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ボストン茶会事件とモホーク族


 ボストン茶会事件で自由の息子たちはモホーク族の装束を身に纏って紅茶を海に投げ込んだ。なぜわざわざモホーク族の装束を身にまとったのか。当局の追及を避けるという意味もあったが、他の意味もあった。
 実はモホーク族がイギリス本国を訪れて大きな話題になったことがあった。イギリスの文人たちの間でモホーク族は理想の「自然人」の象徴として扱われるようになった。そして、モホーク族が書いたという触れ込みで政治風刺を展開した。そうした政治風刺は有名な雑誌に掲載されていたのでアメリカ人も読む機会があった。
 ボストン茶会事件の当事者たちもそうしたモホーク族のイメージを借りて自分たちの政治的不満を表明した。それは自由の息子達が作った歌にはっきりと示されている。

モホーク族よ、斧を手に結集するのだ
そして、ジョージ王に宣告しよう
あんたが飲む外国産のお茶にわれらの税金など払わぬぞ、と。
やつの威嚇はこけおどし。
われらの娘や妻に無理やり
やつの穢らわしい紅茶を飲ませようとは!
だからものども、急ぎ集まれ
グリーンドラゴンでわれらの族長たちと顔合わせだ!
われらのワレン博士も、勇者リヴィアもいる
ものごとなす手と、励ましの言葉で
自由と法を掴み取るぞ。
わが邦の”勇敢”で屈強の守り手たちが
自由のために戦うのを
真のノースエンド魂はけっして見殺しにすまい!
だからものども、急ぎ集まれ
グリーンドラゴンでわれらの族長と顔合わせだ。

『アメリカ建国とイロコイ民主制』より引用。『アメリカ建国とイロコイ民主制』は、イロコイ六部族連合が白人の到来よりも先に独自に編み出していた「憲法」や思想がどのように西洋思想やアメリカ建国の理念に影響を及ぼしたのか論述した画期的な本。

『独立軍の花嫁』と歴史の世界



 対象となる時代は語られている内容から独立戦争の中盤以降。南部の戦局を概観すると、北部が独立戦争の最初の主戦場になった一方で、南部はあくまで王党派と愛国派(独立支持派)の内戦という意味合いが強かった。
 独立戦争初期にイギリス軍はチャールストンを攻略しようとしたが、コナーも参加したというサリヴァン砦の戦いで攻略を断念している。ただ後にイギリス軍はチャールストンの攻略に成功している。チャールストンは南部最大の街。 
 ヨークタウンの戦いが起きるまで大陸軍本隊は南部で戦うことはなかった。「沼地の狐」マリオンや「カロライナの闘鶏」サムターといった民兵を率いるリーダーがイギリス軍や王党派をゲリラ戦術で悩ませた。マリオンは非常に優れたリーダーとして知られている。機智でイギリス軍を翻弄した。部下にも慕われている。
ピーディー川を渡るマリオン
『アメリカ人の物語3』(Kindle版)からマリオンの逸話を特別に抜粋。

 キャムデンの戦いが大陸軍の大敗に終わった時、すぐ近くでマリオンは民兵隊を率いていた。マリオンは一先ず兵士達を落ち着かせるために森の中に陣取った。そして、次のように演説した。
 諸君、我々が置かれた状況に気付いていると思う。かつて起きたこととまったく異なることだ。かつて我々は幸福な人民であった。自由が我々の大地を照らし、太陽のようにはるか向こうの土地を輝かせていた。我々と我々の父祖達は森を賑やかにする鳥のように喜んでその光の恩恵を受けてきた。しかし、ああ、黄金の日々は過ぎ去り、戦雲が今、暗く我々の頭上に垂れ込めている。かつて平和であった我々の大地は喧騒と死に溢れている。外国のならず者達が我々の炉辺と祭壇を踏み荒そうとしている。我々には隷属か死かの他に選択肢は残されていない。2つの勇敢な部隊が我々を救援しにやって来たが両方とも敗北した。リンカン将軍配下の部隊はサヴァナで打ち破られた。そして、ゲーツ将軍配下の部隊も愚かにも軍を進め過ぎてキャムデンで散り散りになった。したがって、北から救援が来るという我々の希望は終わりを迎えた。哀れなカロライナは自分自身で戦うしかない。彼女[カロライナ]の子供達が愚かにも敵と通じ、彼女のために1,000人に1人も立ち上がらないのであれば、悲しい選択肢を採るしかない。諸君、この重大な問題について意見を聞きたい。私自身は、人生は束の間かもしれないが、その束の間の時間のすべてを責務に捧げようと思っている。この無防備な国を隷属の悪弊から守ることこそ私の最大の責務である。したがって私は、私が生きている間、彼女[カロライナ]を奴隷にさせることはないと決意している。彼女は惨めな状況に陥るかもしれない。しかし、この私の目はそれを見ることは決してない。私の目の前で彼女が鎖の音を響かせることはない。そして、『あなたの臆病な心が私をこのような状態に置いたのです』と書かれた恥ずべき名札を示すこともない。
マリオンの演説を聞いた兵士達は、声を揃えて「我々は我々の国を守る。さもなければあなたと一緒に死ぬだけだ」と言った。それを聞いてマリオンは満足そうに頷いて言った。
さあ、我が勇敢なる戦友達よ、剣を取れ。我々の永久の絆を象徴するために輪を作れ。刃を天に向け、神に我々の自由を願い、決してイギリスの奴隷にはならないと誓おう。
マリオンの提案に兵士達が従ったのは言うまでもない。独立戦争において南部ではマリオンと先程、挙げたサムターが英雄である。
 しばらくして大陸軍からラファイエットやグリーン、モーガンなどが率いる部隊が到着してイギリス軍と対峙した。その辺りは同じく『アメリカ人の物語3』(Kindle版)で紹介している。もちろん『独立軍の花嫁』でも登場するカウペンズの戦いも詳しく解説。タールトンも登場する。モーガンに関心がある人は『アメリカ人の物語1』(書籍版)から読んで欲しい。若き日のモーガンもしっかり登場している。

