密院令が撤回されるまで条約に署名すべきではないというハミルトンの主張はほとんど誰にも知られていなかったということである。したがってハモンドはハミルトンがまさかそのような主張を抱いているとは気付かなかったのだろう。
 枢密院令が撤回されるまで条約に署名すべきではないという主張は、ハミルトンが親英的でイギリスに従属的であったという民主共和派の批判を覆すものだ。
イギリスにとって、民主共和派よりもハミルトンのほうが実は脅威であったかもしれない。なぜならハミルトンは、イギリスの国家制度の利点を活かしてアメリカを他ならぬイギリスに対抗できるような強国にしようと考えていたからだ。イギリスとの通商を重視するというハミルトンの姿勢はあくまで実利的な判断に基づくものでしかない。
いずれにせよランドルフの辞任は騒動を引き起こしたものの、国民に実質的な影響を与えなかった。それでもワシントン政権の大きな汚点と言えるだろう。
後にランドルフはこの事件を振り返って次のようにワシントンの甥であるブッシュロッド・ワシントンに語っている。ワシントンが亡くなって11年後のことだ。ランドルフのように静かな心境になれる者はそう多くはない。

15年前に私がある人々に対して持っていた感情を今は少しも持っていません。というのは、すべての人々に対して善意を抱くことで得られる慰めから私を引き離すことができるような宝も幻想も魅力もこの世にはないからです。それに私が与えた侮辱で仲が悪くなった人に許しを乞うことを私は恥ずかしくは思いません。もし私が今、あなたの尊敬すべき叔父[ワシントン]の前に出ることができるのであれば、私は原因が曖昧なままで焦燥に駆られて彼に関する幾つかの[悪い]表現を使ってしまい、今は世間がどう考えているか気にかけませんが、私が引き続き行った弁明と矛盾したとしても、私はそれを取り消したいという後悔を告白することを私の誇りとするでしょう。私の人生が、彼の美徳と業績を真摯に記録できるだけ十分に続くことを願います。それは不運によって挫けた心による結果ではなく、心の中の静穏を約束するキリスト教精神による結果なのです」

『エドモンド・ランドルフの生涯と文書において明らかにされた歴史の削除された話題』でもこの手紙は紹介され、コンウェイはランドルフの「願いは実現した」と付け加えている[7]。ランドルフがワシントンを「祖国の命運に心を奪われた」愛国者としているのは感慨深い。



後任


ランドルフが去った後、残された問題は後任人事である。
ワシントンはこれまで人事を他人任せにせず、ほとんど自分で考えてきた。これまでの方針はすべての人々にとって公正な人事であった。しかし、民主共和派が政権に牙を向いている今、大統領の政策に忠実な人間という基準が加えられる。
党派対立が激しさを増す中、もはやすべての人々にとって公正な人事は不可能である。選ばれた人物はその能力や資質ではなく連邦派か民主共和派かという基準で見られるからである。たとえ能力や資質に恵まれていても連邦派というだけで民主共和派は反感を抱くだろうし、逆もまた然りである。それでもワシントンは一流の人物を国務長官に据えようと考える。
そこで5人の人物が候補に挙げられる。
その中には革命の舌パトリック・ヘンリーも含まれている。ヘンリーは健康上の理由で就任を断ったが、
「もし我が国が私の時代に無秩序の恐怖に直面すれば、私がその下で生き、我が国民の完全な承認を得ている政府を全身全霊で支持しよう」と約束した。かつてヘンリーはヴァージニア憲法批准会議で憲法案に反対する人々の旗振り役を務めたが、権利章典が採択され、連邦政府が成功を収めるのを見て考えを変えたのである。
 ヘンリーの他に国務長官職を打診された4人もすべて就任を断った。彼らは、ジェイ条約の騒動を通じて政府の高官に対して悪意ある目が多く向けられていると辞退の理由を述べた。ワシントン自身も悪意ある目が向けられることで感じる苦痛を身を以って理解していたので、無理強いすることはできない。
絶望のあまりか、ハミルトンに贈られた手紙には「どうすれば国務長官が見つかるだろう」と書かれていた。そして、ハミルトンに適任者の紹介を頼んだ。しかし、残念なことにハミルトンが仲介した人物も就任を辞退した。ジェイ条約で世論が割れている今、国務長官を引き受けることは火中の栗を拾うようなものだ。
人選に困ったワシントンは、ピカリングを陸軍長官から国務長官に異動させることにした。こうしてジェファソンからランドルフに受け継がれた国務長官職は、ここでピカリングを迎えることで強固な連邦派によって占められることになった。
ピカリングは国務長官就任に至った経緯を次のようにハミルトンに書き送っている。

「様々な根拠で大統領は私に[国務長官就任を]受諾するように促しました。空席を埋めるために多くの無駄な努力を彼が行った後で私も断ることは気が進みませんでした。そこで私は受諾を検討すると約束しました。同日、ウルコット氏が私を訪ねてきました。私は彼と相談しました。私がこれまでの経過を説明すると、彼は国務長官を受け入れるように勧めました。しかし、私は決めることができませんでした。それから我々はそれについて何度も話し合いました。依然として私は、もっと有能な人物の手に国務長官職を委ねるべきだと望んでいました。先週金曜日の夜、ワシントン夫人に会いに行った時、私は大統領とウルコット氏が控えの間にいるのを見ました。大統領の表情は明らかに不安な様子でした。機会を見つけてすぐに私はウルコット氏に話し掛けました。大統領は私が決断することを切望しているようであり、ウルコット氏は再び私に国務長官を引き受けるように勧めました。数分間、私は考えました。ウルコット氏は退出しました。そして、私は大統領に次のようにいました。『私はもこれ以上はあなたを待たせたくないと思っています。国務長官職を私は引き受けるつもりです。しかし、[ピカリングが陸軍長官から国務長官に異動することで]空席となる陸軍省を埋めるために新たな困難が生じるかと思うと明るい見通しを持つことができません。そこで私はあなたの意見に従って、現状のまま維持することを提案します。引き続き私は[陸軍長官と臨時国務長官として]2つの省を監督します。もし陸軍省を埋めることができる満足な人材が現れれば、私は国務省に異動しましょう。もし後者[国務省]にふさわしい人材が現れれば、私は今いる場所[陸軍省]に留まります。つまり、あなたをすべての困難から解放するために、公共の善が求める限り2つの職を務めようということです』。大統領は『それは非常に寛大なことだ』と答えて、翌朝、陸軍省の後任者を検討するために[大統領官邸に]来るように私に求めました」

ピカリングも書いているように、異動で空席になった陸軍長官の後任者を決定しなければならない。ワシントンは3人に陸軍長官就任を打診したが、またもや断られる。ようやく就任を引き受けたのがジェームズ・マッケンリーである。
マッケンリーは、アイルランドの商家の生まれである。独立戦争前にアメリカに移住してフィラデルフィアで医術を修めた。
独立戦争の際に何度か登場しているように、ワシントンの幕僚に加わっている。またラファイエットの副官も務め、軍需物資調達に貢献した。マッケンリーが語ったところによれば、時に血気に逸って無謀な作戦を実行することがあったラファイエットのことを失敗したワシントンが信頼できる人物を傍に付けておきたいと考えてマッケンリーをラファイエットの下に配属したという。
独立戦争終結後、メリーランド邦上院議員や連合会議のメリーランド邦代表などを務め、合衆国憲法制定会議にも参加している。ピカンリングと同じく強固な連邦派に色分けされる。ハミルトンとも親しい。
「もしあなたが陸軍長官職に就いてくれれば、今、私は心からの喜びを得ることができるでしょう」と懇願してマッケンリーを迎えたワシントンであったが、その仕事振りは満足のいくものではなかった。
ある時、ワシントンはチェロキー族に対して特別な演説を行うことを決定した。そして、草稿をマッケンリーに起草するように命じた。ネイティヴ・アメリカン問題は陸軍長官の管轄だからである。しかし、マッケンリーはそれまでネイティヴ・アメリカンと接触を持った経験がなく、どのような文体で演説を書けばよいのかまったく分からない。それでもとにかくマッケンリーの手によって「愛するチェロキー族の人民への合衆国大統領の談話」と題する草稿が仕上がる。
草稿は回覧に供するためにピカリングにも送られる。草稿を読んだピカリングは驚く。このような草稿ではネイティヴ・アメリカンの関心を引くことはできない。このままではネイティヴ・アメリカンに有害な影響が及びかねないと考えたピカリングはワシントンに草稿を手直しするように直訴する。
ネイティヴ・アメリカンと交渉を重ねた経験を持つピカリングの言い分には一理ある。それを認めたワシントンは、マッケンリーの草稿に満足していたわけではないが、時間に迫られていたので仕方なく認可を与えたと言い訳する。
それを聞いて却って心配になったピカリングは自ら新しい草稿を書き上げてワシントンに送る。新しい草稿を見たワシントンはマッケンリーの草稿を使わずにしまい込む。おそらくマッケンリーは自分の草稿がなぜ却下されたのか、そして、大統領と国務長官の間で何が話し合われたか知ることはなかっただろう。
ワシントンはハミルトンに向かって「私は、彼が、職務に就いた後、彼の才能は多大な努力や深い才略に匹敵しないとすぐに気付きました」と嘆いている。
ハミルトンも後に「私の友人のマッケンリーはその地位のための力量が完全に不足しています。さらに不幸なことに、本人はその事実にまったく気付いていません」と助言している。
しかし、マッケンリーは副官であった時と同じく陸軍長官としてワシントンに忠実であったことは指摘しておくべきだろう。
ワシントンがマッケンリーに就任を打診したのは1796120日のことであったが、マッケンリーは早くも28日に着任している。当時の交通事情の悪さから、手紙のやり取りや旅行に多くの時間が掛かることを考慮すれば、マッケンリーは旧誼に応じるために、できるかぎりの速さで駆け付けたと言えるだろう。
こうしてワシントンは才能ある人物よりも忠実な凡人を閣僚に招き入れることになった。ピカリング、ウルコット、そして、マッケンリーが顔を揃えたことで、民主共和派はワシントン政権が完全に連邦派の色に染まったと見なした。マディソンは、「今や、[民主]共和派の真実の光を大統領のところまで届ける隙間がいったい政府のどこにあるだろうか」と嘆いている。
ただワシントンには自分が連邦派の領袖であるという意識はまったくない。しかし、ワシントンはピカリングに、「私が政府を主宰する栄誉を担っている間、連邦政府が追求している施策に反するような政治的信条を持っている者を重要な官職に就けるつもりはありません。それは私の意見では一種の政治的自殺です」と語っている。もはや党派を超越した存在になろうとする意思を捨てたと言える。

 ランドルフが辞任した4日後、今度はブラッドフォード司法長官が亡くなる。ランドルフの告発に際して、ピカリングとウルコットは、病に臥していたブラッドフォードに協力を求めていた。そうした心労や無理が祟って、ブラッドフォードは在職のまま、黄熱病で他界した。ブラッドフォードの病死は、閣僚の中で在職中に死亡した最初の例となった。
 ワシントンはまた人事を考えなければならなくなった。まずワシントンが目を付けた人物はジョン・マーシャルである。
 マーシャルはヴァージニア植民地の農園主の子として生まれた。母系を通じてマーシャルとジェファソンは近縁関係にあたる。独立戦争では、ブランディワイン川の戦い、ジャーマンタウンの戦い、そしてモンマス郡庁舎の戦いなどに参戦した。
独立戦争後、弁護士として活躍したマーシャルは、1780年代の終わりまでに法曹界の中でも抜きん出た存在になる。ヴァージニア州の連邦派の指導者の1人としてマーシャルは、中立政策を侵害しようとするジュネに対する告発を主導する。マーシャルはワシントンの中立政策だけではなく、ジェイ条約についても条約の正当性を訴え、ワシントン政権を強く支持していた。
 後に「偉大なる最高裁長官」として知られるようになるマーシャルの才能をワシントンは早くから見抜き、「将来の世代が、アメリカ史を辿る時、彼が生きた時代の最も輝かしい装飾の1つとしてマーシャルの名をその神聖な頁に見出すでしょう」と語っている。栄誉の殿堂も「合衆国最高裁長官。連邦法と州法に対して違憲を宣告することで最高裁の権威を確立した」とその名を称えている。
ワシントンの要請にも拘わらず、マーシャルは弁護士の仕事が忙しいと就任を断った。後の活躍を思えば、マーシャルがワシントン政権の閣僚に名を連ねなかったことは非常に残念なことである。
 結局、ブラッドフォードの後任になったのはチャールズ・リーである。独立戦争中に登場したチャールズ・リー将軍とは同姓同名の別人である。リーはヴァージニアの名家の出身でありヘンリー・リーの弟である。ポトマック川管区の税関吏、アレクサンドリア港の関税徴収官、そして、ヴァージニア州下院議員などをこれまで務めていた。

