ミュージカル『ハミルトン』歌詞解説25―What'd I Miss 和訳

原文&和訳のみ解説なし⇒ミュージカル『ハミルトン』What'd I Miss 和訳


ACT II


"Am I then more of an American than those who drew their first breath on American ground?"—Letter from Alexander Hamilton to Rufus King, 21 February 1795

「アメリカの大地で最初の息をした者よりも私はアメリカ人らしくなれるのだろうか」


COMPANY:

Seventeen. Se se seventeen Se se seventeen

「17・・・17・・・17・・・」


BURR:

Seventeen eighty-nine. How does the bastard orphan, Immigrant decorated war vet Unite the colonies through more debt? Fight the other Founding Fathers 'til he has to forfeit? Have it all, lose it all, You ready for more yet? Treasury secretary. Washington’s the president. Ev’ry American experiment sets a precedent. Not so fast. Someone came along to resist him. Pissed him off until we had a two-party system. You haven’t met him yet, you haven’t had the chance. ‘Cause he’s been kickin’ ass as the ambassador to France But someone’s gotta keep the American promise. You simply must meet Thomas. Thomas!

「1789年、私生児の孤児にして戦争の退役軍人に衣替えした移民がどのようにして公債を増やすことで植民地をまとめようとしたのか。どのようにして彼が[名誉を]剥奪されるまで他の建国の父祖たちと戦うようになったのか。すべてを得るか、すべてを失うか。さあ準備はいいかな。財務長官。ワシントンは大統領。すべてのアメリカの実験が前例を作る。ちょっと待て。彼に抵抗する者が現れる。二大政党制ができるまで彼を苛立たせておこう。まだその者には会っていないはずだ。そんな機会はなかったはずだ。なぜなら彼はフランスで外交官として大活躍していたのだから。でも誰かがアメリカの約束を守らないといけない。トマスを呼べばいいのさ。トマスを」


解説:この部分はこれからワシントン政権で巻き起こる政争について概要を述べている。ハミルトンはジェファソンやマディソン、ジョン・アダムズといったワシントンを除く主要な建国の父祖たちよりも先に亡くなったので、長らくその名誉が剥奪されていた。その名誉を回復させるべく尽力したのがイライザである。ワシントンは初代大統領として現代にまで続くアメリカ政治の前例を多く打ち立てた。二大政党制とは、ハミルトンが中心となる連邦派とジェファソンとマディソンが中心となる(民主)共和派である。その当時、政党は君主制の悪弊だと見なされていたので明確に「政党」を名乗っていたわけではないが、連邦派と(民主)共和派の成立はアメリカ二大政党制の始まりと考えられている。


COMPANY (EXCEPT HAM, PEG, PHIL):


Thomas Jefferson’s coming home! Thomas Jefferson’s coming home! Thomas Jefferson’s coming home! Thomas Jefferson’s coming home! Thomas Jefferson’s coming home Lord he’s been off in Paris for so long! Aaa-ooo! Aaa-ooo!

「トマス・ジェファソンがお帰りだ。トマス・ジェファソンがお帰りだ。トマス・ジェファソンがお帰りだ。トマス・ジェファソンがお帰りだ。トマス・ジェファソンがお帰りだ。おやおや彼はずっとパリに行きっぱなしだったみたいだけど。やあやあ。やあやあ」


解説:1784年5月7日、駐仏アメリカ公使に選ばれたジェファソンはそれ以来、ずっとヨーロッパに滞在してフランス革命を見聞している。1789年9月26日、パリを出発。10月22日、アメリカに向けて出港。11月23日、ヴァージニア州ノーフォークに到着。ちなみにワシントン政権が始動したのは1789年4月30日のことである。ジェファソンが不在の間、連合会議[合衆国憲法成立以前のアメリカ中央政府]の外務長官であったジョン・ジェイが国務長官の職務を代行していた。


JEFFERSON:

France is following us to revolution There is no more status quo But the sun comes up and the world still spins.

