読める人間と読めない人間の違い

 読める人間と読めない人間の違いはどこにあるのか。私自身は読める人間だと思う。文章を読むのも書くのもまったく苦労しない。

 例えば私の親戚の子供はほんとに読めない。こういう子供をどうすればよいのだろう。考えてみる。子供の学力にも関係する話だと思う。

 そもそも読めないとはどういうことか。例えば学校からお米の作り方を調べなさいという宿題が出たとする。今の時代だからネットで調べるのが普通だろう。ただ親戚の子供は私に聞く。それで何と書けばいいの?と。

 お米の作り方について分かりやすく書かれたサイトはいくらでもある。小学生でも理解できる。でも親戚の子供は自分で内容を理解しようともせず、もしくは理解できず、まるまる私に聞く。何と書けばよいか?と。

 仕方なく私はこのように書けば?とおおまかな方針を指示するが、結局、分からないと繰り返すだけなので、逐語的に文章を伝えることになる。

 宿題をやった意味はたぶんない。検索してページを探したのも私なら、その内容を理解してまとめたのも私だ。親戚の子供はそれをただ書き写しただけだ。

 答えが出ればよい。宿題ができさえすればよい。そう考えているかもしれない。

 本当に読めることとはどういうことか。本の内容を頭の中で自分なりに論理的に整理しておくことだ。ただ慣れないと面倒。たぶん親戚の子供がやらないのは面倒だからだろう。これは性格によるかもしれない。

 服の整理整頓にたとえれば分かりやすくなるかもしれない。必要な服をさっと取り出すにはどうすればよいのか?夏服は夏服、冬服は冬服と区分してしまっておけばすぐに見つかる。しかし、何も整理せずに適当にクローゼットにしまったり、そもそも出しっぱなしにしておいたらどうか。すぐに見つからないだろう。

 これと同じことが読書にも言える。服の整理整頓はきっと子供の頃に習慣が付いてしまえば普通にするようになると思う。確かに面倒だが慣れてしまえば当たり前のことになる。読書も同じで内容を整理しないと役に立たない。ここがこうなってこういう流れになっているんだと自分なりの言葉で把握する。そうしておかなければ知識を知識として応用できない。これは大切な訓練だ。

 昔、塾で子供に国語を教えていて感じたことがある。長文読解の問題はキーワードを探せばできる。自分の頭で整理する必要はない。問題文はこうだから本文のここを見れば答えがわかる。そんな感じだ。テキストを作っている人には悪いがつまらない。

 私自身が子供の頃も本は好きだったが、国語は面倒で退屈で嫌いだった。もともと本が好きでなければ読み書きをうっとおしく思っていたと思う。 

 どうやったら子供は読めるようになるんだろう?きっと子供の興味にとことん付き合うことかもしれない。例えば国語が嫌いでも恐竜が好きなら恐竜の図鑑を喜んで読むだろう。

 リーディングスキルとかライティングスキルとか言うように、あくまで読み書きはスキルであって、それ自体が目的じゃない。それを使って何をするかだ。そういう意識がなければ読み書き能力は身に付かないかもしれない。これは外国語習得も同じだと思う。興味がないことは苦痛で続けられないけど、面白いことは続く。その面白いことを発見することが面倒だという人も少なくないが・・・。