建国の父(下)第9章告別の辞 合衆国人民へ(下)

合衆国人民へ()


 告別の辞は、1893年以来、毎年ワシントンの誕生日に上院で読み上げられるのが慣例となっている。
トルーマン大統領は『回顧録』で「私が上院議員であった時を通じて、私は毎年、上院議員の1人がワシントンの告別の辞を読むのを聞いた」と書いている。猶、1869年に中村正直は合衆国憲法とともに告別の辞を邦訳している。それはいかに告別の辞が重要な文書であるかを示している。またラテン・アメリカ諸国でも告別の辞は革命の理念を示したものとして広く親しまれた。
 ワシントンは演説技量に乏しく、自らの考えを述べる際に文書を使うことを好んだ。さらに晩年は入れ歯を着用するようになったために、長時間にわたって話すことが極めて困難であった。それにもともとワシントンは表現は簡潔を旨とすべしという信念を持っていた。
例えば史上最も短い就任演説となった第2次就任演説などは、総語数が僅かに135語である。普通に読めば2分間以内で読み終わってしまう分量である。また1790年の第1次一般教書も833語であり歴代最短の一般教書である。
 指導者には弁舌の才能が求められるが、絶対ではない。なぜなら時に行動は弁舌よりも雄弁だからである。雄弁であっても行動しなければ人から認められないが、雄弁でなくても行動すれば人から認められる。
例えば自動車王ヘンリー・フォードは企業家として優れていたことは言うまでもないが、ワシントンと同じく、否、それ以上に弁舌の才能がなかった。ある日、ちょっとした場で挨拶をするように求められたフォードは簡単な演説を行った。しかし、もぐもぐ口を動かしている様子が見えるだけで、いったい彼が何を言っているのか理解できた者は誰もいなかった。そこでフォードは「私は誰か代わりにうまく話してくれる人間を雇おう」と言った。なるほどうまいことを言ったものだ。
ワシントンの場合、幸いにもハミルトンという絶妙な話し手に恵まれていたので、わざわざうまく話してくれる人間を雇うために探す必要はなかった。
 上記のような理由で、告別の辞は、口頭で述べられたのではなく、上述のように『アメリカン・デイリー・アドヴァタイザー紙』に掲載されている。

ワシントンは議会が休会に入った直後に告別の辞を発表すればよかったと後悔していた。もし発表を遅らせれば、ジェイ条約をめぐって自分に対する風当たりが弱くなるまで待ったと誤解される恐れがある。
しかし、ハミルトンはフランスとの軍事衝突の危険性が高まった今、秋まで公表しないのが賢明であるとワシントンに提言している。もしその危険性が回避できなくなれば、3期目も視野に含めなければならない。フランス政府の動静を見守り、しかも大統領選挙に合わせた時期となると告別の辞を発表する時期は9月から10月が妥当であった。

 告別の辞で示された主要な考え方は、孤立主義の原点とも言うべき考え方であり、以後1世紀の長きにわたってアメリカの基本方針となった。19世紀を通じて多くのアメリカ人は外交政策の指針として告別の辞を尊重した。ワシントンは告別の辞によってアメリカ外交の100年の計を定めたと言える。
それは告別の辞がフランス革命やジェイ条約など具体的な事例を取り上げることなく普遍的な言葉で書かれているからである。普遍的な文体を選ぶことでワシントンは、告別の辞が党派的な性質を帯びないように配慮するだけではなく、後世にまで影響を与えることを望んでいた。
告別の辞はハミルトンが草稿を書いている。
1期目で引退することを考えていたワシントンは1792520日にマディソンに告別の辞の草稿を仕上げるように依頼したことがあった。しかし、マディソンの離反によってワシントンはハミルトンに新たに起草を依頼することになった。ハミルトンは次のようにワシントンに手紙で書いている。

私が最後にフィラデルフィアに滞在した時、あなたが準備していた文書[告別の辞の草稿]に手を加えて欲しいととあなたは私に言いました。それは非常に重要なことなので、修正するのであれ書き改めるのであれ、十分な配慮と時間を使って行うべきで、できる限り早くあなたがどのような内容にしたいのか私に送ってくれるように願います