 ヒロインのサマンサ(サム)。王党派の農園主の一人娘。この当時、子供の数が多いので一人娘は珍しい。結婚で重要なのは個人の意思ではなく家柄や財産。特に女性は親の決定権が非常に強かった。
 地域や時代によるが、一般的に父親の財産はサマンサが女相続人として相続する。未婚の場合、自由に財産を処分できるが、結婚すると財産は夫の管理下に置かれることが多い。
 「教会」と言っているのはおそらく国教会。主に海岸部の農園主が国教会と強く結び付き、支配階層を形成していた。
 奴隷に読み書きを教えるのが禁じられていたのは本当のことである。それは奴隷が読み書きを覚えると反乱を企てるのに使ったりするのではと農園主が恐れたためである。
 サマンサが農園の女主人として教育を受ける中で民間医療知識を身に付けているのは当時としてごく普通のことだった。ただ作中に登場する医療知識は少し時代が進んでいる。消毒という発想は当時はまだほとんどなかった。麻酔がなかったので阿片を鎮痛剤代わりに使うことはよくあった。
 農園主と奴隷の話、農園の生活などについては『アメリカ人の物語1』(書籍版)で詳しく書いた。

 コナーが閉じ込められた牢獄船について。コナーはどのような過酷な環境に置かれていたのか。牢獄船がどういうものだったのか『アメリカ人の物語3』から特別に抜粋。

 ニュー・ヨークを流れるイースト川には収容船が浮かんでいた。それはアメリカ軍の捕虜を押し込める獄舎であった。長い間、放置されていた収容船は、船体が風波に洗われて灰色にささくれていたが、ペンキで引かれた満載喫水線は泥で濁った浅瀬の上にまだ見えている。できるだけ多くの捕虜を収容できるように船内の隔壁は取り払われていた。暗くて狭い船倉が捕虜の生活の場であった。与えられる食事は虫が巣食い、蚤や虱が跋扈していた。チフス、赤痢、そして、壊血病が捕虜達の命を次々と奪った。ある者は次のように記している。

  私は自分が胸の悪くなるような牢獄にいるのに気付いた。最も陰惨でぞっとするようなもので溢れていた。むかつきながら不潔な空気を吸い、汚物にさらされ、病と死の恐怖に囲まれていた。
また別の者はさらに詳しく記している。
 
 灼熱の太陽が一日中、甲板に照り付けていたので、酷暑は耐え難く、彼らはすべて裸になっていた。それにそうしたほうが虱を取るのに便利だからである。しかし、病人は生きながら虱に体中を食われていた。彼らの病的な表情とぞっとするような様子は非常に恐ろしいものだった。ある者は、呪いの言葉を吐いて悪態をつき、またある者は泣き、祈り、そして、手を強く振っていた。そして、さながら幽霊のように徘徊する。錯乱してしまって譫言を言ったり暴れたりする者もいる。ある者は死に、そして、腐敗している。すべての者が息切れで苦しんでいる。空気があまりに淀んでいたので、時にランプの火が点かず、そのため10日間も立ってから死体が見つかることもあった。


 捕虜収容船の数は多い時で20隻を数えた。猛烈な悪臭を漂わせながら数え切れない死体が舷側から水中に投じられた。イギリス軍の士官は、「これはおまえ達の反逆に対する公正な処罰である。否、おまえ達は反逆者にしてはまともな扱いを受けた」と嘯いたという。その中にはおそらくまだ息がある者がたくさんいたに違いない。
 名もなく顔もなく記録にも残らない死者が辿った運命を悼む者はいたのだろうか。その家族は、死者を悼もうにも彼らが冷たい水中に没したことを知らないのだ。そうした名も無き遺骸が川岸に打ち寄せずに済む日はなかった。何年も経ってそうした遺骸が浮かび上がることも稀ではなかった。ニュー・ヨークの市民は、遺骸を目にする度にイギリス軍の残虐な行為への怒りを新たにしたという。
 一説によれば、獄舎で命を落とした兵士の数は1万1,000人にのぼったという。士官はしばしば捕虜交換で解放されたが、一般兵士が解放される望みはほとんどなかった。イギリス軍が捕虜にした兵士の数は、アメリカ軍が捕虜にした兵士の数よりも多いのが常であったからである。
 しかも、ワシントンは、ろくに装備も整わず訓練も受けずに捕虜になった民兵をイギリス兵と積極的に交換しようとは思わなかった。捕虜を人道的に扱うように訴えてはいたものの、ワシントンは、熟練した正規兵を解放して再び敵に回す危険を犯そうとはしなかった。
 こうした要因が重なって、捕虜となった兵士達はなかなか解放されず、最後まで生き残って解放された捕虜は僅か500人であったという。万骨枯れて一将功成ると言うが、これはあまりにも悲惨な犠牲である。

