『アメリカ人の物語』から抜粋
なだらかな丘の上に建つ邸宅の周りを囲む木々は春の空気に若やぎ、庭園は色とりどりの花々で溢れる。青々と匂い立つような芝生は今を盛りに生い茂っている。せせらぎが緑なす深い谷を潤している。そして、川面を滑る穏やかな風に遊ばれながらポトマック川を見渡せば、靉靆と春霞に覆われた景色がどこまでも広がる。
まるで自然が2人の新しい門出を祝っているかのようだ。ある旅人が「ここでは夜に火花のような小さな昆虫が姿を現す」と記しているように、蛍が舞う季節を除けば、新春よりも心地良い季節は他にない。
マーサーは、マウント・ヴァーノンを一目で気に入る。特に好ましい点は、マウント・ヴァーノンがポトマック川の畔にありながら、爽やかな風が吹き渡る高台に建っている点である。泥に塗れる湿性の土地は子供達の健康に良くないと信じていたからだ。その当時、熱病で子供が生命を落とすことは珍しくない。
マウント・ヴァーノン中心部 |
英国式農業を取り入れた農園 |
糸紡ぎの野外展示 |
野外展示のテント |
邸宅の正面写真 |
昔のマウント・ヴァーノン |
一時期、マウント・ヴァーノンは荒れ放題だったが、マウント・ヴァーノン婦人協会の尽力で復活した。
正装のキャスト |
屋外トイレ |
ポトマック川に臨むテラス |
昔のテラス |
邸宅前の芝生 |
邸宅の松材 |
『アメリカ人の物語』から抜粋
蛍が飛び交う季節は終わり、盛夏を迎えようとしている。滔々と流れるポトマック川は、降り注ぐ陽光をちらちらと反射して輝く。1頭の馬が走っている。奴隷が働く耕地を抜けると、ポプラにサッサフラスが心地良く影を落とす並木道が現れる。
馬上の主人は何かを考えているようで、行き先を気にしている様子はない。それでも問題ない。馬はちゃんと主人をどこに運べばよいか心得ている。通い慣れた道だ。
蛇のようにうねる並木道の先に広壮な邸宅が見える。赤く塗られた糸杉の屋根板が青空を背景にくっきりと浮かび上がる。白く塗られた壁は、一見すると緻密に組まれた石材のようだが、よく観察すると、実は粗面仕上げを施した松材だ。
台所 |
書斎 |
一家団欒の様子 |
『アメリカ人の物語』から抜粋
午後の時間は書斎での読書や書き物に当てられる。書斎を少し覗いてみよう。
壁には兄ローレンスの肖像画が掛かっている。書斎という最も個人的な場所に肖像画があることは、いかにワシントンが兄を敬愛していたかを示している。
書き物机の上に小さな望遠鏡が置かれている。きっとワシントンはそれでポトマック川を行き交う船を眺めたり、夜空の星を見ていたりしたのだろう。
バルバドス島から持ち帰った珊瑚もある。それを手にして兄ローレンスとともに南国の島で過ごした日々を思い出していたのだろうか。
貴重品を収めた南京錠が付いた鉄の箱もある。さらにクローゼットには、ブラドックから形見の品として渡された真紅の飾り帯が大切に収蔵されている。
書斎の主役は本である。一面がガラス張りの作り付けの本棚になっている。およそ900冊の書籍とパンフレットがある。その内容に基づいてすべて体系的に整頓されている。
現代なら900冊の書籍はとりたてて多いとは言えないが、図書館がほとんどなく、書籍も極めて高価で珍しかった時代背景を考えると、上流階級の嗜み以上にワシントンは本を読んでいたと考えられる。
読書歴を知ることはその人物の内面を知ることである。
ワシントンの蔵書を見ると、偉人の伝記が多い。カール12世 、ルイ14世、ピョートル大帝、カール5世、グスタフ=アドルフ 、シュリー公爵 、テュレンヌ元帥 の名前がある。その他にもジョン・ロックの『人間知性論』もある。ワシントンは、過去の指導者から学ぼうとこうした伝記を選んだのだろう。
ワシントンの読書の目的は、哲学的な思索のためでもなく、娯楽のためでもない。農業、軍事、政治、歴史などを扱った書物から実践的な知識を得ようとしていた。ワシントンの考えでは、「本の知識はその他の知識を築く基盤になる」ので重要であった。また「軽い読書(これによって私が意味しているのはほとんど重要性のない本のことである)は、束の間は楽しいかもしれないが、後に確かなものは何も残らない」とも言っている 。
しかし、シェークスピアやローレンス・スターン の作品など実用書以外の本もワシントンの本棚には並んでいた。もちろん誰かからの贈り物であった可能性もあるが、シェークスピアやスターンの作品がしばしば引用されていることから実際に読んでいたことが分かる。他にも当時、流行した小説が多く含まれているが、おそらく他の家族の本だと考えられる。
食堂 |
居間 |
