アメリカ大統領による世論誘導―朝鮮戦争を事例に(後編)

第六節 朝鮮戦争の泥沼化と国家非常事態宣言

第一項 国連軍の北上とウェイク島会談


前編から続く

注:論文から北朝鮮に関する部分のみ抜粋しています。

「もし我々がこの政治的分断線(38度線)を消す機会があれば、確かにそうすべきである。国家的な見地からして、北朝鮮軍をして整然と退却せしめ、38度線の後背で再編せしめるのは愚行である。(中略) 。もし我々が北朝鮮軍を壊滅できる力を持つなら、たとえ38度線を越すことになっても、北朝鮮を壊滅させるべきだ」[i] 

 後にアイゼンハワー政権で国務長官を務めたジョン・ダレス(John F. Dulles)国務省特別顧問は、早くも1950714日に以上のように述べている。ただトルーマン大統領は、38度線突破決定について直前までその態度を明らかにすることはなかった。以下の記者会見[ii]にそのような姿勢がよくあらわれている。

記者:「大統領、朝鮮で我が軍が38度線に達した時どうするのかを決定されていますか」大統領:「決定していない。国連が決めるべき問題だ。それは国連軍によるし、我々はその状況に関心を抱いている大勢のうちの一国にすぎない。それは国連によって明らかにされるだろうし、私は国連によってなされる決定に従うだろう」

 トルーマン大統領の回答は、38度線突破の決定を国連に棚上げすることで、従来の国連の下での警察行動という側面を強調し、また将来ありうる38度線突破を正当化する下準備をしたともいえるだろう。
 朝鮮戦争勃発以来、国連軍は北進を続け、1950915日の仁川上陸作戦成功を機に、国連軍の軍事的優勢は明らかになりつつあった。こうした状況下でトルーマン大統領は外交政策に関する演説を行った。

「私はウェイク島での会談から帰ってきて、世界平和を維持する我々の長期的な能力に自信を強めた。ウェイク島で我々は極東情勢とその世界平和との関係について話し合った。(中略)。マッカーサー将軍は、私に朝鮮での戦闘について話した。彼は国連軍が彼の指揮の下で達成している素晴らしい業績について述べた。韓国の兵士たちとともに、国連軍は今、侵略の波を押し返している。世界中の自由諸国からより多くの兵士たちが集いつつある。国連軍は全朝鮮の平和をすぐに取り戻すだろうと私は確信する」[iii]

 この演説は、マッカーサーとのウェイク島会談のすぐ後にサンフランシスコで行われた。実質的にはアメリカの勝利宣言であるが、国連軍が平和を取り戻すことに成功したことを強調しているのが特徴的である。アメリカの勝利を誇ることは国連軍の枠組みを軽視することになるからである。そのため「我々は勝利について話すべきではない」[iv]として「勝利」という言葉の使用が極力避けられている。
 ウェイク島でトルーマンは、マッカーサーから「中国共産党軍は攻撃してこないだろうし、我々は戦争に勝利し、19511月には軍隊を朝鮮から欧州へ送ることができる」[v]という確証を得ていた。演説でのトルーマンの言葉はその後の中国義勇軍の介入を微塵も感じさせない楽観的なものであり、こうした論調は中国義勇軍の介入が明白になるまで継続する。しかし、一方で演説草稿を作成していたエルゼイは、「朝鮮で素晴らしい成功をしたからといって、我々の守りを緩めてはならない」[vi]というテーマを盛り込むべきだと指摘していた。
 さらにトルーマンは、「マッカーサー将軍と会談した時に、我々は朝鮮に平和をもたらたす責務を全うする計画について議論した。我々は、国連総会の決議に沿って朝鮮に『統一の独立した民主的』政府を樹立する計画について話し合った」[vii]と述べている。これは戦争目的が国連の下で侵略軍を撃退するという警察行動から逸脱し、国連の下での朝鮮統一という目的に変化したことを示している。もともとトルーマンは、「アジアでの全面戦争を引き起こさないように注意しなければならない」[viii]と考えていたのにも拘らず、警察行動からの逸脱と思われるこの戦争目的の変化についての説明はほとんどされていない。
 さらにトルーマンは、「ここサンフランシスコで、五年前、我々はソ連が永久平和を樹立する試みに協力するように願った。しかし、共産帝国主義はそうしなかった。相互尊重と協調のもとで他国と協働するどころか、ソ連は他国民に支配を広げようとした。ソ連スタイルの新しい植民地主義を始めようとしたのだ。(中略)。ソ連と植民地衛星国は欧州とアジアで強大な軍隊を維持している。彼らの膨大な軍隊は世界平和への脅威である。彼らが軍隊を維持することに固執し、それを使って他国を脅かすかぎり、世界の自由諸国民は、もし自由のままでいたいのであれば、他に選択肢を持たない。力には力で対抗しなければならない」[ix]とソ連に対する強硬な非難を展開した。そのうえでトルーマンは、「我々は軍事力を増強し続ける。なぜならソ連の政策が我々に他の選択肢をとることを許さないからである」[x]とアメリカが強大な軍事力を持つ正当性を主張した。こうした主張は、先述したNSC-68によって打ち出された方針に沿っている。もし朝鮮戦争がこのまま終結してしまえば、国民の目に見えるような形の脅威がなくなってしまい、ソ連と対峙するのに必要となる軍事力を維持する正当性を保つことが難しくなる。そのため朝鮮戦争に絡めてソ連に対する激しい非難が展開されたのである。
 サンフランシスコでの演説は共産主義に対する力強い挑戦であるとみなされ、アメリカ国内で圧倒的な支持を得た。また非共産圏の多くの国々は、アメリカがソ連の侵略に対して断固として戦う意思を示したととらえた。「ソ連スタイルの新しい植民地主義」という部分は多くの新聞やラジオに引用された[xi]。ソ連の行動を「新しい植民地主義」だと非難する目的は、西欧の植民地主義からアジアの人々を自由にするというソ連のプロパガンダに対抗することであった[xii]。アメリカ国内と非共産圏の国々が好意的な反応を示す一方で、共産圏の国々は、アメリカの侵略意図が示されたと非難している[xiii]
 ただアチソンが、マッカーサー聴聞会(1951513日から817)19516月に、朝鮮統一が戦前から国連と合衆国の目的ではあったが、統一それ自体は戦争目的ではなく、平和的手段で達成されるべき目的だと弁明している[xiv]。こうした戦争目的の変化あるいは曖昧化について、神谷不二が『朝鮮戦争―米中対決の原形』の中で、「トルーマン政府の戦争最高指導方針には、重大な欠陥があるといわねばならない。開戦直後の基本目的を一擲して、三八度線以北への進軍と北朝鮮の占領に許可をあたえながら、ソ連軍や中国軍の介入がないかぎりという条件をつけ、その条件についての認定をみずから下していない」[xv]と評しているのは正鵠を射ているだろう。