 コナーは天然痘の予防接種を受けていると言っている。実は当時の予防接種は人痘法と言って後に開発される牛痘法よりも非常に危険だった。ただワシントンは、天然痘で軍が壊滅しないように兵士に予防接種を受けさせている。そうした集団予防接種は、予防接種自体があやしい魔術だと思う人も多かった当時としては革新的なことだった。

 サマンサが髪を染める時に出てくる「インディゴ農園」。インディゴは南部の重要な産品だった。だからインディゴを使うのは当然の発想だと言える。
 作中でマッチを壁に擦ってするという場面があるが、当時はまだ黄燐マッチはない。マッチの原型がようやく現れ始めた時代。1784年11月11日にジェファソンがマディソンに次のように書いている。『トマス・ジェファソン伝記事典』から抜粋。

 これらのマッチは、一端に燐が被せられた細蝋燭からなり、全体はガラス管に密封されている。[輸送時に]壊れた場合に備えて、管にある小さな輪について説明しておきます。燐が塗られた一端をまず暖めます。[中略]。それからそれを素早く輪の近くに移して管の中から燐が塗られた一端を引き出します。引き出した途端にそれは燃え出します。火が完全に点くように、管を(燐が塗られた一端を下にして)約45度に傾けておくといつもうまくいくようです。[中略]。これをあなたのベッドの脇に蝋燭とともに置けば、ベッドから出なくても、夜のどんな時でも灯りを点すことができます。これをあなたの書き物机の上に置けば、3,4通の手紙を封蝋することができるでしょうし、もしもっと封蝋がしたければ蝋燭に火を点けることもできますから、夏には便利でしょう。森の中では火打石の代わりになります。[中略]。燐を手に落とさないように、細蝋燭を引き出す時は十分に注意しなければなりません。なぜならそれは除去することが難しく、もし十分な量があれば骨の髄まで焼けてしまうからです。尿は燐を除去すると言われています。

 マリオンの部隊に少年が所属しているが、当時は14歳くらいの少年がいるのは珍しいことではなかった。大陸軍でもそう記録されている。
 女性兵士は存在しなかった。ただし男装して戦いに参加した女性であれば複数確認されている。ある女性は男装してずっと女性であることを隠し通したが、戦闘で負傷して治療を受けたせいで真実が発覚してしまった。その結果、それ以上、戦えなくなった。ただ兵士としての年金は受け取っているので正式に兵士として認められていたことになる。

 サマンサのライフル銃の腕前が作中で登場するが、当時の人々の射撃能力はどの程度だったのか。『アメリカ人の物語2』(Kindle版)から特別に抜粋。

 この当時、一般的であったマスケット銃とライフル銃の差は銃腔に旋条があるか否かである。旋条は、銃身の内部に施された螺旋状の溝であり、弾丸に旋回運動を与え、弾道の直進性を高める構造である。直進性が高まれば命中率は上がる。約230メートルでも的を射抜くことができるというライフル銃の射撃性能は、マスケット銃と比べると驚異的であった。
 イギリス軍の標準装備であるロング・ランド・パターン・マスケット銃(愛称「ブラウン・べス」)の射撃性能は、当時の記録によれば、最大でも約140メートルであった。標準的な殺傷可能距離になると約72メートルから約91メートルである。つまり、ライフル銃を使えばマスケット銃の射程外から攻撃できるということである。ライフル銃兵が恐れられたのも無理はない。
 独立戦争が始まった頃、マディソンは友人に宛てて次のようにライフル銃兵について記している。

 この[ヴァージニア]植民地の強みは、主に高地諸郡のライフル銃兵にあります。我々はライフル銃兵をたくさん抱えています。この技術がもたらす完璧さにあなたは驚くでしょう。約91メートル離れた人の顔の大きさぐらいのものを外すことは素人からしても不注意な射撃に思われます。私は腕利きとは言えませんが、公正な機会があれば、その距離であれば打ち損じることはあまりありません。もし我々が戦闘に従事すれば、敵の士官達は約140メートルか約180メートルの距離に入る前に崩れ落ちるでしょう。私が思うに、実際、我々の中には約230メートルで的に当てることができる者がいます。
イギリスの地理学者のアイザック・ウェルドも『北アメリカ諸州及びカナダ旅行、1795年、1796年、そして、1797年』で次のように記録している。