「フランスは我々に続いて革命を起こしている。もうこれまで通りにはいかないぞ。でも太陽は昇るし、世界は回り続けている」


解説:上述のようにジェファソンはフランス革命を目撃していて次のように『自伝』に記している。

ド・コーニーとその他の5人がバスティーユの司令官ド・ローネーに武器の引渡しを求めるために送り込まれた。彼らは、その場所[バスティーユ]の前に、既に多くの群集がいるのを見た。すぐに彼らが休戦旗を立てると、それに応じて[バスティーユの]欄干に同様の旗が掲げられた。[ド・コーニー達]代表団は群集に少し下がるように説得し、進み出て司令官に要望を伝えた。その瞬間、代表団のすぐ傍の4人がバスティーユから放たれた銃弾によって殺害された。代表団は引き下がった。ド・コーニーが自宅に帰って来た時、私はたまたまそこに居合わせた。そして彼からこうした一部始終を聞いた。代表団が引き下がった後、人々は前に押し寄せた。まさしくその瞬間、牢獄は100人の強健な兵士に守られていた。もし別の機会であれば、普通の包囲戦になって、要塞は占拠されなかっただろう。どのようにして人々が押し入ったのかは説明できない。人々は皆、武器を取り、囚人達を解放した。最初の激情の瞬間に兵士は殺害されなかったが、司令官と副司令官はグレーヴ広場(公開処刑場)に連行され、首を刎ねられた。そして、人々は街を練り歩いて彼らの首をパレ・ロワイヤルに送り届けた。

ジェファソンはラファイエットに代表される穏健的な改革派に好意的であった。中でも地方議会の設置については、「根本的な改善」であると高く評価している。ジェファソンの考えによれば、「人民によって選ばれた者は、過酷な法律の適用を緩和するであろうし、王に対して代表として意見を表明する権利を持てば、悪法を告発することができるであろうし、善法を勧め、[権利の]濫用を暴くこともできる」からである。

ジェファソンは、後年の流血については遺憾の意を示しながらも、1791年8月24日付の手紙の中で「世界中の苦しみつつある人間のために、この革命が樹立され、全世界に広がることを望みますし、またそうなると信じている」と述べているようにフランス革命自体は善であったと信じていた。また「フランス革命が長く続き、非常にたくさんの流血を要する」とはその当時、ジェファソンはまったく思っていなかった。しかし、フランス革命における数多くの流血を知ってもフランスに対するジェファソンの愛着はほとんど変わることはなかった。こうしたジェファソンのフランス革命に対する好意的な姿勢は、後にフランス革命に懐疑的なハミルトンと対立する原因となる。


ENSEMBLE:

Aaa-ooo!

「やあやあ」


JEFFERSON:

I helped Lafayette draft a declaration, Then I said, I gotta go. I gotta be in Monticello, now the work at home begins…

「ラファイエットが人権宣言を起草するのを手伝った。それから私はもう帰ると言った。モンティセロに帰って、いろいろと家の仕事を始めようと・・・」


解説:公職に就く者としてジェファソンは、表立ってフランスの政治に関与することはなかったが、ラファイエットの叔母テセ夫人を通じて名士会の議事手続きについて助言している。さらに1789年6月3日、第三身分の代表の1人であるラボー・ドゥ・サンテチエーヌとラファイエットに「人権宣言」案を送っている。

1、国民議会は、招集されていなければ、毎年、11月1日に招集され、そして議会が必要だと見なす限り[会期は]存続させられる。国民議会は自らの選挙方式と議事運行について定め、その他のやり方を制定するまでは、現在、遵守されている方式に基づいて3年に1回、選挙が行われるものとする。2、国民議会のみが、国民に税金を課し、その用途を定めることができる。3、法律は国民議会のみが制定することでき、国王の同意をともなうこととする。4、何人も彼の自由を制限されることないが、一般法に基づいて正当な法廷手続きによった場合は彼の自由を制限され得る(例外として、貴族は、12名の近親者の請願に基づき判事の命令によって収監され得る)。不法な収監に関する不服申し立てが行われた場合、判事は囚人を引き出し、もし収監が不法であれば囚人を解放しなければならない。5、軍は文民の権限に従わなければならない。6、印刷業者は、誤謬を印刷し発行した場合は法的責任を負い、関係者は侵害行為で告訴されるが、その他の制限を課されることはない。7、何人であれ彼が享受している経済上の特権や免除は廃止される。8、国王が既に契約した負債は、これによって国家の負債とされ、適時にそれに関する支払いがなされると誓約する。9、今、借入によって集められ国王に授与されている8,000万リーヴルは、国家によって返金され、これまで支払われてきた税金は、今年度末まで支払い続けるものとし、今後は廃止される。10、国民議会は今、解散し、次の11月1日に再び招集される。