 ハミルトンの要請に従って、早速、草稿がワシントンから送られた。それはマディソンの草稿に、1792年に友人達の勧めによって退任を撤回した経緯とそれ以後の状況がワシントン自身の手で加えられたものである。
草稿には「親しい友人達(特にこの草稿に関与した者)の要請」で続投を決意したと述べられている。欄外には注として「マディソン氏」という文字が見える。もちろんその注を加えたのはワシントンだ。つまり、主にマディソンの説得で続投を決意したとワシントンは言いたかったのだ。ただワシントンは「マディソン氏」という文字をハミルトンに草稿を送る前に消去している。
その他に草稿に見られる重要な点はジェイ条約に関する争いについて意見が述べられている点である。第1に、民主共和派がフランスに肩入れしているせいで外国の影響力に対する懸念と他国の利益をアメリカの利益よりも優先しているのではないかという疑念が強まった。第2に、ジェイ条約に対する下院の容喙は憲法で考案された抑制と均衡の枠組みを破壊するものである。第3に、大統領が君主主義的で親英的であると新聞は批判しているが、そうした批判は公僕に対する人民の信頼を損なうものである。
草稿には、新聞が「私の政治を失望と事実の無視、そして悪意ある嘘で間違って伝えるようにでっち上げられた激しい非難に溢れている」という辛辣な言葉や「もし我が国が、私の奉仕から何の利益も受けることができなかったと言えるのであれば、金銭的な観点から私の幸福も我が国から何の恩恵も受けなかったと言えます」という言葉が含まれていた。
こうした草稿に加えて手紙にはワシントンの要望が添えられていた。

もしあなたが全体を異なった文体に変えてしまうのが最善だと思うのであれば、できる限り完全となるように修正と訂正を加えて(あなたの草稿とともに)私の草稿を返送して下さい。もし冗長であれば削ってもかまいませんし、原文もしくは引用部分で考えを強く主張するのに必要でなければ重複部分を除いてもかまいません。私の願いは、全体を平明な文体にして、人民に率直で自然で素朴な風合いで伝えることです

 そもそもなぜワシントンはマディソンの草稿を残したのだろうか。普通であれば、もはや信頼に足らない人物の草稿を使う必要はないと考える。しかし、ワシントンはマディソンが信頼に足らないからこそ草稿を使おうと考えた。その理由をハミルトンに次のように説明している。

「こうした演説[告別の辞]が書かれたという事実だけではなく、今、政府の中で最も強く反対している人々の中で1人か2[マディソンとジェファソン]が、実は演説が発表される筈であった時[17929]に彼らの見解と反するようなことを言っていた事実を知らしめたいからです」

 つまり、ワシントンはマディソンやジェファソンといった民主共和派の中心的な人物の要請に従って続投を決意したのにも拘わらず、手を翻して大統領に対する非難を行うのは背信であると言いたかったのだ。

結局、ハミルトンは、受け取った草稿を書き直した原稿と、与えられたテーマに沿って自ら書き下した原稿の2つをワシントンに差し戻して判断を仰ぐ。原稿には「将来に評判を得るような時間とともに承認されるような発展性を含めました」という言葉が添えられていた。そうしたハミルトンの言葉は肯綮に当たっている。
ハミルトンが新しい原稿を書き起こしたのは、マディソンの原稿に手直しを加えることが難しかったという技術的な問題に加えて、ワシントンが民主共和派の説得によって続投を決意したと示唆することは余計な疑念を生む恐れがあったばかりではなく、新聞に対する批判は大統領の品位を汚す危険があったからである。
 新しい草稿を見てワシントンは、「最初の草稿を作った時、(悪罵の対象になっていたので)私自身が思っていることを言うのが適当だと考えたのです」と素直に反省している。そして、ハミルトンが書き下した草稿を最終原稿として採用した。ただあまりに草稿が長く、紙面に収まりきらないので短くまとめるようにハミルトンに求めた。ワシントンがハミルトンの草稿に満足したことは次のような言葉から分かる。