 ライフル銃を持った経験豊かな狙撃手はクラウン銀貨よりも小さな的を約91メートル]先から確実に命中させることができる。戦争中、この街[ランカスター]に駐屯していたヴァージニアのライフル銃兵連隊に所属する2人の兵士は、互いの腕前を信頼していたので、約23センチメートル]四方の板を1人が膝の間に挟んでもう1人が約76メートルの距離から銃弾で撃ち抜く芸当をやって見せた。しばしば求めに応じて彼らはそれを交代で披露して街の人々を楽しませた。

 このようにライフル銃の利点を述べると、ではなぜイギリス軍がライフル銃を広く制式採用しなかったのかという疑問が浮かぶかもしれない。
  もちろんイギリス軍もライフル銃をまったく使っていなかったわけではないし、新式ライフル銃の開発も行っている。しかし、ライフル銃には、歩兵の一般装備として使用するにあたって不向きな欠点が幾つかあった。
 最も致命的な欠点は、銃弾の装填時間が非常に長くかかることである。具体的には、熟練した兵士でも45秒はかかる。場合によっては、一般的なマスケット銃の2倍もかかる。走りながら再装填できる者もいたそうだが、そのような器用な芸当ができる者は稀であった。
  その他にも主に3つの欠点がある。
  第1に、マスケット銃は品質が悪い弾薬も使うことができるが、ライフル銃は銃腔に旋条が施してあるために、清掃が難しく品質が悪い弾薬を使うことができない。
  第2に、ライフル銃は、所有者の身長や体型などの特徴に応じて作られた一点物である。したがって、マスケット銃よりも製造に時間がかかるうえに高価である。薬莢も所有者自身が準備しなければならず、支給品を使うことができない。
  第3に、技術的な問題からライフル銃に銃剣を装備することが難しかった。
 銃剣を装備することができないという点は射撃間隔の長さとともに重大な欠点だった。当時のヨーロッパの伝統的な戦闘技術では、歩兵は一斉射撃を2、3回行った後、最終的に銃剣で決着を付けるのが当然だと考えられていた。つまり、射撃性能は二の次だったのである。一斉射撃はあくまで敵を怯ませるものであり、怯んだところを銃剣で止めを刺すのが一般的であった。極言すれば、マスケット銃に銃剣が付いているのではなく、銃剣にマスケット銃が付いていたと言える。

 さてサマンサの腕前はどうだろうか?
 馬泥棒のスキルは南部の戦いでは有用だった。北部は秣が不足しやすく会戦で大規模な騎馬隊が活躍した例は少ない。しかし、南部では秣が確保しやすいので騎馬隊が活躍する場面が多かった。
マリオン部隊は塩を狙っている。塩が貴重品だったのは本当のことである。詳しい背景は『アメリカ人の物語2』(書籍版)の初稿から抜粋。

 古代から塩は重要な交易品であっただけではなく、軍隊になくてはならない物資であった。当時は冷蔵庫もなければ缶詰もない。塩漬けで食品を長期保存していた。肉を塩漬けにする場合、肉と同じ程度の重量の塩を使用することもあったという。塩が必要なのは人間だけではない。牛馬も塩を消費する。馬は人間の5倍、牛は人間の10倍も塩を消費する。それに消毒薬、鎮痛薬、整腸薬など医療にも塩は使用される。ナポレオンがロシア遠征で敗北して撤退する時に多くの兵士が生命を落とした原因の1つとして塩不足を指摘する者もいる。
 とにかく塩がなければ戦えない。日常生活を送れない。ある者は、「塩が非常に不足していて、もしまったく手に入らなければ、人びとは暴動を起こすだろう」と日記に書いている。民間でも皮革の保存、煙突の掃除、陶器の釉薬など塩はさまざまな用途に使われていた。クルミから作った灰汁を塩の代用品にしようとしたがあまりうまくいかなかったようだ。
 あなたは不思議に思ったのではないか。塩のようないかにも簡単に入手できそうな物資がなぜ不足したのか。現代のアメリカは世界最大の塩の生産国であり消費国でもある。しかし、当時のアメリカは、塩の国内生産量が非常に少なかった。それはイギリスの植民地政策の結果であった。植民地時代、アメリカは塩の自給を目指したが、イギリスは本国産やカリブ海産の安い塩を大量に流通させた。その結果、アメリカでは製塩産業が発展しなかった。
  独立戦争が始まった後、イギリスが強力な海軍で海上封鎖を行ったうえに、本国支持派が塩田を破壊して回ったので、アメリカは塩断ちに苦しむ。アメリカ人は、イギリス海軍の目を盗んで海水を煮詰めて何とか塩を作っていた。しかし、そうした製塩法は、効率が悪く、莫大な需要を満せない。