正餐室 |
音楽室 |
西の客間 |
エントランス・ホール(写真) |
エントランス・ホール(絵画) |
ワシントンの寝室(写真) |
ワシントンの寝室(寝室) |
燻製小屋 |
燻製小屋の肉片 |
事務員の部屋 |
倉庫 |
洗濯小屋 |
洗濯小屋の盥 |
日常用馬車 |
箱馬車 |
厩舎 |
ロバの飼育 |
邸内の小道 |
ワシントン家旧墓所 |
ワシントンの葬儀 |
1830年代の旧墓所 |
ラファイエットの再訪 |
『アメリカ人の物語』から抜粋
1824年10月17日、ワシントンの墓所は両大陸の英雄を迎えている。独立戦争を戦った将軍達の最後の生き残りがラファイエットであった。独立宣言から半世紀近く経って独立革命の記憶は人々の間で薄れがちになっている。かつて在りし日のワシントンとともにマウント・ヴァーノンを散策した青年は、今や幾多の星霜を経て白髪を戴いた老爺になっている。フランス革命の動乱に巻き込まれ、陰惨な獄中生活を送った後、ラファイエットは第一線から退いて静かな時を送っていた。しかし、アメリカはラファイエットの貢献を決して忘れず、国賓として招待した。
なぜ今更になってラファイエットをアメリカに招いたのか。それは当時の状況が関係している。
時のモンロー大統領は、ラファイエットを招聘する手紙を出す2ヶ月前にモンロー・ドクトリンを発表していた。モンロー・ドクトリンは言ってみれば、アメリカの勢力圏を確保する試みであったのと同時に、ヨーロッパ諸国の支配から脱して新たに共和政を樹立しようとする旧スペイン植民地諸国に対する応援歌であった。
こうした政策の正当性を主張する宣伝材料としてラファイエットの訪米が案出された。ラファイエットは表舞台に出ることはなくなっていたとはいえ、共和主義を志す人々がイタリア、ギリシア、スペイン、ポルトガル、そして、ブラジルなど各地からパリのラファイエットの自宅に押し寄せていた。独立革命とフランス革命の両方で重要な役割を果たした両大陸の英雄がアメリカを訪問すれば、共和主義の理念が再び燃え上がるに違いないとモンローは考えた。
ラフェイットは各地で熱烈な歓迎を受ける。その中でも最も感銘を受けたのがマウント・ヴァーノンの再訪であった。
ラファイエットとその家族、そして、案内役のジョン・カルフーン国務長官を代表とする名士達を乗せた船がマウント・ヴァーノンに到着する。川岸には、ワシントンの甥であるローレンス・ルイス、そして、同じく甥のブッシュロッド・ワシントンの家族 が待っていた。
40年前の面影が残っているかどうかを確かめるかのようにラファイエットはゆっくりと邸宅に向かう。邸宅の扉には、ワシントン自ら打ち付けた釘にバスティーユの鍵が掛かっていた。それはラファイエットがワシントンに贈ったものであった。同行したジョージ・ワシントン・ラファイエットによれば、28年前に滞在した時とマウント・ヴァーノンはほぼ同じ姿を保っていたという。
邸宅で饗応を受けた後、ラファイエットは納骨堂に足を向ける。かつてウォッシュと呼ばれる少年であったジョージ・カスティス、そして、ジョージ・ワシントン・ラファイエットなど少数の者達がその後に従う。その他の名士達は邸宅に残った。ラファイエットが故人に捧げる静謐な哀悼を妨げないように配慮したのだろう。
納骨堂の前でカスティスはラファイエットに捧げる言葉を述べた。そして、演説を終えるとシンシナティ協会のリボンに下げた指輪を贈った。その指輪にはワシントンの遺髪が封じ込められ、外側には「祖国の父」と「マウント・ヴァーノン」という言葉が刻まれ、内側にはラテン語で「1777年、ラファイエット。新世界において覚悟を持った若者と決心を固めた老人を解放した。1824年、贈呈」という刻印があった。指輪を受け取って胸に押し頂いたラファイエットはカスティスの言葉に答えた。
「この畏れ多い瞬間に私の心に迫る感情は言葉では表せません。親愛なるカスティス、あなたの貴重な贈り物に私は感謝するだけで精一杯です。そして、人類の中で最も偉大で善良であり、我が父である友の墓場に静かな敬意を捧げたいと思います」
そう言ってラファイエットは、カスティスの他、その場にいた人々を抱き締めると納骨堂の入り口に跪く。そして、苔生した木製の扉の上にそっと唇を重ねた。扉の周りに置かれた萎れた花輪が訪問者がいたことを示していた。
扉が開かれ、ラファイエットは独りで納骨堂の中に入った。まるで愛する人がそこにいるかのように、冷え切った棺にラファイエットの唇が再び重ねられた。ラファイエットの口からは一言も漏れなかった。あまりにも多くの思い出に彩られた過ぎ去った日々を言い表すのに適当な言葉がこの世に存在するだろうか。ラファイエットの胸に去来する想いを的確に表現できる言葉などあるだろうか。
