ワシントンの先祖の話

 ワシントンの先祖とはどのような人々であったのか。ワシントン家がアメリカに渡る前から渡った後の話まで詳細を語る。

騎士


 ワシントン家はイギリスの騎士の家柄である。騎士は本来、称号であって身分や階級ではない。しかし、騎士の装備一式と従者を揃えるにはそれなりの経済的裏付け、すなわち領地が必要であったので、準貴族と考えれば概ね間違いないだろう。

 ワシントンという家名の起源は実に12世紀末に遡る。その人物の名前はウィリアム・ド・ハートバーンである。ハートバーンはダラム教区に属する騎士であった。

 ダラム教区はイングランドの中でも北東に位置する有数の教区である。ノーサンブリア王国の守護聖人である聖カスバートを祀り、あらゆる特典が与えられていた。ノルマン朝を開き現代にまで続くイギリスの基礎を築いたウィリアム征服王は、ダラム教区を北方の鎮守と見なし、宮宰領に昇格させた。ダラム司教は宮宰伯を兼ねて北方に睨みを効かせる要職となり、世俗領主と同様の権利を持っていた。権利には義務が伴うのが当然であり、ダラム司教も封地の大きさに準じて王に軍隊を提供する義務を負う。

 王の下にダラム司教があるように、ダラム司教の下にも封臣がいる。先程も言ったように、その封臣の中の1人がハートバーンである。ハートバーンという姓名は騎士領として授かった村に因んでいる。ハートバーン家がいつ頃からハートバーンを保有するようになったのかは明らかではない。おそらくウィリアム征服王に従ってフランス北部のノルマンディーから渡って来た軍団の一員であったのだろう。

 ハートバーン家に関する最初の確実な歴史的記録は1183年の封地表に記載されている。その年、ウィリアム・ド・ハートバーンはダラム司教に保証金と狩猟会への参加、そして、兵員の提供と引き換えにハートバーンとウェシントンを交換した記録されている。

 兵員の提供もさることながら狩猟会への参加も重要な義務だ。騎士達は猟犬と従者を引き連れて司教に随行する。大掛かりな狩猟は参加者の連携によって行われたから、軍事演習の一種と見なすこともできる。

 封地の交換によってウェシントンと家名を変えたハートバーン家はダラム司教に従い続ける。ウェシントンという言葉の由来は古英語で「ウェッサ家の封地」を意味する8。またウェッサとは「小麦の束」を意味する。

 ウェシントン家は、誰も記憶に留めないような目立たない脇役の1人であったが、2つの歴史的事件に関与している。一つ目の歴史的事件は第2次バロン戦争である。

 失政や財政難を理由にイングランドの聖俗諸侯は、国王ヘンリー3世への不満を高めた。1258年、レスター伯爵シモン・ド・モンフォールは諸侯を代表して国王参事会を設置して王権を制限する。諸侯の間で起きた派閥争いに乗じてヘンリー3世は復権を目論む。しかし、国王の動きに警戒を抱いた諸侯は再び結束する。

 そこで国王は味方を増やすために譲歩を示す。すると穏健派やモンフォールに反感を抱く貴族達は次第に国王側に傾く。危機感を抱いたモンフォールは、その当時、独立した王国であったウェールズ王国と手を結んで国王軍に対抗する。そして、1264年、ルイースの戦いで激突する。

 この戦いに国王軍の一員としてウィリアム・ド・ウェシントンは参加している。ルイースの戦いは国王軍の敗北に終わったが、その後、イーヴシャムの戦いでモンフォールは戦死し、王権は回復する。

 ウェシントン家は英仏百年戦争にも参加している。もちろんダラム司教の配下の1人の騎士としての参加であったが。

 1346年、イングランド王エドワード3世とエドワード黒太子は、フランスに出征して本国を留守にしていた。かつてイングランドの介入で王位を追われていたスコットランド国王デイヴィッド2世は、その隙を突く。フランスの支援でスコットランドに舞い戻り、諸侯を糾合してイングランド侵攻の軍を起こす。