 一般的には当時の軍隊には、キャンプ・フォローワーと呼ばれる女性(兵士たちの妻や恋人、その他、家事雑用をする人々)も同行していたが、ゲリラ作戦のような行動をする部隊は特別だったと考えられる。キャンプ・フォローワーがいると行軍速度が落ちて敵に尻尾をつかまれやすくなり、キャンプに出入りする女性からいろいろ漏れることもある。

 作中に登場する「結婚公告」は当時の慣習。結婚する前に、結婚することを大きく張り出して告知する。簡単に言えば、この結婚に文句がある奴は名乗り出ろということ。いとこ同士で結婚する例が多いのは財産を分散させないためによくあった。

 サマンサが洋服屋で「質素な木綿のドレス」を購入しているシーンがある。当時、既製服を買う場合はロンドンの高級ドレスを購入するくらいで、普通は布地を買って仕立て屋に発注するか、それとも自分で縫って作った。既製服を買うという習慣はあまりなかったようだ。

 サマンサがボストン行きの駅馬車のキップを購入する話があるが、この当時はそういう駅馬車はなかった。駅馬車自体は皆無ではなかったが、そのような長距離の定期路線ができるのはもう少し後の話である。『アメリカ人の物語4』(Kindle版)から「駅馬車の父」と知られるリーヴァイ・ピーズを紹介したい。

 ピーズはマサチューセッツ出身の鍛冶屋で独立戦争の退役軍人である。ピーズは独立戦争に多大な貢献をしている。どのような貢献かと言えば、物資の調達である。ピーズは大陸軍のために通信を配達し、馬を購入し、物資を届けた。つまり、実質的に運送業を営んでいた。ピーズの舞台裏の活躍によって大陸軍はヨークタウン包囲を成功させることができた。
 そうした経験を生かしてピーズは、コネティカット州ハートフォードとサマーズの間を結ぶ駅馬車の定期路線を開設した。それは初めての長距離にわたる駅馬車の定期路線であった。1783年、駅馬車の定期路線はハートフォードからボストンの間でも開設された。ピーズの駅馬車の定員は11人でハートフォードからボストンまで約160キロメートルを4日間で走った。定期路線が設けられた当初、乗客はあまり多くなかったが、次第に定期路線沿いに宿屋が増え始めた。ピーズの事業は成功を収め、ハートフォードやボストンの他にウスター、スプリングフィールド、ニュー・ヨークなど多くの都市を結ぶ路線が作られた。こうして駅馬車は一部の階層の人々だけではなく誰でも使える公共の乗り物となった。当時の新聞に次のような広告が掲載されている。

 マサチューセッツ州スプリングフィールドからニュー・ハンプシャー州ダートマス・カレッジまで駅馬車の定期路線が多大な苦労の末に開設されたことを広告主は告知します。毎週月曜日午後1時にスプリングフィールドを出発します。同時にダートマス・カレッジからも駅馬車が出発します。火曜夜、ブラトルバロで待ち合わせをして乗客を交換して、それぞれスプリングフィールドとダートマス・カレッジに木曜日に戻ります。スプリングフィールドからの駅馬車は、月曜夜にノーザンプトンに泊まり、グリーンフィールドで食事をしてブラトルバロに火曜夜に到着します。ダートマスからの駅馬車は、ウィンザーで食事して、月曜夜にチャールストンに泊まり、火曜朝にチャールストンを出発して同夜にブラトルバロに到着します。快適な馬車と注意深い御者を提供します。公僕によって十分な注意が乗客に払われます。

 ピーズは運送業者として駅馬車を普及させる様々な発案を行っている。例えば駅馬車に御者だけではなく車掌も同乗させた。車掌は乗車券を販売を行うだけではなくしばしば料金を自分の懐に入れてしまう御者の不正を防止した。多くの業者が駅馬車に参入し始めるとピーズは共同で乗車券の販売所を設けるように提案した。そうすれば乗客はすべての業者の路線の乗車券を簡単に購入することができる。さらにピーズは特急列車に相当するサービスを考案している。つまり、停車する地点を減らして急ぐ代わりに特急料を徴収する方式である。後にピーズが考案した様々なサービスは鉄道会社に模倣され全国に広がることになる。

『独立軍の花嫁』の一番最後の一文。一般的に当時の女性の名前は、個人名+旧姓+夫の姓。ちなみに再婚すると、個人名+旧姓+前夫の姓+新夫の姓のようになる。最後の一文はそう思うと意味深い。

 当ブログのアメリカ歴史旅シリーズを見て貰えれば写真で『独立軍の花嫁』の世界が楽しめる。少し場所は違うけどね。

英単語の覚え方の違い

 学生に話を聞いていると単語帳を使って英単語を覚えていたらしい。英語の受験勉強はそういうものらしい。単語帳を使って英単語を覚えると以下のようになってしまう。

単語1(日本語)⇒英語1
単語2(日本語)⇒英語2
単語3(日本語)⇒英語3

 つまり、これは一つ一つの言葉に対応する意味を割り振っているだけ。その結果、どうなるか。英文を読む時に困る。なぜなら英単語同士の関連性を覚えていないのだから。例えば私は次のようなモデルで単語を覚えている。と言っても無意識にこれまでやってきたんだが。たくさん英文を読むと自然に分かってくるというか。
 つまり、単語群をカテゴリーとして覚えている。円の中にいろいろな単語が入る。要素別に整理して英単語同士の関連性を覚えている。ちょっと意味が違うかもだがcollocationってやつだろうか。ぶっちゃけ日本語の訳語は特に覚えていなかったりする。だって英語は英語で読めれば問題がないから。