モンティチェロはジェファソン自身が設計して建築した自宅である。古イタリア語で「小さな山」を意味する。


ENSEMBLE:

Aaa-ooo!

「やあやあ」


JEFFERSON:

So what’d I miss? What’d I miss? Virginia, my home sweet home, I wanna give you a kiss. I’ve been in Paris meeting lots of different ladies... I guess I basic’lly missed the late eighties. I traveled the wide, wide world and came back to this…

「私がいない間はどうだったかな。どうだったかな。わが甘美なる故郷、ヴァージニアよ。私は君に接吻したいくらいさ。パリでいろいろなご婦人とねんごろになったけどね・・・要するに1780年代後半が懐かしいってことかな。広く世界を旅して、それからこの・・・」


解説:駐仏アメリカ公使としてヨーロッパに滞在中、ジェファソンは、数多くのサロンの客となって著名な貴婦人と拘留している。またフランスの他にイギリス、オランダ、イタリアなどを訪問している。中でもフランスに魅せられたジェファソンは次のように書いている。ハミルトンからすればこうしたジェファソンの姿勢はフランスかぶれに他ならなかった。

[フランス人よりも]慈愛に満ち、緊密な友情の中で温かさと情け深さを持つ国民を私は知らない。他所者に対するフランス人の親切さともてなしは比類なく、パリで受けた厚遇はこのような大きな町で思い描く以上のものであった。科学に卓越していること、科学的な関心を持つ人々と気軽に話せること、礼儀正しい一般的なマナー、そして、気安く活気に溢れた会話は他では見られない魅力をフランス社会に与えている。他国と比べれば、フランスが優れていることを証明できる。[中略]。フランスを旅したあらゆる国の住民に、あなたはいったいどこの国に住みたいと思うかを問うてみよ。きっと私自身は、友人、親類、そして私の人生の最初期の甘美な愛着と思い出がある場所[であるアメリカ]を選ぶ。しかし、もしあなたが2番目の選択肢を挙げるのであればどうか。それはフランスである。


ENSEMBLE:

Aaa-ooo!

「やあやあ」


JEFFERSON:

There’s a letter on my desk from the president Haven’t even put my bags down yet. Sally be a lamb, darlin’, won’tcha open it? It says the President’s assembling a cabinet And that I am to be the secretary of state, great. And that I’m already Senate-approved... I just got home and now I’m headed up to New York.

「大統領からの手紙が机の上にある。まだ鞄も降ろしていないのにね。サリー、かわいい人よ、手紙を開けてくれないか。手紙には、大統領が閣僚を集めると書いてある。おお、私は国務長官になれるみたいだな。すでに上院も承認済みと・・・。家に帰ったばかりなのに今度はニュー・ヨークに向かわないといけないとは」


解説:フランスから帰国したジェファソのもとにはワシントンからの10月13日付の手紙が届いていた。その手紙は、9月26日にジェファソンを国務長官に任命したことを伝える内容であった。ジェファソンは、革命の成り行きを見守るためにフランスにまた戻って、それ以後は公職から退きたい旨を12月15日付の手紙でワシントンに返答した。その回答を待たずしてワシントンから再度、11月30日付(ジェファソンが受け取ったのは12月23日以降)の就任要請の手紙が届いた。