 留守を預かっていたイングランド王妃フィリッパ・オブ・エノーは、イングランド侵攻を阻もうと北部の聖俗諸侯に檄を飛ばす。王妃の下に馳せ参じた諸侯の中にはダラム司教の姿もある。

 ウェシントン家も含むダラム教区の騎士達は、王妃に従ってネヴィルスクロスの戦いでスコットランド軍を破る。その結果、デイヴィッド2世は捕虜となり、スコットランド復権の夢は絶たれた。

 王妃は英仏海峡を渡って、クレシーの戦いでフランス軍に勝利を収めたばかりのエドワード3世とカレーで合流する。ダラム司教も随従している。おそらくド・ウェシントンもオーギュスト・ロダンの彫刻「カレーの市民」で有名なカレー包囲戦をその目で見ただろう。

 包囲戦は1年も続いたが、遂にカレーの市民は兵糧が尽きて降伏を申し出る。エドワード3世は執拗に抵抗したカレーに苛立ちを募らせていたので無条件降伏を求めた。それは市民の生命や財産を保障しないことを意味する。

 6人の市民の代表が首に処刑のための縄を巻き裸足で王のもとに出頭する。彼らを連行してきた貴族のウォルター・マニュイにエドワードは質問する。

「この者達はカレーの有力者か」

「もし美徳が貴族の特質であれば、彼らはカレーの有力者であるだけではなく、フランスでも有力者です」
「この者達は自らおとなしく出頭したのか。それに住民達の間に騒擾を起こさず抵抗もしなかったのか」

「まったくそのようなことはありませんでした。もし彼らを陛下に差し出すように命じられれば住民達はすべて死を選んだでしょう。しかし、数千人の生命を購うために彼らは志願して自ら出頭して大切な首を差し出しました」

 マニュイの言葉に耳を傾けていたエドワード3世であったが、暫く考えた後にようやく口を開く。

「寛大な処置は人民に新たに罪を犯させるだけだと経験は示している。臣民を服従させるためには時に厳罰が必要だ」

 エドワード3世は傍らに立っていた兵士に命じる。

「引っ立てよ。この者達を処刑せよ」

 まさにカレーの市民の運命が決定されようという時、王妃が割って入る。

「我が君、私がこれから言上しようという問題は数人の下賤の者達の生命だけに関わる問題ではありません。イングランドの名誉に関するお話なのです。我が夫であり我が君であるエドワードの名誉に関するお話なのです。陛下は6人の敵をただ単に死に追いやるだけだとお考えかもしれません。しかし、我が君、彼らは彼ら自身を処罰しています。彼らが栄誉を得る舞台は陛下にとって恥辱の舞台になります。征服された者達の体面を傷付けることは陛下の名前に拭い難い汚辱を壊れることになります」

 王妃の言葉は国王の心に沁み通る。

「私が間違っていた。間違っていたのだ。すぐに処刑を取り止めよ。捕虜を連れて参れ」

 こうしてカレーの市民は処刑を免れ、再び国王と王妃の前に引き出される。王妃は彼らの勇気ある行いを
褒めて縄を解くように命じる。6人の代表は次のように言ったという。

「エドワードは我々の街を強奪しただけだが、フィリッパは心を征服した」

 こうして王妃の温情でカレーは難を逃れた。この伝承を題材にロダンは、不朽の名作「カレーの市民」を創作した。

 2世紀にわたってダラム司教の下でイングランドの歴史を体験してきたウェシントン家であったが、1400年にウェシントンの封地は直系の男系が断絶することで他家に渡る。

 その後、ウェシントン家で名を馳せたのは、ベネディクト派僧院長のジョン・ド・ウェシントンである。ジョンは「ダラム僧院長の権限ならびに所有権」という小論文を著して蚕食されつつあった僧院長の特権を自ら弁護して教会内で名声を確立した。ノーサンプトンで行われたベネディクト派の集会でジョンは司会を務めたことも記録に残っている。