 他にも決めなければならない後任人事がある。最高裁長官である。ジェイがニュー・ヨーク州知事に選出されたことを機に最高裁長官を辞任したからだ。
ジェイの後任を誰にするかは難しい問題であった。ジェイであれば司法府の長を務めるのに名声と力量の点で申し分なかった。しかし、ジェイに匹敵するような人物を見つけることができるだろうか。
 最初、ワシントンは最高裁判事のジョン・ラトレッジを長官に指名したが、上院の承認を得ることができなかった。次に同じく最高裁判事のウィリアム・クッシングが指名された。クッシングの指名は上院の承認を得ることができた。しかし、クッシングは高齢のため職務を引き受けることができないと指名を辞退した。
 最終的にワシントンは上院議員のオリヴァー・エルズワースをジェイの後任に指名した。エルズワースは1789年裁判所法の成立に貢献した人物であり、言わば司法府の生みの親である。エルズワースの指名は、最高裁における年功序列に拘泥せず、能力に応じて長官を任命する1つの先例となった。



容喙


ワシントンがジェイ条約に署名し、ランドルフが去った後も騒動は収まらなかった[8]
1795年の第1会期では波乱が予想される。ジェイ条約を審議するための上院の特別会期が終わって以来、まだ下院はジェイ条約に対して言及する機会を与えられていない。第1会期で初めて下院は発言する機会を得る。民主共和派の勢いが強い下院がジェイ条約の成立を何とか阻もうと動き出すだろう。
ニュー・イングランドに住むある女性は「条約の成立を脅かすしていた嵐が過ぎ去ったようです。少なくとも見掛けは暗くもありませんし危険を孕んでいるわけでもありません」と記している。しかし、さらに「この問題について議会の悪魔達が何か新しい騒動を起こそうとしていると我々はすぐに知ることになるかもしれません」という言葉が続いていた。
1会期が始まった翌日、ワシントンは議会で一般教書を読み上げた。
7年間の在任期間で初めて大統領と議会が緊張関係の中で対面する。
その様子を『議会の傍聴席からの眺望』と題するパンフレットは以下のように描写している。作者はイギリスの言論人として名を馳せたウィリアム・コベットである。当時、コベットはアメリカに亡命中であった。

「この日、大統領が下院に到着した時、彼は下院が荘重で威厳に満ちた沈黙の中にあるのを悟った。利口ぶる者が何と言おうとも、それは議会が健全な分別を顕著に示しているからであった。傍聴席は不安に満ちた慣習で混み合っていた。慣習の整然とした行動は最も好ましい情景であった。大統領は内気な話者であった。数千人の中で彼は優れた才能、叡智、そして、勇気を謙譲とともに持っていることを示した。しかし、今回の状況は彼にとって完全に新しいものであった。今会期の数ヶ月前まで、最も党派的な中傷者の舌でさえ彼個人を公然と攻撃することはなかった。これは、すべて人々から歓迎を受けることができるという完全な確信なしで彼が議会に入った最初の機会となった。演説を聞こうとしている人々の中に、人民の幸福を心から追及して全力を尽くしたことに報いようとしている者達がいる一方で、彼の政策を妨害して苦汁を舐めさせようと待ち構える者達がいるのを彼は見た。演説のイギリスとの条約に言及した部分に差し掛かった時、彼は傍聴席にじっと目を向けた。憤激や非難の様子はなかったが傷付けられた高潔な人々がいた。そうした人々はこれまですぐに許しを与えてきた。周りの観衆から一言も不満の声が聞こえてこないのを知って私は非常に嬉しかった。もしその中に[ジェイ条約を非難する]嵐のような集会を支持した者達がいるのであれば、きっと後悔したに違いないと私は確信する。彼が[議場から]出て行った時、すべての人々はまるで『神が彼の尊い寿命を延ばしてくれるように』と言っているかのように見えた」

 ここには書かれていないが、ワシントンはジェイ条約に関してどのような演説を行ったのか。コベットの代わりに筆者が補足しておこう。

「下院に対して公式に開示されてはいませんが、イギリスと友好通商航海条約に関する交渉を行っていたこと、そして、1つの条項を除くという条件付きて上院が条約の批准に助言と承認を与えたことを諸君に通告します。十分な検討を行ったうえで公共の利益をもたらすことができるという最善の判断の下、私は条約に認可を与えました。[条約を批准するか否か]イギリスの側の結果はまだ分かりません。[イギリスの返答を]受け取り次第、遅滞なく議会に提出します。[中略]。もしすべての陣営が慎重かつ穏健に行動すれば、我々の国家の権利と名誉を損なわずにこれまで我々の静謐を脅かしてきた国外の仲違いのすべての原因をなくすことができ、幸福な結果をもたらすでしょう」

 議場でワシントンに対して罵声を浴びせるような者はさすがにいなかったが、それは大統領に対する敬意の賜物だろう。しかし、「政策を妨害して苦汁を舐めさせようと待ち構える者達」が少なからず存在していることも確かであった。

そもそも政権に対して反感を持つ人々が出ることは仕方がないことだ。歴代大統領の支持率がどのように推移するか調べてみると一般的傾向がある。
就任1年目が最高で時間の経過によって支持率は下がる。そして、最後の年が最低であることも少なくない。それは何故か。
政治というものが決断の連続だからである。
就任1年目において、まだ大統領はほとんど何も決断していない。したがって、ある決断によって誰かを失望させたり、怒らせたりしたこともほとんどない。それに多くの人々は大統領のこれからに期待している。
つまり、支持率はあくまで期待を反映しているだけであって大統領の政策や方針を支持しているとは言えない。支持率と言うよりも期待率と言ってもよい。
残念ながら人間は、何かを期待しても、それが実現されるよりも裏切られることのほうがはるかに多い。したがって時が経過して、大統領が判断を下せば下す程、期待が裏切られたと感じて失望する人間が増える。一度、失望した人間は余程のことがない限り、大統領に再び期待することはない。それが支持率の低下として現れる。
ただ同時多発テロのような国民が一体となるような事件が起きれば支持率が回復することはある。しかし、それはあくまで例外であり、大統領は時間の経過とともに低下していく支持率と戦わなければならない運命にある。

 それはワシントンも同じである。
これまでワシントンは数々の決断を下してきた。そうした決断、特にハミルトンが推進した政策によって民主共和派が生まれ、大統領に対する非難の声が聞かれるようになった。
政治的決断は必ず敵と味方を作る。優れた政治家は問題を解決するために必要であると信じるのであれば決断することを恐れない。したがって優れた政治家には必ず敵がいる。
もし敵がいなければ、その者は優れた政治家とは言えない。なぜなら誰かに反感を抱かれるようなこと、つまり、政治的決断を何もしていないからである。
ワシントンは決断した。だから非難の対象になった。
 もちろんコベットが言っているように、「人民の幸福を心から追及して全力を尽くしたことに報いようとしている者達」もいたことは忘れてはならない。
メリーランド州議会は次のような決議を全会一致で採択している。

「連邦の首長[大統領]から当然の与えられて然るべき同胞市民の信頼を奪おうとする一連の試みが秘かな囁きや公然たる非難によって行われていることに深い憂慮を覚える。合衆国大統領の尊厳、見識、そして愛国心に不朽の信頼を抱いていると宣言することが責務だと考える」

 自分の衷情を知る者がいることに余程、嬉しかったのかワシントンは早速、メリーランド州知事に手紙を送った。

「いかなる時であれ、そのような見解は非常に誉れあるものであり、喜ばしいものに思われます。悪意ある声が高まり、この国の政府当局への信頼をすべて破壊しようするあらゆる試みが行われている現在、それは私の気持ちにとって非常に心地よいものです。[中略]。私やその他の者が中傷を気に掛けていると気付かせることなく、さしあたって私に関して中傷者に勝手にさせておこうと私は長らく決意してきました。敢えて言いたいのですが、彼らの見解は容易く社会の良識ある人々によって見抜かれるでしょう。そうした徒党の声ではなく、私の政権の業績によって、今後、非難を受けるか否かを決定してもらいたいと思います」

 また後に第6代大統領となるジョン・クインジー・アダムズが外交官として駐在していたロンドンで次のように次のように友人に語っていることは注目に値する。

「現時点で我々の中立が維持されるとすれば、それは大統領の双肩に委ねられています。大西洋さえも越えて聞こえてくる荒れ狂う怒りの嵐に抗し得るのは、堅忍不抜と政治的勇気と結び付いた彼の影響力と名声だけです。今、彼は誓いを立ててまったく動じることはありません。もし彼の政権が今、成功を収めれば、今後、10年で合衆国は地球上で最も強大で豊かな諸国に伍すことになるでしょう。もし彼が失敗すれば、仲違いという悪魔が偏見と悪評という雲を彼の名声の輝きの周りに巻き起こすことになるかもしれませんが、彼の将来の栄光により輝きを増すだけです」

 ニュー・イングランドのある女性が心配していたように、「議会の悪魔達」は「新しい騒動」を起こそうとした。
まず予め上院に意見を求めることなく条約を締結したこと、そして、条約には議会の権限を侵害する条項が含まれていたので大統領は弾劾されるべきであるという声が上がる。
さらにワシントンが財務省から私的に流用するためにお金を引き出したという疑惑が問題となる。これは公職に関わる報酬に対してこれまでワシントンが示してきた廉潔な態度からすればあり得ないことである。実際、これは事実無根であることが判明した。しかし、こうした騒動は民主共和派のワシントンに対する舌鋒が激しくなる一方であったことを示している。
 さらに民主共和派が支配する下院は、予算の議決権を使ってジェイ条約を審判の場に引きずり出そうと画策する。ジェイ条約を執行する予算を認めるか否かを下院は決定することができる。それは間接的にジェイ条約そのものの正当性を問うことになる。
ワシントンは機先を制して、またはイギリスから正式な返答が得られていないので、ジェイ条約を執行する予算を審議する必要はないと宣告する。
激情が静まればジェイ条約に反対する世論も下火になるだろうとワシントンは考えていた。それには冷却期間が必要である。
そうしたワシントンの戦略について強硬な民主共和派のウィリアム・ジャイルズ下院議員はジェファソンに警告を送っている。

「一日一年でジェイ条約に対する支持が強まっています。それは日々、[ジェイ条約の]本質的な利点が発見されているからではなく、その効果を広めようとする[連邦派の]驚くべき努力と策略が行われているからです」

 イギリスがジェイ条約を批准するのを待つ間、ワシントンはロンドンにいるグヴァヌア・モリスに自らの考えをウィリアム・グレンヴィル外相に伝えてくれるように依頼した。17951222日付の書簡である。これまでどのような原則に従ってワシントンが外交上の判断を下してきたのかが示されている。

「合衆国に対するイギリス政府の軽率な行動の証として[国内に関する]詳細をあなたに伝えたいと思います。腹立たしい状況が積み重なる中で中立の立場を大統領が保つことがいかに難しいか。独立革命でフランスから我々が得た援助の記憶はまだすべての人々の心の中で新しく、親仏派がイギリス政府の非友好的な姿勢とフランス人の愛情を比較し続けています。そして、イギリスとの戦争の間、受けた苦しみを人民は忘れていません。ヨーロッパの騒乱が最初に始まって以来、(近年の表現を借りれば)私にとって平和が最大の関心事なのです。私が政権の座に就くという栄誉を担い続けている間、私の政策は独立を保ちながら地球上のすべての国家と友好的な関係を維持することであり、どの国家の巻き添えにならないようにして、我々の約束を果たすことであり、すべての国家に必需品を輸出する国家になることです。そうすることが我々の政策であり利益であると我々は完全に確信しています。国家の品位にとって必要不可欠な公正や自尊心の他に我々が戦争に関わる理由はありません。というのはもし我が国が20年間、静謐を保つことができれば、正義を伴っていかなる勢力にも堂々と対抗できるようになるからです。[中略]。国家の品格に不可欠な自尊心と正義以外に我々を戦争に参加させるものはありません。[中略]。こうした原則と採択された中立政策を固守することによって、この国の党派的な新聞による非難とあらゆる種類の不満を持つ人々の敵意の嵐に私は我が身を晒しています。しかし、私の見解に何ら悪意はないので、私は自分が決めた針路から逸れるつもりはありませんし、有権者が私に寄せてくれた信頼を裏切ることもないでしょう。私は何も求めてはいません。そして、私の義務を果たすうえで、私は中傷をまったく恐れていません。私がいなくなった時に私の政権の業績は現れ、見識ある率直な人々は、そうした業績を思い出すことなく、私の行動を批判するようなことはないでしょう」