第二項 戦争目的の変化に対する共産中国の反応とトルーマンの失言


 アメリカの戦争目的の変化に敏感に反応したのが共産中国である。毛沢東が19501013日に周恩来へ宛てた電報によると、毛沢東は、アメリカが鴨緑江をすぐに越えることだけではなく、長期にわたる経済的、政治的影響を中国国内に及ぼすことも危惧していたという。周恩来は、国連軍の北上に対して警告を発していたが事実上無視されている[xvi]。アメリカは、「周恩来の声明、満州への中国義勇軍の移動、そして残虐行為と国境侵犯に対するプロパガンダ的な非難にも拘らず、実際に朝鮮に全面的な介入をしようという共産中国の意図を確認できるような兆候はない」[xvii]と考えていた。中国は、先述したトルーマンによる626日、27日の声明が発表されてから「十日後に軍隊配備の調整ならびに東北辺境軍の創設を決定」[xviii]している。中国は、「米帝国主義が朝鮮を踏み台にして次に社会主義中国を侵略」[xix]すると判断し、鴨緑江対岸に出動する準備を始めたのである。国連軍の38度線突破により、中国は自らの危惧が現実化したと考え、義勇軍派兵を断行したのである。中国義勇軍介入の報に際してトルーマン大統領の発表した声明文は比較的穏やかであった。19501116日の記者会見の冒頭で大統領は声明文を読み上げた。

「朝鮮への共産中国介入により引き起こされた重大な事態に関する決議を国連は先に出している。この決議はキューバ、エクアドル、ノルウェー、イギリス、そして合衆国により提議されたもので、中国国境を侵害せず、合法的な朝鮮と国境地帯における中国の利益を完全に守り、全朝鮮に、統一された独立の民主主義政府を樹立し、安定を回復次第速やかに国連軍を朝鮮から撤退させるという国連の政策を再確認した。(中略)。中国共産主義者が中朝国境という防壁から出て、朝鮮の国連軍に攻撃を仕掛けた口実は、国連軍が国境を越えて中国領土に戦闘行為をしかけようとしているというものである。(中略)。もし中国の共産主義者が、極東の平和と安全への国連の願いを共有できるのであれば、朝鮮で国連の目的を妨害した責めを負わなくても済むだろう」[xx]

 しかし、この中国へのアピールは、毛沢東や周恩来からすれば時宜に適っていないものだった。そして中国義勇軍の反撃が激化する中で、トルーマンは朝鮮戦争に関連するレトリックの中で最大の失敗を招くことになる。それは朝鮮戦争での原子爆弾使用をめぐる発言問題である[xxi]19501130日の記者会見[xxii]で、大統領が中国義勇軍の攻勢による国連軍撤退に関する声明文を読み上げた後、一人の記者が一つの質問をしたことからそれは始まった。

記者:「大統領、満州での攻撃は、国連の行動に拠るものになるでしょうか」
大統領:「全くそうだ」
記者:「言葉を変えると、もし国連決議がマッカーサー将軍にさらに前進する権限を・・・」大統領:「いつもしてきたように我々は軍事情勢に対応する必要があればいかなる処置もとる」
記者:「原子爆弾もふくまれるのですか」

 トルーマンの伝記を書いたデイヴィッド・マカルー(David McCullough)は、「この前にトルーマンは、原子爆弾についての議論を打ち切るべきであった。しかし、彼はその質問がどんな結果をもたらすのかわかっていなかったようである」[xxiii]と批評している。一方、アンダーヒルは、この記者会見でのトルーマンの発言について「トルーマンには、記者会見で質問者が使用した文句をそのまま繰り返す傾向があった。そしてこの傾向は、しばしばトルーマンを苦境に陥らせることになった」[xxiv]と指摘している。トルーマンのこうした傾向がしばしば問題を引き起こしたのは確かである。

大統領:「我々が持つあらゆる武器が含まれる」
  者:「大統領、あなたがおっしゃる『我々が持つあらゆる武器』とは、原子爆弾使用を積極的に考えることがあるという意味なのでしょうか」
大統領:「その使用を積極的に考えることはいつもありうる[xxv]。私は原子爆弾が使用されるのを見たくはない。それは恐ろしい武器であり、この軍事侵略に何の関係もない無辜の男女や子供に対して使われるべきではない。原爆が使用される場合はそうしたことが起きる。」
記者:「大統領、原子爆弾への言及を再度確認させて下さい。我々は、あなたの発言を原子爆弾使用を積極的に考慮に入れるものと理解したのですが」
大統領:「いつもそうである。原子爆弾は我々の武器の一つだ」
記者:「大統領、それは軍事的目標、または民間の・・・」
大統領:「それは軍人が決めなければならない問題だ。私はそういった問題を判断する軍事的権威ではない」
記者:「大統領、もしよろしければあなたの発言を直接引用したいのですが」[xxvi]
大統領:「そうする必要があるとは思えない。私は引用が必要だとは思わない」
記者:「大統領、国連の行動によるとおっしゃっていますが、それは国連の認可に基づかなければ原子爆弾を使用しないという意味になるのでしょうか」
大統領:「全くそういう意味になるわけではない。共産中国に対する軍事行動は、国連の行動に拠っている。戦場の軍事指揮官は、常にそうであるように武器使用の責任を負う」

