対象となる時代は語られている内容から独立戦争の中盤以降。南部の戦局を概観すると、北部が独立戦争の最初の主戦場になった一方で、南部はあくまで王党派と愛国派(独立支持派)の内戦という意味合いが強かった。
独立戦争初期にイギリス軍はチャールストンを攻略しようとしたが、コナーも参加したというサリヴァン砦の戦いで攻略を断念している。ただ後にイギリス軍はチャールストンの攻略に成功している。チャールストンは南部最大の街。
ヨークタウンの戦いが起きるまで大陸軍本隊は南部で戦うことはなかった。「沼地の狐」マリオンや「カロライナの闘鶏」サムターといった民兵を率いるリーダーがイギリス軍や王党派をゲリラ戦術で悩ませた。マリオンは非常に優れたリーダーとして知られている。機智でイギリス軍を翻弄した。部下にも慕われている。
『アメリカ人の物語3』(Kindle版)からマリオンの逸話を特別に抜粋。
キャムデンの戦いが大陸軍の大敗に終わった時、すぐ近くでマリオンは民兵隊を率いていた。マリオンは一先ず兵士達を落ち着かせるために森の中に陣取った。そして、次のように演説した。
ヒロインのサマンサ(サム)。王党派の農園主の一人娘。この当時、子供の数が多いので一人娘は珍しい。結婚で重要なのは個人の意思ではなく家柄や財産。特に女性は親の決定権が非常に強かった。
地域や時代によるが、一般的に父親の財産はサマンサが女相続人として相続する。未婚の場合、自由に財産を処分できるが、結婚すると財産は夫の管理下に置かれることが多い。
「教会」と言っているのはおそらく国教会。主に海岸部の農園主が国教会と強く結び付き、支配階層を形成していた。
奴隷に読み書きを教えるのが禁じられていたのは本当のことである。それは奴隷が読み書きを覚えると反乱を企てるのに使ったりするのではと農園主が恐れたためである。
サマンサが農園の女主人として教育を受ける中で民間医療知識を身に付けているのは当時としてごく普通のことだった。ただ作中に登場する医療知識は少し時代が進んでいる。消毒という発想は当時はまだほとんどなかった。麻酔がなかったので阿片を鎮痛剤代わりに使うことはよくあった。
農園主と奴隷の話、農園の生活などについては『アメリカ人の物語1』(書籍版)で詳しく書いた。
独立戦争初期にイギリス軍はチャールストンを攻略しようとしたが、コナーも参加したというサリヴァン砦の戦いで攻略を断念している。ただ後にイギリス軍はチャールストンの攻略に成功している。チャールストンは南部最大の街。
ヨークタウンの戦いが起きるまで大陸軍本隊は南部で戦うことはなかった。「沼地の狐」マリオンや「カロライナの闘鶏」サムターといった民兵を率いるリーダーがイギリス軍や王党派をゲリラ戦術で悩ませた。マリオンは非常に優れたリーダーとして知られている。機智でイギリス軍を翻弄した。部下にも慕われている。
ピーディー川を渡るマリオン |
キャムデンの戦いが大陸軍の大敗に終わった時、すぐ近くでマリオンは民兵隊を率いていた。マリオンは一先ず兵士達を落ち着かせるために森の中に陣取った。そして、次のように演説した。
諸君、我々が置かれた状況に気付いていると思う。かつて起きたこととまったく異なることだ。かつて我々は幸福な人民であった。自由が我々の大地を照らし、太陽のようにはるか向こうの土地を輝かせていた。我々と我々の父祖達は森を賑やかにする鳥のように喜んでその光の恩恵を受けてきた。しかし、ああ、黄金の日々は過ぎ去り、戦雲が今、暗く我々の頭上に垂れ込めている。かつて平和であった我々の大地は喧騒と死に溢れている。外国のならず者達が我々の炉辺と祭壇を踏み荒そうとしている。我々には隷属か死かの他に選択肢は残されていない。2つの勇敢な部隊が我々を救援しにやって来たが両方とも敗北した。