 このようなワシントンの言葉は政治家の覚悟を示している。
誰が政治家の業績を判断することができるのかというのは永遠の課題である。
国民は政治家の業績を本当に判断することができるのか。世論は常に正しいとは限らないし、国民が常に冷静な判断を下すとは限らない。
とはいえ政治家の業績を判断できるのはやはり国民である。ただ後世の国民という但し書きが付く。なぜならどのような結果をもたらしたかどうか分かるまでその是非を判断することは難しいからである。
ある政策が導入された当時は強い非難を受けたが、長期的な目で見れば国民に好ましい影響を与えるということもある。もちろんその逆もある。
つまり、政治家は世論を十分に知って国民が何を考えているか知る必要があるが、長期的な利益を国民にもたらすと信じるのであれば、その内心の声に従って政策を実行すべきである。もちろん政治家自身の心の中に何が国民の安寧に有用なのかを判断する基準となる政治理念がなければならない。非難や敵意の嵐に立ち向かう強さが政治家にはなければならない[9]

17962月、上院による修正を受けたジェイ条約が国王の署名を受けて戻って来た。1月に既にその写しは届いていたのだが、ワシントンは慎重を期して正式な通知を待っていた。幸い修正は無条件で受け入れられていた。これでジェイ条約の締結に関して障害はすべて取り払われた。
しかし、ジェイ条約に対する民主共和派の反感は強まる一方で、ワシントンの誕生日の際に祝いの言葉を述べるために30分の休会を行うという提案は下院で38票対50票で否決される。それは毎年、行われている恒例行事であり、前年にそうした提案に反対した者は13人に過ぎなかった。
229日、ワシントンはジェイ条約の発効を宣言する。
民主共和派が支配する下院は、大統領が下院の意向を確かめずに布告を発したとして憤る。国家の命運を左右しかねない重要な条約であるのにも拘らず、大統領と上院が結託して決定を下すことは下院の軽視に他ならないという論理だ。
民主共和派の1人であるエドワード・リヴィングストン下院議員が立ち上がる。
「我が国とイギリスの間で成立したばかりの条約について考慮する際に重要な憲法上の問題を議論しなければならないこと次位は概ね理解されていることです。したがって下院でこの問題に関するあらゆる文書を精査する必要があります」
エドワード・リヴィングストンは、ワシントンの最初の大統領宣誓を執り行ったロバート・リヴィングストンの弟であり、後にジャクソン政権で国務長官を務めた人物である。
さらにリヴィングストンは、イギリス政府とアメリカ政府の間で交わされた関連文書を大統領に開示するように求める決議案を提出する。リヴィングストンの決議案に隠された狙いは、ジェイ条約が執行されるのを阻むことだ。
この決議案はあまりに強硬であったので、民主共和派の同僚議員はリヴィングストンに修正を加えるように求めた。求めに従ってリヴィングストンは決議案に「開示することで現在進行中の交渉に不利な影響を与える文書は除外される」という文言を付け加える。
それでもマディソンは、決議案が行政府の権限を侵害しているよう見えるのではないかと心配して、「大統領の判断で今回、開示することは合衆国の利益に一致しないとされる文書は除外される」という文言に改めるように提案する。本来であれば、マディソンは決議案自体に反対を唱えてもおかしくない。かつて『ザ・フェデラリスト』で、なぜ上院にのみ条約を批准する権限を与えたのかハミルトンと共同で論じたことがあるからだ。つまり、マディソンはかつて自分が示した見解を覆して、下院にも条約を審議する権限があるという主張を黙認した。
もちろんマディソンにも言い分がある。
憲法には曖昧な点がある。確かに憲法は大統領と上院のみに外交権限を与えている。しかし、通商に関する条約の条項について下院の関与を禁じる規定はない。通商という内政にも関わる問題に関しても大統領と上院のみに判断を委ねることは行き過ぎである。したがって下院も判断を行うべきであり、それは三権分立の原理に基づく均衡と抑制として有効に機能する。
結局、ある程度の大統領の自由裁量権を認めるマディソンの穏健な提案は否決され、2週間の議論の後、リヴィングストンが提出したジェイ条約に関連する文書の開示を大統領に求める決議案が62票対37票で採択される。
民主共和派の目的は単に文書を調べることではなく、下院が条約締結の過程に介入する権利を獲得することであった。彼らは、もし条約を締結する権限が、大統領と上院の3分の2の議員のみに認められれば、大統領は32人の中の22人と結託すれば、下院の権限をすべて奪うような条約を締結することもできると論じた。それは下院の軽視に他ならず、決して許すべきではない。
さらに連邦議会の民主共和派に呼応してヴァージニアの民主共和派が州議会に憲法修正を働き掛ける決議案を提議する。その内容は、条約の締結に下院を関与させる修正だけではなく、上院に対する人民の影響力を増大させる修正や連邦判事がその他の連邦の公職に就任するのを禁止する修正などを含んでいる。
こうしたヴァージニアの民主共和派の動きにサウス・カロライナ、ケンタッキー、そして、ジョージアの民主共和派が追随して同様の決議案を提出する。これは世論を味方に付けて連邦議会に圧力を掛けようという作戦である。しかし、その他の州では同様の動きは起こらなかった。
ワシントンは、「この条約に関して最近2ヶ月で人心にもたらされた大きな変化はすべての者に明らかです」とグヴァヌア・モリスに書き送っている。
民主共和派の動きを知ったワシントンは、大統領として選択すべき方策を考えなければならない。
下院の要請は行政府の権限を侵害するものではないか。そして、下院に大統領と上院の専権事項である外交政策を左右できるような拒否権を与えることになるのではないか。その結果、憲法で規定された権力構造が根本的に覆されることになる。
下院の要請を受け入れるべきか、拒絶すべきか。
判断に迷ったワシントンは閣僚にこの問題について諮問する。

「イギリスとの条約交渉に関する文書に対して下院で提出された決議が可決されたので、私はあなた方の意見を求めます。そうした文書を憲法によって下院は要求できる権利を持つか否か。もし下院がその権利を持っていないのであれば、この特別な状況下で、文書を提出することは臨機の処置となるだろうか。そして、下院の要求に応じるか、もしくは拒む各々の場合で、どのような条件が最も適切だろうか。こうした見解を書いて、明日、10[の閣議]に出席して下さい」

326日、チャールズ・リー司法長官を除くすべての閣僚が、上院にのみ条約に関する「助言と同意」が求められているという憲法の規定に基づいて、下院の要請に応じるべきではないと返答する。閣僚の意見もさることながら、ワシントンの判断の最大の助けとなったのはハミルトンの意見であった。
リヴィングストンの決議案が提出された直後にワシントンは、ウルコットに「大統領が採るべき行動についてどのように考えているか」ハミルトンと相談するように指示している。どうやらワシントンはハミルトンにリヴィングストンの決議案に受け入れるつもりだと伝えたようである。つまり、下院の要請に従ってジェイ条約の関連文書を開示するということだ。
324日付の手紙で、ハミルトンはリヴィングストンの決議案を受け入れないようにワシントンを強く諌めた。そして、下院の要請に応じるべきではない根拠を十分に説明している。
まず外交交渉に関する情報を開示せよという下院の要請が通れば、今後、外交交渉の機密性が保持できなくなる。それは外交交渉において致命的な欠陥となる。そして、もし下院が条約を無効にできる権限を得れば、それは立法府の専制に道を開くことになる。したがって下院の要請に絶対に応じるべきではない。
閣僚とハミルトンの意見に助けられてワシントンは下院の要請を拒むことにした。そして、ピカリングにその旨を通達する文書を起草するように命じる。ピカリングが書き上げた草稿をリーが手直して以下のような拒否教書が完成した。

「外国との交渉における本質は慎重であることを要します。そして、その成功は度々、秘密であることによるのです。そして、それが締結に至った場合でも、すべての方策、要求、もしくは最終的な譲歩を完全に公開することは非常に不得策でしょう。というのは、これは将来の交渉において有害な影響をもたらすからです。もしくは他国の関係においてすぐに不都合、おそらく危険や災厄をもたらすからです。そうした慎重であることと秘密であることの必要性は、構成員を少数に限るという構成原理を持つ上院の助言と承認によって大統領に条約を締結する権限を与える1つの強い理由です。外国との交渉に関するすべての文書を要求する権利を下院に認め、それを当然のものとすることは、危険な前例を作ることになるでしょう。求められた文書の査察は、決議では示されていない弾劾の場合を除いて、下院の管轄下のいかなる目的にも関係していません。私の職務上の義務が許すか、それとも公共の善がその公開を必要とするようないかなる情報も差し控えるつもりはないと私は繰り返します。事実、イギリスとの交渉に関わるすべての文書は、条約自体に関して考察と助言を求めるために上院に通達された時に提出されています。下院の決議に対して行われる議論の筋は、合衆国憲法の下で条約を締結する形式に関する見解を導きます。私が憲法制定会議の一員であった時、憲法を形成するもとになった諸原理について知っていましたし、この問題に関して1つだけ意見を抱いてきました。そして政府が最初に樹立された瞬間からこの瞬間まで、私の行為は、もし出席者の3分の2が一致すれば上院の助言と同意を伴って条約を締結する権限は排他的に大統領に与えられているという見解と締結され公布された条約はすべて国内法となるという見解の実例となってきました。条約を締結する権限はそのよう諸外国に理解され、すべての条約を締結するにおいて、大統領が上院の助言と同意を伴って批准した場合、それは義務となるということを我々は宣告し、諸外国も信じています。[中略]。それ故、条約の有効性に下院の同意が必要ないことは私の理解において完全に明らかです。イギリスとの条約に関しても立法的な規定を要するすべての目的を示しています。そして、求められているこれらの文書に関しては、検討の余地もありません。そして、憲法によって定められた異なる府の境界を守ることが政府の適切な管理には不可欠です。このような場合のすべての状況下で、憲法と私の職務上の義務に公正な敬意を払うことにより、あなた方の要請に応じることができません」

この拒否教書は、大統領が外交政策に関する優越性と機密性を保持するための行政特権を持つことを示す重要な先例であり、ワシントン、そしてジェイ条約を擁護する論陣を張ったハミルトンの勝利であった。これは連邦派にとって望外の喜びであった。民主共和派に対して痛撃を与えるものだからである。
セジウィック下院議員は、「それは我々に自信を与えるだけではなく、他方の党派[民主共和派]を否定するものとなりました」と手紙に記している。連邦派議員の中には白いサテンに印刻したワシントンの回答を額装して飾る者まで現れる。
ワシントンはハミルトンに宛てて感謝と決断に至る経緯を説明した手紙を送った。

「対英条約[ジェイ条約]に関連する文書を求める下院の要請について吟味しようとあなたが骨折ってくれたことに対してどのように感謝すれば足りるのか、そして、下院の要請が不適切であることを示すのに(私が想像する以上に)あなたが大変であったことに対してどのように謝罪すれば足りるのか私には分からない程です。最初から私自身の心の中には確信がありましたが、下院の要請によって明白に打ち立てられようとしていた[条約に容喙する権限を持つという]原理に抵抗しようと私は決意していました。そして、最悪の結果を出さない方法を考案しなければなりませんでした。その結果、3つの方法が思い浮かびました。第1に、関連文書の提示を完全に拒否して、拒否の理由を正確かつ適切に説明する。第2に、下院にすべての関連文書を与える。第3に、一部だけ与える。条約を管理したり、目的を特定せずに関連文書の開示を求めたりできる権利を主張する下院に対する的確な抗議を添える。そして、こうした要請に応じることが先例にならないように抗議する。第1の方法が最も筋が通っていると私はほとんど躊躇することもなく決定しましたが、この事例の特別な状況から、[下院の関連文書を開示せよという]要請に応じることで何らかの利益が生じなくても[条約に容喙する権限を持つという]原理が保持されるべきか否か考慮の余地があります。関連文書とその内容を注意深く吟味したうえで私は、すべての関連文書を開示することは非常に不適切であるとすぐに確信しました。関連文書を部分的に開示することは完全に拒絶するよりもさらなる中傷の扉を開けることになったでしょう。下院の目的にとってそれが必要であっても与えるべきではないと私は明言します。[中略]。こうした成り行きを正確にあなたに説明せずに私は満足できません。この問題についてあなたがわざわざ骨を折って調査してくれたことに再び心から感謝します。そして、繰り返し温かい私の友情と尊敬があなたとともにあることを伝えたいと思います」

