パニック障害に関する個人的経験

はじめに


 もしかするとあなたは今、「パニック障害」という言葉が気になってこのページを見ているかもしれない。もしくは自分がパニック障害ではないかと不安になって検索したところ、たまたまこのページを見つけたかもしれない。または家族や知人、恋人がパニック障害で苦しんでいるので少しでも解決策を探してあげたいのかもしれない。

 私はそういう人々に向けてパニック障害について自分が経験したことを書いておきたい。医師によって提供される情報は比較的正確だが、一つだけ問題点がある。医師自身はあくまで治療する側であって、治療される側、つまり、患者と同じ気持ちにはなれない。

 もしあなたがパニック障害に悩まされているなら、もしくは、パニック障害ではないかと不安になっているのであれば、患者として私がどのようにパニック障害を克服したかはきっと参考になるはずだ。もしくは家族や知人、恋人がパニック障害であれば、何か一緒に改善策を考えられるかもしれない。私は一人でも多くの人が救われることを願っている。

 もちろん私の経験はあくまで一つの症例に過ぎず、万能の処方箋など存在しない。症状は一人ひとり異なる。でも何らかのヒントはあるはずだ。

発症


 パニック障害は今では完治している。先日、医師から通院はもう必要ないと言われたばかりだ。

 ではどのような症状だったのか。電車にまったく乗れなかった。現在では当たり前のように私は電車に乗っている。しかし、以前は電車にまったく乗れなかった。

 パニック障害を知らない人からすれば、電車にまったく乗れないとはどういうことか理解し難いだろう。でも小さなきっかけで誰でもそうなる恐れはある。

 私の場合もそうだった。ある日、私は東京から鎌倉に行く用事があった。それは恩師を訪ねるためだった。その頃、いろいろと無理を重ねていたせいか疲れていた。もともと私は疲れを感じにくい体質。何かに熱中すると周囲のことは完全に忘れて没頭する。トイレも食事も睡眠もなしでひたすら打ち込む。

 電車の中で揺られていた私は急に気分が悪くなった。たぶん寝不足によるものか、貧血によるものか、それとも食べたものが悪かったのか、原因は分からない。とにかく立っていられなくなった。強烈な吐き気がして四肢から力が抜ける。冷や汗が大量に出る。喉がひりひりと渇く。

 途中の駅で降りた。プラットフォームのベンチに座って暫く風に当たったが気分がどうも優れない。夏だというのに体がガタガタと震える。これはどうもおかしいと思った。そこで私は必死の思いで駅員に声を掛けた。

 駅員は私のただならぬ様子に気付いた。どうやら真っ青な顔をしていたらしい。救急車が必要かと言われたが、それは断る。代わりにタクシーを呼んでもらう。

 タクシーで私は病院に行った。救急外来ではなく普通の診察。気分が悪くタクシーの運転手に事情を説明する余裕がなかった。心配そうな顔をした運転手は、私が車を降りるのに手を貸してくれた。しかし、すぐに戻って発車してしまった。決まり悪げな表情を浮かべながら。

 もちろん運転手の義務は私を病院まで送り届けることだから恨む筋合いはない。おぼつかない足元で私は受付に行った。簡単な問診票に記入した後、暫くして診察を受けた。

 いろいろな検査を受けた。詳細は覚えていない。ただ覚えているのは、医師が「どこも悪くありませんよ」と最後に言ったことだ。

 仮病ではない。詐病でもない。そもそも私は子供の頃から病院とは無縁で生きてきた。入院したこともなければ、通院したこともほとんどない。組み体操で落ちて怪我をした時とよく鼻血が出るから耳鼻科で診てもらったくらいだ。

 その時はそれで終わりだった。私は大事を取って翌日の予定をキャンセルしてその日は病院の近くのビジネスホテルに泊まった。

 翌朝、嘘のように何ともなかった。そして、暫く経つと私は電車の中で気分が悪くなったことを忘れていた。しかし、ある時、同じように電車に乗っている時にふと不安が脳裏をよぎった。また気分が悪くなったらどうしようと。そう思い始めると止まらなかった。

 いつもより動悸が激しいような気がする。ここで吐いたらどうしよう。不安が不安を呼び、雪だるま式に膨らむ。不安で胸が締め付けられるようだ。何が不安か。なぜ自分が不安になっているか分からないのが不安なのだ。

 そういうことが何回も繰り返され、私はついに電車に乗れなくなった。電車に乗れないと仕事に行けなくなる。
 
 なぜなら私は車を持っていない。免許は持っているが完全にペーパードライバーだ。それに運転中に気を失って事故を起こしたらどうなるか。そう思うと車には乗れない。

 でも仕事には行かなくてはならない。自宅から大学まで50キロはある。歩くのは無理だ。ではどうするか。電車や自動車が駄目なら自転車がある。私は自転車で大学に通うことにした。