 1446年に亡くなったジョンを記念して後に作られた銘板には「その家系は彼が知らない土地で不朽の名声を勝ち取った」と刻まれている。不朽の名声とはもちろんジョージ・ワシントンの功業を意味している。自分の子孫が世界史に燦然と輝く名前を残すとはジョンは夢にも思わなかっただろう。

 ただワシントンは自分の家系、特にイギリスにおける血統について詳細を知らなかったらしい。1792年、ワシントンは先祖がイングランドの北部に住んでいたと家族から聞いたと回想している。しかし、その記憶は「ランカシャーかヨークシャーか、それとももっと北方なのか、私には正確に思い出せません」という不明瞭なものであった。そうした血統はワシントンにとって「ほとんど関心を払わない問題」であった。重要なのは血統ではなく受け継がれる風習や思想である。

イングランド内戦


 ウェシントン家の分家の血筋はイングランド各地に拡散して、それぞれ地元の名士として名を留めた。次第にウェシントンという家名の綴りが変化してワシントンとなった。

 その血筋の1人であるローレンス・ワシントンは、パーリーという村で国教会の牧師を務めていた。しかし、イングランド内戦の動乱で「酒場の常連であり、日常的にそこで飲んだくれ、しばしば酩酊していた」という審判を受けて教区を追われた。1643年のことである。

 これは清教徒による「極めて有害な王党」に対する見せしめであった。王党派によれば、ローレンス・ワシントンは「非常に敬虔な人物で常に穏やかで素面であった」という。そして、落魄したまま10年後に亡くなった。

 ローレンス・ワシントンは、貴族と庶民の中間に属する階層に属していたが、地位も財産も失って転落してしまったのである。

 後の歴史にも関係するので、イングランド内戦について少しだけ紹介しておこう。それは一言で言えば、チャールズ1世と議会の衝突である。チャールズ1 世は、国王は絶対的な統治権を持つと主張する。その一方で議会は、国王は議会の承認なしで統治権を行使することはできないと主張する。

 衝突の主な原因は、チャールズ1世がフランスの宗教対立に介入する軍資金を得るためにたびたび課税しようとしたことだ。
 
 議会は、国王の要請にも拘わらず、課税に同意することを拒む。そこでチャールズ1世は議会を解散し、議会なしで11年間にわたって統治した。

 イングランド内戦には、国王と議会の権力争いという面に加えて宗教的内紛という面がある。

 アメリカ植民地との交易を支配することで実力を蓄えた清教徒は、国王がイギリスでカトリックを復権させようとしているのではないかと恐れた。事実、チャールズ1世は国教会の礼拝に参加しようとしない清教徒を迫害している。その結果、宗教的内紛が勃発する。

 国庫が底を突き手元不如意になったチャールズ1世は、議会を再び招集して協力を求めようとする。しかし、議会はこれを好機と捉え、新たな権限を獲得しようと国王と対立する。オリヴァー・クロムウェル率いる議会軍は、王党派を圧倒する。敗北した国王は斬首され、イギリスは共和国となった。

 クロムウェルの死後、混乱に乗じて王党派が勢いを盛り返す。その結果、イギリスは王政に戻ったが、それまでの一連の経過によって議会が大きな権限を持つ伝統が残った。したがってイギリスは、他の君主制国家と違って議会が優越性を持つという異なった特徴を持つことになった。

 そのために後にアメリカ人が本国との関係が悪化していく中で初めに反感を抱いた相手は、イギリス国王ではなくイギリス議会であった。またそうした中で植民地議会がなぜ大きな役割を果たしたかも、イギリスにおける議会の優越性で説明できる。

 イギリス議会がイギリス国王に対して優越性を持っていたように、植民地議会は植民地総督に対して拮抗できる力を次第に獲得する。本国でイギリス議会とイギリス国王がしばしば緊張関係にあったように、植民地でも植民地議会と総督はしばしば緊張関係にあった。植民地議会が植民地人の利害を代表している一方で総督は国王の代理として本国の利害を代表していた。だからこそ独立に至る闘争の中で中心的な役割を果たしたのは総督ではなく、植民地議会であった。