 この手紙を読むと、ワシントンはまず自分で3つの選択肢を考えて、閣僚やハミルトンの意見を聞いたうえで最終決断を下したことが分かる。周囲の人々の意見を参考にして、ゆっくりと、しかし、確実に判断を下すというワシントンの特質が今回も活かされている。
それは上に立つ者には望ましい特質である。権力の座に長くいる者は次第に周囲の人々の意見を参考にすることが少なくなるからだ。自分が決定して、それに周囲の人々が従うことに慣れてしまうとあたかも自分がいなければ何も進まないように知らず知らず感じてしまうようになる。その結果、独断専行に走りがちになる。そうなると周囲の人々は独断専行に反感を抱いて離れて行く。
いつの間にか権力の座にいる者は孤立してしまう。そうなると誰からの意見も届かなくなってしまって視野が狭くなる。そして、最終的に自滅する。
周囲の人々の意見を参考にして、ゆっくりと、しかし、確実に判断を下すというワシントンの特質はそうした権力者が陥りがちな罠を回避するのに非常に有用であった。

ワシントンの拒否教書を受けて、下院の民主共和派は党員集会を開いて善後策を協議する。ジャイルズは「大統領を、20人の上院議員達、公債に投資した郷紳達、そして、追従者とラム酒を飲んで浮かれ騒ぐ投機家の群れ」が影響力でジェイ条約が固く守られていると嘆く。さらにマディソンは、ハミルトンが背後で糸を引いていたのではないかと疑って、モンローに次のように書き送っている。

「何らかの助言、もしくは教書自体がニュー・ヨークで考案されたものだと私は確信しています。もし勢力を増しつつある民主共和派が打ち砕かれなければ、きっとすぐに親英派[連邦派]は打ち砕かれることになるでしょう。唯一の成功の希望は大統領と[連邦派]の間に楔を打ち込めるかにかかっています」

民主共和派は、ワシントンと対決することは避けたかった。マディソンが言っているように、民主共和派が勝利を収めるためには連邦派とワシントンの間に楔を打ち込む必要があったからだ。もしここで大統領と下院の対決姿勢が顕在化すれば、ワシントンをますます連邦派寄りに追い込むことになる。したがって大統領と対決することなくどのようにして下院の権限を守り、ジェイ条約を妨害するかが焦点となる。
下院に残された手段は、条約に関連する予算を差し止めるという間接的な手段であった。そうすればいくら条約が成立しても条約を完全に執行することができなくなる。
民主共和派にとってジェイ条約をめぐる争いは、民主共和派の誰か、ジェファソン、マディソン、またはクリントンを次期大統領に据えるという作戦の隠れ蓑であった。なぜなら多くの国民に不人気なジェイ条約こそ連邦派の弱点であると民主共和派は考えていたからだ。できる限りジェイ条約をめぐる争いを長引かせれば、連邦派の傷口はますます広がるだろう。そうなれば民主共和派が大統領の椅子を手にする日も近い。
連邦派は、民主共和派がジェイ条約に関連する文書の提出を拒否する大統領の声明にも拘わらず、強硬に抵抗を続けようとするのを知って驚きを隠せなかった。なぜなら連邦派の考えでは、民主共和派は次の大統領選挙に向けて党派の結束を固めるためにジェイ条約の成立に抵抗しているだけで、すぐに妥協に応じる筈だったからである。
415日、マディソンは下院で演説を行う。あまりに長大な演説なので要旨を一言にまとめると次のようになる。
条約を執行するための予算は拒否されるべきであり、条約の再交渉を提案すべきである。
その3日後、マディソンはジェファソンに「条約の問題に関する下院の権利を主張するために賛成票を投じる者がほぼ多数を占めると考えられます」と報告している。
その一方で連邦派は、これまでの経緯からマディソンが強硬な姿勢に出るとは思っていなかった。なぜならマディソンが民主共和派を制御できなくなっているのではないかと信じていたからである。
リヴィングストンが急進的な提案を行った一方で、マディソンが提案した穏健な修正が認められなかったのはマディソンの指導力が低下しているためではないか。
しかし、連邦派の推測とは裏腹に、マディソンがそうした提案を行ったのは、政治的理念による反感もさることながら、あまりに急進的な案を無理に通そうとすると民主共和派の結束が損なわれるのではないかと心配したからだ。マディソンは指導力を失っていなかった。
このまま予算が執行されずに終わればジェイ条約は破棄されるだろう。マディソン、そして、民主共和派の勝利は目前にあるかのように見えた。
 危機感を抱いた連邦派は、民主共和派がかつて行ったように条約を支持する世論を喚起して対抗しようとこれまで以上に活発に動き出す。
フィリップ・スカイラーは各地の有力な友人達に手紙を送って、もし条約が成立しければ有害な結果が訪れることを人民に訴えて欲しいと呼び掛ける。ヴァージニアでは民主共和派が提出した請願書に対抗すべくジョン・マーシャルが連邦派の請願書を提出する。新たに陸軍長官となったマッケンリーはメリーランドの連邦派を組織して民主共和派と対峙する。その他にもフィラデルフィアの銀行の2人の頭取は、もし連邦派の請願書に署名しなければ手形の決済に応じないと多くの商人に通告して署名を集める。
こうしたなりふり構わない連邦派の行動をマディソンは、「現金が手元に不足しているので手形に頼らずに済む商人はほとんどいません。そうした状況で銀行の頭取は、まるで追い剥ぎが拳銃を突き付けて財布を要求しているように[請願書への]署名を求めています」とジェファソンに向かって嘆いている。さらにマディソンは、フィラデルフィアやニュー・ヨークの海上保険会社がジェイ条約の不成立でもたらされる危機を人民に訴えるために取引を差し止めたと報告している。
 マディソンが報告したことは確かに本当であった。
連邦派の新聞である『ガゼット・オヴ・ユナイテッド紙』には、現在の政治状況では完全に通商が壊滅的な打撃を受けてしまうと警告するニュー・ヨークの商館からの手紙や条約が成立するまでいかなる船舶の保険も引き受けないと主張する海上保険会社の手紙が掲載された。
特に海上保険会社にとってジェイ条約が成立するか否かは死活問題であっただろう。もしジェイ条約が破棄されればイギリスとアメリカは敵対関係になる恐れがある。そうなれば海上の危険性は増す一方であり、保険業務に大きな支障が出る。
そこでニュー・ヨークの海上保険会社の組合は今回の危機によって生じた損害を補償することはできないという声明を発表する。これは実質的に貿易の途絶を意味する。当時の海運業は非常に難破や遭難のリスクが高く、積荷や船体に保険をかけずに出港することはあまりに無謀であった。
 連邦派はこうした動きを見逃さず「戦争、戦争、保険がないので船は出港せず人々は仕事を失う」と叫び回る。ランドルフによれば、マーシャルはリッチモンドで行われた集会に姿を現して「3つの文毎に戦争の恐怖を盛り込んだ」演説を行った。かつて連邦派は、民主共和派の人民に直接訴える手法を品位に悖るとして批判的に見ていたが、今度は連邦派自身がまったく同じ手法を使っている。
ただマーシャルは人民を煽動しようとしたわけではなく確固たる信念を持っていた。マーシャルが訴えようとしていたことは、ランドルフが言うような「戦争の恐怖」ではなく、「我が政府の外交において公正な自尊心と主権国家としての我々の権利の尊重が必要不可欠であり、フランスの過大で異常な影響力によって我々の独立が危険にさらされている」ことであった。
こうした連邦派の言論による攻勢に対してもちろん民主共和派も黙っていない。強い言葉で叫び返す。

「用心せよ。イギリスの影響力に用心せよ。平和か戦争かという哀れで陳腐な戯れ歌を聴かされているだろうが、そんなものを信じてはいけない。問題は、最大の敵と繋がることになるのか、それとも自由で独立した状態を保つことができるかだからだ」

 ジェイ条約が不成立に終われば戦争になるかもしれないという連邦派の叫びには根拠がある。
条約が成立するまで北西部の拠点を明け渡すつもりはないというイギリスの意思が明らかになった。1796114日、イギリス内閣はそうした方針を決定して訓令を送付した。訓令を受け取ったイギリス公使代理は早速、ピカリング国務長官にその内容を伝えた。そこでピカリングはどのようにすればジェイ条約に抵抗する下院に影響力を与えられるのか思案した。
最終的にピカリングが選んだ方策は、公式ではなく非公式にイギリスの意思を外部に漏らすことであった。
もし公式に条約が成立するまで北西部の拠点を明け渡すつもりはないというイギリスの意思を発表すれば、多くの人々がイギリスに対して反感を抱くだろう。そうなるとジェイ条約の存続が危ぶまれる。しかし、非公式に漏れ出た情報となればどうか。人々は反感を抱くよりもジェイ条約が破棄された場合にどうなるか不安を感じるだろう。

 さらに連邦派にはジェイ条約の成立を推進するための強力な武器がある。ピンクニー条約である。
ピンクニー条約については以前に紹介しているが、ここでまた簡単に説明しておくと、それはスペインからミシシッピ川の自由航行権を獲得した条約である。その頃、ジェイ条約の舞台裏でピンクニー条約の最終交渉も行われていた。
連邦派は、ジェイ条約が成立しなければピンクニー条約も成立しないと訴えた。なぜそのようなことが言えるのか。
ジェイ条約もピンクニー条約も外国との通商関係を規定するという点では同じだからである。ジェイ条約がイギリスとの通商関係を規定する一方で、ピンクニー条約はミシシッピ川の自由航行権に基づいてスペインとの通商関係を規定している。
つまり、連邦派は、もし下院が余計な容喙をしてジェイ条約を破棄に追い込めば、ピンクニー条約も同じような運命を辿ると警告したのである。ミシシッピ川の自由航行権は西部の住民にとって絶対になくてはならない生命線であった。連邦派の訴えかけによって、西部の住民からジェイ条約を支持する誓願が殺到する。
 連邦派は下院でも同じ戦略を採用する。ジェイ条約とピンクニー条約、そして、バーバリ諸国との条約の3つの予算審議を同時に行うように求めた。つまり、3つの条約の可否を1つにまとめて、民主共和派が否決し難くするという作戦だ。
ジェイ条約の予算を否決しようとすれば、同時に他の2つの条約の予算も否決することになる。バーバリ諸国との条約が不成立に終わっても怒る者は少ないだろうが、ピンクニー条約が予算が執行されずに不成立に終われば、西部の住民の怒りは民主共和派に向けられることになるだろう。
 もちろん民主共和派はこうした連邦派の策略に気付いて、3つの条約の予算を別々に審議するように決定する。それでもまだ連邦派には手段が残されている。
上院では連邦派が多数を占めている。それは次のような心配を民主共和派に抱かせた。
もし下院がジェイ条約の予算を執行しなければ上院はどのような行動に出るか。おそらく上院は他の条約や法案も認めようとしないだろう。
日本であれば、衆議院の可決した法案を参議院が否決しても、出席議員の3分の2以上の賛成があれば衆議院は再可決によって法案を通すことができる。しかし、アメリカの上下両院にはそのような規定はない。上下両院が再可決できるのは大統領が拒否権を行使した法案に対してである。したがって、このままジェイ条約の執行を拒み続ければ完全に議会の運営は滞ってしまうだろう。
 ただこうした民主共和派の心配はあくまで副次的なもので、主戦場はあくまで下院であった。

下院で最も真剣に討議された問題は、本当にジェイ条約を成立させれば戦争を回避できるのかという問題である。
民主共和派は、ジェイ条約を成立させればむしろ戦争の危険性が高まると糾弾する。
まずジェイ条約の成立を知ればフランスは激怒してアメリカに宣戦布告するかもしれない。それにジェイ条約の成立は却ってイギリスと戦争になる危険性を高める。なぜならジェイ条約は、負債の支払い停止や差別的関税など経済的な報復措置を禁止している。したがって、もしアメリカがイギリスから不当な行為を受けても経済的な報復措置で反省を求めることができず、戦争に訴えるしかなくなる。
 同時に民主共和派は、ジェイ条約を成立させなくても戦争を回避できると主張する。
マディソンは、「条約を発効させるのを拒否した結果、戦争が起こるかもしれないという考えは非現実的であり、まったく信じ難いことで問題にもならない」と断言している。ジェイ条約を拒むことは、アメリカにとって自国の利益を守ることに過ぎず、戦争の原因とはならない。重要な貿易相手国であるアメリカとイギリスは戦争をしようとは思わないだろうとマディソンは結論付ける。
ジャイルズは、今、イギリスはヨーロッパでの戦争に疲弊していて戦争よりむしろ平和を求めているとマディソンを援護する。プロイセン、スペイン、そして、オランダはイギリスとの同盟関係を放棄するだけではなく、イギリスに牙を剥こうとしている。またオーストリアもイギリスと同様に疲弊している。イギリスには頼りになる同盟国はなく、自らも飢えつつある。したがって、たとえジェイ条約を拒否してもイギリスはアメリカと戦争する余裕などないとジャイルズは断言する。