ジェファソンによると、ワシントンはもし国務長官職が合わないと思えば、駐仏アメリカ公使に戻ってもよいと約束したという。ワシントンは説得役としてマディソンを遣わし、「私の判断であなた以上に責務を遂行できる人物はいない」と伝えた。結局、ジェファソンは「まことに残念に思いながら」も1790年2月14日に就任を受諾し、3月1日にモンティチェロを出発、フィラデルフィアで死の床にあったフランクリンを見舞った後、3月22日、ニュー・ヨークで国務長官に着任した。当時はまだワシントンD.C.が存在せず、ニュー・ヨークが暫定首都であった。

ここで登場しているサリーとは、ミランダによれば「われらがサリー」、すなわちサリー・ヘミングスである。サリーに関する詳細は以下の通りである。

ジェームズ・パートンが『ジェファソンの生涯』(1874)で早くから指摘したように、フォーン・ブローディも『トマス・ジェファソン—秘史』(1974)の中で、ジェファソンが自分の奴隷であったサリー・ヘミングスとの間に婚外子をもうけていたのではないかと指摘している。しかし、それはジェファソンがサリーに強要したことではなく、38年間も愛情を伴った関係が続いたという。ブロディの業績は、ジェファソンの内面に迫った代表的な業績であるが、ジェファソンの信奉者から厳しい批判を受けた。

近年もサリーの娘の1人であるハリエットを取り上げたバーバラ・チェイス=リブーの小説『大統領の秘密の娘』(1994)が話題を呼んだ。チェイス=リブーは1979年にもサリーの回想を描いた小説『サリー・ヘミングス』を発表している。

こうした指摘は既にジェファソンの生前から行われている。アハミルトンも1796年10月15日の『ガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ紙』でサリー・ヘミングスの存在を匂わせる発言をしている。また1802年9月1日の『リッチモンド・レコーダー紙』には、「国民からの栄誉を享受している人物が、彼の奴隷の1人を愛人としていること、そして長年にわたってそうしてきたことはよく知られている。彼女の名はサリー。彼女の最年長の息子はトム。トムの容貌は、[肌の色が]やや黒いとはいえ、大統領に酷似していると言われている。その少年は10才から12才くらい。少年の母は、ジェファソン氏と2人の娘とともに同じ船でフランスに渡った[訳注:サリーはジェファソンの後にフランスに渡航している]」という露骨な記事が掲載された。ジェファソン自身はそうした指摘に対する直接的な答えは何も与えていない。それは、どのような問題であれ、新聞の記事にいちいち反論しないことがジェファソンの基本方針であり、そもそも「新聞で見られることは今や何も信じられない。真実自体も、そうした政治的な媒体に記されると疑わしくなる」と述べているように新聞に対して不信感を持っていたことが一因である。

疑惑の対象であるサリーは、ジェファソンの亡妻マーサの父ジョン・ウェイルズと奴隷のエリザベス・ヘミングスの間の子と言われている。もしそうであれば、サリーはジェファソンにとって亡妻の異母妹にあたる。サリーの母エリザベス自身も白人と黒人の混血であったらしい。そうするとサリーは黒人奴隷と言っても4分の1しか黒人の血を受け継いでいない。『アイザックによるモンティチェロの奴隷としての回想』の中で長年、ジェファソンに仕えた奴隷アイザックは、サリーの母エリザベスが混血であり、サリー本人は白人とほとんど変わらなかったと証言している。ジョン・ウェイルズが亡くなった後、サリーは母とともにジェファソン家へ移った。母と娘は病気になったジェファソンの妻マーサを看病した。

サリーは14才の時、ジェファソンの娘ポリーがフランスのジェファソンのもとへ旅立つ際に同行している。2年後にサリーがフランスからモンティチェロに帰った時、明らかに妊娠している徴候が見られたという。サリーの息子マディソンは、1873年3月13日の『パイク・カウンティ・レパブリカン紙』で、「[パリにいる頃]私の母はジェファソン氏の愛人になりました。[中略]。家[モンティチェロ]に戻ってすぐに[母は]子供を生みました。トマス・ジェファソンがその[子供の]父親です」と証言している。さらにフランスで自由を得たサリーがヴァージニアに帰って再び奴隷の地位に戻ることを拒むと、ジェファソンは「母に特権を与えることを約束し、21才に達すれば子供達に自由を与えると固く誓った」という。