リンカン将軍配下の部隊はサヴァナで打ち破られた。そして、ゲーツ将軍配下の部隊も愚かにも軍を進め過ぎてキャムデンで散り散りになった。したがって、北から救援が来るという我々の希望は終わりを迎えた。哀れなカロライナは自分自身で戦うしかない。彼女[カロライナ]の子供達が愚かにも敵と通じ、彼女のために1,000人に1人も立ち上がらないのであれば、悲しい選択肢を採るしかない。諸君、この重大な問題について意見を聞きたい。私自身は、人生は束の間かもしれないが、その束の間の時間のすべてを責務に捧げようと思っている。この無防備な国を隷属の悪弊から守ることこそ私の最大の責務である。したがって私は、私が生きている間、彼女[カロライナ]を奴隷にさせることはないと決意している。彼女は惨めな状況に陥るかもしれない。しかし、この私の目はそれを見ることは決してない。私の目の前で彼女が鎖の音を響かせることはない。そして、『あなたの臆病な心が私をこのような状態に置いたのです』と書かれた恥ずべき名札を示すこともない。マリオンの演説を聞いた兵士達は、声を揃えて「我々は我々の国を守る。さもなければあなたと一緒に死ぬだけだ」と言った。それを聞いてマリオンは満足そうに頷いて言った。
さあ、我が勇敢なる戦友達よ、剣を取れ。我々の永久の絆を象徴するために輪を作れ。刃を天に向け、神に我々の自由を願い、決してイギリスの奴隷にはならないと誓おう。マリオンの提案に兵士達が従ったのは言うまでもない。独立戦争において南部ではマリオンと先程、挙げたサムターが英雄である。
しばらくして大陸軍からラファイエットやグリーン、モーガンなどが率いる部隊が到着してイギリス軍と対峙した。その辺りは同じく『アメリカ人の物語3』(Kindle版)で紹介している。もちろん『独立軍の花嫁』でも登場するカウペンズの戦いも詳しく解説。タールトンも登場する。モーガンに関心がある人は『アメリカ人の物語1』(書籍版)から読んで欲しい。若き日のモーガンもしっかり登場している。
ヒロインのサマンサ(サム)。王党派の農園主の一人娘。この当時、子供の数が多いので一人娘は珍しい。結婚で重要なのは個人の意思ではなく家柄や財産。特に女性は親の決定権が非常に強かった。
地域や時代によるが、一般的に父親の財産はサマンサが女相続人として相続する。未婚の場合、自由に財産を処分できるが、結婚すると財産は夫の管理下に置かれることが多い。
「教会」と言っているのはおそらく国教会。主に海岸部の農園主が国教会と強く結び付き、支配階層を形成していた。
奴隷に読み書きを教えるのが禁じられていたのは本当のことである。それは奴隷が読み書きを覚えると反乱を企てるのに使ったりするのではと農園主が恐れたためである。
サマンサが農園の女主人として教育を受ける中で民間医療知識を身に付けているのは当時としてごく普通のことだった。ただ作中に登場する医療知識は少し時代が進んでいる。消毒という発想は当時はまだほとんどなかった。麻酔がなかったので阿片を鎮痛剤代わりに使うことはよくあった。
農園主と奴隷の話、農園の生活などについては『アメリカ人の物語1』(書籍版)で詳しく書いた。
コナーが閉じ込められた牢獄船について。コナーはどのような過酷な環境に置かれていたのか。牢獄船がどういうものだったのか『アメリカ人の物語3』から特別に抜粋。
ニュー・ヨークを流れるイースト川には収容船が浮かんでいた。それはアメリカ軍の捕虜を押し込める獄舎であった。長い間、放置されていた収容船は、船体が風波に洗われて灰色にささくれていたが、ペンキで引かれた満載喫水線は泥で濁った浅瀬の上にまだ見えている。できるだけ多くの捕虜を収容できるように船内の隔壁は取り払われていた。暗くて狭い船倉が捕虜の生活の場であった。与えられる食事は虫が巣食い、蚤や虱が跋扈していた。チフス、赤痢、そして、壊血病が捕虜達の命を次々と奪った。ある者は次のように記している。