 ある話題について、例えばアメリカ経済のFRBの動向とかいう話になると使われる名詞や動詞のグループはある程度、限定される。そういうセットが頭に入っていれば英文を読むのが楽になる。

 日本語⇒英語を一語一語覚えると和訳に役立つように思えるかもしれないがそうでもない。簡単な英文ならそれで通用する。でも難しい英文だと無理になる。なぜなら日本語と英語の構造は異なっていて本来、そのまま翻訳できないからだ。すると以下のような過程を適用するしかない。

 英語の構造と意味を英語で理解する⇒それを新たに日本の構造と意味で書き換える。英語力と日本語力が別個のものとして問われる。英語ができても日本語訳がすごく下手という人がいるのはこのため(英語力があって日本語力がない)。

 また日本語力に問題が無くても英文の翻訳がうまくできない人は逐語訳をやろうとするからできないのかもしれない。単語帳は使ってもよいかもだが、覚えるためではなくてチェックのためだけでよいと思う。この単語知ってたかな程度の。

アメリカの有名作家の収入

 20世紀前半のアメリカを代表する作家の1人にスコット・フィッツジェラルドがいる。アメリカ文学史では必ず登場するフィッツジェラルドだが、どの程度の収入があったのか。Living on $500,000 a Year―What F. Scott Fitzgerald’s tax returns reveal about his life and timesという面白い記事があったので簡単に内容をまとめておく。

 1919年、ベストセラーとなった『楽園のこちら側』が出版される前の年間収入は短編を書いて879ドル。納税を申告しなければならない基準を下回っている。

 1920年、『楽園のこちら側』のおかげで収入が1万7055ドルに激増。前年の20倍近く。4月に出版された『楽園のこちら側』は5万部近く売れた。1920年から1923年の間で印税は1万3,036ドルに上った。

 それ以後、フィッツジェラルドは平均で年間2万4,000ドルを稼いでいる。今のお金に直すと50万ドル程度である。

 晩年、フィッツジェラルドはハリウッドでシナリオを書く。1937年6月から1938年12月まで映画制作会社メトロ=ゴールドウィン=メイヤー社のために働き、8万5,000ドル、週当たりに約1,100ドルを受け取った。今の価値にすると1日3,000ドルは稼いでいたことになる。

 最も収入があった年は1938年で5万8,783ドルに上った。ちなみに当時のアメリカ大統領の報酬は7万5,000ドルである。

 フィッツジェラルドの生涯収入は44万9,713ドル、今の価値にすると900万ドルになる。ただ収入の大半は短編や映画のシナリオから得られたものであり、代表作の『華麗なるギャッツビー』の印税は生前に限定すると8,397ドルでしかない。全収入の2パーセントにも満たない。

 これだけ稼いでいたフィッツジェラルドであったが、豪奢な暮らし(家賃や召使いの給料などで年間1万ドル以上)に加えて、後には妻の治療費に多額のお金(15ヶ月間のサナトリウムでの治療費だけで1万3,000ドル)を費やしたせいで金策に困っていた。支出が3万6,000ドルに達した年もあるという。

 『白鯨』で有名なハーマン・メルヴィルの収入も見てみよう。Melville's Literary Earningsによれば、メルヴィルの生涯収益は8作品が5万953部売れて1万214ドル82セント。一番売れたのは処女作の『タイピー』(1846)。『白鯨』は今では代表作だがあまり売れなかった。1891年に亡くなっているので年平均で220ドル~230ドル程度にしかならない。フィッツジェラルドと時代が違うとはいえ少ない。もちろんこれだけでは暮らしていけないので税関吏をやっていた。

洋書の賢い購入方法

 私はアメリカの歴史を調べている。だからたくさん洋書を買う。できる限り安く買えるに越したことはない。そこで洋書を安く買う方法をまとめてみた。

 まず著作権が切れている本であれば無料でネット上で読めないか。一番使えるサイトはInternet Archive。基本的に登録など面倒なことはない。しかもPDFでダウンロードすればいつでもどの端末でも読めるので非常に便利。Internet ArchiveのWeb上のリーダーがよくできているのでPDFでダウンロードする必要はないと思う。

 さらに細かく検索したり、いろいろ調べる場合はHathiTrust Digital Libraryが良い。アメリカの大学図書館が中心の電子書籍図書館。一部に大学図書館のメンバーしか使えない機能があるが、一般利用者も通常の利用であれば問題なく使える。リーダーが高機能で見やすく使いやすい。ただ欠点としてInternet Archiveよりも表示速度が遅い場合が多い。