しかし、メリル・パターソンは、サリーの子供達の父親はジェファソンの甥ピーター・カーではないかと示唆している。その推測は、1858年にジェファソンの孫エレン(長女マーサの3女)が夫に宛てた手紙の内容に基づいている。その手紙の中でエレンは、ヘミングスの子供達の父親はピーター・カーかその兄のサミュエル・カーのどちらかだと聞いたことがあると記している。

また同じくジェファソンの孫トマス・ランドルフ(長女マーサの長男)は、母の要請で調査を行い、サリーが出産する前の少なくとも15ヶ月間、ジェファソンと接触する機会はなかったと結論付け、ピーター・カーがサリーの愛人であったと述べている。しかし、ジェファソン関連文書の中でサリーに言及した箇所は非常に少なく、そうした面から2人の関係の虚実を確定することは難しい。

1998年11月5日、『ネイチャー誌』にイギリスの研究機関によって行われたDNA鑑定の結果が発表された。ジェファソンの叔父フィールド・ジェファソンの子孫である5人の男性からサンプルを採取し、カー兄弟の祖父の子孫である3人の男性からもサンプルを採取した。さらにサリーの息子トマス・ウッドソンの子孫である5人の男性とエストン・ヘミングスの子孫である1人の男性からもサンプルを採取した。それらのサンプルから、男系を通じて遺伝するY染色体の比較調査を行った。叔父の子孫からサンプルを採取した理由は、ジェファソンと妻マーサの間には、夭折した長男以外に男子はなく、男系子孫が存在しないからである。

DNA鑑定の結果、トマス・ウッドソンの子孫のY染色体と一致するサンプルはなかった。一方、エストンの子孫のY染色体は、カー兄弟の子孫のY染色体と一致しなかったが、ジェファソンの叔父の子孫のY染色体と一致するサンプルが見つかった。それは、サリーの来孫にあたるジョン・ジェファソンのサンプルであった。その結果、ジェファソンがサリーの息子エストンの父親であると断定はできないものの、少なくとも可能性はあることが証明された。その一方でウッドソン家がジェファソンの血を引く可能性は極めて低いと証明された。

こうしたDNA鑑定の結果をふまえてトマス・ジェファソン記念財団は、2000年1月に、「トマス・ジェファソンとサリー・ヘミングスに関する調査委員会報告」で、「サリー・ヘミングスの子供達として知られる中で一人、もしくはすべての子供達の誕生につながる」関係があった可能性を示唆している。しかし一方で、新たに組織されたトマス・ジェファソン遺産協会のジェファソン=ヘミングス問題に関する研究者検討委員会は、2001年4月12の最終報告で、ジェファソンとサリーの間に親密な関係を「ほぼ確実に偽りである」と否定している。

サリー・ヘミングスの問題は、単にジェファソンの個人史上の問題に限定されず、アメリカの人種史、そして建国の理念を根幹から揺さぶりかねない問題である。それ故、この問題は多くのジェファソン研究者の論ずるところとなっている。


ENSEMBLE:

Headin’ to New York! Headin’ to New York!

「ニュー・ヨークへ、ニュー・ヨークへ」


JEFFERSON:

Lookin’ at the rolling fields I can't Believe that we are free. Ready to face whatever's awaiting Me in N.Y.C. 

「なだらかな田野を見てご覧よ。我々が自由になったとは信じられないくらいさ。ニュー・ヨーク・シティで何が私を待ち構えようとも立ち向かう準備をしておかなくては」


ENSEMBLE:

Believe that we are Me in N.Y.C.

「我々が自由に・・・」


JEFFERSON:

But who’s waitin’ for me when I step in the place? My friend James Madison, red in the face.

「私がその場所に踏み込もうとする時に誰が私を出迎えてくれるのか。顔を怒りで赤くした我が友のジェームズ・マディソンかな」


解説:この当時、マディソンはヴァージニア州選出連邦下院議員を務めていた。


ENSEMBLE:

Aaa-ooo!

「やあやあ」


JEFFERSON:

He grabs my arm and I respond, “What’s goin’ on?”