 この記者会見の発言は大きな反響を呼び、ホワイトハウスは電話攻めにあい、ヨーロッパはけたたましく反応した。朝鮮戦争における原子爆弾使用に関する国民の反応は、賛成意見と反対意見がほぼ同数であった[xxvii]。ユナイテッド・プレス紙は、速報の見出しに「トルーマン大統領が、合衆国は、朝鮮戦争に関連して原子爆弾使用を考慮に含めていると発言」と掲げた。マカルーによれば、この「トルーマンの回答は、非常にばかげたものであり、記者会見は大失態であった」[xxviii]のである。トルーマン大統領もこの記者会見での発言を『回顧録』で「1130日、私が記者会見を開いたとき、『原子爆弾』という言葉が使われると、世の中の人がいかに刺激を受けるかを実証した」[xxix]とふりかえっている。この回想からするとトルーマン大統領は、発言の重大性をあまり認知していなかったかもしれない。もしくは、トルーマンならではの真意を隠すための韜晦かもしれない。

第三項 朝鮮戦争の泥沼化と「共産帝国主義」レトリック


 1130日当時、米軍の勢いは「12月の退却」という頽勢に傾きつつあった。その状況下でのトルーマンの原子爆弾発言は、共産中国への牽制であり悪く言えば恫喝だととられても仕方がないだろう。
 トルーマンの原子爆弾発言が物議をかもした一方で、エルゼイは「国際情勢が非常に深刻であるという観点、そして軍部や国務省の高官が無責任で配慮に欠ける発言をすれば大きなダメージを引き起こすという観点から、国務省と国防総省に、大統領の告知があるまで公的な場で何も話してはならないという指示を直ちに発令することを推奨する」[xxx]とトルーマンに提言している。エルゼイの提言により、政府高官は、国務省、もしくは国防総省の正式な許可なく演説や公式発言、プレス・リリースを行うことが禁止された[xxxi]。さらに政府高官の発言を規制するために、19458月に廃止されていたOWI(Office of War Information)のような機関を作る計画が再考された。しかし、まだその時期ではないとして新たな機関の設立は見送られた[xxxii]
 朝鮮情勢の深刻化により政府高官たちの発言が規制される中、トルーマン大統領は、「いかに状況が差し迫ろうと、我々は、朝鮮での戦闘は我々の時代における最も激しい戦いの一つであるだけではなく、自由と共産主義的隷属の間の戦闘であることも忘れてはならない。この戦闘は、我が国の国民生活、組織、資源すべてをかけて行われている。世界に手を伸ばし支配しようとしている共産主義者の邪悪な軍隊によって、我が国と我々の文明は歴史上最も大きな挑戦に直面している」[xxxiii]と述べ、断固戦い抜く決意を表明している。
 もはや戦争は実体的な戦いにとどまらず、「自由」と「共産主義的隷属」の間の理念的な戦いの様相を帯びている。「共産主義の邪悪な軍隊」から「我々の文明」を守るというヒロイズムを誇張し、それに国家を総動員しようとしている。
 そうした傾向がさらに鮮明に示されたのが、19501215日に行われたラジオ・テレビ演説である。その演説は、国家非常事態宣言を発令することを国民に伝えたものである。トルーマンは演説中、ソ連を名指しで非難し、自由諸国と共産主義の戦いという構図を明確に打ち出している[xxxiv]

「我々の家庭、我が祖国、そしてあらゆるものが大いなる危機にさらされている。この危機はソ連の支配者により生み出された危機である。この五年もの間、諸国家の間で公正と平和が保たれるように我々は努力してきた。我々は、世界の自由諸国が一体となって永久平和を樹立する手助けをしていた。こうした平和に向けての動きに対して、ソ連の支配者達は無慈悲な攻撃を仕掛けてきた。彼らは、自由諸国を一つ一つ蝕み飲み込もうとしている。彼らは脅しと裏切り、そして暴力を駆使してきた。6月に共産帝国主義者の軍隊が、朝鮮で公然たる戦争を仕掛けてきた。国連は、この侵略行為を押さえつけ、10月までにほぼ成功をおさめつつあった。それから、11月に共産主義者は中国軍を自由諸国に対する戦闘に投入した。こうした行為により、彼らは、欲するものを得るために今や進んで世界を全面戦争の瀬戸際に追いやろうとしていることを示した。これこそ、朝鮮で起きている出来事の本当の意味である。それこそ我々が大きな危機に直面している理由である」[xxxv]