私は自分が胸の悪くなるような牢獄にいるのに気付いた。最も陰惨でぞっとするようなもので溢れていた。むかつきながら不潔な空気を吸い、汚物にさらされ、病と死の恐怖に囲まれていた。また別の者はさらに詳しく記している。
灼熱の太陽が一日中、甲板に照り付けていたので、酷暑は耐え難く、彼らはすべて裸になっていた。それにそうしたほうが虱を取るのに便利だからである。しかし、病人は生きながら虱に体中を食われていた。彼らの病的な表情とぞっとするような様子は非常に恐ろしいものだった。ある者は、呪いの言葉を吐いて悪態をつき、またある者は泣き、祈り、そして、手を強く振っていた。そして、さながら幽霊のように徘徊する。錯乱してしまって譫言を言ったり暴れたりする者もいる。ある者は死に、そして、腐敗している。すべての者が息切れで苦しんでいる。空気があまりに淀んでいたので、時にランプの火が点かず、そのため10日間も立ってから死体が見つかることもあった。
捕虜収容船の数は多い時で20隻を数えた。猛烈な悪臭を漂わせながら数え切れない死体が舷側から水中に投じられた。イギリス軍の士官は、「これはおまえ達の反逆に対する公正な処罰である。否、おまえ達は反逆者にしてはまともな扱いを受けた」と嘯いたという。その中にはおそらくまだ息がある者がたくさんいたに違いない。
名もなく顔もなく記録にも残らない死者が辿った運命を悼む者はいたのだろうか。その家族は、死者を悼もうにも彼らが冷たい水中に没したことを知らないのだ。そうした名も無き遺骸が川岸に打ち寄せずに済む日はなかった。何年も経ってそうした遺骸が浮かび上がることも稀ではなかった。ニュー・ヨークの市民は、遺骸を目にする度にイギリス軍の残虐な行為への怒りを新たにしたという。
一説によれば、獄舎で命を落とした兵士の数は1万1,000人にのぼったという。士官はしばしば捕虜交換で解放されたが、一般兵士が解放される望みはほとんどなかった。イギリス軍が捕虜にした兵士の数は、アメリカ軍が捕虜にした兵士の数よりも多いのが常であったからである。
しかも、ワシントンは、ろくに装備も整わず訓練も受けずに捕虜になった民兵をイギリス兵と積極的に交換しようとは思わなかった。捕虜を人道的に扱うように訴えてはいたものの、ワシントンは、熟練した正規兵を解放して再び敵に回す危険を犯そうとはしなかった。
こうした要因が重なって、捕虜となった兵士達はなかなか解放されず、最後まで生き残って解放された捕虜は僅か500人であったという。万骨枯れて一将功成ると言うが、これはあまりにも悲惨な犠牲である。
コナーは天然痘の予防接種を受けていると言っている。実は当時の予防接種は人痘法と言って後に開発される牛痘法よりも非常に危険だった。ただワシントンは、天然痘で軍が壊滅しないように兵士に予防接種を受けさせている。そうした集団予防接種は、予防接種自体があやしい魔術だと思う人も多かった当時としては革新的なことだった。
サマンサが髪を染める時に出てくる「インディゴ農園」。インディゴは南部の重要な産品だった。だからインディゴを使うのは当然の発想だと言える。
作中でマッチを壁に擦ってするという場面があるが、当時はまだ黄燐マッチはない。マッチの原型がようやく現れ始めた時代。1784年11月11日にジェファソンがマディソンに次のように書いている。『トマス・ジェファソン伝記事典』から抜粋。