[ハミルトンが書いた]もう1つの草稿が非常に良く、実体的な問題についてより幅広く、全体的に威厳が備わっていて、自己中心的なところが少ない。もちろんそうなれば批判にさらされることもなく、(私が疑問もなく思うのは、これに関する彼らの意見を公表し、その好奇心からこれを注意深く熟読する部外者は特に)識別力のある読者の目にも十分に適うだろう」

 もちろん告別の辞は、ワシントンだけではなく閣僚も回覧を求められた。大統領から何か不足している点があれば指摘するように命じられた閣僚は、草稿を精査したが、若干の文法や構成に関する点の他に指摘することはなかった。したがって告別の辞は、マディソンの草稿もかなり残っているが、実質的にハミルトンとワシントンの共同作業であったと言える。
ただワシントンとハミルトンがやり取りした草稿を見ると、時に両者の違いが浮き彫りになることもあった。例えば「我々の制度に内在する真の危険は、現時点の連邦政府の制度が強力過ぎることよりも弱体過ぎることにある」という文言はワシントンの手によって削除されている。これは連邦政府の強化についてワシントンがハミルトンより穏健な姿勢を持っていたことを示していると考えられる。
告別の辞に関するワシントンとハミルトンの関係についてピカリングは次のように手紙の中で記している。

「その画期的な出来事において、ハミルトンの良識が特別な考究とともに文体を彼の性質とその機会にふさわしいものにしました。同時に[ワシントン]将軍は生涯最後の公務に伴う痛みを感じていたでしょう。彼以上に忍耐強い勤勉さを持つ者はいませんでした。そして、彼は草稿が完全に彼自身の見解と感情に適合するように多くの変更を加えたに違いありません」

 その一方でマディソンは1823年にジェファソンに宛てて次のように書いている。面白い点はマディソンが自分のほうがハミルトンよりも大きな役割を果たしたと示唆している点である。

「いつか将来にお互いに違う時期に書かれた2つの草稿とワシントン将軍の文面が興味深い比較の対象になるでしょう。そうした比較によって、最初の[マディソンの]草稿のほうが別の[ハミルトンの]草稿よりも文体や趣意においてより[ワシントンの考えと]一致していることが示されるでしょう」

 なぜマディソンが晩年になってジェファソンにこのような手紙を送っているかと言えば、告別の辞が発表された当時は、ハミルトンが草稿を書いたことは内密であり、それが明確になったのは後のことだからである。ハミルトンは手紙でやり取りすれば秘密が露見することを恐れてわざわざ使者を立ててワシントンとやり取りした。
なぜそれ程までに秘密の露見を恐れたのか。
それは大統領が何かを自分の言葉として発表するのであれば、当然、自分で考えるべきだという建前があったからである。
マディソンもハミルトンが起草者として名を知られるようになれば告別の辞の「建国の父祖の純粋な遺産」という性質が損なわれてしまうと心配した。マディソン自身ももちろん世の人も大統領自身がすべて考えているわけではないと思っていただろうが、誰かが堂々とスピーチライターだと名乗り出るのを容認できるような風潮ではなかった。正式にスピーチライターが採用されるようになるのは20世紀に入ってからである。
 以前からワシントンはハミルトンに重要文書の起草を依頼している。もちろんワシントンはハミルトンだけに頼ったわけではない。ハミルトンの他にもジェファソン、マディソン、ランドルフなどがワシントンの文書の起草に協力した。
しかし、先述のようにマディソンはワシントン政権に背を向けるようになり、ジェファソンも閣僚から去り、そして、ランドルフは敵になった。ワシントンが何を伝えたいかを十分に汲んで、しかも優れた文章力を持っている人物となればハミルトンしか残っていない。例えば1795年の一般教書についてワシントンは既に退任しているハミルトンに相談している。現閣僚があまり頼りにならなかったこともあって、ハミルトンは依然としてワシントンの重要な相談役であった。

