#アメリカ人の物語 『コモンセンス』が多くのアメリカ人に読まれて独立への支持が高まったことはよく知られている。その前提となるのは既に活字が受け入れられる素地があったということだ。植民地時代アメリカの活字の状況はどうか。
18世紀後半から19世紀初頭は活字が一部のエリートのものだけではなく大衆のものとなった時代であった。民営の図書館が設立され、貸本制度が普及したお蔭で民衆が活字に触れる機会は飛躍的に増大した。アメリカの識字率はヨーロッパ諸国と比べてかなり高かった。
幅広い階層の読者を対象とした雑誌が刊行されるようになり、1725年には片手で数える程しかなかった新聞も1790年から1810年の間に実に90紙から370紙に増加した。人口1人当りの新聞社の数は歴史上、最多かもしれない。現代の日本の主要な新聞社の数が100社少しであることを考えるといかに多いかが分かる。
書店も植民地時代と比べて飛躍的に増えている。1730年代にはほぼすべての本がイギリス本国から輸入されていた。フランクリンによれば「ボストンから南には良い書店はない」という状況であった。独立戦争が終わるころまでに、ボストンとニュー・ヨークにはそれぞれ20軒、フィラデルフィアには実に75軒の書店が軒を連ねるようになった。書店が商売として成り立つということはそれだけ活字を読める人がいたということである。ただ当時の書店は本だけを売っていたわけではなく、文具や版画、歴史的人物の肖像画、風景画、聖書を題材にした歴史画なども売っていた。
こうした新聞、雑誌、本が一般にも流通することは当時のアメリカ社会にとって非常に重要なことであった。すべての市民が活字を読んで知識を得るだけではなく、自分達の意見を伝えることができる手段を持つ。それは共和主義の1つの理念を体現しているからである。
定期刊行物として新聞を発行しようとする試みは、1685年と1690年に行われた。しかし、それらの試みは短命に終わった。実質的に成功を収めたアメリカ最初の新聞は、1704年に刊行が始まった『ボストン・ニューズレター紙』である。
『ボストン・ニューズレター紙』は週刊で横7インチ[約18センチメートル]縦11.5インチ[約29センチメートル]の紙1枚に両面印刷されたものであった。ニュー・イングランド周辺の郵便配達人や港の水夫から聞いた話をまとめただけのものであった。したがって「新聞」という名前でも情報は古く第1号は1704年4月17日から4月24日の出来事を扱っていながら、1703年12月に印刷された『ロンドン・フライイング・ポスト紙』に含まれていた情報が掲載されている。発行部数は最多でも300部と少なかった。独立戦争が起きる頃までに新聞の数は全国で25紙程度まで増えた。