 アメリカ国民に危機を認識させるために「全面戦争」という言葉まで持ち出している。本来、この時点では、中国義勇軍の軍事行動が、自由諸国全体に対するものかどうかは明らかではなく、果たして共産中国、もしくはソ連が全面戦争まで考えていたのかは定かではない。この部分は、危機レトリックの典型的な例である。ここで言う危機レトリックとは、大統領がある状況を定義し、論理付け、それを「危機」と名付けることで自己の政策を有利に展開しようとするレトリックである。こうしたレトリックは、「合衆国と同盟国は、政治的な戦場でも軍事的な戦場でも[ソ連の侵略に対して生き残るための]戦争に敗北しつつある」[xxxvi]というトルーマン政権内部の危機意識を反映している。
 トルーマンはこの演説で、国民に危機意識を根付かせるだけではなく、こうした危機を乗り切るために必要な関連法案を認めるように議会に迫っている。さらにこの頃相次いだ鉄道ストライキについても巧妙なレトリックを駆使している。すなわち、アメリカが自由諸国の中心になって共産主義との戦いに勝利するためには、アメリカのみならず自由諸国に供給するための武器が大量に必要である。武器製造を滞りなく行うためにはアメリカ経済が健全でなければならず、それを阻害するストライキは祖国の安全を脅かすものであるから、トルーマンは、「最高司令官として労働組合とストライキを行っている組合員に、直ちに仕事に復帰するように要求」[xxxvii]している。
 トルーマンは従来、タフト・ハートレー法[xxxviii]を認めていなかったので、直接的にストライキに反対することは難しかった。そのため、こうしたレトリックは非常に有用なものであった。危機意識をもとにしたレトリックはストライキについてだけではなく、「国家非常事態宣言は、すべての国民に国家の利益のため個人的な利害を忘れるよう求めるものである。我々のすべてのエネルギーは、我々の前にある責務のために捧げられなければならない」[xxxix]と述べているように国民全体に向けられたものであった。
 このような危機レトリックを駆使する一方で、トルーマンは、アメリカが自由諸国との連帯を尊重し平和を追求していることを強調している。

「まさにこの瞬間に我々が担っている責任よりも大きな責任を負っている国はない。我々は、自由世界のリーダーであることを忘れてはならない。我々だけで平和を達成することはできず、自由諸国と世界中の自由を愛好する人々と協力することによってのみ平和を達成できると理解しなけばならない。我々の目標は、戦争ではなく平和であることを忘れてはならない。世界中で我々は名誉にかけて、国際正義と法と秩序に基づく世界のために戦っている。我々はそれを続けなければならない。我々は、進んで違いを協議しようとは思うが、侵略に対して譲歩しようとは思わない。悪に対して宥和することは、平和への道ではない。常にアメリカ国民は、危機に勇気と決意で立ち向かってきた。今もまた我々はきっとそうするだろうし、神の御加護により我々は自由を守ることがきっとできるだろう」[xl]

 この演説の翌日、国家非常事態宣言が正式に発令された。国家非常事態宣言は以下の長い一文から始まっている。以下のような形式は、各種の決議文にも用いられる形式であり、とりわけ珍しいものではない。

「共産帝国主義による世界征服は、世界に解き放たれている[共産]侵略軍の目標であるが故に、もし共産帝国主義の目標が達成されるならば、アメリカ国民は、神の助けで築き上げてきた充実した豊かな生活をもはや謳歌できなくなり、後の世代は、それぞれが選択するものを崇拝する自由、自分達が選択するものを読んだり聞いたりする自由、政府を批判する権利も含まれる自由に話す権利、政府を構成する人々を選択する権利、自由に団体交渉をする権利、自由に民業に従事する権利、そして我々の生活様式の一部である他の多くの自由と権利の恩恵をもはや享受できなくなるが故に、ますます増大する共産主義者の侵略軍の脅威により合衆国の国防ができるだけ迅速に強化される必要があるが故に、今、それ故、私、ハリー・S・トルーマンは、アメリカ合衆国大統領として国家非常事態をここに宣言し、国家の安全に対するありとあらゆる脅威を撃退し、国連の活動において責務を全うし、永久平和をもたらすために陸海空そして民間防衛をできるだけ迅速に強化することを要求する」[xli]

 「共産帝国主義」という語は、朝鮮戦争以前から使用されているが、特に使用が頻繁になったのは朝鮮戦争以後であり、大統領任期一期目には殆ど使用されていなかった新語である[xlii]。もちろん共産主義陣営からすれば自らを帝国主義と同一視することはなく、それどころかアメリカを「米帝国主義」と非難していた。先に紹介したサンフランシスコでの演説では、「共産帝国主義」という語が「新しい植民地主義」という語と関連付けて使用されている。サンフランシスコでの演説はアジアの人々を広く対象にしているので植民地主義という語が関連付けて使用されたのであろう。歴史的に反植民地主義を信条とするアメリカならでは主張である。
 トルーマンの国家非常事態宣言は、警察行動理念にはそぐわないことは明らかである。そのために国家非常事態宣言の発令理由は、朝鮮戦争に特定されていない。事実、国家非常事態宣言では、具体的に朝鮮に触れた部分はない。具体的に朝鮮について触れているのは、先に見た通り、前日のラジオ・テレビ演説においてである。
 本来、この当時の国家非常事態とは、朝鮮情勢の悪化が原因のはずであるが、トルーマン政権の打ち出した国家非常事態とは、「共産帝国主義が世界征服にとりかかった」ことである。これは、序論の大統領レトリック研究に関する節で紹介したデイヴィッド・ザレフスキー(David Zarefsky)の分類によれば、物事の観点を変化させる手法にあてはまると考えられる。
 戦況の悪化にも拘らず、アメリカが依然として朝鮮にとどまる正当性を国民に納得させることができなければ、朝鮮戦争に対する支持を取り付けることが難しくなる。そのためトルーマン政権は、朝鮮戦争で国連軍が戦っているのは、一つの国の侵略に成功すればまた次の国の侵略も成功するというソ連の希望を挫くためであると説明し、「朝鮮にとどまって戦うことにより、我々は我が国の領土と国民を、(中略)クレムリンの信念から導き出される破滅的な結果から守っている」[xliii]というレトリックを展開した。
 トルーマン大統領は、この宣言を回顧して「ホワイトハウスに殺到した郵便、電話、電報は、この措置に対する圧倒的支持を表明していた」[xliv]と述べている。しかし、「圧倒的支持」というのが朝鮮戦争自体に対するものかどうかは不明瞭である。なぜなら「共産帝国主義の世界征服阻止」に対して支持を与えた者もいるかもしれないからである。たとえそうであろうと、朝鮮戦争と「共産帝国主義の世界征服阻止」というテーマを結び付け、圧倒的支持を取り付けることに成功したレトリック戦略は非常に巧妙なものであったと評価できる。さらに国家非常事態宣言発令には共産中国に対して強硬策をとろうとする議員たちをなだめる効果もあった。トルーマンは同時に国連を通じた停戦案も視野に含めていたので、議会が強硬策で凝り固まる危険性を避けなければならかったのである[xlv]