「財政問題に関する財務長官からの特に借入金の問題の報告、それに、フリゲート艦、武器庫、準備するように命じられた軍需物資、またはインディアン交易などに関する陸軍長官からの別の報告のどちらが一般教書に含めるうえで、議会の立法にとって適切であり、適切ではないのか。議会の開会の演説、もしくはその後の演説に適切だと考えられるあらゆる問題について書き留めておくように前国務長官[エドモンド・ランドルフ]に求めていたので、様々なことを含んだ書類を私は[国務省の]事務所から引き出すことができました。私を助けて下さい。こうした点やあなたが私の議会への教書に関係すると思うようなその他の点に関するあなたの意見を私は求めています」

 もちろんこうした相談は公的なものではなく、あくまで私的なものであった。したがってハミルトンが退職後もワシントンに協力していたということはあまり知られていなかった。それ故、告別の辞をハミルトンが起草したことも一般には知られていなかった。
もちろん告別の辞を誰が起草したかという問題は当時から関心を呼ぶ問題であった。ベンジャミン・ラッシュは1805年にジョン・アダムズに宛てて「ワシントン将軍の合衆国市民に対する告別の辞を誰が書いたか聞いたことはありますか。[ピアース・]バトラー少将が言うにはそれはジェイ氏だということです」と書いている。
ジェイはハミルトンの草稿を見て若干の示唆を行っただけである。ピカリングは当時の様子を次のように語っている。

「大統領を辞す際の告別の辞はほとんど彼自身の手によるものではないかと私は思っています。文章を検証すれば、表現の単純さと明瞭さが際立っていること、その思想は、長い年月の間、有能な人物達と公的な繋がりを持ったり、国家の利害や政策などに関する彼らの議論をしばしば聞いたりして健全な理解と観察を行ってきた人物が自然に受け取ってまとめたものであることが分かるでしょう。私が最初に告別の辞を見た時、それは将軍自身の手稿によるものだと考えました。彼は閣僚に告別の辞を作成した意図を伝え、ウルコット、マッケンリー、そして、私に草稿を渡して、最善だと考える修正や変更を加えるように求めました。我々はそうしましたが、私が覚えている限り、そうした変更や修正は非常に僅かであり、主に文法や構成に関してでした」

 ワシントンの名声を保つためにハミルトンは自分が起草したことを口外しなかった。ピカリングによれば、ハミルトンが亡くなってから数年後に告別の辞の草稿が関連文書の中から発見されて初めてハミルトンが起草者であると分かったという。
生前に知っていたのは政府内の要人を除けば妻くらいである。ある日、ニュー・ヨークの街中でハミルトンは告別の辞を印刷したパンフレットを売り歩く1人の退役軍人に出会った。パンフレットを勧められて1部購入したハミルトンは妻に向かって「この男は私に私自身の作品を買わせたとは思いもしなかっただろうね」と冗談めかして言った。
 このようにハミルトンが告別の辞を起草したことが確かだとしても、ワシントンはハミルトンの草稿をただ単に採用しただけではない。例えば告別の辞の中でも特に重要な原則である孤立主義に関してワシントンは自分なりの考えを明確に持っていた。それはハミルトンが草稿の作成に取り掛かる前に送られた手紙を見ると分かる。ワシントンの言葉がハミルトンの草稿に反映されていることは確かである。

「我々は独立国家であり、我々自身のために行動します。他国との協定を我々は守ってきましたし(我々にできる限り)喜んで守るつもりです。そして、戦争に巻き込まれたくないが故に、交戦国に対して厳格な中立を貫くことを決定しました。[中略]。条約によって我々に要求されることの他に、天下のいかなる国家の政治にも我々は動かされるつもりはありません。[中略](我々が協定に違反していないのにも拘わらず)もし外国が我々に向かって何をすべきか、もしくは何をすべきではないか指図するのであれば、我々は独立を追求することもできませんし、今後、それを強く主張することもほとんどできなくなるでしょう」

告別の辞はそれ自体でも重要であるが、このようにハミルトンに加えてマディソンやジェイが関わっていることでその重要性がさらに増している。なぜならそれは告別の辞が行政府、立法府、司法府の主要な構成員によって手を加えられた文書であることを意味するからである。そのような文書は他にほとんど例を見ない。