 大学図書館書籍アーカイブHathiTrustについて

 次は著作権が切れていない本の場合。もしくは著作権が切れていてもデジタル化されておらずネット上のどこにもない本の場合。そうなると購入するしかない。

 最初に見るのはAmazon.com。Amazon.comはおそらく最も豊富に書籍を取り揃えている。書籍以外も取り揃えていることもあって、例えばパンフレットのようなISBNが付いていない物もヒットする。まずAmazon.comで探す。

 見つかったらとりあえず最安値を確認する。通常、本体+Shipping+Handlingの合計となる。ここではDavid McCulloughの『1776』(Soft Cover)を例にする。『1776』の古本は4.48ドル(本体)+7.98ドル(Shipping+Handling)=12.46ドルとなっている。もちろん0.01ドル(本体)で出品しているマーケットプレイスはたくさんあるが、だいたいは日本へ発送できないというエラーが出る。しかもマーケットプレイスがそれぞれ日本へ発送できるか否かはいちいち一つひとつ確認しなければならない。非常に面倒。

 ちなみにキンドルだと19.33ドル。キンドルは一瞬で見られるが欠点もある。例えば絵が両開き二ページにまたがっている場合、ちゃんと見られなかったりする。図や絵が多い本はキンドルは避けたほうが良い。文字だけなら問題ないはず。

 もちろんAmazon.jpでも買える。Amazon.jpだと1463円、すなわち13.97ドル(2016年10月30日現在のレート)。ちなみにキンドルは2025円、すなわち19.34ドル。つまり、Amazon.comと同じ値段。ただ『1776』のようなベストセラーであればAmazon.jpにも並ぶが、そうではない本はまず検索にさえ引っ掛からない。したがって、まずAmazon.comで探してAmazon.jpで買えないか調べるのが鉄則。ISBNをコピペしておくと他のサイトでの検索に便利。

 いちいち一つひとつサイトを調べるのが面倒な時はPrice Comparison at 130 bookstoresやBookFinder.comという一挙に比較できるサイトがある。どれくらい精度があるのか不明だが、日本への発送を含めておおよその値段が複数のサイトを横断して分かるので極めて便利。個別のサイトを見るのであれば、他にBook Depository、AbeBooks、Biblioがある。

 Book Depositoryでは『1776』は17.31ドル。ただしShipping+Handlingがないので分かりやすい。それに以前に注文した時、「注文を受けましたが商品が準備できませんでした」という謝罪メールが届いたが、次回注文で使える一割引クーポンコードが添付されていた。高額な洋書を買う場合は非常にお得。包装は非常に簡素。新しい本が多く、古い本は少ない。送料が高くなるような重い本は得になりやすい。Amazon.comの場合、Shipping+Handlingのほうが本体よりも高いことが往々にしてある。

 AbeBooksでは『1776』は1.00ドル(本体)+6.70ドル(Shipping)=7.70ドル。AbeBooksの良い所は、Item Descriptionが非常に詳細な場合が多いこと。Amazon.comでどんな本か情報がなくて購入しようかどうか迷っていた本も詳しい情報を見て判断できるので助かる。高額の本の場合、買ってみて外れだと悲惨なことがあるので。また古本がどのような品質なのかわかるように書いてくれている販売元も多い。私は基本的にAbeBooksを使っている。

 Biblioは最近、知ったばかりであまり使っていないが、『1776』は1.00ドル(本体)+9.00ドル(Shipping)=10.00ドル。

 結論として『1776』(Soft Cover)を買うのであればAbeBooksで買うと一番安い。ただAmazon.comの場合、円高の時にAmazon.comのギフトカードを購入しておいて後で使うという手がある。それにどこが安いかはやはり本によって違う。

 他にも本・書籍通販検索の洋書サイトで調べる手もある。安価な本であればよいが、少しでも高いと感じる本は少し時間を掛けて調べるとかなり値段が違うこともある。

昔の人の日記を読んで面白いこと

同じ時代、同じ場所を見ても感想が違うこと。1751年にバルバドス島を訪れたジョージ・ワシントンの日記と1774年に同じバルバドス島を訪れたニコラス・クレスウェルの日記を比べると着眼点が違う。23年のずれはあるけどほぼ同じ時代と考えてよいだろう。面白い点は、クレスウェルが奴隷について詳細に書いているがワシントンは奴隷についてあまり書いていない点。クレスウェルにとって奴隷はもともと馴染みのないものであり、ワシントンにとって奴隷はありきたりで特筆すべきものではないからだ。つまり、その人にとって何が心を動かすものであったかで日記の内容は変わる。ワシントンが日記で「ドルフィン」を食べたと書いているんだが、説明が少なくイルカなのかシイラなのかよく分からない(イルカもシイラもドルフィンと呼ばれていた)。どうやらクレスウェルの日記によればシイラのことらしい。