第四項 マッカーサーの解任と停戦交渉


 米軍は「12月の退却」後、19511月末には勢いを盛り返し、同年3月には再び38度線を越えている。しかし、それ以降いわゆる「鉄の三角地帯」をめぐって共産軍と国連軍は膠着状態に陥った。
 そのような状況の中で1951411日にマッカーサーが解任されたのである。マッカーサーの解任についてストーンは、マッカーサーが「憲法上の文官優先の原則に対して直接に挑戦したばかりか、野党の共和党と公然の同盟を結んだ」[xlvi]ことが原因であったと論じている。
 マッカーサーの解任に関する公式声明で、トルーマンは、「深い遺憾の念とともに私は、ダグラス・マッカーサー将軍が、彼に属する公務に関して国連と合衆国の政策に心からの支持を寄せることができないと結論付けた。(中略)。国策に関して十分で活発な議論を行うことが、我々の自由民主主義立憲政体において重要な要素である。軍事司令官は、法や憲法に則って発令された政策や指令によって統御されなければならないというのが原理である」[xlvii]と述べている。
 一方、ウェイク島会談の後、サンフランシスコで行われた演説でトルーマンは、「ここで完全に明確にしておかなければならないことは、マッカーサー将軍との会談により外交政策の遂行と目標において完全な一致をみることができたということである」[xlviii]と述べているのも確かなのである。マッカーサーの解任の契機についてトルーマンは記者会見[xlix]で以下のように答えている。

記者:「大統領、あなたが[マッカーサーの解任を]決心したのは、マーティン(Joseph W. Martin, Jr.)[下院議員] への手紙を知った時ですか」
大統領:「私が決心したのは、[マッカーサーが]中国共産軍司令官に最後通牒を送った時だ」
記 者:「マーティンへの手紙のずっと前だということですね」
大統領:「そうです」

 この記者会見でのトルーマンの言明からすると「野党の共和党と公然の同盟を結んだ」のは解任の主要因ではなく、解任決定が留保されていたことが分かる[l]。では何故マッカーサーはすぐに解任されなかったのか。以前よりマッカーサーは様々な問題を起こしている。例えば19508月に、マッカーサーは、大統領が国民党からの軍事支援を受け入れれば合衆国はウラジオストクからシンガポールまでアジアの港をすべて抑えることができるというメッセージを海外戦争復員兵協会に送った。そのメッセージを読んだトルーマンはマッカーサーにメッセージを回収するように命じた。ソ連がマッカーサーのメッセージをアメリカは帝国主義だと非難するプロパガンダに利用することを危惧したのである[li]。しかし、メッセージは既に各紙に配布されていたので公になってしまった[lii]
 それでもマッカーサーを解任しなかったのは、トルーマン政権にとってそうすることが大きな痛手となるからであった。マッカーサーは前大統領の盟友として先の大戦を戦い抜いた歴戦の英雄であり、彼を解任することで国民の支持がぐらつく恐れがあった。事実、マッカーサーの解任後の世論調査では、マッカーサーが主張していた中国侵攻を支持する者は30パーセントしかいなかったものの、マッカーサー自身への支持は69パーセントにも達している[liii]
 ライアンは、トルーマンが戦争目的をカメレオンのように変化させたため、マッカーサーはその犠牲になったと評している[liv]。国民の大部分もマッカーサーが解任された理由について十分に納得できなかったようである。リッジウェイはマッカーサーの解任直後の状況を以下のように述べている。

「マッカーサー元帥の免職はあまりにも突然で決定的であり、やり方が乱暴であったために、元帥の誇りを不必要に傷付けたと同時に、やがて国中に怒りに満ちた批判をよび起こした。また、全生涯を国家への奉仕に捧げた偉大な軍人政治家の突然の免職は、多くが政治的動機を持っていたとはいえ、世論の激しい分裂を招き、民衆が基本的な問題を判別することを困難にした」[lv]

 国内的にはマッカーサーの解任は痛手であったかもしれないが、朝鮮戦争に関しては大きなメリットがあった。なぜなら、「マッカーサーの解任で、毛沢東は、米国が中国本土に戦争を拡大する現実的可能性がひとまず遠のいたと、初めて信じる」[lvi]に至ったからである。マッカーサーの解任は、原子爆弾発言で過度に緊張した中国側をなだめる効果をもたらし、7月に開城で休戦会談を開く道を開いたといえる。後にトルーマン自身も、インタビューの中で、「[ソ連は]極東での全面戦争に我々を巻き込もうとしている。なぜならそれはソ連に西欧での行動の自由を与えるからだ。それがマッカーサー将軍を解任した主要な理由だ。マッカーサーは極東での全面戦争に我々を巻き込みたがっていた」[lvii]と述べている。
 結局、休戦協定はトルーマン大統領の任期内には実を結ぶことはなくアイゼンハワー政権に引き継がれることになった。休戦会談開始よりトルーマンの任期終了までの一年半は、散発的な戦闘と捕虜問題[lviii]をめぐっての休戦会談の紛糾に終始する。捕虜問題は表面的なものにすぎず、実相は威信をかけての米中間の争いという政治的戦争にすぎなかった[lix]。アメリカ側は、捕虜処遇が適切ではないことを主張している。記者会見[lx]でも何度か捕虜問題に関する質問がなされている。