 「電車に乗れないから自転車で通う」と周囲に言ってもなかなか理解されないだろうから「健康のために運動する」と言ってごまかした。それから暫く自転車通勤が続いた。

悪化


 自転車通勤という手で何とか凌いでいたが、新たな問題が生じる。体重が急激に減少し始めた。もともと痩せ形なのにさらに細くなった。自転車通勤でカロリー消費が増えたせいだと私は結論付けて深く考えなかった。しかし、今から思えば消費カロリーの増加が問題ではなく、本当の問題は食事量の減少にあった。

 徐々に私は食べなくなった。ご飯を食べずにおかずだけ食べる。最初はそんな感じで始まった。それから半分だけ食べるに変わり、さらに進んでおかずを一品だけ食べるといったように減っていった。

 瘦身願望はない。太ることが怖いという感情はまったくない。そもそも私は体質的に太れない。

 食べたい。もしくは食べなければという意識はある。でも身体が受け付けない。

 喩え話で説明すればきっと分かりやすい。100メートル全力疾走を10回やった直後に牛丼大盛りを差し出されて食べろと言われたらどうだろう。とても食べられないと思う。それと似たような感じだった。

 そういう状態が続いて私は遂にまったく食べられなくなった。そして、栄養不良で立てなくなって医師に往診に来てもらうはめになった。即入院。

 入院していろいろ検査を受けた。食べられないのはきっと胃腸に問題があるに違いないということで消化器官の検査を受けた。しかし、何も問題は見つからなかった。結局、食べられないのは変わらず、私は点滴だけで生き長らえた。そういう入院生活が約2週間続いた。

 その間、治療はまったくなされなかった。病院側の落ち度ではない。原因が不明なのだから手の施しようがなかったからだ。栄養補給以外には。

 不思議と意識ははっきりしていた。することが何もなく、病院の天井を見ているだけなので考える時間はある。私は考えた。内臓器官に問題がどこもないのであれば、精神的な問題ではないか。そう思ってソーシャルワーカーを呼んで精神病院への転院を手配してもらった。

治療


 自分自身の意思で精神病院に入院すると決断する患者は珍しいらしい。ほとんどの場合は家族が患者を入院させるようだ。ただ私は、精神を病んでいた女性と交際していた経験があるので、ある程度、理解があった。自分が今、食べられないのは精神的な問題にあるのではと考えることができた。

 私の場合、重篤な精神疾患ではないので、開放病棟を選べた。ただ開放病棟のほうはベッドに空きがなく、すぐに入院できるという閉鎖病棟を選んだ。そもそも私は仕事以外のことになると細かいことは気にしない性格だ。開放病棟と閉鎖病棟の違いは気になる人は気になるだろうが、私はどうでも良かった。治療さえ受けられれば。

 医師の診断を早速受けたが、結局、明確な病名は付けられなかった。パニック障害はあくまで症状であって根本原因ではないといった趣旨の説明を受けた。拒食症でもない。なぜなら本人に食べる意思があるので。

 明確な病名はなかったが、ただどういう状態にあるかは説明を受けた。簡単に言えば、エンジンがヒートアップしてラジエーターもぶっ壊れた状態になっている。必要なのは神経の興奮を抑えること。そこでジプレキサという薬を服用することになった。食欲増進効果や不眠を改善する作用があるという。確かに私は食べることも眠ることもできないという状態になっていたのでまさにぴったりだった。

 どの薬が自分の症状に合っているかはよくよく医師と相談すべきだと思う。服薬が始まってすぐに治ったわけではない。二歩進んで一歩下がる。一歩進んで二歩下がる。といった感じで一進一退だった。

 薬の作用のせいで次第によく眠れるようにはなった。四六時中眠いのには閉口したけれど。それは神経の興奮が落ち着いてきたせいだ。食事も少しだけなら食べられるようになった。最初は本当に一口も食べられず、約2週間は点滴だったが。

 結局、私の身体は体重が40キロ台前半まで落ちた。BMIなら14を切る。閉鎖病棟だったが、私は自由に出ることができた。でも体力があまりになくて行ける場所はせいぜい病院の中庭だけだった。

 頭の中に雲がかかったようで覚えていないことがけっこうある。もともと本が好きだったこともあり、ベッドで本をずっと読んでいた。自分では読んでいるつもりでも実は読めていなかったのかもしれない。

 行動は何も制限されていない。そこで私はかねてより進めていた『アメリカ歴代大統領大全シリーズ』の原稿を書いていた。元気になった後で見直してみると随分とおかしなところがあった。書けているつもりでも実は書けていなかったのかもしれない。

 普通に食べられるようになるまで2ヶ月かかった。半分くらいは固形物が食べられず、メイバランスという飲料をひたすら飲んでいた。最後には点滴が取れ、近くの古本屋まで自分だけで行けるようになった。食べられないことが緊急の課題だったので、食べられるようになった私は退院を許可された。