 こうした民主共和派の主張に連邦派は反論する。
これまでの行動を見ればイギリスが敢えて戦争に踏み切る危険性が高いことは明らかである。またたとえ戦争に踏み切らなくてもイギリスは北西部の拠点を明け渡そうとせず、ネイティヴ・アメリカンをアメリカに敵対するように唆し、これまで以上にアメリカの海運業を妨害しようとするだろう。そうなればイギリスから戦争を仕掛けてこなくても、アメリカはイギリスに宣戦布告を余儀なくされるだろう。そうした問題を解決するためにはジェイ条約を成立させるしかない。

 民主共和派は、連邦派が訴える戦争の危険性を「子供達を怖がらせるために考案された『髑髏印[10]』のお話のようなもの」だと嘲る。戦争の危険性はないという民主共和派の主張には、まったく根拠がなかったわけではない。
ロンドンに住んでいたあるアメリカ人は「下層階級の人々は文字通り飢えつつあります」と手紙に書いている。同じくロンドンに駐在中であったグヴァヌア・モリスは、パンの値段が2倍になったと日記に書いている。
つまり、もし戦争になればアメリカから小麦を輸入できなくなるので困るのはイギリスであると民主共和派は考えている。ただ戦争というものは常に合理的な判断の下で起こるとは限らないということに留意しなければならない。
 それにジェイ条約について議会が審議している頃、イギリスでの小麦不足は最悪の時期を脱しつつあった。グヴァヌア・モリスは、もし小麦に投資しているのであればすぐに売却するべきだとアメリカの友人に勧めている。つまり、モリスの考えでは、今年は豊作なので値段が下がるから、すぐに小麦を売り払って利益を確保したほうがよい。
同じくジョン・クインジー・アダムズも「食糧の不足は急速にフランスでもこの国[イギリス]でも解消されつつあります」と報告している。
したがって、小麦不足によってイギリスはアメリカと戦うことはできないという民主共和派の主張は根拠が薄れつつあった。

 むしろ戦争の危険性はウェインが北西部インディアン戦争で勝利を収めることによって増大していた。北西部インディアン戦争の勝利は、北西部領地におけるアメリカの支配権が確立したことを意味する。これまでアメリカの支配権が及ばないネイティヴ・アメリカンの勢力が存在することでアメリカとイギリスの間に緩衝地帯が自然に設けられていた。しかし、今、北西部領地はアメリカに確実に組み入れられつつあり、その結果、イギリスが保持する拠点と直に接触するようになった。
すなわち、軍事的衝突の可能性が高まっている。もし今、条約を成立させず、再交渉に入れば、その間に何か突発的な事件が起きることもあり得る。一刻の猶予も許されない。

 こうした危機的な状況をアダムズ家の人々はそれぞれ手紙で話し合っている。
オランダのハーグに外交官として駐在中であったジョン・クインジー・アダムズは、弟のチャールズに「イギリスとの戦争の結果、連邦の解体が起こるかもしれないと私は考えています。しかし、国家を不名誉と災厄に陥れようとしている者達にとって連邦の解体は恐怖よりもむしろ希望でしょう」と書き送っている。
その一方で父のジョン・アダムズは妻のアビゲイルに次のように嘆いている。

「今朝[1796419]の情勢は1775419[11]の情勢と非常に似ています。外国との戦争、そして、内戦が起こるかもしれないという見通しはあまり心楽しいものではありません。繁栄の最中にありながら我々はひどく分裂した国家になっています。大統領に[ジェイ条約の関連]文書を要求することについて3週間の議論を行った後、下院は条約自体の得失を検討する別の議論を始めています。もし下院が予算の執行を拒絶すれば、我々が戦争回避することは難しくなるでしょうし、どのようにして我々が政府を瓦解させないでおくか考えることは容易ではなくなるでしょう。[中略][ジェイ条約の関連]文書を要求する権利や条約の得失について意見を表明する権利を下院が持っていないと私は否定することができません。私はそうした下院の権利と権限について厚意的に考えています。しかし、そうした権限が今回のように濫用されれば大きな危険を生むことになります。フランスの影響下に置かれて連邦派に対抗するという党派の思惑に動かされること以上に議員達を威圧して党争に至らせるものは他にありません」

 こうした思いは議会の連邦派議員も同じであった。連邦派のフィッシャー・エームズ下院議員は滔々とジェイ条約の必要性を弁じた。病気で痩せ衰えて立つのもやっとというエームズの様子は鬼気迫るものだ。
曰く、もしジェイ条約が成立しなければ、今、病んでいる自分でも合衆国憲法と連邦の寿命が尽きるのを生き長らえて見ることができるだろう。それに大統領と上院が条約を承認した後に下院がそれを否決することは背信である。そして、西部の住民はイギリスが北西部に拠点を保持し続けるのであれば、ネイティブ・アメリカンを自分達に嗾けるのではないかと不安を抱くだろう。
さらにエームズの激しい言葉が続く。

「この問題に関して私の感情は言い表せない程です。もし私が何か言葉を見つけることができ、私の情熱に見合うような力があれば、忠告が山々を越えてすべてのまた小屋に届くように私の声を高めましょう。私は[西部の]住民達に言うでしょう。あなた達の偽りの安寧から目を覚ませ。あなた達の重大な危険と不安がすぐに訪れる。まだ癒えていない傷が再び開くことになる。白日の下でも森の中を通るあなた達の道は襲撃を受ける。夜の暗闇はあなた達の住居を燃やす炎で照らし出される。あなた達は父親である。あなた達の息子達の血がトウモロコシ畑に流れるだろう。あなた達は母親である。鬨の声が揺り籠の眠りを妨げるだろう。[中略][ジェイ条約が不成立になったせいでフロンティアの]拠点を取り戻すことができなければ、我々は野蛮人に火を付けさせることになり、犠牲者を出すことになるだろう。[ジェイ条約の予算を執行しないという]我々の決定が生み出すことになる寡婦や孤児、柱で火炙りになる受難者、そして、我が国に対して説明責任を負わなければなりません。良心にとっても神にとってもあまりに深刻なので、私はそのような[ジェイ条約を否定する]ことを言うことはできません」

 エームズの演説をジョン・アダムズは、ジェームズ・アイアデル連邦最高裁判事とともに見ていた。
アイアデルが隣のアダムズに言う。
「ああ、彼は何と偉大なのだ」
 アダムズはすぐに答える。
「彼は素晴らしい」
さらにアイアデルが続ける。
「何ということだろう。これまで彼がこのように偉大なことはあっただろうか」
アダムズはまたすぐに答える。
「彼はいつもそうでしたよ」
一息付いた後、まだ感動に震えているアイアデルは断言する。
「本当に生まれて初めて私はこのような素晴らしいことを聞いた」
最後にアダムズは一言呟く。
「素晴らしい」
こうして言葉を交わしている間、2人の頬には涙が流れていた。

 議場の外でも連邦派は影響力を最大限に行使して民主共和派議員にジェイ条約の成立に協力するように、圧力を掛ける。
民主共和派のフレデリック・ミューレンバーグ下院議員は息子の結婚を控えていたが、新婦の父親から「もしあなたが我々[連邦派]に票を与えないのであれば、あなたの息子は私のポリーと結婚できなくります」という手紙を受け取った。
同じく民主共和派のジョナサン・デイトン下院議長は義兄弟から「条約に反対する票を投じれば、[ニュージャージーの有権者は]彼らの代表をばらばらに引き裂いてしまうでしょう」と脅された。
さらに全国から殺到する条約の成立を支持する請願書が民主共和派議員に心理的圧力を与える。
民主共和派議員が徐々に争いから手を引き始めているのをマディソンはなす術もなく見ているしかなかった。ジョン・アダムズによれば、マディソンは「心配のあまり死にそう」であり、「青ざめて萎れて憔悴」しきっていた。
429日、ジェイ条約の予算を執行するべきか否か、全体委員会で表決が行われる。表決は49票対49票で均衡した。したがって、決定は全体委員会の長を務めるミューレンバーグに委ねられた。ミューレンバーグは予算の執行に許可を与える側に投票した。息子の結婚を破談にしたくなかったのだろう。
翌日、全体委員会の報告が審議に付される。もし報告が可決されれば、それが最終決定となる。
民主共和派は最後の抵抗を試みようと決議案を提出する。それは、下院はジェイ条約に同意するが、反対の余地があることも認識しているという前文を挿入するという決議案である。この決議は50票対49票の僅差で否決された。
こうして民主共和派の最後の抵抗も無駄に終わり、全体委員会の報告が51票対48票で可決された。
ワシントンは下院の一連の動きを次のようにトマス・ピンクニーに語っている。

4月の最後まで下院では、イギリスとの友好通商航海条約に関する長く加熱した議論が次から次へと様々な形で続いてきました。そして、その他の問題は脇に置かれ、革命以来、いかなる時期よりも人心が扇動されました。東部諸州や中部諸州、そして、ヴァージニアから寄せられた条約の執行を求める奔流のような請願書と抗議書が予算を認める決定(51票対48)を生み出しました。[下院での]議論を読めば(おそらく国務省からあなたに送られているかもしれませんが)、この問題について私が説明するよりも詳細に知ることができるでしょう。同封した演説は議論の終わりにエームズ氏によって行われた演説です。なぜならそれを聞いた者や読んだ者に反駁の余地のない論拠を与えるからです」

敗北に衝撃を受けたマディソンは引退すら考えた。ジェイ条約をめぐる争いに敗れたことで民主共和派が勢いを失うのではないかとマディソンは恐れた。それは杞憂ではなかった。
1796年の選挙で民主共和派は下院で多くの議席を失い、マディソンは指導的な立場から追われることになった。連邦派は、「市民マディソンは以前は領袖と認められていたが、この選挙で沈んで完全に視界から消えた。[中略]。彼はもはや政治家として終わった。彼は完全に死んで冷たく硬くなって永遠に忘却の中に葬り去られることになった」と書き立てた。
ジェイ条約をめぐる対立でワシントンは、明言はしていないが、マディソンと民主共和派に対する不信感を強めた。個人的な手紙には次のように書かれている。

「こうした措置に至った動機と憲法を崖っぷちに追い詰めるだけではなく、国家の平和、幸福、そして、繁栄を差し迫っ危険にさらした動機について私は何も言うことはありません。寛容の精神は動機が良いものだと告げていますが、疑念の精神は動機が悪いものであったと告げています。今のところは沈黙を守りましょう」

下院の容喙に対してどのように対処すべきかワシントンは自分の考えを確かに持っていた。ワシントンはもし下院に外交政策について判断させれば、「政府は終わりを迎えて確実に別の政体になる」と固く信じていた。ワシントンにとって下院の行動は「憲法の根本的な権利」を覆そうとする試みであり、「条約の締結権を無効にしようとする」暴挙であった。
そうした暴挙を阻止しなければ下院によって大統領の権限は侵害され、憲法によって注意深く考案された権力の均衡と抑制が崩壊してしまうだろう。そして、大統領が議会を抑えることができなくなれば、多数者の専制が訪れることは間違いない。
さらにワシントンは、下院が条約締結になぜ容喙できないかを説明するために、これまで機密扱いであった憲法制定会議の議事録を公表する。それは実質的にマディソンに対する痛棒だ。なぜならマディソン自身が憲法制定会議で下院が条約締結を妨害することができなくなるようにすべきだと論じていたからである。つまり、マディソンの主義主張が一貫しておらず矛盾しているとワシントンは多くの人々に示したかったのだろう。
マディソンはハミルトンが議事録の公表をワシントンに唆したと思っていたが、決断したのはワシントン自身である。これ以降、ワシントンはマディソンに助言を求めることもマウント・ヴァーノンに招待することもなくなった。