記者:「大統領、北朝鮮と中国によってアメリカ人戦争捕虜が2,500人殺害されたことについてコメントなさりたいことはありますか」
大統領:「身の毛もよだつことだと思う。まだそれに関する公式事実は把握していない。しかし、そのうち私のところへ届けられるだろう。それにしても、身の毛のよだつことだと思う。もしそれが真実ならば今世紀で起きた最も非文明的なことだ」

 トルーマンは、休戦会談を共産主義者がプロパガンダに利用していると考えていた。そして、そうしたプロパガンダに対抗するために、共産主義者の戦争捕虜に対する人権侵害に対する非難を展開している[lxi]
 国内では、先述したマッカーシズムの台頭、トルーマン・スキャンダルの発覚、鉄鋼ストライキ問題など様々な問題が続発した。こうした問題もあったことで、1949121日に69パーセントだったトルーマンの支持率[lxii]は、195112月には、わずか23パーセントにまで落ち込んでいる[lxiii]
 トルーマンが低迷する支持率に対して何らかの手を打たなければならないと考えていたことは、195219日の一般教書演説を見ると分かる。一般教書演説は大きな注目を集めやすいので支持率の回復を図るには絶好の機会であった。
 第四次草稿の中では、「自由世界は、一般的に認められているよりは朝鮮で大きく前進したという事実を我々は見失ってはならない」[lxiv]と控えめな調子であったが、最終稿では、「平和は自由諸国の連帯と侵略を抑止し戦争を防止するための一致団結した努力によるものである。こうした点から1951年は大きな業績を成し遂げた年であった」と自信に満ち溢れた調子に改められている。さらに最終稿には、「今年1952年は、自由世界全体の防衛努力において重要な年である。もし我々がひるんでしまえば、我々が得たすべてのものを失ってしまう。我々が勇気と活力、そして決意を持って前進すれば、1952年の終わりにはさらなる安全な地位を得ることができる」という文言が挿入されている。最終稿では1951年と1952年が対比されている。つまり、1951年を肯定的にとらえ、その成果を守るために国民に不断の努力を求めているのである。トルーマンは、休戦会談の決裂に備えて、「国内世論をさらなる犠牲と動員に備えさせ」[lxv]ようとしていた。
 さらなる犠牲と動員の中でも最大の問題は国民が担う軍事支出の増大である。軍事支出は額面で1950年から1953年の間に約四倍近くにはねあがり、全歳出に占める軍事支出の割合で約三割から約六割にまで増加していた。さらにこの軍事支出に自由諸国への援助(中心は相互防衛プログラム)を加えると、全歳出のうち七割が費消されていたことになる。
 一方、歳入は1950年から1953年の間に約二倍近くにしかなっていないので軍事支出の増加に追いついていないのが実状であった[lxvi]。しかも、この短期間で歳入を増やすためには、国民総生産の自然増だけでは賄えず、実質的にかなりの増税[lxvii]となったのは論を俟たない。
 2007年会計年度の軍事関連予算が全歳出の約二割にすぎないという事実から考えても、この七割という数字がいかに過重であったかは容易に推察できる。しかし、19521217日の世論調査では、「政府は防衛予算を増やすべきか減らすべきか」という質問に対し、増やすべきだと答えた人が調査対象者の29パーセントを占めたのに対し、減らすべきだと答えた人は26パーセントを占めるにすぎなかった[lxviii]
 しかし、一方で1952312日の調査では、71パーセントの人が、所得税が高すぎると答えている[lxix]。それにも拘らず軍事関連予算の必要性をある程度国民に納得させたという点では、トルーマンの説得術はある程度功を奏したと評価できる。
 このようなことから、公式には朝鮮戦争は「警察行動」とされ戦争状態ではないとされているのに拘らず、軍事関連予算の面からすると明らかに「戦争状態」であったと解釈できる。しかし、公式には朝鮮戦争はあくまで「戦争」ではなかったのである。トルーマンは、大統領任期を終えた後も以下のように述懐している。

「あなたも知ってのとおり、ハリー・トルーマン自身以外に何人たりとも朝鮮における国連の警察行動に対して責任を持つものなどいはしない」[lxx]

 最後の年の一般教書でも、トルーマンは「安全保障プログラムに対する大衆の支持を得るために、より緊急の脅威とアメリカの国益に関する脅威」[lxxi]を演出している。

「今、我々は核の時代に入った。技術的変化を経て戦争はかつての戦争とは全く違ったものになる。今日、ソ連帝国と自由諸国との間の戦争は、スターリン主義者に反対する者だけではなく、我々自身の社会、我々の世界、そして同じくソ連の世界をも葬り去ることになるだろう」[lxxii]

 「スターリン主義者」という言葉は従来、トルーマンが使わなかった言葉である。草稿の段階では、最後の一般教書を特徴付けるために何度も繰り返し使われていた。しかし、スターリンの個人攻撃に繋がるような使い方は演説全体を陳腐にするという理由でごく数回の使用にとどめられた[lxxiii]。さらにトルーマンは以下のように核の脅威を説いている。これは明らかに第三次世界大戦の恐怖を示唆していると言えるだろう。

「未来の戦争は、一撃で数百万の命を絶滅させ、世界の大都市を破壊し、過去の文化的偉業を一掃し、数百世代をかけて苦しみに耐えながら徐々に築き上げてきた文明の基盤そのものを打ち壊すような戦争になるだろう」[lxxiv]




