ブリッジ・オブ・スパイ劇場用パンフレット解説草稿

※あくまで草稿なので完成版とはまったく異なります。
※試写を見る前に書いているのでネタバレはありません。
※劇場用パンフレットの解説(完成版)は試写を見た後に書いています。したがって、映画自体の理解を助けるように書かれています。是非、劇場でお買い求めのうえ、鑑賞後に読んで下さい。

イデオロギー対立から度々の核戦争の危機

「バルト海のシュティッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を跨ぐ鉄のカーテンが下りている」

 1946年3月5日、アメリカを訪問中のチャーチルはそう言った。いわゆる鉄のカーテン演説である。この時、人々は、世界が資本主義と共産主義の2つのイデオロギーによって二分されていることを認識させられた。
 そして、1947年3月12日、アメリカは冷戦の開始を告げるトルーマン・ドクトリンを発表する。世界を舞台にアメリカとソ連が互いに相手を何とか出し抜こうと暗躍し始める。
 両国の首脳は、いつも疑惑にとらわれていた。こちらの戦力は相手よりも劣っているのではないか。相手がこちらを滅ぼそうとするのではないか。
 疑心暗鬼に駆られた米ソは、核兵器開発競争をエスカレートさせる。たとえ地球を何度も破壊できるような破壊力を持つことができても猜疑心を抑えることはできない。なぜそんなことになったのか。
 先制攻撃を仕掛ければこちらの核兵器を全滅させることができる。もし相手がそう確信したらどうか。核兵器を発射するかもしれない。そうならないように、できるだけ核兵器の数を増やすべきだ。
 両国は、相手に何としてでも核戦争を思い止まらせようと開発競争を延々と続ける。核戦争を阻止するために核兵器を増やす。そんな矛盾したことを続けていたのだ。疑惑にとらわれたばかりに。

フルシチョフとアイゼンハワーの会談、核軍縮会議

 1957年10月、アメリカに衝撃が走る。ソ連がスプートニクを地球の周回軌道に乗せることに成功したという。時のアイゼンハワー政権は、ソ連に対する不信感を強める。人工衛星を周回軌道に乗せる技術があれば、ソ連からアメリカ本土を攻撃する核ミサイルを開発することも可能ではないか。
 その一方でソ連の最高指導者であるフルシチョフもアメリカの動きに警戒感を強めていた。北大西洋条約機構を通じてアメリカがソ連の影響圏を脅かそうとしているのではないか。
 緊張の高まりを少しでも緩和するために1960年5月にパリ首脳会談が開催されることになった。そこで米ソ対立の要因になっている諸問題を話し合おうというわけである。
 しかし、フルシチョフはパリ首脳会談に乗り気ではない。交渉に臨むにあたって有利なカードをアメリカに握られていたからだ。
 アメリカは地下核実験計画を先に進めている。もし大気中での核実験が制限されればソ連は後れを取る。さらにアメリカは高高度偵察機でソ連の軍備に関する情報を得ている。つまり、こちらのカードはすべて読まれているのに、相手のカードは見えない状態で交渉しなければならない。
 それでもフルシチョフは交渉のテーブルに着かなければならない。なぜならソ連は全世界に平和を愛好する国家であることを宣伝していたからだ。こちらから正当な口実もなしに交渉を打ち切ることはできない。

U-2偵察機撃墜と軍縮会議の破談

 U-2がソ連領空で消息を絶ったという一報を受けた時、CIAは、たとえ墜落した場合でも飛行機は完全に壊れたはずなので秘密が露見することはないと大統領に助言する。しかも操縦士のフランシス・パワーズには、クラーレという90秒で死に至る猛毒を塗布した針が手渡されていた。もしもの場合のための自殺用だ。
 安心したアイゼンハワー政権は、気象調査機が消息を絶ったと発表して事実を隠蔽する。しかし、パワーズは生きていた。さらに悪いことにソ連官憲の手に落ちていた。実は駐ソ連アメリカ大使からパワーズ生存の可能性を伝える至急電報が国務省に届いたのだが、発表には間に合わなかった。
 アイゼンハワー政権は苦しい立場に追い込まれる。U-2が実は軍事用であることをフルシチョフに暴露されたからだ。フルシチョフは、U-2によるソ連領内の偵察がアメリカの敵対的意図を示しているものだとして糾弾する。フルシチョフにとってそれは交渉を打ち切る格好の口実だった。その結果、パリ首脳会談はほとんど何の成果も残さずに終わる。

ベルリンの壁建設

 第2次世界大戦後、ドイツは西側と東側に二分された。その中でもベルリンは特殊な環境に置かれた。西ベルリンは、東側に飛び地として存在していたからである。多くの東ドイツ人が豊かな生活と自由を求めて西側に移った。彼らにとって西ベルリンは西側世界への扉であった。
 1961年8月13日、人々の流出を抑えるために東ドイツは、クレムリンの了承を得て壁の建設を始める。いわゆるベルリンの壁である。最初は有刺鉄線と木造の簡単な壁であったが、すぐにコンクリート製の分厚い壁とデス・ストリップという地雷や罠が仕掛けられた緩衝地帯で補強された。
 チャーチルは、ヨーロッパ大陸を二分する鉄のカーテンが下りていると言ったが、それは目に見えないものである。しかし、ベルリンの壁は、確かに触れることができる存在だ。ベルリンの壁を目の前にした者は、誰もが世界の分断を身を以って理解した。
 ベルリンの壁が崩壊する1989年までに、約5,000人の東ベルリン市民が壁を越えた。そして、190人から240人が生命を落としたと言われている。