なぜワシントンとマディソンは袂を分かつことになったのだろう。かつてワシントンはハミルトンよりもマディソンに近い立場にいたのにも拘わらずである。
1780年代の連合会議の改革を目指す動きの中でワシントンとマディソンは穏健派に属していた一方で、ハミルトンは急進派に属していた。そして、連合会議の改革が失敗するとワシントンとマディソンは協力して憲法制定会議を成功に導き、さらに憲法を成立させることに成功した。ワシントンとマディソンの考えは、連邦政府を強化する必要があるという点と立法府と均衡を保つために行政府に重きを置く必要があるという点で一致していた。しかし、新政府は軌道に乗り始めるとマディソンは考えを変えるようになった。
連邦政府、特に行政府はあまりに強大過ぎるのではないか。連邦政府と州政府、そして、連邦政府内の三権がお互いに抑制し合うことができなければ共和主義は崩壊する。それを避けるためには連邦政府と行政府の権限の拡大を抑えなければならない。
つまり、共和主義を守るためには権力を均衡させる必要があるという考えでマディソンは一貫している。
ジェイ条約をめぐって下院を容喙させようとしたのも大統領が上院と手を組んで君主制に傾くのを阻止するためであるとマディソンは信じていた。そして、ワシントンがハミルトンに籠絡されて共和主義を蔑ろにするようになったのではないかと次第に疑うようになった。

その一方でワシントンは、連邦政府も行政府も共和主義を危険にさらすような強大な存在になっているとは思わなかった。そして、ハミルトンの諸政策が共和主義を損なうものであるとも思っていなかった。またジェイ条約に関して行政府と上院を人民の不当な圧力から守る必要があると考えていた。だからこそ最も人民の影響を受けやすい下院の容喙を許さなかった。
つまり、ワシントンは、連邦政府と行政府を強化するという考えで一貫している。

したがって、ワシントンとマディソンはともに一貫した考えを持っていた。しかし、状況が変化する中で、ワシントンはマディソンが連邦政府と行政府を強化するという目標を捨ててしまったと思ったが、マディソンもワシントンが共和主義の理念を捨ててしまったと思った。互いに相手が変節してしまったのではないかと信じた。こうした不幸な行き違いが袂を分かった根本的な原因である。もちろん2人ともそれぞれ国家に最善を尽くそうと考えていたことでは同じなのだが。
 ジェイ条約をめぐる戦いでもワシントンはワシントンなりに、マディソンはマディソンなりに何が最善かを考えて行動した。最終的にジェイ条約をめぐる憲法上の危機は回避されたが、下院が外交において果たすべき役割については何の解決もなされなかった。
200年以上経っても、外交政策全般に参与する下院の権利は未だに議論の的である。しかし、ワシントンが打ち立てた先例、すなわち大統領が外交上で優先権を持つという原則は今でも打ち消されていないことは確かである。



離反


 ジェイ条約はマディソンだけではなくジェファソンを完全にワシントンから離れた立場に置いた。ジョン・マーシャルは後に次のように書いている。

[ジェイ条約は]これまで反対派の活動的な指導者達が大統領個人に抱いていた愛着の最後の糸を切った。党争の興奮と激昂の中でも、大統領に対する心からの尊敬と真の愛情、そして、友情の残滓は、当時の政治的党争に深く関与した者達の胸中にまだ残っていた。もし愛着の最後の火花が消えていなければ、それは激情の下に埋もれてしまっただけなのだ」

果たしてジェファソンの心の中には愛着の最後の火花が消えずに残っていたのだろうか。ジェファソンはかつてワシントンに続投を勧めたが、今では大統領が一部の特権階級の代表である連邦派の傀儡になってしまっていると思っていた。連邦派に取り込まれたワシントンはジェファソンが心の中で抱いている改革にとって邪魔な存在となっていた。ジェファソンが目指していた改革は、連邦派によって確立された新政府を民主共和派の理念で鋳直すことであった。
それについてはまたジェファソンを主人公とした巻で詳しく語ることになる。農園に引き篭もったジェファソンはただ静かにワシントンが任期を終えるのを待つだけであった。ワシントンという錦の御旗を失えば連邦派は勢力を維持できないだろう。
 ジェファソンは、パリにいるモンローにワシントンの動静について伝えている。ジェファソンはたとえどのような非難にさらされようとも国民がワシントンに寄せる信頼は揺らぐことはないと思っていた。そして、どうやらそれをあまり快く思っていなかったようである。

「議会は[ワシントン政権の政策に]抵抗してきました。議会の経緯によって、たった1人の男[ワシントン]が人民に対する影響力で議会を圧倒しているという私がいつも伝えてきた真実をあなたは理解できるでしょう。そして、人民は自分達の判断や自分達が選んだ代表[議会]の判断よりも彼の判断を支持しています。共和主義はその漕手を休めて、その水先案内人に船を委ね、彼が最善だと思う進路に向かおうとしているようです」

 また別の友人に宛ててジェファソンは次のように書いている。

大統領は非常に人望を得ているので、人民は彼がすること、もしくは彼がしないことを何でも、彼に対する感情を除けば自分自身の理性に訴えかけることなく、支持してしまいます。彼の心は長い間、無制限の称賛に慣れきってしまっているので、反駁されることに耐えることができず、忠言を求めることもありません。自分から忠言を求める時に限って彼は寛大です。したがって、人民が彼の政策を認めていると喜ばせることでことで彼をなだめる一方で、人民が彼の政策を認めない場合は沈黙を守ることが共和国の最善の利益になると私は考えるようになりました。人民は彼が人民の希望に無関心でありながら人民の愛着を得ようと必死になっていると思わないかもしれません。彼が操舵を握っている間、オールは寝かせておいて、船を彼の思うままに進ませて、すべてを支配する叡智[]に委ねましょう」

 こうした手紙を見るとジェファソンが明らかにワシントンに対して悪意を持っていたことが分かる。
その一方でワシントンは、ジェファソンが背後で動いていることを薄々悟り始める。
179669日の『オーロラ紙』に、1793年にワシントンがイギリスとフランスに関して閣僚に諮った質問事項が掲載された。もちろんこれは極秘事項である。
自分に疑惑が向けられるのではないかと恐れてジェファソンは、「私はあなたに以前から、私の人生の早い時期から新聞に一言も決して書かないという行動原理を守っていると言ってきました。それから私は一度たりともその原理から外れたことはありません」とすぐに弁明している。
 『オーロラ紙』に掲載された機密情報の源は自分ではないというジェファソンの弁明は、新聞には一切寄稿しないという行動原則を確かに守っていたので嘘ではない。しかし、『オーロラ紙』は政権批判の急先鋒であるから、暴露は政権を批判する目的で行われたことを考慮する必要がある。つまり、利益を得るのは民主共和派である。すると状況証拠から最も怪しいのはジェファソンになる。実際にジェファソンは最も親しい友人の1人であるモンローに次のように語っている。

「もし時々、明日、暴動という言葉に混同しないのであれば[ジェファソンは時折、発生する暴動は人民の自由を維持するために必要であると主張したことがある]、反乱という行動が起きないようにする場合に、そして、特殊な事例だけではなく一般的に法の通常な手続きが抵抗を受けてその効能が挑戦を場合に、[ウィスキー暴動に対する措置のように]これまで軍隊を行政上の理由で使ったことありました。しかし、それは政府を強化して公債を増加させるという目的で使われました。したがって、宣言され、宣告され、攻撃の矛先を向けられ、進軍の対象となったような反乱は存在しないことになります。そして、すべての行動は良いことをほとんどしないばかりか、悪弊を十分に正すことができない人物[ワシントン]の名前の下で行われました」

 これだけに留まらず、さらにジェファソンはマディソンに「彼の誠実さと彼の政治的過ちによって、『奴の美徳に災いあれ。それが祖国を滅ぼすのだから』という声が上がる機会がまた訪れないことを祈っています」と書き送っている。
「奴の美徳に災いあれ。それが祖国を滅ぼすのだから」という言葉は、アディソンの『カトー』に登場する小カトーがカエサルを批判する言葉である。もちろんワシントンをカエサルになぞらえて非難していることは誰が見ても分かる。
 州知事を退任した後もヴァージニア政界の状況をワシントンに知らせていたヘンリー・リーは、ジェファソンがワシントンを批判していることを嗅ぎ付けて報告している。誰かが事実をワシントンに告げてしまったと知ってジェファソンは疑念を払拭しようとさらに弁明の手紙を書いた。リーが情報源だということをジェファソンは知らなかった。

「私がいまだに政局の荒波に関わっていて、政府に対する騒乱と陰謀を企んでいると示唆することによって、あなたと私の間に不和の種を蒔こうとすることが、その者[リー]にとって何らかの価値があることなのでしょう。このようなことがあなたに何らかの感銘を与えたとは決して信じませんでしたし、私に関するあなたの認識は、卑劣にも陰謀家が私の会話を選り分けて作り上げた中傷を封殺してしまうことと信じています」

 この弁明はいかがなものか。明らかにジェファソンの妄信であって、不和の種を蒔いているのはジェファソン自身である。
それでもワシントンはまだジェファソンに対して決定的な疑惑を抱くには至らなかった。もしくは疑惑を抱いていてもそれを表に出していなかっただけかもしれない。次のような76日付の返信を文面通りに見るとワシントンはジェファソンの潔白を信じていたように思える。
 
「たとえ私がバーチの新聞[『オーロラ紙』]で公表された質問事項について[ジェファソンが犯人ではないかという]疑念を抱いていたとしも、あなたがまったくそれは事実に反していると保証してくれたことで疑念は晴れましたが、実際のところ、私はもともと疑念を抱いていたわけではありません。[中略]。この問題についてあなた自身が言及したように、あなたが私に対して抱いていたという[悪い]評価をあなたの行動が否定していること、そして、[あなた自身ではなく]あなたの友人や関係者が私を危険な影響下にある人物として批判していること、そして、もし私がさらに何らかの見解を聞かれてもすべては問題ないことを伏せておくのは率直でも正直でも友好的でもないでしょう。私の答えは決まっています。ジェファソン氏の行動の中に不誠実さを感じさせるような行動は何も見つけられません。もしあなたが政権に参画している時に私の公的な行動を見直していれば、私が追及する唯一の目的は真実と正しい決定であることを示す多くの証拠を見つけることができたでしょう。あなたは、私がある人物[ハミルトン]の意見を受け入れるのと同じ程度に反対の決定をしたことも多くあることを認識しているでしょう。さらに私はいかなる人間の政治や政策もまったく誤謬がないとは思ってはいません。つまり、私自身は党派的な人間ではありませんし、私が心から願うのは、もし党派が存在するならば、党派同士が協調することなのです。さらに付け加えれば、実はここ1年か2年になるまで、私が見てきた党派がこれ程まで持続するとは思っていませんでした。それに、私の責務と公正が許す限り、地上のすべての国から独立して我が国独自の国体を樹立するのに最大限の努力を尽くす一方で、着実な進路を採ることで、この国が陰鬱な戦争の恐怖に捕らわれないように望んできましたが、私がある国の敵になっていると批判されたり、また別の国の影響下に入っていると批判されたりするとは最近まで思いもよらないことでした。そして、私の政権のすべての行動が一方的な見方で歪められ誤解されるだけではなく、悪名高い暴君であるネロ、もしくはこそ泥にふさわしいような誇張された無礼な言葉を浴びせられるとは思ってもみませんでした。しかし、これで満足です。私は思いの丈をすっかりぶち撒けることができたからです」

 ワシントンは、民主共和派が自分の誠意や尽力を理解しようとしないという不満をジェファソンにぶち撒けている。この手紙を読むと、やはりワシントンは確信ではないにしろ、ジェファソンが民主共和派の陰の首魁であることに勘付いていたのではないかと思う。だからこそわざわざ長々と思いの丈をぶち撒けたのだろう。ジェファソンに改心を促すために。しかし、この手紙はワシントンとジェファソンの間で交わされた最後の手紙となった。

  その他にもジェイ条約をめぐってワシントンから離れて行った人物がいる。ハミルトンのイギリス派遣に反対してワシントンから叱責されたモンローである。以前述べたようにモンローは民主共和派を宥めるために駐仏アメリカ公使に任命されフランスに渡っていた。
モンローがパリに着いたのは179482日のことでロベスピエールの恐怖政治が終焉を迎えた直後であった。早速、モンローはロベスピエールの恐怖政治の終焉についてランドルフに詳細な報告を送っている。