これらのマッチは、一端に燐が被せられた細蝋燭からなり、全体はガラス管に密封されている。[輸送時に]壊れた場合に備えて、管にある小さな輪について説明しておきます。燐が塗られた一端をまず暖めます。[中略]。それからそれを素早く輪の近くに移して管の中から燐が塗られた一端を引き出します。引き出した途端にそれは燃え出します。火が完全に点くように、管を(燐が塗られた一端を下にして)約45度に傾けておくといつもうまくいくようです。[中略]。これをあなたのベッドの脇に蝋燭とともに置けば、ベッドから出なくても、夜のどんな時でも灯りを点すことができます。これをあなたの書き物机の上に置けば、3,4通の手紙を封蝋することができるでしょうし、もしもっと封蝋がしたければ蝋燭に火を点けることもできますから、夏には便利でしょう。森の中では火打石の代わりになります。[中略]。燐を手に落とさないように、細蝋燭を引き出す時は十分に注意しなければなりません。なぜならそれは除去することが難しく、もし十分な量があれば骨の髄まで焼けてしまうからです。尿は燐を除去すると言われています。
マリオンの部隊に少年が所属しているが、当時は14歳くらいの少年がいるのは珍しいことではなかった。大陸軍でもそう記録されている。
女性兵士は存在しなかった。ただし男装して戦いに参加した女性であれば複数確認されている。ある女性は男装してずっと女性であることを隠し通したが、戦闘で負傷して治療を受けたせいで真実が発覚してしまった。その結果、それ以上、戦えなくなった。ただ兵士としての年金は受け取っているので正式に兵士として認められていたことになる。
サマンサのライフル銃の腕前が作中で登場するが、当時の人々の射撃能力はどの程度だったのか。『アメリカ人の物語2』(Kindle版)から特別に抜粋。
この当時、一般的であったマスケット銃とライフル銃の差は銃腔に旋条があるか否かである。旋条は、銃身の内部に施された螺旋状の溝であり、弾丸に旋回運動を与え、弾道の直進性を高める構造である。直進性が高まれば命中率は上がる。約230メートルでも的を射抜くことができるというライフル銃の射撃性能は、マスケット銃と比べると驚異的であった。
イギリス軍の標準装備であるロング・ランド・パターン・マスケット銃(愛称「ブラウン・べス」)の射撃性能は、当時の記録によれば、最大でも約140メートルであった。標準的な殺傷可能距離になると約72メートルから約91メートルである。つまり、ライフル銃を使えばマスケット銃の射程外から攻撃できるということである。ライフル銃兵が恐れられたのも無理はない。
独立戦争が始まった頃、マディソンは友人に宛てて次のようにライフル銃兵について記している。
この[ヴァージニア]植民地の強みは、主に高地諸郡のライフル銃兵にあります。我々はライフル銃兵をたくさん抱えています。この技術がもたらす完璧さにあなたは驚くでしょう。約91メートル離れた人の顔の大きさぐらいのものを外すことは素人からしても不注意な射撃に思われます。私は腕利きとは言えませんが、公正な機会があれば、その距離であれば打ち損じることはあまりありません。もし我々が戦闘に従事すれば、敵の士官達は約140メートルか約180メートルの距離に入る前に崩れ落ちるでしょう。私が思うに、実際、我々の中には約230メートルで的に当てることができる者がいます。イギリスの地理学者のアイザック・ウェルドも『北アメリカ諸州及びカナダ旅行、1795年、1796年、そして、1797年』で次のように記録している。
ライフル銃を持った経験豊かな狙撃手はクラウン銀貨よりも小さな的を約91メートル]先から確実に命中させることができる。戦争中、この街[ランカスター]に駐屯していたヴァージニアのライフル銃兵連隊に所属する2人の兵士は、互いの腕前を信頼していたので、約23センチメートル]四方の板を1人が膝の間に挟んでもう1人が約76メートルの距離から銃弾で撃ち抜く芸当をやって見せた。しばしば求めに応じて彼らはそれを交代で披露して街の人々を楽しませた。