 概ねアメリカ人はワシントンの告別の辞を歓迎した。例えばマッケンリーは次のような手紙をワシントンに送っている。日付は925日なので発表からまだ日は浅い。

[意見を聞きたいという]あなたの求めに応じる前に世論の実相を確かめるまで、あなたにすべてを伝えるのを控えるのが最善だと思いますが、何も隠すつもりはありません。あなたの声明[告別の辞]は、発表された最初の日から、あらゆる街で政府の友人の強い感情を引き起こしました。この機会に多くの涙が流されたこと、そして、あなたがもう1期務めるように懇願しようという提案が多くの人々によってなされたことを私は確信しています。あなたの決意を変えさせるような非常に深刻な危機はまったくないことを鑑みて、そうした提案の多くは控えられました。人心に感銘を与えるように考えられた表現によって、政府の敵は期せずして、失望と動揺を伴う機嫌の悪さ、沈黙、そして、不安を表しました。それがあなたの声明[告別の辞]の第1の効果であり、[政府の敵の]憂鬱な会話と後悔の対象となり続けるでしょう。私がここで言ったことは合衆国人民の総意とまったく変わらないと言っても問題ありません。首長に対して我が国民よりも真摯な愛情を抱いたことがある国民はこれまでいなかったと私は心から信じています。そして、あなたが示したような模範を歴史がもたらすことがないことは確かです。主権を放棄する者は、しばしば栄光を損なうような状況下で主権を[やむを得ず]放棄してきました。しかし、今回の事例では、栄光を増すような状況下で主権の放棄が行われました

 当時の一流の外交官であり、後にモンロー・ドクトリンの形成に大きく貢献したジョン・クインジー・アダムズも、アメリカ国民が「彼らの心にそのすべての警告を刻みつけるだけではなく、彼らの将来の政策を生む基礎として役立てる」ように願った。後にワシントンが亡くなった際にマーサに宛てて1人のイギリス貴族は以下のように書いている。

「人民の間における様々な集会やあらゆる会合で[告別の辞で示された]格言や助言を刻み込むべきであるし、両親、先生、その他の保護者が子供達や生徒達に対して読んで聞かせるべきである。そうすればそれに必ず付随する真実の信仰心や美徳が今、育っている世代からはるか未来の世代まで浸透し、個人の道徳の純粋で侵されることのない原理の中で時代を超えた構造として継続する国家政策の基盤となるでしょう

 このように告別の辞を好意的に解釈する者がいる一方で、一部の民主共和派は、ワシントンが党派的な傾向を避けるために普遍的な言葉を使ったのにも拘わらず、告別の辞を自分達を束縛し、フランスへの反感とイギリスへの偏愛を示すものだと警戒した。ワシントン政権に批判的な『オーロラ紙』は「すべての心は一致して、[中略]この日以降、ワシントンの名前が政治的不正という腐敗に使われなくなるという報せに喜びで高鳴るだろう」と伝えた。
 告別の辞に秘められた民主共和派への批判を嗅ぎとったマディソンはモンローに、ワシントンは「[フランス]革命に共感していると考えられている者と[フランスとの]通商関係を拡大するという政策を支持する者すべてに対する疑念」を抱いていると感想を述べた。

 告別の辞はワシントンが大統領として行った最後の重要な貢献であった。一部の批判的な見解がどうであれ、ワシントンの辞任の意思の表明は共和政体において意義ある表明である。
かつて独立戦争が終わった後に軍権を奉還することでワシントンは自分が権勢欲を持っていないことを示し、告別の辞によって再びその高潔な姿勢を世界に示した。ワシントンが君主になるのではないかと疑いを持っていた者達は告別の辞によって完全に沈黙を余儀なくされた。
もし歴代大統領の言葉を聖典になぞらえるのならば、リンカンのゲティスバーグ演説を新約とすれば、ワシントンの告別の辞は旧約であった。市民の道徳はどうあるべきか、公共の善をいかに考えるべきかなど今日にも通じる普遍的な問題について告別の辞が論じている点は賞賛に値する。後にクーリッジ大統領も次のように述べている。