「私はル・アーブル[セーヌ川の河口にある港街]でロベスピエール、[ルイ・アントワーヌ・ド・]サン・ジュスト、[ジョルジュ・]クートンとその他の徒党が処刑されたのを聞き、港からその問題について書いていますが、私は走り書きの報告ができるだけで、おそらく私の手紙があなたの元に着くまでにあらゆる海港で異なったことが流布するでしょう。私は事実の正確な情報とそれが起った原因をすぐに得られると期待してパリへ急行しました。しかし、それでも私は表面的にしか分りません。というのはとても広く重要な場面の物事の真実の状態をよく知るのにはいくらか時間がかかるからです。[中略]。瞬間的な意見が人心を決定しました。人民は国民議会が共和国を救おうとしていると考え、その側に立ち、反対にロベスピエールとその徒党は公然たる反逆者であると考えるようになりました。躊躇はなくなりました。市民達は彼らの旗印の下に結集し、ロベスピエールとその徒党は同時に収監され、翌日、人民の喜びと喝采の中、処刑されました。」

最初、外交を司る公安委員会はモンローを接受しようとしなかった。そこでモンローは直接、国民議会に訴える手段を考えた。815日、モンローによる演説が国民議会で行われる。国民議会の歓迎が非常に華々しいものであったので、その報せを受け取ったランドルフは、中立国であるアメリカの公使として過度にフランスに肩入れするような姿勢を示すべきではないとモンローに説諭している。
両国の関係は改善に向かいつつあるとモンローは信じていたが、その一方でフランス政府が不安定であるためにその友好関係は確かなものではないとも考えていた。そうした状況の下で、ジェイ条約締結に関する情報が広まった。それはフランス政府のアメリカに対する態度を硬化させた。
モンロー自身もジェイ条約を快く思っていなかったが、駐仏アメリカ公使としてそれを公的に表明することはなかった。フランス政府は、アメリカがジェイ条約を手始めに米仏同盟を破棄してイギリスと手を組むのではないかという疑いを次第に強めたが、モンローにはそれを晴らすことができなかった。
17962月、フランス政府はジェイ条約の締結は米仏同盟を破棄することに等しいと言明する。さらに311日、フランス政府はモンローにジェイ条約に反対する文書を手渡して逐条的に回答するように求めた。
その一方で、ワシントンはフランスの非難からジェイ条約を擁護する役割をモンローに期待していた。しかし、モンローはその役割をほとんど果たさなかった。それどころかワシントンの目からすれば、モンローはジェイ条約に対するフランス政府の怒りを煽り立てるだけであった。
後にワシントンはモンローについて「フランスが彼を無意味な賛辞や約束といった甘い言葉で彼を騙した一方で、彼は自分の影響力で何でもできるように感じた」と記している。
『オーロラ紙』にモンローがワシントンを批判する「パリの紳士からフィラデルフィアの友人達へ」と題する文章を匿名で掲載した時、ワシントンはウルコットとピカリングが原文となった手紙の写しを手に入れたことですぐにモンローが著者だと見破った。
 政権の方針に反対するモンローをこれ以上放置できないとワシントンは考える。ピカリング、ウルコット、そして、マッケンリーの3人の閣僚も一致してモンローを処分するように提言する。そこで1796822日、ワシントンは国務長官を通じてモンローの召還命令を出した。
 その一方でモンローからフランス政府が、前年1222日にワシントンがグヴァヌア・モリスを通じてイギリス外相に内示するように求めた書簡を入手して遺憾に思っていると知らせる通信が届く。ワシントンはすぐにその書簡が本物であることを認めて次のようにフランス政府に伝えるようにモンローに訓示した。

「もし合衆国が世界のすべての国々と平和を保ち、いかなる紛争にも関与しないという真摯な願いがこうした[フランス政府が遺憾に思うような]結果をもたらさない限り、その書簡にフランス政府が反感を抱くようなことは何も含まれていないと断言します。また私は、この国の市民の大部分が私と同じ意見で一致していると思っています。[中略]。もし私の平和的な気質が気に障りでもしない限り、その書簡を厳密に解釈すれば何の腹立ちの種も見つからないでしょうし、イギリスとフランスの争いに関して私がイギリスを利そうとするようなことはまったく示されないと私は繰り返します。公私を問わず私の行動は、後者[フランス]が関与している重要な争いに関する限り、その始まりから一貫していて、僅かな言葉でまとめることができるでしょう。私は常にフランス革命に対して好意を感じてきました。いかなる国も他国の内政に干渉する権利はないという決定的な意見を常に抱いてきました。すべての者は、どのような政体であれ、彼ら自身がその下で暮らすのに最善だと思う政体を採択して樹立する権利を持ちます。そして、もしこの国が、一貫して約束を守りながら、厳格な中立を維持して平和を守ろうとするのであれば、この国は、我々のように、既に多くの負債を抱える一方で、これまで戦ってきた国内闘争から回復しつつ状況にある人民を動かす政策、利害、そしてその他のあらゆる考慮に基づいてそうしているのです。着実に一貫して進めてきたこうした原理に基いて私は、フランス国民に不信の種を蒔こうとする陰謀、そして、事実無根であるのにも拘わらず、この国の政府の内部にイギリスが影響力を持っていると信じ込ませようとする陰謀に公然と抵抗してきました」

 イギリスに示された1222日付の手紙とこの手紙を比較すると、過去の経緯はどうであれ、ワシントンが両国に対して公平な立場を保とうとしたことが窺える。それは不偏不党を貫くというワシントンの政治理念に合致していた。
またワシントンはフランス革命に対して賛同の意を示しているものの、過度に深入りすることを避けて、アメリカは自国の利益、つまり、国民の繁栄のために中立を維持して平和を守るという目標の下で動いていることを明らかにしている。
それに「いかなる国も他国の内政に干渉する権利はないという決定的な意見を常に抱いてきました。すべての者は、どのような政体であれ、彼ら自身がその下で暮らすのに最善だと思う政体を採択して樹立する権利を持ちます」という言葉は、ワシントンがフランス革命戦争を全面的に肯定しているわけではないことを示している。
 フランス革命は一国の枠組みを超えて、全人類を旧制度の桎梏から救済する闘争へと変貌したが、果たして他国の君主制を覆して共和制に変えようという試みは絶対に正しいことなのだろうか。フランスは桎梏から逃れようとする諸国の人民を支援すると高らかに宣言しているが、それは内政干渉ではないだろうか。
確かにワシントンはフランス革命の理念を評価していた。
しかし、理念というものは純粋であればある程、多くの人々を排除するようになる。それはフランス革命に伴う流血で証明された通りである。フランス革命はその性、激越である。
ワシントンにとってそれは決して受容できるものではなかった。なぜなら理念とははるか遠くにある星の光のように人の精神を穏やかに導く道標だからである。
 ワシントンとジェファソンが本質的に相容れない点がある点があるとすれば、理念をどのように把握するかという姿勢だろう。ジェファソンが持っていた理念は、フランス革命に強く共鳴したように、烈火のように人たる者を焼き尽くさないではいられない激しい精神であった。しかし、後にジェファソンは自らが大統領となることによって、その激しい精神を政治的現実とうまく折り合わせて政権運営を行っていくことになる。
こうしてワシントンのもとからランドルフ、マディソン、ジェファソン、モンローとヴァージニアの同胞が去って行った。ワシントンが自己の信念を貫徹しようとすれば、いずれにせよ彼らの離反を防ぐことはできなかっただろう。



偶像


ジェイ条約をめぐる熾烈な争いの余燼は燻り続けた。そして、ワシントンは様々な根拠の無い中傷にさらされ続けた。例えば17961223日付の『オーロラ紙』には以下のような中傷が掲載されている。

「もしある国がある男によって堕落させられるのであれば、アメリカはワシントンによって堕落させられている。もし国がある男から不適切な影響を被るのであれば、アメリカはワシントンからそうした影響を被っている。もしある国がある男によって騙されるのであれば、アメリカはワシントンによって騙されている。彼の行動を未来の手本としようではないか。いかなる男も偶像としないように、そして、人民が個人ではなく彼ら自身を信頼するようにする警告として役立てようではないか。連邦政府の歴史の中で、人民の自由に対する邪悪な計画を隠すために愛国主義の仮面が使われたと人類に教えようではないか」

この『オーロラ紙』を刊行するベンジャミン・バーチはこれだけでは満足することができずに、独立戦争時にイギリスの手によって偽造された手紙をわざわざ再出版した。目的はワシントンの名誉を傷付けることである。
もちろんワシントンもその目的を察知して、「バーチ氏が言っていることによって甚だしい苦痛与えられています。彼はこうした偽造された手紙をばら撒くことで(人民自身が選んだ)政府の役人に対する人民の信頼を破壊しようと試みる者の手先であり道具なのです」と嘆いている。そのように嘆いても発禁処分を行ったり何らかの圧力を加えたりすることはなかった。ワシントンにできることはただひたすら耐えることだ。
 バーチは猶も飽き足らずに『合衆国大統領としてワシントン氏が行った最近の行動に関する見解』というパンフレットまで出版している。ここまで来るとその執念は賞賛に値する。
その前文には麗々しく、「こうした見解は祖国の信頼や感謝を求めるワシントン氏の主張が根拠はないことを証明しようとしている。我々の主要な目的は、ワシントン氏に好意的な不適切な印象を破壊することである」と書かれていた。
 バーチの舌鋒は辛辣である。バーチの手に掛かれば、ワシントンは「裏切り者」であり、「悪意のある」人物」であり、「無能な」為政者となる。そして、ワシントンの「公平な姿勢は茶番」に過ぎず、「アメリカ大陸中を個人的な賛美を求めて旅して回った」という。「信心深さの告白は見せ掛け」であり、「無気力な怠惰」に耽り、「ほとんど情熱もない」態度を取り、とにかく「恥知らず」で「功業もなく」、「つまらない」人間であって「偽りの名声」に縋っている。
 バーチはワシントン政権を攻撃するだけではなく、ワシントンの独立戦争時の業績まで中傷の対象にしている。バーチは、ワシントンが敵から賄賂を受け取り、実は二重スパイであったことを示そうと躍起になっている。バーチの作り話を完全に信じたわけではないが、多くの民主共和派は食後に大統領の健康を祝して乾杯しなくなった。
 後にバーチは海軍の軍船建造をめぐる汚職疑惑を探り出そうとして、関係者に恨まれ攻撃されそうになった。危うく難を逃れたものの、船大工達が賄賂を受け取ったと主張するバーチの記事を読んで怒った暴徒がバーチの自宅を取り囲んだ。幸いにも自宅を壊されずに済んだバーチであったが、猶も懲りずにジョン・アダムズ政権に対してもワシントン政権と同じく攻撃を加えた。
バーチの舌を止めたのは黄熱病による死であった。今でもバーチを言論の自由の擁護者と見なす者にとってはその名前は忘れらないものである。果たしてそのような高尚な意図だけでバーチが言論活動を展開したいたのかは疑問が残るが。
 フレノーやバーチの他にもジェームズ・カレンダーという「醜聞家」がワシントンの批判に加わっている。このカレンダーという男は後に思い通りの公職を得られなかったためにジェファソンも攻撃していることから、ワシントンに向けられた敵意は党派心に基づくものではなかったのだろう。
カレンダーの攻撃もフレノーやバーチに劣らず苛烈であった。カレンダーの説明によれば、「ワシントンは2度も反逆者になった」そうであり、「略奪を許可したばかりではなく、彼自身の軍を破滅させようとした」という。さらにワシントンは「憲法を破壊する」陰謀を企んでいるのにも拘わらず、「邪悪な追従が捧げられている」ことに喜んでいるが、そうした「市民の間に広まっている絶大な人気はアメリカ人の識別力を最も愚弄する」ものである。
 
ワシントンはこうした中傷に対して怒り心頭に達していた。ワシントンが激怒した理由は、公的に良い評判を得ることを「人間として真に価値ある要素」だと考え、「我が国の賞賛が私が望み得る心を満たす最高の報酬」だと考えていたからである。国益を十分に考えてジェイ条約を締結したのにも拘わらず、批判を受けることはワシントンにとって不当な中傷であった。
ジェイ条約は国内に波乱をもたらしただけではない。ワシントンのもとには激怒したフランス政府がイギリスに向かうアメリカの船舶を拿捕するために艦隊を派遣することを検討しているという噂が届く。後にそれは現実となり、次のアダムズ政権で擬似戦争を引き起こすことになる。
ワシントンは明らかに2期目を引き受けたことを後悔していた。しかし、自分に投げ掛けられる非難に対して公的に答えることはなかった。なぜなら「自分の義務を粘り強く完遂し、沈黙を保つことが中傷に対する最善の答えである」と考えたからだ。
どのように考えてワシントンが批判を耐えていたのかは、ウルコットの父親でありコネティカット州知事を務めるオリヴァー・ウルコットに宛てた手紙を読むと分かる。