[i] Department of State, Foreign Relations of the United States, 1950, v.7 (Washington: Government Printing Office, 1976), pp.386-387.
[ii] The President’s News Conference of September 21, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950 (Washington: Government Printing Office, 1965), p.644.
[iii] Address in San Francisco at the War Memorial Opera House, October 17, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1945-1953 (Online).この演説の一週間後に国連総会で行われた演説の中でもトルーマンは、「人類の幸福を重視する国連の経験と技術が、朝鮮での戦闘がほとんど終わった今、試されるだろう。自由な統一された自活できる国家としての朝鮮の再建は、国際協調によって人類の幸福と自由がいかに増進されるか示す好機である」と述べ、朝鮮戦争に対して楽観的な見方を示している(Address in New York City Before the United Nations General Assembly, October 24, 1950 in Public Papers of the President of the United States: Harry S. Truman, 1950, p.684)
[iv] Memorandum for Mr. Jessup, October 12, 1950 in Charles S. Murphy Files, box 8.
[v] Notes for Truman’s Wake Island Meeting with MacArthur, undated, 1950 in President Harry S. Truman’s Office Files, 1945-1953 Part 4: Korean War File, Korean Data- General, 1946-1950.
[vi] Meeting with the President, Proposed Speeches of President, October 9, 1950 in Memoranda of the Secretary of State, 1949-1951, and Meetings and Visits of Foreign Dignitaries, 1949-1952.
[vii] Address in San Francisco at the War Memorial Opera House, October 17, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1945-1953 (Online).
[viii] Monte M. Poen ed., Strictly Personal and Confidential: The Letters Harry Truman Never Mailed (Columbia and London: University of Missouri Press, 1982), pp.50-51.
[ix] Address in San Francisco at the War Memorial Opera House, October 17, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1945-1953 (Online).
[x] Ibid.
[xi] Department of State, Special Report on American Opinion, October 24, 1950; Department of State, Daily Opinion Summary, October 18, 1950; Department of State, Daily Opinion Summary, October 19, 1950; Department of State, Daily Opinion Summary, October 20, 1950.
[xii] Memorandum for Mr. Murphy, Mr. Elsey, Mr. Bell, Mr. Lloyd and Mr. Neustadt, President’s Fireside Speech Scheduled for Friday, September 1 in Charles S. Murphy Papers, box 7.
[xiii] Memorandum for the President, Initial World Reaction to the San Francisco Speech, October 20, 1950 in George M. Elsey Papers, box 47.
[xiv] Dean Acheson, Present at the Creation: My Years in the State Department (W.W. Norton & Company, 1987), p.531.
[xv] 神谷不二『朝鮮戦争―米中対決の原形』(中央公論社、1990)88
[xvi] Thomas J.Christensen, “Threats, Assurances, and the Last Chance for Peace: The Lessons of Mao's Korean War Telegrams” in International Security, v.17 (1) 1992, pp.122-154.
[xvii] Threat of Full Chinese Communist Intervention in Korea, October 12, 1950 in President Harry S. Truman’s Office Files, 1945-1953 Part 4: Korean War File, Wake Island Talks, 1950.
[xviii] 朱建栄『毛沢東の戦争―中国が鴨緑江を渡るまで』(岩波書店、2004)82
[xix] 同上書、418-420
[xx] The President's News Conference of November 16, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950, pp. 712-713.
[xxi] 原子爆弾に関する発言の基準はNSC-126で後に定められている。それによると、原子爆弾に関する発言は、自由世界の士気を高めるものであり、国民が兵器の能力について正しく判断できるものであり、そして、アメリカがこうした兵器を意にも介さずに実行に移すという恐れを作り出せるものでなければならない(Memorandum on Public Statement with respect to Certain American Weapons in Documents of the National Security Council, 1947-1977)
[xxii] The President's News Conference of November 30, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950, pp.726-727.
[xxiii] David McCullough, Truman (New York: Simon & Schuster, 1992), p.821.
[xxiv] Robert Underhill, The Truman Persuations (Ames: The Iowa State University Press, 1981), p.241.
[xxv] 同日、会見後にホワイトハウスから「大統領のみが原子爆弾使用権限を有し、そのような権限が与えられているということを強調したにすぎない」とする声明文が出された。
[xxvi] 当時、大統領の発言を直接引用することは本来は禁止されていて、それが解禁されたのはアイゼンハワー政権になってからである(ドワイト・D・アイゼンハワー『アイゼンハワー回顧録』1、仲晃・佐々木謙一共訳(みすず書房、1965)208)。トルーマンは、記者会見の前に予想される質問やそれに対する答えなどをスタッフに準備させ、ブリーフィングを受けてから記者会見に臨むのが常であった。
[xxvii] American Institute of Public Opinion, The Gallup Poll: Public Opinion, 1935-1971, v.2 (New York: Random House, 1972), p.1027.
[xxviii] Ibid., p.822.
[xxix] ハリー・S・トルーマン『トルーマン回顧録』2、加瀬敏一・掘江芳孝訳(恒文社、1966)297頁。
[xxx] Memorandum for the President, December 4, 1950 in George M. Elsey Papers, box 54.エルゼイがこのような提言をしたのは、マッカーサーの発言が主な原因だと考えられる。1950121日、マッカーサーはインタビューの中で、トルーマン政権が中国への攻撃を認めないことで非常に不利な条件で戦わざるを得ないと発言している。トルーマンは後にこの発言問題が起きた時にマッカーサーを罷免しておけばよかったと述懐している(Langston, Thomas. The Cold War Presidency: A Documentary History (Washington: A Division of Congressional Quarterly, 2007), p.61)
[xxxi] Meomorandum for highly placed officials, December 5, 1950 in George M. Elsey Papers, box 54.
[xxxii] Memorandum for Mr. Short, January 2, 1951 in George M. Elsey Papers, box 54.
[xxxiii] Address Before the Midcentury White House Conference on Children and Youth, December 5, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950, p.734.