『文学としての歴史』抜粋

セオドア・ローズヴェルトの歴史記述論。大統領の中で著作がたくさんあるのはセオドア・ローズヴェルトとウィルソンだが、前者の作品のほうが好きかも。2人とも白人中心主義が色濃く残っているのは仕方ない点だが・・・・・。

「ミイラや墳墓の副葬品を細かく記述しても我々がエジプトの偉大な時代を理解する助けにはほとんどならない。同じくマウント・ヴァーノンの墓所の内部に入っても、ワシントンがどのようにぼろぼろの古参兵を戦いに導いたのか、ワシントンがどのような政治家であったか、そう高潔な品性の力によってどのように人民を1つの偉大な国民にしたのか理解する助けにはほとんどならない。偉大な歴史家は普通の人々の生活を、彼が書く時代の普通の男女を我々に描いてみせなければならない。最高の想像力を持つ者だけがそうすることができるだろう。皮革や羊毛に関する関税の報告書を読んでも牧場や工場で暮らしている男女の実際の生活が何も分からないように、数字の集合で過去の姿を描き出すことはできない。偉大な歴史家はできる限りの手段を使って彼が記述する時代の男女の日常生活を我々に提示する。こうした生活を描くにあたって彼にとって無駄なものは何もない。仕事の道具、戦争の武器、彼らが書いた遺言書、彼らが行った取引、そして、彼らが宴や愛を囁く時の歌など彼はそれらをすべて使う。彼は我々に普通の時代の普通の人々の苦労を伝えることができなければならない。そして、普通の苦労が終わった時の気晴らしも。彼はいかなる出来事も完全に孤立しているわけではないことを決して忘れてはならない。勝利の時に世界を揺るがすことになる動きの微かで曖昧な始まりを追跡できなければならない」

ネイティヴ・アメリカンとタバコ

ネイティヴ・アメリカンにとってタバコがいかに重要なものであったのか。18世紀初頭に書かれた『ヴァージニアの歴史』に以下のように記されている。

「彼らは特別な方法で訪問者を迎える。たとえ互いの言葉が理解できなくてもタバコを吸うことで友人か敵かを区別する。それは次のような方法である。1,普彼らは普通のタバコのパイプよりも長くて大きい特別な目的のために作られたパイプを使う。すべての集落がそれを豊富に揃えていて平和のパイプと呼んでいる。2、彼らはこのパイプに訪問者の目の前でタバコを詰めて火を付ける。3、インディアンの族長が2、3回、タバコを吹かした後、訪問者の代表にそれを手渡す。4、もし言う訪問者がタバコを吸うことを拒めば、それは戦争の合図となる。5、もし平和を求めるのであれば訪問者の代表は1、2回、タバコを吹かして、その集落で2番目に高位の者に返す。その者は2、3回、タバコを吹かして訪問者の中で2番目に高位の者に戻す。それぞれの重要人物すべてに行き渡るまでそれが交互に繰り返される。そして、儀式は終わりとなる」

忘れられた本『パーシーの逸話集』

 『パーシーの逸話集』全20巻。1821年から1823年に刊行。欧米の歴史的逸話が大量に集められている。仮に逸話が創作としても尋常な量じゃない。でも知っている限りアメリカに関する話を読むと矛盾が見当たらない。1次史料もふんだんに引用されている。中にはどうやって手に入れたのかと思うものもあるけど。ちなみに日本に関する話も1つだけ含まれている(決闘の作法)。相当、欧米の歴史に精通している人間じゃないとちんぷんかんぷんの内容。それなりに面白く書かれてはいるけどね。でも知らない人物がこれでもかこれでもかと登場する。どのような内容か少し紹介すると例えばジョージ3世の生活。何かの記録を引用している。これは分かりやすい。

「国王一家は朝6時に起床して、それから2時間、彼ら自身の時間を楽しむ。8時、王太子、オスナバーグの司祭、王女、ウィリアム王子、エドワード王子がキュー[ロンドン西郊]にあるそれぞれの邸宅から両親と朝食を摂るためにやって来る。9時、年少の子供達がたどたどしい口調で笑いながら朝の挨拶をする。5人の年長者はそれぞれの用事に取り掛かる一方で幼い子供達は扶育者に付き添われてリッチモンド庭園で午前中を過ごす。国王と王妃は子供達が食事しているのを眺めてよく楽しんでいた。週に1度、すべての子供達が連れ立ってリッチモンド庭園に楽しい小旅行をした。午後、王妃は忙しく働き、国王は何かを王妃に読んで聞かせる。[中略]。夕方、すべての子供達はベッドに入る前にキュー宮殿にやって来て挨拶する。そして、同じ事が毎日繰り返される。運動、新鮮な空気、そして、軽い食事が国王の健康法であり活力の源である。陛下は主に野菜を食べワインはほとんど呑まない。王妃は多くの市井の淑女に言わせれば非常に禁欲的である。珍味佳肴が並べられているテーブルから彼女は最も普通の皿を選んで、しかも1回の食事に2つ以上のものを滅多に食べることはない」

 こういう調子で欧米諸国の様々な人物を古代からその当時まで縦横無尽に登場させている。