数分後、外で待っていた人々は、老将軍の頬に滂沱と涙が流れているのを見た。残りの者も納骨堂に入って棺の前に跪いて故人に祈りを捧げた。そして、祈りを終えると互いに抱き締め合って涙を拭った。ラファイエットの涙以上に納骨堂を飾るのにふさわしいものが他に何かあるだろうか。
旧墓所の裏側 |
旧墓所から見た邸宅 |
『アメリカ人の物語』から抜粋
ワシントンの葬儀の後、当時の慣習に従ってマーサは寝室を閉じてしまい、3階の屋根裏の小さな寝室に移った。その部屋には暖房がなく寒かったが、窓からワシントンの墓所を眺めることがマーサにとって唯一の慰めであった。マーサはよく墓所に続く狭い道を歩いていたという。
人が死んだ後、特に愛する人が死んだ後には必ず茫然自失とも言うべき状態が起こる。思いもかけない虚無の訪れを受け入れることは難しい。幸せな思い出や美しい思い出が救いになるとは限らない。思い出が美しい程、辛くなることもある。去って行く者にとっても、残される者にとっても。
マーサは、葬儀を大掛かりにしないようにという夫の遺言を守って、公的な場には出席しなかった。しかし、マウント・ヴァーノンを弔問で訪れる者は後を絶たず、全国から山のように弔辞が寄せられた。そのため1800年4月3日、連邦議会は弔辞に返信できるようにマーサに郵便料金を無料にする特権を与えている。
ワシントンの死後、マウント・ヴァーノンを訪問した牧師のマナセ・カトラーは次のようにマーサの様子を記している。
「彼女は将軍[ワシントン]のことを、非常に愛情を込めて語り、たくさんの厚意や優しさに恵まれているが、最も欲しいものは神のお恵みであり、友達の中に居てもまるで余所者のように感じ、故人の後を慕って行く日を待ち望んでいると言っている」
マーサの寝室 |
現在、ワシントンが眠っている新墓所 |
昔の新墓所(1831年完成) |
ワシントン夫妻の棺 |
新墓所内部 |
農産物の出荷や漁業に使われていた波止場 |
ポトマック川から見た邸宅 |
ワシントンの実験農場(納屋) |
乾燥中のタバコ |
昔のタバコ農園の様子 |
納屋 |
納屋で作業実演するキャスト |
ワシントンが使っていたグラス |
少年時代のワシントンの肖像画(後世の想像) |
測量道具 |
測量に励む若き日のワシントンの像 |
ネセシティ砦の木片 |
青年時代のワシントンの剣 |
マーサが着用していたドレス |
紅茶箱と砂糖(箱の上) |
GWの焼印入りのタバコ用の樽(ホッグスヘッド) |
タバコ1樽=紳士服1着、3樽半=マホガニー製の椅子12脚、8樽で砂糖や嗜好品一山 |
大陸軍総司令官のワシントンとブルースキン号 |
大陸軍の兵士の人形 |
大陸軍の兵士の生活 |
銃弾を作る鋳型 |
アメリカ王ジョージ1世 |
とうもろこしを原料としたウィスキー蒸留器 |
ウィスキーの樽 |
ワシントンの入れ歯 |
デンタルケアの道具 |
就任式の再現 |
ジャン・レオン・ジェローム・フェリスによるマウント・ヴァーノンの生活 |
ジャン・レオン・ジェローム・フェリスによるマウント・ヴァーノンの生活 |
ジャン・レオン・ジェローム・フェリスによるマウント・ヴァーノンの生活 |
ジャン・レオン・ジェローム・フェリスによるマウント・ヴァーノンの生活 |
ジャン・レオン・ジェローム・フェリスによるマウント・ヴァーノンの生活 |
大統領就任要請を受け取るワシントン |
農園を見回るワシントン |
庭園と温室 |
幾何学模様はよく見るとフランス王家の百合になっている。独立戦争でフランスから助力を受けたことに感謝を示していると考えられる。
マウント・ヴァーノンには奴隷も含めて約300人もの住民がいたので経費節減のために織物を自給自足していた。
マウント・ヴァーノンには奴隷を管理する監督人が置かれていた。
アメリカ歴史旅XVIIIに続く。
庭園の植物 |
庭師と話すワシントン |
庭園でくつろぐワシントン |
庭師の小屋 |
庭師の小屋内部 |
織物小屋 |
マウント・ヴァーノンには奴隷も含めて約300人もの住民がいたので経費節減のために織物を自給自足していた。
監督人の部屋 |
マウント・ヴァーノンには奴隷を管理する監督人が置かれていた。
鍛冶場 |
鞴の操作の実演 |
堆肥を貯める場所 |
氷室 |
洗濯の野外展示 |
チョコレートの製造の展示 |
砂糖(円錐状のもの)に香辛料各種 |
チョコレートの製造過程 |
アメリカ歴史旅XVIIIに続く。