郷紳


 少し話が先走り過ぎた。ローレンス・ワシントンに話を戻そう。国教会の牧師であったローレンス・ワシントンの落魄は、イングランド内戦という大きな歴史的変動の些細なひとこまに過ぎない。しかし、その一方でジョンの甥ヘンリー・ワシントンは国王軍に加担してウスターの守将として包囲戦を戦っている。つまり、ワシントン家は根っからの王党派であった。そうした家系からアメリカの独立に大きく貢献する人物が生まれることになるとは何とも皮肉なことである。

 議会軍の首領であるオリヴァー・クロムウェルの施政下で王家に忠誠を尽くした一族は迫害を受けた。もちろんワシントン家もその対象である。そのためローレンスの息子ジョン・ワシントンは自分の身の振り方を考えなければならなかった。そこでジョンはヴァージニアで一旗揚げることにした。

 なぜヴァージニアなのか。ヴァージニアは、チャールズ1世と国教会に変わらない忠誠を誓っていたので、王党派の烙印を押された者が新しい機会を探すにはうってつけの場所であったからだ。ジョン・ワシントンのような騎士階級の末裔は他にもヴァージニアに流入している。

 そうした人々は郷紳の精神を新世界にもたらす。郷紳とは聞き慣れない呼称かもしれないが、簡単に言えば貴族に列しない地主階級である。彼らは公職に就くことを上流階級の名誉であり義務だと考える精神を持っていた。そうした特色はヴァージニアの郷紳階級に受け継がれる。

 新天地に根を下ろしたばかりの頃、ジョンは農園主の娘との結婚祝いで与えられた土地を除けばほとんど財産を持っていなかった。一家を富ませ、社会的階梯を登るというジョンの意思は固い。最終的には3度の結婚を通じて有力な家系と繋がりを持ち、8,000 エーカー(約3,200 ヘクタール)以上の土地を得るまでになった。その土地の中には、後にジョージ・ワシントンの邸宅になるマウント・ヴァーノンも含まれている。

 ジョンは、ヴァージニア植民地議会議員に選ばれ、1675年から1676年に行われたネイティヴ・アメリカンとの戦いであるフィリップ王戦争でヴァージニア民兵を指揮した。ジョンの功績を称えてジョンが住んでいた教区はワシントン教区と名付けられた。

 1705年に発行されたロバート・ベヴァリーの『ヴァージニアの歴史』にもワシントン教区の名前が記載されている。しかし、『ヴァージニアの歴史』では、ワシントン家に関連する言及はそれ以外に見当たらない。つまり、ワシントン家は、まだヴァージニアの歴史の表舞台で活躍するような家柄ではなかったということだ。

 それでもジョンはネイティヴ・アメリカンからコノタウカリウス、すなわち「街の破壊者」という渾名を付けられている。それはジョンが使節を殺害したり、部族の土地を詐取したりしたことによる。悪名だが有名であることには変わりない。

 こうしてジョンによってアメリカでのワシントン家の礎は築かれた。ジョンの台頭によってワシントン家は一流ではないにしろ、とにかく郷紳階級に名を連ねた。ジョンは、王政が復古したイギリス本国で息子のローレンスに教育を受けさせた。それはワシントン家の新しい慣習となる。もしかすると新大陸で十分な富を築いた後に本国に錦を飾るつもりだったかもしれない。

 教育を終えてヴァージニアに戻った後、ローレンスは有力者の娘を娶る。そして、ジョンと同じく、ヴァージニア植民地議会議員や治安判事を務めた。ジョンがワシントン家の礎を築いたと言えるのであれば、ローレンスはワシントン家に風格を与えたと言えるだろう。このローレンスはジョージ・ワシントンの祖父にあたる。ワシントンの父オーガスティンについては『アメリカ人の物語』の中で十分に語っているので割愛する。