「我が政権に対して行われている攻撃に対してあなたが心配してくれたことに感謝を感じています。社会の一部の啓蒙された美徳ある人々が、私の不本意な間違いを許してくれるのであれば、私が故意の間違いを犯したと彼らが非難できる理由は何もないと私は約束できます。[犯したのが]前者[不本意な間違い]であることを願って、私は後者[故意の間違い]に関して何も心配していません」
 
政治は、一方で支持者を作れば、同時にもう一方で反対者を作る。すべての人々を満足させる政治などあり得ない。だからこそ指導者は、公共の福祉から逸脱しておらず自らの信念が正しいと思うのであれば、悪評を恐れることはない。
 ジェイ条約はたとえ不評であっても、建国して未だ日の浅いアメリカが再びイギリスと戦争になるのを回避できたという点で公共の福祉に貢献していることは確かである。
ジェイ条約に署名して暫く後、ノックスに宛ててワシントンは次のような手紙を書いている。

「有権者の承認に従って私の公的義務を良心的に果たすことは、私の心に最も喜びを与えることです。しかし、後者[有権者]が何かに従属してしまえば、世論を推し量るものとして(党派によるものではないにしろ)偏った集会よりも絶対に正しい原理が発見でもされない限り、私は前者[公的義務を良心的に果たすこと]を後者[有権者]に従属させることはできません。もし地上の存在や天上の偉大な存在が政治的見解について絶対に正しい基準を打ち立てることができるのであれば、地球に精通している者はいないことになります。公僕である限り、私以上にそうした絶対に正しい基準に頼りたくなる者は他にないでしょう。私はこれまで高潔な意思と綿密な検討の他に良い導き手となるものを見つけることはできませんでしたが、細心の注意を払ってそうした格率を固守することになるでしょう。そして、私の後を継ぐ者にそれを委ねてより良い新しい道を模索して貰いましょう」

指導者にとって最も避けるべきことは不決断である。なぜなら指導者の最も重要な仕事は決断することだからである。少なくとも決断できない指導者というイメージを誰にも持たせてはならない。政権運営においてワシントンは迷うこともあったが、少なくとも不決断の謗りからは逃れることができた。
また指導者は自分の決断の全責任を負うことができるとは限らない。もちろん自身で責任を負う覚悟も重要だが、後に続く者達が未来の責任を負ってくれると信じることも重要である。



歴史の断片 肖像画


 18世紀当時は写真がまだなかったので、有名人の姿を残そうとすれば古代からずっと変わらない方法、すなわち画家が肖像画を描くか、彫刻家が胸像を掘るかしかなかった。ちなみに写真に姿を残した最初の大統領は第6代ジョン・クインジー・アダムズである。
 ワシントンの肖像画を描いた画家として最も有名なのがギルバート・ステュアートである。ステュアートはイギリスで修行を積んだ後に帰国して遂には「アメリカの肖像画法の父」と呼ばれるようなった。ステュアートの絵筆によって描かれた人物は、ワシントンの他にも、ジョン・アダムズ、ジェファソン、マディソン、モンロー、ジョン・クインジー・アダムズなど歴代大統領を含む様々な著名人に及んでいる。しかし、その名声とは裏腹に過度の飲酒で身を持ち崩し零落して亡くなった。
 ステュアートがジェイの紹介でワシントンと初めて会ったのが17953月のことである。ワシントンはポーズのためにじっとしていなければならないことについて不満を度々口にした。ワシントンの様子を観察したステュアートは「描くには恐ろしく思えるような無感動が彼を捕え、その表情には空虚が広がっているようであった」と記している。そこでステュアートはワシントンを何とかくつろいだ雰囲気にさせようと声を掛けた。
「お願いですから、あなたがワシントン将軍であり、私が画家のステュアートであることを今は忘れてはもらえないでしょうか」
 それに対してワシントンはむっつりとして答えた。
「ステュアートさん、彼が誰であるか、それともワシントン将軍であることを忘れる必要なんてありませんよ」

 大統領の気持ちを和ませたのはステュアートの子供達である。
ステュアートのアトリエに小さな男の子が歓声をあげながら走り込んできた。アトリエで息子が跳ね回っている一方で、父はワシントンがさらに機嫌を損なわないかと冷や汗を掻く。するとワシントンは男の子を膝に抱き上げて優しく話し掛ける。子供は恐れる様子もなく大統領の膝に抱かれてきゃっきゃきゃっきゃとはしゃいでいた。
息子の思わぬ活躍でワシントンの緊張は解れ、ステュアートはようやく絵を仕上げることができた。
 ステュアートが完成させたワシントンの肖像画は所有者の名前によって、ヴォーン肖像画(右向きの胸像)、ランズダウン肖像画(全身像)、そして、アシニーアム肖像画(左向きの胸像)3つに分けられる。いずれも原画から多くの複写が行われた。
娘の回想によれば、晩年にお金に困ったステュアートは、2時間に1枚の早業で複製を仕上げていたという。複製が原画に劣ることは言うまでもない。「彼の顔には、余人に観察されるようなものとはまったく異なる特徴があった」とステュアートは述べている。そうした複製に「まったく異なる特徴」がきちんと表現されているかは分からないが。




[1] 17898月から17909月までのアメリカの主な輸出先の額面と全体に占める割合は次の通りである。イギリス9363,416ドル(45.9パーセント)、フランス4698,735ドル(23.0パーセント)、スペイン2005,907ドル(9.8パーセント)、オランダ1963,880ドル(10パーセント)、ポルトガル 1283,462ドル(6.3パーセント)である。

[2] 179449日にジェイは妻に次のような手紙を送っている。

「月曜日の夜[47]に私はここ[フィラデルフィア]に到着しました。そして、昨日[48]、大統領と会食しました。戦争か平和かという問題は、あなたを残してきたニュー・ヨークと同じようにここでも未決の状態になっているようです。おそらく平和は続くでしょうが、もし戦争になっても驚くべきことではないと私は考えています。現状において戦争になった場合に備えてあらゆる状況に対応できるようにしておくのが最善でしょう」

[3] シシリア島とイタリア本土の間にあるメッシーナ海峡にあり犬のように吠える6つの頭を持つ女怪物が住むという伝説で知られる岩礁。

[4] スキュラの岩礁の前方にある渦巻を擬人化した怪物。

[5] 同名の父は連邦最高裁判事を務めた人物でランドルフの娘と結婚した。

[6] 『エドモンド・ランドルフの生涯と文書において明らかにされた歴史の削除された話題』に転載された手紙の中から抜粋を紹介しよう。まずジョージ・バンクロフトからの手紙である。

「フォーシェのお金もフォーシェの助言もジェイ条約に関するランドルフ氏の行動に何の影響も与えなかったということは私の心には明白です。閣内における彼の助言は信念と合致していました」

 元ミシシッピ州知事アルバート・ブラウンからはさらに詳細な言葉が寄せられている。

「ワシントン将軍の人物に対する評価が非常に正確であったので、我々は彼が表明したその当時の政治家に関する見解であれば何でも受け入れがちです。しかし、私はランドルフが決して不正な行動をしたとは思いません。ただフォーシェとのやり取りにおいて彼はあまりに軽率で疑いを持たれるような隙を敵に見せてしまったのではないかという強い印象が私の心に残っています。彼が腐敗していないことは生涯を見れば明らかですし、彼にとって状況は不利に見えるかもしれませんが、彼が決して賄賂を受け取らなかったという私の確信は変わりません」

 他にも元連邦下院議員で連邦最高裁判例報告官のベンジャミン・ハワードの手紙がある。

「公平な心を持つ者であれば、周囲の者達のランドルフ氏に対する馬鹿げた告発によってワシントン将軍は怒りに身を任せてしまって、高潔なヴァージニアの紳士[ランドルフ]を驚く程、無礼で不公正に扱ったという結論にしか至らないと私は思います。[中略]。もし歴史がワシントンは激情に屈してしまったと示すのであれば、彼は『これまで世界が見たことはない程、過失がない常軌を逸した人物[イギリスの作家サミュエル・リチャードソンが1753年に発表した書簡体小説『チャールズ・グランディソン氏の歴史』の中で善良で無垢なチャールズ・グランディソンを説明した言葉]』ではなかったということが証明されるだけです」

 最後はドレッド・スコット裁判で有名な連邦最高裁長官ロジャー・トーニーの見解である。

(我々が欠点があるとは最も認めたくない人物である)ワシントン将軍がこうした告発に積極的であった者達や国務長官の背信だと信じたことに対する強い怒りに影響されてしまって、彼が有罪であると疑いながらも常に見られた率直さから逸脱して数日間、何もを疑っていないようなふりをして、いつものような友情溢れる様子を示したこと、そして、彼をこれまでその性格や生活をよく知っている紳士ではなく犯人と見なして、明確な証拠がない限り絶対に疑うべきではないのにも拘わらず、不意を突いて彼に罪を告白させようとしたことを知って私は残念に思います」

[7] ランドルフは晩年になってヴァージニアの歴史を書いている。その作品には「ワシントン将軍、ジェファソンし、マディソン大統領、ハミルトン将軍、ジョージョ・メイソン、ジョン・ディキンソン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・ジェイ、パトリック・ヘンリー、そして、リチャード・ヘンリー・リーといった人物の性格を対比した」ものであった。さらに作品の前書きには「幸いにも私は生き長らえてワシントンの性格について公平を期すことができた」と書かれている。しかし、残念ながらランドルフの労作は一部の草稿が残っているだけである。もし完全な形で現存していれば、建国の父祖達の興味深い話が伝わっていただろう。

[8] 『北アメリカ諸州及びカナダ旅行、1795年、1796年、そして、1797年』でイギリスの地理学者のアイザック・ウェルドはジェイ条約について議論する人々の様子を次のように記録している。

「アメリカの宿屋ではあらゆる種類の人々が到着して1つの部屋に押し込まれることがある。そうなると彼らは互いにできる限り仲良くするしかない。現在、部屋には13人もいて、その中にはヴァージニアや南部から会期が始まるのに備えてフィラデルフィアに向かう最高裁判事や著名な弁護士達がいた。しかし、私は彼らと別れるまでその素性をまったく知らされなかった。というのはそういう紳士達はアメリカでは非常に外見といい振る舞いといい非常に気取りがないので、見知らぬ者は彼らが国家の重要な人物であるとは思わないのだ。部屋には23人の近隣の農夫がいて粗野で無知で出しゃばりであった。アメリカ人が12人もいれば政治に関して議論することなく済ませることは無理なようだ。締結されたばかりのイギリスとの[ジェイ]条約が今、長く辛辣な議論の的になった。長い間、農夫達は何かの意見を早口にまくし立てていた。すると弁護士達と判事が立ち上がって別の意見をあらゆる修辞法を駆使して反対者達に答えた。どちらとも相手側の意見を変えることはできなかったようであった。騒がしい論争は夜遅くまで続いた。疲れ切って彼らは引き取ったが、それぞれの部屋にではなく、1つの部屋に置かれた56台のベッドに2人ずつで横たわらなければならなかった。そこで議論が再び活発になり騒がしくなったが、遂には眠気が彼らの目を閉じてしまった。彼らの口にとってはそれが幸いであっただろう。もし彼らが眠りながら喋れるのであればきっと朝まで喋っていただろう」

[9] フランスの評論家アンドレ・モロアも次のように言っている。

「いやしくも指導者たる者は、何か1つでも決断を行った場合、その責任を負うことができる心構えを持っていなければならない。もちろん、決断する前には、ありとあらゆる情報を集め、決断の中身をつぶさに吟味する必要がある。一旦、決断して命令を下した以上は、予測することができず克服できない障害に遭遇する場合を除いて、決断にどこまでも忠実でなければならない。躊躇逡巡する指導者以上に、部下を失望させるものはない。指導者は決断して選択を行うにあたって、大きな心の勇気を持っていなければならない。もっとも指導者としては、しばしば辛い思いをして何かを決断しなければならないであろう。指導者たる者は、厳格であってよく、またしばしば厳格でなくてはならないが、意地悪であったり、残酷であったり、怨みを抱いたりする権利はない。悪口を意に介することなく、できれば世論の流れに押し流されずに、むしろそれを導くことが必要である」

[10] 海賊船や劇薬の瓶に使われる死の象徴。

[11] レキシントン=コンコードの戦いが起きた日。