このようにライフル銃の利点を述べると、ではなぜイギリス軍がライフル銃を広く制式採用しなかったのかという疑問が浮かぶかもしれない。
もちろんイギリス軍もライフル銃をまったく使っていなかったわけではないし、新式ライフル銃の開発も行っている。しかし、ライフル銃には、歩兵の一般装備として使用するにあたって不向きな欠点が幾つかあった。
最も致命的な欠点は、銃弾の装填時間が非常に長くかかることである。具体的には、熟練した兵士でも45秒はかかる。場合によっては、一般的なマスケット銃の2倍もかかる。走りながら再装填できる者もいたそうだが、そのような器用な芸当ができる者は稀であった。
その他にも主に3つの欠点がある。
第1に、マスケット銃は品質が悪い弾薬も使うことができるが、ライフル銃は銃腔に旋条が施してあるために、清掃が難しく品質が悪い弾薬を使うことができない。
第2に、ライフル銃は、所有者の身長や体型などの特徴に応じて作られた一点物である。したがって、マスケット銃よりも製造に時間がかかるうえに高価である。薬莢も所有者自身が準備しなければならず、支給品を使うことができない。
第3に、技術的な問題からライフル銃に銃剣を装備することが難しかった。
銃剣を装備することができないという点は射撃間隔の長さとともに重大な欠点だった。当時のヨーロッパの伝統的な戦闘技術では、歩兵は一斉射撃を2、3回行った後、最終的に銃剣で決着を付けるのが当然だと考えられていた。つまり、射撃性能は二の次だったのである。一斉射撃はあくまで敵を怯ませるものであり、怯んだところを銃剣で止めを刺すのが一般的であった。極言すれば、マスケット銃に銃剣が付いているのではなく、銃剣にマスケット銃が付いていたと言える。
さてサマンサの腕前はどうだろうか?
馬泥棒のスキルは南部の戦いでは有用だった。北部は秣が不足しやすく会戦で大規模な騎馬隊が活躍した例は少ない。しかし、南部では秣が確保しやすいので騎馬隊が活躍する場面が多かった。
マリオン部隊は塩を狙っている。塩が貴重品だったのは本当のことである。詳しい背景は『アメリカ人の物語2』(書籍版)の初稿から抜粋。馬泥棒のスキルは南部の戦いでは有用だった。北部は秣が不足しやすく会戦で大規模な騎馬隊が活躍した例は少ない。しかし、南部では秣が確保しやすいので騎馬隊が活躍する場面が多かった。
古代から塩は重要な交易品であっただけではなく、軍隊になくてはならない物資であった。当時は冷蔵庫もなければ缶詰もない。塩漬けで食品を長期保存していた。肉を塩漬けにする場合、肉と同じ程度の重量の塩を使用することもあったという。塩が必要なのは人間だけではない。牛馬も塩を消費する。馬は人間の5倍、牛は人間の10倍も塩を消費する。それに消毒薬、鎮痛薬、整腸薬など医療にも塩は使用される。ナポレオンがロシア遠征で敗北して撤退する時に多くの兵士が生命を落とした原因の1つとして塩不足を指摘する者もいる。
とにかく塩がなければ戦えない。日常生活を送れない。ある者は、「塩が非常に不足していて、もしまったく手に入らなければ、人びとは暴動を起こすだろう」と日記に書いている。民間でも皮革の保存、煙突の掃除、陶器の釉薬など塩はさまざまな用途に使われていた。クルミから作った灰汁を塩の代用品にしようとしたがあまりうまくいかなかったようだ。
あなたは不思議に思ったのではないか。塩のようないかにも簡単に入手できそうな物資がなぜ不足したのか。現代のアメリカは世界最大の塩の生産国であり消費国でもある。しかし、当時のアメリカは、塩の国内生産量が非常に少なかった。それはイギリスの植民地政策の結果であった。植民地時代、アメリカは塩の自給を目指したが、イギリスは本国産やカリブ海産の安い塩を大量に流通させた。その結果、アメリカでは製塩産業が発展しなかった。