認知行動療法


 退院後、仕事に復帰したが、パニック障害、つまり、電車に乗れない症状は治っていなかった。やはり電車に乗るとどうしても気持ちが悪くなって耐えられなくなる。

 そこで私はいろいろと自分で調べてみた。認知行動療法というものがあるのを知った。

 あくまで私の考えだが、医師はあくまで治療を助けるだけで、治療の主体は患者自身の身体である。

 これは私が学生を教えるのと同じこと。つまり、私はあくまで学ぼうとする学生を助けるだけで、学生自身が学ぶことが主体である。私が学生に代わって学ぶことはできないのだから。学生自身が努力しなければ、私がいくら良い講義を行っても効果はゼロだ。医療も同じではなかろうか。

 私の担当医もそういう考え方で、できる限り投薬しない治療方針だった。私もそれが望ましかった。薬は必要なければ飲まないに越したことはない。もちろん医師が必要だと判断すれば服薬する必要がある時もあるが。

 認知行動療法だが、私は専門家ではない。でも自分に合う方法がないか試行錯誤してみた。他の人に同様に有効かは不明だが、ヒントにはなるだろう。医師に診てもらえる時間は非常に少ない。したがって、患者自身がどのように改善できるか自分で考えるのが大事だ。医師の助言は大事だが、最終的に治すのはやはり自分自身だ。自分の心身なのだから。

 電車に乗れない。まずそれは事実だ。何が問題か。不安になるのが問題だ。悪循環が起きている。

 電車に乗る⇒また気分が悪くなるのではないかと不安になる⇒不安が不安を呼び本当に気分が悪くなる⇒次に電車に乗る⇒また・・・・・

 無限ループをどこかで断ち切らなければ前に進めない。そこで私は小さな成功体験を積むことにした。自分なりのルールを作って。

 いきなりあらゆる条件で電車に乗るのは無理だ。無理な挑戦はしない。段階を設定して順番にクリアしていく。

 1、駅まで行って入場券を買ってプラットフォームの中に入る。そして、電車が行き来するのをただ見る。
 2、乗客が非常に少ない時間帯に各停で一駅だけ乗ってみる。3分。
 3、乗客が非常に少ない時間帯に各停で二駅だけ乗ってみる。5分。
 ・・・・・・・・と徐々に駅数を増やしていき、最終的に都心に出られるようにする。
 4、乗客が非常に少ない時間帯に急行で次の停車駅まで乗ってみる。10分。
 ・・・・・・・・と徐々に駅数を増やしていき、最終的に都心に出られるようにする。
 5、乗客が少し多い時間帯に各停で一駅だけ乗ってみる。
 ラッシュ時に急行で都心まで出ることができればゴール。
 
 このようにハードルを上げていく。ゲームのような感覚でできるだけ楽しんでやる。

 不安を抑えるために頓服薬も利用した。薬を飲んだから安心だと自分を騙した。もちろん薬に依存しては意味がないので、ハードルを上げていく過程で薬を飲む量も少しずつ減らした。

 そして、最後に私は気付いた。薬をまったく飲まなくてもいくら混雑していても全然、平気じゃないか。本でも読んでいれば電車に乗っている時間なんかすぐに過ぎるじゃないか。挑戦を始めてから半年が経っていた。

身体を鍛える


 退院時に体重は50キロを切るか切らないかだった。2キロのダンベルを腕に持って曲げようとしても曲げられない。それくらい痩せ細って筋肉が落ちた。

 5年経った今では100キロのバーベルを扱うようになった。25キロの山道を普通の人のコースタイムの半分で踏破する。

 無心になれる運動は身体だけではなく精神にも良い影響を与える。私は好きなことを仕事にしている。それは昔も今も同じ。でもたとえ好きなことであってもやり過ぎは何でもストレスになる。

 人間にはきっと無心になれる時間が必要。ウェイト・トレーニングをすると、今、目の前にあるバーベルをいかに持ち上げるかしか考えなくなる。それで良い。運動後は血が全身を駆け巡って爽快になる。筋肉痛にはなるけれど。

 乗り物全般はもう克服できた。ニュー・ヨークの近隣都市から自宅まで、近郊電車⇒地下鉄⇒エアトレイン⇒飛行機(ニュー・ヨーク~東京)⇒飛行機(東京~大阪)⇒電車と合計20時間近くの乗り継ぎもできるようになった。途中、不安を感じることもなくなった。

 もちろん時に電車の中で今日は調子が悪いなと感じることはある。でもたまにはそういうこともあるかと思うと不安は生じない。たくさんのハードルを超えた成功体験がしっかりと根付いているからだ。混雑している急行を避けて各停で帰ることもあるけれど、それは息抜きだと思うようにしている。完璧を決して求めない。概ね支障がなければOKとする気持ちを忘れない。

 だから今、かつての私と同じように電車にまったく乗れなくなっている人がいたとしても諦めないで欲しい。症状は違うかもしれない。回復過程も違うかもしれない。でもここに確かに回復した私がいる。どうか望みは捨てないで欲しい。
 
 読んでくれる人がいるかは知らないけれど、たとえ一人でも支えになれば、こうして文章を書く意義は大いにある。なぜなら文章は、本来、書く人と読む人の対話なのだから。