「彼が私の腕を掴んだので、私は『いったいどうなっている』と答えた」


MADISON:

Thomas, we are engaged in a battle for our nation’s very soul. Can you get us out of the mess we’re in?

「トマス、我々はわが国の人民のために戦っている。君は我々がはまってしまった混沌から我々を脱出させられるのか」


解説:ミランダは「ジェファソンがカリスマである一方で、マディソンはガリ勉」だと述べている。ジェファソンはどちらかと言えば天才肌で気紛れである一方、マディソンは秀才肌でこつこつ着実に努力を続けるタイプである。


ENSEMBLE:

Aaa-ooo!

「やあやあ」


MADISON:

Hamilton’s new financial plan is nothing less than government control. I’ve been fighting for the South alone. Where have you been?

「ハミルトンの財政案は連邦政府の権力を強めるものに他ならない。私は南部ために独り戦ってきた。では君はどうだったんだ」


解説:ハミルトンの財政案については、次の26—Cabinet Battle #1で詳しく解説する。今後、ハミルトン対ジェファソン=マディソンの政争が展開する。


JEFFERSON:

Uh...France.

「えっと・・・フランスに・・・」


ENSEMBLE:

Aaa-ooo!

「やあやあ」


MADISON:

We have to win.

「我々は勝たなければならない」


JEFFERSON:

What’d I miss? What’d I miss? Headfirst into a political abyss! I have my first cabinet meeting today, I guess I better think of something to say I’m already on my way, Let’s get to the bottom of this…

「さあ私がいない間にどうなってしまったのか。さあ私がいない間にどうなってしまったのか。政治的混沌にまっさかさまだ。今日、最初の閣議がある。ここに来る途中、私は何か言うべきことを考えておくべきと思った。さあ真相を探って・・・」


解説:最初に記録された閣議は1791年11月26日であり、ジェファソンが帰ってきてからすぐに開かれたか否は不明である。ワシントン政権初期においてワシントン大統領は、閣僚に文書で個別に意見を求めるスタイルを採用していた。


ENSEMBLE:

Wha? Wha? What’d I miss? I’ve come home to this? Headfirst, into the abyss! Chick-a-pow! On my way. What did I miss? Ahhh ah!

「私がいない間にどうなってしまったのか。私はこんなことのために帰ってきたのか。混沌にまっしぐら。まったくまったく。いったいぜんたい。私がいない間にどうなってしまったのか。あああ」


解説:ジェファソンはアメリカに帰らずにフランス革命を見届けたいと思っていた。


WASHINGTON: 

Mr. Jefferson, welcome home.

「ジェファソン氏、帰国を歓迎します」


HAMILTON:

Mr. Jefferson? Alexander Hamilton.

「ジェファソン氏ですか。私はアレグザンダー・ハミルトンです」


WASHINGTON, ENSEMBLE: 

Mr. Jefferson, welcome home.

「ジェファソン氏、帰国を歓迎します」


COMPANY:

Mr. Jefferson, welcome home. Sir, you’ve been off in Paris for so long!

「ジェファソン氏、帰国を歓迎します。あなたはずいぶん前にパリを発ったようだけど」


JEFFERSON:

So what did I miss?

「いったい私がいない間にどうなっていたのかな」

 

解説:一見すると、ジェファソンはいつも退隠生活を望んで政治的野心を持たないような人物に思える。しかし、実は強い政治的野心を持つ人間だと多くの人々、特に敵意を持つ人々から見なされていた。後にハミルトンはジェファソンを「偽善者」と評している。またワシントン政権で副大統領を務めたジョン・アダムズは次のように述べている。

ジェファソンはこの段階によって完全に野心も虚栄心のない控え目で大人しい人物であるという評判を得ようとしています。彼は彼自身をこの信念で騙してきました。しかし、もし見通しが明るければ、世界は彼がオリヴァー・クロムウェルのような野心を持っていることを知るでしょう。彼が[ワシントン]政権から抜けることはその才能が我々の間から失われることになりますが、彼の魂は野心に毒されているので私はあまり残念に思いません。


ミュージカル『ハミルトン』歌詞解説26―Cabinet Battle #1

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