独立戦争が始まった後、イギリスが強力な海軍で海上封鎖を行ったうえに、本国支持派が塩田を破壊して回ったので、アメリカは塩断ちに苦しむ。アメリカ人は、イギリス海軍の目を盗んで海水を煮詰めて何とか塩を作っていた。しかし、そうした製塩法は、効率が悪く、莫大な需要を満せない。
一般的には当時の軍隊には、キャンプ・フォローワーと呼ばれる女性(兵士たちの妻や恋人、その他、家事雑用をする人々)も同行していたが、ゲリラ作戦のような行動をする部隊は特別だったと考えられる。キャンプ・フォローワーがいると行軍速度が落ちて敵に尻尾をつかまれやすくなり、キャンプに出入りする女性からいろいろ漏れることもある。
作中に登場する「結婚公告」は当時の慣習。結婚する前に、結婚することを大きく張り出して告知する。簡単に言えば、この結婚に文句がある奴は名乗り出ろということ。いとこ同士で結婚する例が多いのは財産を分散させないためによくあった。
サマンサが洋服屋で「質素な木綿のドレス」を購入しているシーンがある。当時、既製服を買う場合はロンドンの高級ドレスを購入するくらいで、普通は布地を買って仕立て屋に発注するか、それとも自分で縫って作った。既製服を買うという習慣はあまりなかったようだ。
サマンサがボストン行きの駅馬車のキップを購入する話があるが、この当時はそういう駅馬車はなかった。駅馬車自体は皆無ではなかったが、そのような長距離の定期路線ができるのはもう少し後の話である。『アメリカ人の物語4』(Kindle版)から「駅馬車の父」と知られるリーヴァイ・ピーズを紹介したい。
ピーズはマサチューセッツ出身の鍛冶屋で独立戦争の退役軍人である。ピーズは独立戦争に多大な貢献をしている。どのような貢献かと言えば、物資の調達である。ピーズは大陸軍のために通信を配達し、馬を購入し、物資を届けた。つまり、実質的に運送業を営んでいた。ピーズの舞台裏の活躍によって大陸軍はヨークタウン包囲を成功させることができた。
そうした経験を生かしてピーズは、コネティカット州ハートフォードとサマーズの間を結ぶ駅馬車の定期路線を開設した。それは初めての長距離にわたる駅馬車の定期路線であった。1783年、駅馬車の定期路線はハートフォードからボストンの間でも開設された。ピーズの駅馬車の定員は11人でハートフォードからボストンまで約160キロメートルを4日間で走った。定期路線が設けられた当初、乗客はあまり多くなかったが、次第に定期路線沿いに宿屋が増え始めた。ピーズの事業は成功を収め、ハートフォードやボストンの他にウスター、スプリングフィールド、ニュー・ヨークなど多くの都市を結ぶ路線が作られた。こうして駅馬車は一部の階層の人々だけではなく誰でも使える公共の乗り物となった。当時の新聞に次のような広告が掲載されている。
ピーズは運送業者として駅馬車を普及させる様々な発案を行っている。例えば駅馬車に御者だけではなく車掌も同乗させた。車掌は乗車券を販売を行うだけではなくしばしば料金を自分の懐に入れてしまう御者の不正を防止した。多くの業者が駅馬車に参入し始めるとピーズは共同で乗車券の販売所を設けるように提案した。そうすれば乗客はすべての業者の路線の乗車券を簡単に購入することができる。さらにピーズは特急列車に相当するサービスを考案している。つまり、停車する地点を減らして急ぐ代わりに特急料を徴収する方式である。後にピーズが考案した様々なサービスは鉄道会社に模倣され全国に広がることになる。
『独立軍の花嫁』の一番最後の一文。一般的に当時の女性の名前は、個人名+旧姓+夫の姓。ちなみに再婚すると、個人名+旧姓+前夫の姓+新夫の姓のようになる。最後の一文はそう思うと意味深い。
当ブログのアメリカ歴史旅シリーズを見て貰えれば写真で『独立軍の花嫁』の世界が楽しめる。少し場所は違うけどね。