「彼は国家が物質的な繁栄や政治的な成功を収めるのを見るだけではなく、それ以上に、人民の知的、道徳的、そして、精神的生活が発展するのを見たいと望んでいました。このようなワシントンの側面に注意が払われることはあまりありませんでした。彼の人生を通じて、彼はそうした課題を骨身を惜しまずに考えました。彼の告別の辞の中で、それらがアメリカのすべての他の組織の基盤となることを国民に厳粛に警告しました。さらにそれらはすべての文明が拠って立つべき基盤なのです。こうした偉大な原理を説明したことが
彼が世界に対して行った偉大な貢献なのです

 偉大な政治家と平凡な政治家の違いは何か。
時代を超えた政治理念を創造できるか否かである。
たとえ時代の波が他の人物を忘却の淵に追いやろうとも、偉大な政治家は普遍的な政治理念が持つ輝きによって忘れ去られることはない。
それは政治家以外にも当てはまることであり、例えば記憶に留められる企業家とは明確な企業理念を持った人物であることが多い。だからこそ真のリーダーシップを求める者は確固たる理念、時代を超えても変わらない何かを創造できなければならない。
中でも政治家に下される審判は厳しい。元イギリス首相トニー・ブレアは次のように言っている。

「政策、判断、政治、そして、才能に関するすべての審判の中でもリーダーシップに下される真の審判は、最終的に国家を第1に考えることができるかということであり、自身の政治的命運よりも国民共通の幸福が何であるか気付くことができるようになることなのだ。そうした審判を潜り抜けることができる指導者は非常に少ない」




[i] ジェイはリチャード・ピーターズに宛てた1811329日付の手紙で告別の辞について以下のように述べている。

The history (if it may be so called) of the address is not unknown to me; but as I came to the knowledge of it under implied confidence, I doubted when I first received your letter whether I ought to disclose it. On more mature reflection, I became convinced that, if President Washington were now alive and informed of the facts in question, he would not only authorize but also desire me to reduce it to writing; that when necessary it might be used to invalidate the imputations to which those facts give colour. This consideration terminated my doubts. I do not consider that a disclosure is necessary at this moment, but I fear such a moment will arrive. Whether I shall then be alive, or in capacity to give testimony, is so uncertain that, in order to avoid the risk of either, I shall now reduce it to writing, and [357] commit it to your care and discretion, de bene esse, as the lawyers say.
Some time before the address appeared, Colonel (afterward General) Hamilton informed me that he had received a letter from President Washington, and with it the draught of a farewell address which the President had prepared, and on which he requested our opinion. He then proposed that we should fix on a day for an interview at my house on the subject. A day was accordingly appointed. On that day Colonel Hamilton attended. He observed to me, in words to this effect—that, after having read and examined the draught, it appeared to him to be susceptible of improvement—that he thought the easiest and best way was to leave the draught untouched and in its fair state; and to write the whole over with such amendments, alterations, and corrections as he thought were advisable; and that he had done so. He then proposed to read it, and to make it the subject of our consideration. This being agreed to, he read it; and we proceeded deliberately to discuss and consider it, paragraph by paragraph, until the whole met with our mutual approbation; some amendments were made during the interview, but none of much importance. Although this business had not been hastily despatched, yet, aware of the consequence of such a paper, I suggested the giving it a further critical examination; but he declined it, saying that he was pressed for time, and was anxious to return the draught to the President without delay. It afterward occurred to me that a certain proposition was expressed in terms too general and unqualified, and I hinted it in a letter to the President.
As the business took the course above mentioned, a recurrence to the draught was unnecessary, and it was not read. There was this advantage in the course pursued—the President’s draught remained (as delicacy required) fair, and not obscured by interlineations, etc. By comparing it with the paper sent with it, he would immediately observe the particular emendations and corrections that were proposed; and would find them standing in their intended places. Hence he was enabled to review and to decide on the whole matter, with much greater clearness and facility than if he had received them in separate and detached notes, and with detailed references to the pages and lines where they were advised to be introduced.