[xxxiv] アチソンは、中国義勇軍の参戦について、対応策が立てられないのであれば、ソ連の責任を追及するのは賢明ではないと提言している。さらにアチソンは、なぜならソ連が中国義勇軍と関与していると同盟軍が知って怯んでしまえば、我々の立場が弱められてしまうからだと理由を説明している(Memorandum for the President, the 73rd Meeting of the National Security Council, November 24, 1950 in Documents of the National Security Council, 1947-1977)
[xxxv] Radio and Television Report to the American People on the National Emergency, December 15, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950, p.741.
[xxxvi] NSC-100, January 11, 1951 in Documents of the National Security Council, 1947-1977.
[xxxvii] Radio and Television Report to the American People on the National Emergency, December 15, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950, p.745.
[xxxviii] タフト・ハートレー法(Taft-Hartley Act)は、1947年に制定された労使関係法の通称である。この法は、全国規模のストライキによって国家が非常事態に瀕した場合、政府が連邦裁判所を介してストライキ中止命令を下すことができると定めている。タフト・ハートレー法制定以前は、1935年に定められたワーグナー法(Wagner Act)により、労働者の諸権利に対して法的根拠が与えられていた。ワーグナー法はニュー・ディールの革新的な成果の一つであり、それ故にタフト・ハートレー法は労働者の権利を損なうものだとトルーマンは反対したのである。
[xxxix] Radio and Television Report to the American People on the National Emergency, December 15, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950, p.746.
[xl] Ibid., p.746.
[xli] Proclamation 2914: Proclaiming the Existence of a National Emergency, December 16, 1950 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950, pp.746-747.
[xlii] 例えば、195014日の一般教書演説では、「共産主義者の新しい帝国主義」という表現が使用されている(A Digest of Pertinent Data Appearing in Department of State Publications Issued During January, 1950 in President Harry S. Truman’s Office Files, 1945-1953 Part 3: Subject File, Foreign Affairs Russia-Moscow, 1945-1952)
[xliii] Information Memorandum No. 105, Februay 6, 1951, in George M. Elsey Papers, box 55.
[xliv] トルーマン『トルーマン回顧録』2316頁。
[xlv] Memorandum for the President, A Summary of the Discussion at the 74th Meeting of the National Security Council, December 12, 1950 in Documents of the National Security Council, 1947-1977.
[xlvi] イシドール・F・ストーン『秘史朝鮮戦争』内山敏訳 (青木書店、1966) 272-273頁。
[xlvii] Statement and Order by the President on Relieving General MacArthur of His Commands, April 11, 1951 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1951 (Washington: Government Printing Office, 1966), p.222.
[xlviii] Address in San Francisco at the War Memorial Opera House, October 17, 1950 in Public Papers of the President of the United States: Harry S. Truman, 1950, p.673.
[xlix] The President's News Conference of May 17, 1951 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1951, p.288.
[l] トルーマンは195145日の日記の中で、「公的にも私的にもマッカーサー自身が論議の的になった。彼はいつも物議を醸す人物だった」と記している(Diary Entry of Harry S Truman, April 5, 1951 in President Harry S.Truman’s Office Files, 1945-1953 Part 5: Truman Diaries and Hand Written Notes Files)
[li] Foreign Policy Aspects of the MacArthur Statement, August 26, 1950 in Official Conversations and Meetings of Dean Acheson.
[lii] General MacArthur’s Message on Formosa, undated in Official Conversations and Meetings of Dean Acheson.
[liii] McCullough, Truman, p.873.
[liv] Halford R.Ryan, Harry S, Truman: Presidential Rhetoric (Westport: Greenwood Press, 1993), p.81
[lv] マシュウ・B・リッジウェイ『朝鮮戦争』熊谷正巳・秦恒彦訳(恒文社、1976)169頁。
[lvi] 朱建栄『毛沢東の戦争』、437
[lvii] New York Herald Tribune, December 28, 1952.
[lviii] 捕虜解放の手法についてアメリカは自由解放を主張する一方、共産側は強制送還を主張していた。
[lix] 神谷不二『朝鮮戦争』、169頁。
[lx] The President’s News Conference at Key West, November 15, 1951 in Public Papers of the President of the United States: Harry S. Truman, 1951, p.629.
[lxi] Memorandum for the Secretary of Defense from the Presindent, May 23, 1952 in Charles S. Murphy Papers, box 14.
[lxii] American Institute of Public Opinion, The Gallup Poll: Public Opinion, 1935-1971, v.2, p.784.
[lxiii] American Institute of Public Opinion, The Gallup Poll: Public Opinion, 1935-1971, v.3 (New York: Random House, 1972), p.1032.
[lxiv] Fourth Draft, December 22, 1951 in President Harry S. Truman’s Office Files, 1945-1953 Part 2: Correspondence File, Union Message, State of the-January 9, 1952.
[lxv] Courses of Action in Korea in the Event No Armistice Is Achieved, August 31, 1951 in Documents of the National Security Council, Fourth Supplement.
[lxvi] Congressional Recordや予算関連特別教書などから総計した。
[lxvii] 産業全体に及ぶ価格統制に加え、超過利得税や個人所得税が課せられた。
[lxviii] American Institute of Public Opinion, The Gallup Poll: Public Opinion, 1935-1971, v.2, p.1108.
[lxix] Ibid., p.1046.
[lxx] Merle Miller, Plain Speaking: An Oral Biography of Harry S. Truman (New York: Berkley Publishing Corporation, 1973), p.369.
[lxxi] Comment by J. D. Clark on Third Draft in Charles M. Murphy Files, box 20
[lxxii] Annual Message to the Congress on the State of the Union, January 7, 1953 in Public Papers of the Presindents of the United States: Harry S. Truman, 1945-1953 (Online).
[lxxiii] Comment by J. D. Clark on Third Draft in Charles M. Murphy Files, box 20
[lxxiv] Annual Message to the Congress on the State of the Union, January 7, 1953 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1945-1953 (Online).