作中に登場する「結婚公告」は当時の慣習。結婚する前に、結婚することを大きく張り出して告知する。簡単に言えば、この結婚に文句がある奴は名乗り出ろということ。いとこ同士で結婚する例が多いのは財産を分散させないためによくあった。
サマンサが洋服屋で「質素な木綿のドレス」を購入しているシーンがある。当時、既製服を買う場合はロンドンの高級ドレスを購入するくらいで、普通は布地を買って仕立て屋に発注するか、それとも自分で縫って作った。既製服を買うという習慣はあまりなかったようだ。
サマンサがボストン行きの駅馬車のキップを購入する話があるが、この当時はそういう駅馬車はなかった。駅馬車自体は皆無ではなかったが、そのような長距離の定期路線ができるのはもう少し後の話である。『アメリカ人の物語4』(Kindle版)から「駅馬車の父」と知られるリーヴァイ・ピーズを紹介したい。
ピーズはマサチューセッツ出身の鍛冶屋で独立戦争の退役軍人である。ピーズは独立戦争に多大な貢献をしている。どのような貢献かと言えば、物資の調達である。ピーズは大陸軍のために通信を配達し、馬を購入し、物資を届けた。つまり、実質的に運送業を営んでいた。ピーズの舞台裏の活躍によって大陸軍はヨークタウン包囲を成功させることができた。
そうした経験を生かしてピーズは、コネティカット州ハートフォードとサマーズの間を結ぶ駅馬車の定期路線を開設した。それは初めての長距離にわたる駅馬車の定期路線であった。1783年、駅馬車の定期路線はハートフォードからボストンの間でも開設された。ピーズの駅馬車の定員は11人でハートフォードからボストンまで約160キロメートルを4日間で走った。定期路線が設けられた当初、乗客はあまり多くなかったが、次第に定期路線沿いに宿屋が増え始めた。ピーズの事業は成功を収め、ハートフォードやボストンの他にウスター、スプリングフィールド、ニュー・ヨークなど多くの都市を結ぶ路線が作られた。こうして駅馬車は一部の階層の人々だけではなく誰でも使える公共の乗り物となった。当時の新聞に次のような広告が掲載されている。
マサチューセッツ州スプリングフィールドからニュー・ハンプシャー州ダートマス・カレッジまで駅馬車の定期路線が多大な苦労の末に開設されたことを広告主は告知します。毎週月曜日午後1時にスプリングフィールドを出発します。同時にダートマス・カレッジからも駅馬車が出発します。火曜夜、ブラトルバロで待ち合わせをして乗客を交換して、それぞれスプリングフィールドとダートマス・カレッジに木曜日に戻ります。スプリングフィールドからの駅馬車は、月曜夜にノーザンプトンに泊まり、グリーンフィールドで食事をしてブラトルバロに火曜夜に到着します。ダートマスからの駅馬車は、ウィンザーで食事して、月曜夜にチャールストンに泊まり、火曜朝にチャールストンを出発して同夜にブラトルバロに到着します。快適な馬車と注意深い御者を提供します。公僕によって十分な注意が乗客に払われます。
ピーズは運送業者として駅馬車を普及させる様々な発案を行っている。例えば駅馬車に御者だけではなく車掌も同乗させた。車掌は乗車券を販売を行うだけではなくしばしば料金を自分の懐に入れてしまう御者の不正を防止した。多くの業者が駅馬車に参入し始めるとピーズは共同で乗車券の販売所を設けるように提案した。そうすれば乗客はすべての業者の路線の乗車券を簡単に購入することができる。さらにピーズは特急列車に相当するサービスを考案している。つまり、停車する地点を減らして急ぐ代わりに特急料を徴収する方式である。後にピーズが考案した様々なサービスは鉄道会社に模倣され全国に広がることになる。
当ブログのアメリカ歴史旅シリーズを見て貰えれば写真で『独立軍の花嫁』の世界が楽しめる。少し場所は違うけどね。